第51話 老木の願いごと―2
「メルが、みずから……? どういうことだ、ログ」
静まり返った食卓を、エッドの低い声が渡る。
ログレスは普段と同じ調子で、淡々と説明した。
「契約内容を声に出して読みあげ、心からの納得をもって署名に応じる。その行為はいわば……雨を受けたばかりの花に、さらに大量の水を注ぐようなものです」
コップの淵まで水を注いでみせ、闇術師は続けた。
「そうしてみずから強力な魔法の牢に深く足を踏み入れ、立て籠もる。つまり、牢を盾としたのです」
「!」
「結果、魔法は“効きすぎ”て、彼女の自我は極限まで薄まり人形と化した――それは勇者の望むところではないのでしょう」
「そ、そんなの、危なすぎるよ! なんでそんなこと、自分から?」
狼狽えた顔をしている弟子と黙り込んだエッドに、ログレスは静かな紅い瞳を向ける。
「分かりませんか? 彼女は――メリエールは、従うことで“反抗”しているのですよ。おそらく、今も」
「……!」
聖宝に貫かれて地に伏す自分と、それを守るように立ちはだかった白い背中。
“今度は、私があなたを救うの――勇者みたいにね”
自棄になっていたのでも、仲間のために崇高な犠牲となることを決め込んだわけでもない。
彼女はあの瞬間に、ひとり戦い抜くことを決めたのだ。
「いや、まさに天晴れじゃよ。あの勇者の歯痒そうな様子を見るに、その推測で大当たりじゃろう。呪いを盾にとるとは、機転の利く娘じゃ。なにより、肝っ玉が据わっておる!」
膝を打ち、満足そうに笑ったのはボジルだった。
「その過程だけでは、容易く聞こえるやもしれん。しかしの、みずからの意識を投げ売る覚悟なぞ、なかなか出来ることではない。己のため――いや、それ以上に大事に想う者のためにしか出来ぬじゃろうて」
「……」
言葉が見つからないエッドだったが、しばらくしてやっと掠れた声をあげる。
「ほんとに……大した女性だな」
「うむ。それと――なんじゃ、闇術師。お主知っておったのなら、この者らに言うてやれば良いではないか」
ボジルは感心すると同時に、咎めるような視線をログレスに向ける。
妖精のために置かれた蜂蜜漬けの果物にそろそろと指を伸ばしていた闇術師は、その手を引っ込めて素知らぬ顔で答えた。
「……貴方の話を聞いて、確信するに至ったまでです。それまでは、憶測の域を出ないものでした。僕は直接、彼女の状態を見たわけではありませんでしたから。それに――」
「それに? まだ何かあるのか」
「……いえ。この件はまた、然るべき時に」
エッドの問いはさらりと流し、友は貝のように押し黙る。
こうなれば続きを引き出すことはできないと心得ているエッドは肩をすくめ、本来の話し手に目で先を促した。
「ふむ。しかし魔法による契約支配が長引けば、悪い影響も出るやもしれぬ」
「じゃ、じゃあ急がなきゃ!」
慌てて立ち上がったアレイアに、老人は座るよう手で示して言い加える。
「まあ急くでない。わしの見立てでは、あの魔法契約は強力ではあるが極めて上等なものじゃ。三流品なら、すぐに契約者を力ずくで蝕もうとするからの。あの娘の鉄のごとき精神に干渉するには、まだしばらくの猶予があるじゃろう」
「そうか。よかった」
追って浮かしかけていた腰をそっと下ろしたエッドに、魔法術師は重々しく頭をふる。
「しかしの……。わしは、契約書以上に気になることがある。あの失礼極まりない勇者がもつ剣のことじゃ」
「!」
若者たちから一斉に注目を浴びたボジルは、水滴がついた銅ジョッキを傾けて唇を湿らせる。
「膨大な聖気の集約物じゃな。だというに、これ以上ないほどに悲しみと穢れに満ちておる。……ああ、正体は語らずともよい。イズが嫌がるでな」
思い出すのも忌々しいといった表情で、老人はもう一度杯を煽る。
「あの勇者は、もう助からぬやもしれん。剣に魅入られておる。無理矢理引き剥がすか、剣を破壊するか。それでも、精神が健全さをとり戻すかは不明じゃ」
「大丈夫。元から不健全だから」
謎の自信に満ちた口調でそう答え、アレイアはしっかりと腕組みをする。
その瞳が報復に燃えるわけではなく、至って冷静であることにエッドは感心した。
「剣は魔力を求めていると俺たちは考えているんだが、合ってるか?」
「まあ、大体そんなところじゃろう。肥えた獣は、より多くを食わねば体を維持できまいて」
洞窟の知性ある魔物たちによって鎮められていた年月を冬眠と呼ぶなら、今の剣はまさに春先の熊のようなものなのだろう。
「……」
腹を減らした獣。その飢えた爪が、強く獲物を欲している――エッドはそんな想像を描いた。
「あの勇者が、魔力の豊富な人間で幸いだったの。魔力を食い尽くされるまで、まだ時間がかかる。それでもあの剣にとっては、ただの消費物にしかならんじゃろうが」
「あ、もしかして! あいつが剣に食い尽くされて自滅するまで待ってるほうが、手っ取り早いんじゃない?」
まさに妙案だという顔をした弟子に、呆れにも似た声で師が答える。
「僕なら、“沈みゆく船”だと知れば、隣にある丈夫そうな船に乗り換えますが」
「……。で、でも彼女は契約書で守られてるし」
「書簡の持ち主である勇者が亡くなれば、契約も続くとは思えませんね」
なんとも形容しがたい、重くるしい空気が場を包む。
それを吹き飛ばすかのように明るい輝きを放ったのは“木陰の賢者”だ。
