第7話 指輪を嵌めるだけの簡単なお仕事―1
「で、でかいな……!」
「まったく、魔物の感性は粗野でいけませんね」
巨神の大岩のようなひざを見上げたエッドの感想を、闇術師はため息まじりに一蹴する。
「あの見事に逆まいた髪や、ひげを見てください。それに、聖紋が散らされた法衣の精緻さときたら……。これほど細部まで具現化できたのは、彼女の信仰の賜物と言えるでしょう」
「ああいう男が好みなのかな?」
自分よりもたくましく豪気な神の姿をじろじろ眺め、エッドは不安そうに疑問をもらした。
「……」
「冗談だよ。最後になるかもしれないんだ、これくらい良いだろ」
非難めいた目を向けていたログレスは、エッドの言葉にわずかに眉を上げた。
やがて静かに息を吸うと、巨神の足元をゆっくりと見遣る。
つられて目を向けたエッドは、停止した心臓がたしかに跳ねるのを感じた。
「いた! メリエールだ」
先刻の場所から一歩も動いていないらしいその聖術師は、不思議な風に包まれていた。
彼女の足元は金色に輝き、そこから吹きあげている熱風が銀髪を遊ばせている。
「なあ……なんだか、ぼーっとしてないか?」
エッドたちに気づいた様子はなく、中空を見つめるその瞳はどこか虚ろにさえ感じる。
隣の木立にいる闇術師が、不快そうに顔を歪めた。
「……かなり深い精神集中に入っているようですね。憑依とも言えましょうか」
「だ、大丈夫なのかそれ!?」
エッドに声をおさえるよう手で示しながらも、ログレスは重々しく頭をふった。
「普段の彼女でも、この術は相当の負担になるはずです。まして、ここ数日の疲労状態であれば……」
「だな。よし、とっととやるか」
「ええ。隠遁術をすべて解除します」
術師が短い呪文をささやくと、とたんに辺りの気配が鮮明になる。
エッドは灰色の身体を見下ろし、首を傾げた。
「なんか、暑くないか?」
じわじわと灼けるような奇妙な熱が、痛みを感じないはずの肌を刺している。
「神の聖気は、魔物には辛いのでしょう。しかし僕の隠遁術でもこの先、シュメンデルには通用しません」
「分かった。全力で走る」
効力は不明だが、エッドはいつも戦いの前に行う屈伸をした。
身体の状態は悪くない。むしろ、重い装備を着けていないぶん身軽だ。
「神に対抗できるか分かりませんが、走っている貴方へ攻撃がおよぶ際は闇術で援護します」
「謙遜するな。任せるから、好きにやってくれ。お前の力を信じてる」
その言葉を聞いた友は、教典の項を繰っていた指を一瞬だけ止める。
何事もなかったかのようにふたたび集中しながら、それでもどこか可笑しそうに言った。
「ええ。貴方も、恐るべき闇の力に呑まれないよう気張るのですね」
「そりゃ恐い。ま、亡者なりに頑張るさ」
「……それと、はしゃぎ過ぎぬよう」
「どういう意味だ」
走り出す態勢に入りながら、エッドは親友の忠告をいぶかしむ。
「……エッド。僕が思うに、貴方は――」
「神の御前でお喋りがすぎるんじゃないか、大闇術師さま? さあ、作戦開始だ!」
友の言葉をさえぎり、エッドは最後の境界線となっていた茂みを勢いよく飛びこえた。
今、明らかにすることではない――そう感じたのだ。
裸足の裏に力をこめ、着地と同時に前方へ跳ぶ。
「うわっ、とぉ!」
その一歩があまりにも人間離れした距離だったので、エッドは奇妙な感嘆の声を上げる。
メリエールはまだこちらを見ておらず、微動だにしない。しかし招かれし神は太い首を回し、すぐさまエッドを捕捉する。
「ちょっと足元失礼するぞ!」
軽口を叩きながら疾走するエッドだったが、巨神は意外にもすばやい動きで小舟のような手を差し向けてきた。
まるで蝿を払うかのような動作だが、半霊体であっても衝突するのはまずいと亡者は直感する。
「く……!」
神々しい熱波にさらされ、亡者の肌が悲鳴を上げた。
(影紡いで鎖とし、鎖絡みて血を搾れ――)
仲間による詠唱が、距離があるにもかかわらず不思議とエッドの耳を打つ。
“伝達魔術”と呼ばれる、思念を通わせる基礎術だ。戦闘時の連携には欠かせない。
