始まり 1
真実を知る悲しみと、真実を知らない悲しみと、どちらの方がより強く、人はどちらを望むべきなのだろう。
全ての謎を解いた水藤さんは、その答えを知っているのだろうか。
はらはらと涙を零す白妙さん達を、水藤さんはただ静かに見つめている。
全てを見通すような、静かで底知れない眼差しで。
水藤さんは神に仕える巫女だけれども、もし神が本当に存在するのなら、神はこんな目で嘘や罪を暴くのかも知れない――。
※
そこは『白姫』という名の、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。
天井も壁も床も全てが木製で、焦げ茶一色。
扉を入ってすぐ右手に勘定場があり、左手には奥から順に手洗い、二階へと続く階段、厨房があった。
勘定場の奥に通路を挟んで三つずつ並ぶ四角い卓子と、それを囲む二十四脚の椅子もやはり焦げ茶色で、およそ二十年という年月を経て古びてはいたが、それが反って趣を感じさせている。
果物や風景を描いた壁の絵だけが、一面の焦げ茶色の中で色を異にしていた。
この店は巻き岌希を一面純白の楂古聿で覆い、加州堅果を散らした白姫という手作り菓子と、まろやかな苦味と舌触りの珈琲が人気で、時間帯によっては行列ができることもある。
だが今はまだ昼時なので、一階の卓子は半分しか埋まっていなかった。
扇風機が夏の熱い空気を頻りにかき混ぜる店の奥――右側の真ん中の卓子では四人組の中年男性と中年女性が楽しげにお喋りに興じていて、その奥の卓子では十代後半と思しき男女が団扇を手にどこかぎこちない雰囲気で向かい合い、通路の向こうのそれには若い女性が一人で席に着いている。
その女性は、とても綺麗だった。
年は二十歳になるかどうかといったところだろう。
細くて綺麗な眉の下で、黒目がちの大きな瞳が静かな光を湛えている。
形のいい鼻梁に、艶やかな赤を刷いた形のいい唇。
その全てが、女性らしい滑らかな線を描く面差しの中に、上品に収まっていた。
濡れたように光る黒髪は腰までの長さで、その毛先は可愛らしくくるんと巻かれている。
今時は洋服を着ている女性もそう珍しくはなかったが、その人は小縁をあしらった当世風の和服姿だった。涼し気な藍色の和服が、とても良く似合っている。
ぴんと背筋を伸ばして座るその人は、神秘的な雰囲気を漂わせていて近寄り難い程綺麗だったが、美味しそうに白姫を頬張るその姿は、どこか可愛らしくもあった。
こっそり彼女の様子を窺っていた俺は、見付からない内にその場を離れ、彼女を店の外で待つことにする。
お客さんの様子を窺いながら勘定場に立っている父さんが、にやにや笑いながら彼女のために用意していた紙箱を手渡してくるのを軽く睨んでから、俺は紙箱を両手で大事に受け取った。
硝子の扉を開けて外に出ると、店の中以上の熱気が押し寄せてきて、白い襯衣がますます汗を吸って体に張り付く。
強い夏の日差しが肌に突き刺さり、通りに濃い影を落としていた。
休日だと言うのに辺りは閑散としていたが、奥に見える大通りは人で賑わっている。
この近くには有名なお社があって、多くの人々が参拝に訪れるのだ。中高年の人々の多くは昔ながらの地味な和服姿だが、若い男女や子供達は大概小縁や飾紐をあしらった和服や洋服を身に着けている。
大通りから外れてそぞろ歩きを楽しむ人々の横を、人力車を引く俥夫や自転車が勢い良く駆け抜けて行った。
俺が扉の近くに立って、そわそわしながら彼女が出て来るのを待っていると、彼女が少しして白い小縁の日傘を手に出て来る。
その横顔は、傍目からでもはっきりそうとわかる程に上機嫌だった。
彼女がこの店に来るようになったのはここ数ヶ月のことだが、来た時にはいつも決まって白姫を食べているところを見ると、余程白姫を気に入っているのだろう。
俺は思い切って、その綺麗な横顔に声を掛けた。
「あの!」
足を止めた彼女と眼鏡越しに視線が交わる。
俺は思わず固まりそうになりながらも、何とか喉から言葉を絞り出した。
「こ、こんにちは」
冷たくあしらわれるかと思ったが、彼女はやや素っ気なかったものの、思ったより友好的に挨拶を返してくる。
「こんにちは。あなた、ここの給仕さんよね?」
「はい」
俺は小さく頷いた。
『白姫』は両親が結婚を機に始めた店だ。
昔から料理が得意だった母さんは自分の店を開くのが夢で、「結婚するなら一緒に店をやってくれる人」と心に決めていたらしい。
見合いで母さんと初めて顔を合わせた時、父さんは会社勤めをしていたそうだが、滔々と夢を語る母さんの熱意と美しさに惚れ込み、他の男に渡してはなるまいとその日の内に母さんと一緒になる決意をしたのだという。
飲食店とは無縁の仕事をしていたのに無謀とも言える決断だったと思うが、父さんは料理はほとんどできなくても、「どうすればより美味しい珈琲が淹れられるのか」と日々追求していた珈琲好きだったので、喫茶店ならできるんじゃないかと思ったのだそうだ。
かくして二人は結婚してこの『白姫』を開き、一人息子となる俺が生まれ、今では二人の女給さんを加えた五人でこの店を切り盛りしていた。
ゆくゆくはこの店を継ぐつもりなので、父さんには珈琲の淹れ方を、母さんには菓子作りを習っているが、二人に言わせるとまだまだということだし、自分でもそう思う。
何とか二人が元気な内に一人前になるつもりではいるが。
俺はいつも店でしているように、唇の端が上がって笑みを作るのを感じながら言った。
「いつもご贔屓にして下さって、ありがとうございます。その、良かったら少し一緒に歩きませんか?」
そう誘うと、彼女の綺麗な顔を困惑が彩った。
てっきり断られるだろうと思ったが、彼女は少し考えてから言う。
「……いいわ。でも勘違いしないでね、私は決して軽い女じゃないのよ。でもあなたのお店じゃいつも美味しい珈琲と岌希をご馳走になってるから、その恩に免じて特別に一緒に歩かせてあげるの。あなたに気があるとか、そういう訳じゃ全然ないから、妙な期待はしないで。そういうの、はっきり言って迷惑だし、鬱陶しいだけだから」
「はい、肝に銘じておきます……」
大人しそうに見えて、意外とはっきり物を言う女性のようだった。
まあ、これだけの美人だと、ちょっとしたことで気があると男に勘違いされることなど日常茶飯事なのだろうから、面倒なことになる前に予め予防線をきっちり張っておきたくなるのかも知れない。
決して俺個人が嫌われている訳ではないのだろう。
多分。
そう思いたい。