第109話 己が定めし使命
「まさに……天にも、のぼる気持ち……ってやつ、だな……。っぁ、がはっ!」
「エッド!?」
一段と激しい痛みが身体の中心を貫き、エッドは思わずうめいた。
念願の返事を貰えたことで、気が緩んだのだろうか。想い人の心配そうな顔を見上げ、エッドはわずかに牙を覗かせて笑う。
「はぁ……はっ……! メル……。あり、がとう……」
「いっ――嫌です! なんで、そんなこと言うんですか!? そんなの、まるで――!」
その先を口に出すのが恐ろしいと言った顔で、メリエールは目を伏せる。
どんなに聖気に拒まれても、エッドは生身の指でその頬に触れようと思った。しかし身体は、もう指の一本さえ持ち上げられない。
「逝かないで、エッド! お願いです!」
「君の……“依頼”、か……。きいて、やりたいが……」
銀の髪をふってエッドの言葉を遮り、想い人は激しい口調で言った。
「また――また私の前で死んだら、今度こそ怒るから!」
闇の師弟がそろって目を丸くするが、メリエールはエッドだけを睨んで言い放つ。
「私の魔力が尽きるまで、蘇生術を繰り返すわよ!? そして斃れたら、あなたを救えなかった“未練”によって、私は亡者になって――この世の果てまで、ひとり彷徨ってやります!」
冗談でも脅しでもない。
彼女はいつものとおり、本心で言っているのだ。
エッドはその真剣な顔を見つめ、呟いた。
「それくらい……“わがまま”、でも……かわいい、けどな……」
「エッド!」
「……。俺、も……いま、さら……。いやになってきた、よ……」
実際に口に出すと、その想いは弾けんばかりにふくれ上がった。
「君、が……すきだ……ほんとう、に。メリ、エール……俺も……“天界”じゃなく、て……君、と――」
彼女のいない天上は自分にとって、きっともう“楽園”などではない。
そんな場所へ、ひとり赴くぐらいなら――
「……君と、ここに……いたいんだ……っ!」
理不尽で、痛みに満ちた世界でも。
優しき者が救われる保証もない、そんな世の中でも構わない。
しっかりと己の足で地を踏みしめ――手を繋いで、笑っていたい。
目の前の、この愛しい人と。
(――人の幸福を願うのが、聖術師にとって最も重要な勤めです)
「……?」
何か柔らかいものが、ふわりと胸に触れた気がした。
暖かい羽毛の布団に入った時のような懐かしい感覚に、エッドは閉じかけていた瞼を押し上げる。
「だれ、だ……?」
「エッド?」
水中のように視界はぼやけているが、困惑している想い人の顔が見えた。どうやら、自分にだけ聞こえる声らしい。
まだ思念伝達術が扱えるのか不安に思ったエッドに、ふたたび優しい声が届いた。
(……術式を念じなくても結構よ、エッドさん。貴方の内側から話しているようなものだから)
優しくも芯のある、深い声。
決して長く話したわけではないが、エッドはその声の主をすぐに思い出す。
(……クレア?)
(はい。“聖宝”との戦い、お見事でした)
(君は……)
(私も、無事に自分の“狭間”にいます――その娘の、おかげです)
聖術師クレア自身の姿を、エッドは目にしたことはない。
しかし大人びた彼女の視線が、まっすぐに想い人に注がれているのを感じた。
(エッドさん。“魔力重枯渇”を救う手段は、強い魔力を分け与えることのみです)
(ああ……。そりゃ、知ってるけど……)
(では、私の“魂”――この世で最も純然な魔力を、差し上げましょう)
(!?)
身体は動かなかったが、エッドの狼狽はきちんと相手に届いたようだ。
(そ、そんなことしたら――君が!)
(せっかくとり戻した魂です。もちろん、すべてを貴方に注ぐことはできません。けれど、“少し”だけなら問題はないの。天使様にも了承を得ました)
(少しって……うっ!?)
まただ。
胸の穴の周りに、さきほども感じた温もりが灯る。
(届きましたか? やはり、まだまだ足りませんね……。でも、大丈夫)
(どういう――?)
疑問を投げ切る前に、叩きつけるような大声が脳内に響く。
(おいコラ、軟弱亡者ッ! オレの稽古弟子を泣かせてんじゃねえよ!)
(っ!?)
どん、と太い手で胸を思い切り突かれたような衝撃が走る。
しかしその衝撃はエッドの胸をさらに温め、力を与えた。
(で……デモルト!)
(亡者に呼ばれる名はねえ。いいから、さっさと魔力食って起き上がれ!)