『もう。ヒトごときが、小さな頭で考え込んでも仕方ないでしょう? わたくし、そういう苔みたいに湿っぽいのは嫌いですの』
「むー。そんなこと言ったって……」
『あなた方、それを何とかするために対策を練ってきたのでしょう。あとは、実行するだけではなくて? どんな結果になろうと、ここで額を突き合わせているよりマシですことよ』
妖精の言葉に、エッドはボジルをまっすぐに見つめる。
まるでこちらが視線を向けるのを先読みしていたかのように、老人の黒い目が待ち構えていた。
「……悪いが、わしは加勢できぬ。イズはまだ若く、あのような代物と渡りあう術を知らん。それにわしも、このとおりの老体じゃ」
「ああ、わかってる。謝礼の希望があれば、聞いておこうと思ってさ」
「ふぉっふぉ! 存外、礼儀正しいのじゃな」
可笑しそうにヒゲを撫で、ボジルは身体を軋ませて笑う。
優れた術師であることは間違いないが――たしかに、老いている。細い手に潤いはなく、人間らしいシミがところ狭しと浮き出ていた。少し震えているようにも見える。
「……では、言うだけ言ってみるかの」
「まとまった額なら、拠点に戻らないと用意できないんだが」
しかも、戻れるかさえわからない。そんな旨を言い足すか迷っていたエッドに、老人はゆっくりと頭を振った。
間を置き、深みのある声で望みを口にする。
「金ではない。場所じゃ」
「場所?」
「うむ……其処におわす“木陰の賢者”どのが棲まう秘境への道を、教えてもらいたい」
その言葉に、同行者である妖精は尖った長耳をぴくりと動かした。
『……わたくしたちの楽園を、お前のような老木に明かせというの?』
「差し出がましいことは承知の上で、お願い申し上げまする。この老木も、近々温かな土に抱かれることとなりましょう。その時に、心配の種をどこぞと知らぬ道端に蒔きたくはないのです」
魔法術師らしい比喩に彩られた要求に、エッドは頭を悩ませた。
しかしアレイアの瞳がさっと宙空の一角へ飛んだのを見、意味を悟る。
老人は自分ではなく、連れている若い精霊の未来を憂いているのだ。
「何度言い含めても、このイズには人の“死”が理解できなんだ。そんな中でわしが斃れれば、彼女はわしの骸のそばでただよう鬼火と化すでしょう――まだ自由に風を選ぶことも知らぬ、幼子なのです」
「そんな……!」
口元を押さえて目を大きくした少女に、老人は悲しそうに微笑んだ。
「いたずらな風の使いに運ばれ、仲間のおらぬ地で生まれ落ちた子じゃ。わしが育てたも同然の、愛しい娘よ。旅しか知らぬこの子に、安住の地を与えてやりたいのじゃ」
「そうか……。ポロク、どうだろう?」
聞き流しているかのような態度を続けていた妖精だったが、エッドの言葉に渋々向き直って腕を組んだ。
『わたくしは、友を救いに来たのです。迷い子を引き取るためではありません』
「で、でもっ――!」
『……しかし、わたくしのような存在がこの老木と出会ったのも、運命の蔓が結びし定めなのかもしれませんわね』
ポロクがこぼした承諾の言葉に、老人と少女の顔が揃って輝いた。
「おおぉ、ありがとうございます、ありがとうございます……! やれ嬉しや!」
「よかったね、ボジルさん! ありがと、ポロク!」
『うふふふー。もっと感謝されても良くってよ』
尊大に笑んでふんぞり返った妖精を置いて、祖父と孫のような術師二人は歓喜のにぎわいを見せている。
エッドは妖精の背後から、そっと確認した。
「ありがとな。でも、クチには許しを得なくていいのか?」
『ええ。あの方は、同族なら谷に住まうことをお許しになります。――かつて南の地から流れてきた、生意気な妖精をお拾いになった時のように』
懐かしそうにくすくすと笑い、ポロクはそう語る。
エッドはうなずいて、透けた羽のついた背中から目を上げた。
妖精たちの長い歴史に耳を傾けるのは――涼しい故郷の地に帰ってからだ。
「よし。俺が、花束の谷への道順を地図に記そう。セプへの支払いもな。アレイアは、ログと買い出しだ」
「気候に適した装備と、野営に必要な食料だね。りょーかいっ!」
「……心得ました。ですが、装備の調達なら一人で――」
跳ねるように席を立ち、アレイアは瞳を輝かせた。
「こんなに暑いとこで戦ったことないでしょ? 大丈夫、あたしがばっちり見立ててあげるからさ! トシアには昔っからの術師洋品店があるんだけど、そこが使ってる魔糸が渋いんだ。絶対ログレスの魔力となら相性よくって、さらに――」
熱く語りはじめた弟子にログレスは辟易としていたが、やがて引き摺られるようにして退席していった。
その恨めしそうな顔に手を挙げ、エッドはにこやかに見送る。
「似合いの二人ではないか。娘のほうは“混じって”おるようじゃが?」
「ああ。でも、そんなの関係ないだろ」
自然と言い切ったエッドに、老術師は小さな瞳を瞬かせる。
やがてシワだらけの頬を持ち上げて笑んだ。
「おうとも。みずからが決めたように進むのが一番じゃ。どんなに入り組んだ道でもの」
「さすが、重みがあるな」
「なに。わしが長くも短い人生の間に学べた叡智は、たったそれだけじゃよ」
老人が見上げた場所に、エッドは温かい橙色の光が舞っているのをたしかに見た。
「お主たちの道を、精霊の灯火が照らさんことを」




