始まり 3
本一冊分の物語を書くというのはかなり根気のいる作業で、途中で何度も投げ出したくなったりもするが、こんなに喜んでくれるなら水藤さんのためにいくらでも書いてあげたくなる。
自分以外の誰かのために書こうと思ったことなんて、これまで一度もなかったのに。
今まで水藤さんに対して抱いていた気持ちは恋愛感情と言うより、もっと曖昧な憧れみたいなものだったと思うが、今はっきりと恋になった気がした。
人生を共にするなら、この人がいいと強く思う。
いっそこのまま勢いで結婚を申し込んでしまいたい衝動に駆られたが、いくら何でもそれは性急過ぎると自分に言い聞かせて、どうにか違う言葉を吐き出した。
「また面白かったと言って頂けるような物を書きますよ。その代わりという訳じゃないですけど、いつ世に出るか、そもそも世に出るかどうかもわからない作品のための取材に協力して頂けると、俺としてはとても有り難いんですが。できればお話を窺うだけでなく、しばらくお仕事の様子を見せて頂きたいんです。世間の人にはあまり馴染みがない仕事ですし」
「取材ねえ……」
水藤さんは難しい顔で俺から視線を外すと、再び前を向いた。
一応顔見知りで、身元もはっきりしている相手とはいえ、妙齢の女性が仕事中親しくもない男にずっと張り付かれるのはいい気がしないだろう。
俺が水藤さんでも難色を示すに違いない。
だがせっかくこんな身近に創作意欲を掻き立ててくれる職業の人がいるのだから、この機会を逃す手はなかった。
ややあって再び振り返った水藤さんは、眉間に皺を寄せたまま訊いてくる。
「……やっぱり、あの本も活動弁士の人を取材して書いたの?」
「ええまあ。流石に本当にあったことは書いてませんけど、聞いた話にちょっと手を加えて書かせてもらったりはしてますね。読んだ人が水藤さんだとわかるようなことは一切書きませんから、安心して下さい」
俺は何とか水藤さんを説得しようとそう言ったが、水藤さんの眉間から皺が消えることはなかった。
「……言霊使いを題材にした小説って、ちょっとどころじゃなく、かなり珍しいと思うんだけど、どんな話を書くつもり?」
「すみませんが、具体的なことはまだ何もお話できないんです。ただ漠然と言霊使いを出そうかなと思っているくらいで。取材していく中で、何か糸口を見付けられたらと思ってはいるんですが……」
俺は曖昧に言葉を濁した。
もっときちんと構想を練ることができていたら説得も容易だったかも知れないが、如何せんよく知らない仕事なので、どういう切り口で書いたら面白くなるのか全くわからないのだ。
「どうでしょう? 取材を受けて頂けますか?」
「うーん、そうねえ……どんな小説になるのか、興味があると言えばあるけど……」
水藤さんは迷いの濃く滲む口調で、歯切れ悪くそう言った。
この様子なら、もうひと押しで引き受けてくれるかも知れない。
俺は持っていた紙箱を水藤さんに差し出した。
「もし取材を引き受けて頂けたら、お礼にこの白姫を、食べたい時に食べたいだけ差し上げますよ。店に来て頂けるなら、珈琲も付けます。これはとりあえず手付けということで」
水藤さんの視線が紙箱に釘付けになった。
紙箱の中の白姫を透かし見ようとするかのように、瞬きもせずじっと見つめる。
思った通り、効果は絶大だ。
「……とっても、魅力的な提案ね」
「でしょう? 引き受けて頂けますか?」
水藤さんはすぐには返事をしなかったが、やがて意を決したらしく、その白い手でしっかりと紙箱を受け取った。
「わかったわ。白姫と珈琲、食べ放題・飲み放題で手を打ちましょ」
その日の夜。
俺は近所にある居酒屋に友達二人と来ていた。
『すずかけや』というその店は木造二階建てで、二階部分にはたっぷり墨を含ませた筆で書いたような白い看板が掛かっている。
開店から十年以上経っているせいで薄汚れてはいたが、これはこれで味があって悪くなかった。
二階部分は店の主人達の生活の場になっているらしく、客が入れるのは一階のみだ。
硝子の嵌った引き戸を、控え目な明るさの照明が静かに輝かせている。
通路の両端に敷かれた畳の上に並ぶのは、焦げ茶色の四角い卓。いくつもの絵や書、品書きが並ぶ壁はやや雑然としていたが、気取ったところのないこの店の雰囲気にはよく似合っていた。
値段も手頃で料理も美味く、酒の品揃えも豊富なので、さして広くない店の中は大概いつも客で賑わっている。
今日も例外ではなく、俺達は喧騒の中、座布団に胡座をかいて卓を囲んでいた。
煮物や刺し身が並んだ卓を挟んで向かいには、尋常小学校時代からの友達である鳳武と瑞樹奏多がいる。
武はきりりとした顔立ちのなかなかの美男で、美人の母さんに似ず平凡な顔立ちに生まれ付いてしまった俺としては羨まずにはいられない。
すらりとした長身を渋みのある緑の和服に包み、更に深い緑の小縁の帯で留めている。
子供の頃からずば抜けて勉強ができたものの、実家がそれ程裕福ではなかったので、奨学金をもらって大学に進学し、医者を目指している英才だ。
一方奏多は一度視線を外した途端にすぐに忘れてしまいそうな印象の薄い顔だが、いつもにこにことしていて気が優しく、人に好かれていた。
身長はどちらかと言うと小柄だが、茶色の和服に覆われた体は逞しく、実際よりも大きく見える。
勉強が苦手だった上に家も決して裕福ではなかったので、尋常小学校卒業後、すぐに近くの工場に勤めて家計を支え続けていた。
あまり共通点のない俺達だが、たまたま家が近かったのがきっかけでよく三人で遊ぶようになって、大人になった今でも時々こうして顔を合わせている。
仕事も性格も見事にばらばらの割に、不思議と気が合って、一緒にいるのが全く苦にならなかった。
多分俺達が爺さんになっても、当たり前に付き合いは続いているのだろう。
武が徳利を傾ける横で、奏多が濁酒で満たされた猪口を俺の前に置きながらにこにこと言った。
「良かったね。例の美人に取材させてもらう約束が取り付けられたってことは、まんざら脈がない訳じゃないのかも知れないし」
「うーん……そうだったら嬉しいけど、今日話した感じだと、特に好意を持たれてるようには思えなかったなあ。でも彼女のことを知るきっかけはできたし、思い切って声を掛けて良かったよ」
この数ヶ月、何とか水藤さんとお近付きになれないものかと毎日頭を悩ませ、取材を口実に近付くことを思い付いてからもなかなか実行に移す度胸がなくて、今日までずるずると来てしまった。
だがきちんと取材の許可をもらえた上、水藤さんに小説家として評価してもらえていることがわかったのだから、俺としては上出来過ぎるくらいだろう。
小説のネタが手に入る上に、意中の女性と一緒に過ごせてしまうとは、我ながらとんでもない果報者だ。