(急かすでない、孫よ。まったく、雑な“分け方”をしおって)
厳格な声が割り込み、またもやエッドを驚かせる。
(お主の奮闘、旅立ちの前に見せてもらったぞ)
(ウィノ、か……?)
老聖術師の低い声が、エッドの頭にこだまする。
(魔物はやはり、疎ましい。じゃがそれ以上に――お主は根っからの“勇者”じゃ。我が魂の欠片、受け取るが良い)
繊細だが、孫と同じく力強い魔力がエッドに届く。
続いて響いたのは、まだ幼さを残す高い声。
(ボクも、ほんのちょっとだけ分けてあげる!)
(ネオリン……)
(メルっちが泣くの、見てられないもん! だから、早く起きて――ぎゅーって、してあげるんだよ)
(……それは、どうかな)
(できるよ。だって、ボクたちの清らかな魂を受けとるんだもの)
そんな夢のようなことがあるだろうか、とエッドは想像の中で苦笑した。
むしろ今この身に起きていることさえ、この世で最期に見ている都合の良い幻なのかもしれない。
夢か現か見定められずにいるエッドに、新たな声が投げつけられた。
(……亡者の夢幻にまで化けて出るほど、我々は暇ではないのだがな)
(ジ――ジリオ!?)
さきほどまで顔を突き合わせていただけに、その聖術騎士の姿ははっきりと脳内に描かれる。
旧い鎧に覆われた腕を組み、どこか憮然とした顔をしているに違いない。
(ふん……。皆の“施し”を受けてまだ立てぬとは、不甲斐ないな)
(どうして、お前たち――“亡者”のために?)
(言っただろう。こちらも勝手にさせてもらうと)
エッドの問いに颯爽と答えた騎士だったが、茶々を入れるような楽しげな声が感動を台無しにする。
(ジリオが思いついたんだよね! そっちの天使様、けっこう怒ってたみたいだけど、だいじょーぶ?)
(ネオリンっ! そなた、もう少し淑やかに――)
(はいはい。そーゆーのは、“向こう”で聞いたげるから! ジリオも早く、その亡者に魔力あげたら? 君の魂の魔力なら、きっとボクたち百人分だよ!)
幼い聖術師の声は、そう言って風のように去っていった。
ジリオはやや気まずそうなため息を落とすも、ふたたび尊大な調子に戻って言う。
(あの子が言うほどにはならんと思うが……たしかにわたしの魂の魔力であれば、貴様を“起こす”ぐらいは出来るだろう。長年、蓄えてきたのでな)
(ジリオ……)
(勘違いするなよ、亡者)
白刃のようにするどい声が、呆然とするエッドに刺さる。
(今でもわたしは、お前たち“魔物”を好いてはいない)
(……だよな)
(しかし貴様のような“異端”の者については、観察の余地があるだろう。なにせ、ヒトと共闘や友好――そして、“それ以上”の関係を結ぼうと奮闘しているのだから)
肯定的な意見なのだろうが、やはり聖術騎士の言い回しは堅い。
エッドはしばらくぼやけた意識の中で、言葉を咀嚼した。
(えーと……つまり、俺を応援してくれるってことか?)
(そ、そうは言っておらん! 思い上がるな! ……つまり)
なぜか慌てている聖術騎士は、気持ちを鎮めると言った。
(貴様が現世に縋りつくのであれば、ヒトに害を及ばさぬよう見張るのが適正であろうということだ。それを我らが――わたしが、受け持つというだけ)
その言葉と共に、温かい湯に浸かったかのようなあの感覚が身体中に広がる。
(貴様がまた血に飢えた“魔物”に成り下がった時は、容赦なく滅しに来よう。今度は、本当の“天の使徒”としてな)
「ジリオ――!」
騎士の名を呼ぼうとしたエッドは、それがみずからの喉から出た声だと気づいて驚いた。
「……っ」
身体中が、かつて血潮が巡っていた頃のように温かかった。“魂の魔力”とは、どんな身体の持ち主にもこのように感じられるのだろうか。
(死した身体と、ヒトの心を持ちし“勇亡者”よ)
消えそうだった自身の魂を、いくつもの温かさが包み込んでいるのを感じる。
(貴様の歩む道が、血の荊棘にまみれていようとも――足掻け。その鈍間な足を止める最期の日まで、我らは天の彼方から貴様を睨んでいるぞ)
ぴくりと、エッドの指先が跳ねる。
その現象は、遠い“狭間”にいる騎士にも見えたらしい。
(それでいい。起き上がり、己が定めし使命を果たせ――エッド・アーテル)