調査 3
「玄関のすぐ近く、右手に四十崎さんのお部屋があります。先程の玄関正面の扉は父の書斎になっていて、その左隣が八色さんのお部屋です。八色さんのお部屋の斜め向かいが食堂で、その奥――屋敷の前面から見て左端にお台所があります。お台所の向かいがお手洗いです。八色さんのお部屋と父の書斎からは、先程裏庭で見た六角形の張り出しの部屋に行くことができますね。二階は階段を上がってすぐの扉が私の部屋になります。斜め向かいが真紅の部屋で、隣が両親の寝室です。その奥の扉が浴室、通路を挟んで一番奥が紫苑の部屋で、その手前は物置きになっています」
加賀さんは階段を上り切ると、すぐ近くにある飾り気のない木製の扉に向かって歩きながら続けた。
「真紅はこちらです」
加賀さんは扉の前で足を止めると、音を立てずにそっと扉を開ける。
中は俺の部屋の倍以上の広さがあった。扉の左横には、古典や小説が並んだ焦げ茶色の本棚。
その奥には化粧簞笥があり、更に奥には作り付けの収納がある。
そして扉の右横には、目覚まし時計の置かれた焦げ茶色の書物机が置かれていた。
書物机から少し離れた所には暖炉が設えられていて、その奥には淡い紫色の薄い掛け布団に覆われた寝台がある。
そこに顔に白い布を掛けられた真紅さんと思しき人物が横たわっていた。
遺体の腐敗を少しでも遅らせようとしているらしく、真紅さんの遺体の側には大きな氷の入った盥が二つ置かれている。
扇風機まで回っていたが、淡い紫色の窓掛が両端に下がった窓は全て閉まっていた。
窓を開けた方が涼しくなるだろうにわざわざ窓を閉め切っているのは、真紅さんの遺体に残っているかも知れない殺人の証拠を損なわないようにするためだろう。
中から漏れ出してくる熱気はかなりのものだが、我慢するしかなさそうだ。
「お入り下さい」
加賀さんが大きく開けた扉から中に入ると、水藤さんは横たわる真紅さんの真横で足を止めた。
同じように立ち止まった俺が物言わぬ真紅さんを見下ろすと、水藤さんが加賀さんに言う。
「では、ご遺体を検めさせて頂きますが、その前に真紅さんにご挨拶をさせて頂いても構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
「失礼します」
水藤さんが壊れ物を扱うような手付きで白い布を取り去ると、その下に隠されていた真紅さんの顔が露わになる。
真紅さんは加賀さんよりいくらかきつい印象の顔立ちをした、綺麗な女の子だった。
艷やかな長い黒髪。
死後半日余りが経過していて、肌の色はくすんできていたが、それでも綺麗だと思わずにはいられないくらいの美少女だ。
窓からの転落が死因ということで、特に苦しむことはなかったらしく、その死に顔は穏やかだった。
それだけが唯一の慰めだろう。
この若さで真紅さんが命を落としてしまったことは本当に痛ましくて、赤の他人の俺がこんな気持ちになるなら、加賀さんや家族の人達はどれ程辛いか察して余りある。
この国では死者は祖先達と共に家の守り神になって、ずっと見守り続けてくれると考えられているが、いくら側にいると言われても、家族ともう話すことも触れることもできなくなってしまうのは、やはり寂しいし、辛いものだ。
まだ物心付く前に死に別れた父方の祖父母と違って、母方の祖父が亡くなったのは俺がもう少し大きくなってからだったので、家族を亡くす辛さはわかる。
水藤さんと俺は、真紅さんに向かって深く一礼した。
扉を閉めてやって来た加賀さんに、水藤さんは真紅さんの顔に目を落として言う。
「とても綺麗なお嬢さんですね。こんな形でしかご挨拶できなかったのが、本当に残念です。心よりお悔やみを申し上げます」
「お心遣い、痛み入ります。さあどうぞ、お調べになって下さい」
加賀さんの許しが出たところで、水藤さんは真紅さんから俺に視線を移して言った。
「私の鞄貸して」
俺は水藤さんに鞄を差し出した。
水藤さんの鞄は木製で、結構重い。
水藤さんは日傘と鞄を慎重な手付きで床に置くと、鞄を開けた。
俺が鞄の中を覗き込むと、中には筆や硯、色紙や何かの薬品らしい物がいろいろと入っている。
全て言霊に関する物なのだろうが、さてこの中の何をどう使うのだろう。
俺が自分の鞄から筆記用具を取り出していると、水藤さんはそのほっそりした手に薄手の白い手袋を嵌めて、真紅さんの体を覆う掛け布団をそっと捲った。
どうやら単に証拠を損なわないようにしたかっただけらしい。
俺は少々拍子抜けして、水藤さんに訊いた。
「こういう時には言霊は使わないんですか?」
「そうよ。亡くなった人に言霊は効かないし、犯人の痕跡を地道に調べるしかないの」
水藤さんは真紅さんの体を隅々まで丹念に見つめながら、そう答えた。
きっと傷を探しているのだろう。
ざっと見たところ、特に外傷はなさそうだが。
俺は水藤さんの言葉を手帖に書き留めながら、ふと浮かんできた疑問を水藤さんにぶつけてみた。
「言霊は亡くなった人には効かないということですが、気絶している人や眠っている人になら効くものなんですか?」
「それは、言霊を使う人がどのくらいの力を持っているかによるわね。聞いている人が言葉を認識してくれないと、効果がない程度の力しか持っていない人が多いそうだけど。でも耳が聞こえない人や言葉が通じない人にも言霊は効くそうだから、言葉を知っていようがいまいが、人間は誰でも言葉を理解する能力を持っていて、人が使う言葉には、それがどんな言語であっても、言霊が確かに存在しているんでしょうね」
外国にも言霊使いはいるそうだし、多分水藤さんの言う通りなのだろう。
聞こえなくても、意味が理解できなくても、人の言葉には確かに言霊が宿っている。
その力が発現するかどうかは別にして。
俺がいそいそと手帖に鉛筆を走らせる横で、水藤さんは真紅さんの手に目を留めた。
華奢な手はかさつきもなく、形のいい爪は手入れがきちんとされている。
その綺麗な指先に顔を近付ける水藤さんを見て、今度は加賀さんが水藤さんに問いかけた。
「あの、手が気になっていらっしゃるみたいですけど、何か手掛かりになるような物でもありましたか?」
「いえ、ただ真紅さんが犯人と揉み合っていたら、爪の中に何か挟まっているかも知れませんから、それを探しているんですよ。もし真紅さんが犯人の皮膚が爪に残る程強く肌を引っ掻いていたら、きっと犯人の体のどこかに傷が残っているでしょうし、爪に服の繊維が残っていたら、繊維と同じ色の服を着ていた人が疑わしいという話になります。些細なことでも、犯人を特定する決め手になりますから。ちょっと失礼しますね」