闇術師の低い声に導かれ、木立の暗がりから黒い何かが数十本と飛び出す。
(汝が血にて、数多る骨を縛らんことを――“悲嘆の鎖”)
漆黒の蔓のような物体はあっという間に神の手のひらに巻きつき、拘束した。
エッドは寸でのところで横に飛び、地面に爪跡を残しながらやっと停止して吼える。
「いいぞ、ログ!」
(長くは保ちません。止まらぬよう)
「了解!」
友の顔をふり返ることなく、エッドはふたたび足に力を込める。
兎のように跳ねる脚にも、いくらか慣れてきた。シュメンデルは鎖の拘束に傾きながらも、もう片方の手を胸の高さにかかげて開く。
柱ほどもある太い指先が、星座のごとく並んで輝きはじめた。
「お洒落な爪だな」
(エッド、左腕で防御を――“黒曜石の護り”)
親友の指示をしっかりと聞いたエッドは、疑うことなく実行した。
同時に、神の親指から光の球のようなものが発射される。
「っ!」
顔の前にかかげた左腕――それは、硬度をもった艶のある黒に変色していた。盾がわりにかざした黒い腕は正確に神の光をとらえ、力強く弾く。
亡者になっても生前で培った経験が失われていないことに、エッドは感謝した。
(便利なんだがなあ、この術)
これもまた、ログレスが独自に編み出した闇術である。しかし実戦に用いられる機会は、ほとんどなかった――術の練習相手に名乗りをあげる人間が少なかったのである。
(まったくです。……まあ、使用者が防御箇所をあやまれば蜂の巣という、“小さな欠点”はありますが)
続けざまに襲いくる光線を跳ね返しながら、エッドは友の思念に笑った。
そんな姿に激昂したのか、ついに巨神が大きく動き始める。
大木のような足を浮かせ、エッドの頭上を瞬時に覆った。
曇ったガラスのようなその身体を通して、エッドは紺色の空に星が瞬きはじめたのを見る。
「まるでアリを踏むような動作じゃないか。さすが、慈愛に満ちてるな!」
どの木よりも広いその足が振りおろされるまで引きつけ、エッドは思いきり横に跳んだ。
地響きもなければ、地面の小石ひとつも転がらない。だというのに、エッドだけが吹きつけてきた熱波によろめく。
「っと!」
さぞ奇妙な光景だろうと思いながらも、エッドは体勢を立てなおし神を睨めつける。
灰色の皮膚が、溶けるほどに熱されているのを感じた。
「あっつ……! こりゃ、いつまでもおちょくってはいられないな」
熱々のパンの上を滑るバターを想像し、エッドはうめいた。
(エッド。少々、試したいことがあるのですが)
(出たな、“知的探求”……。どうせ、こっちに拒否権はないんだろ)
(分かっているなら、自身の魔力をおさえて楽にしていて下さい)
闇術師の思念が途絶えると同時に、エッドの視界がぐにゃりと溶け、暗転した。
「えっ――!」
気がつけば、黒い森が眼下に広がっていた。
巣へと戻る鳥の群れが、突如あらわれた亡者に驚いて進路の変更を即決する。
恐怖よりも先に、純粋な感嘆が湧きあがった。
(俺、飛んでる! いや、浮いてるのか!)
(短距離の転移魔術と、空間固定術です。貴方は今、僕が使役できる“物体”に近いので)
苦しくはないが、見えない手で猫のように襟首をつかまれているような感覚だった。
足元を駆け回っていた標的が姿を消したことに面食らったのか、シュメンデルはこちらにうなじをさらしながら腰を折っている。
エッドはなるべく気配を消し、気楽に提案した。
(もう一回転移させて、メルの前まで送り届けてくれ)
(そうしたいのですが、上手くいく保証はありませんよ。……実は今も、僕が想定した座標から大幅にずれています)
(……そりゃ星座にされなくて幸運だったな)
からかってみるも、友の思念は真剣そのものだ。
(どうも貴方は、操りづらいのです。それに満ちている聖気のおかげで、闇術の効きが弱い)
(ずいぶん弱気なんだな。大闇術師さま?)
にやにやしながらそんな思念を送ると、一瞬の沈黙が返ってくる。
エッドは浮遊したまま器用に足を組み、仲間の返答を待った。
(……良いでしょう。地面に激突する覚悟がおありなら、出発しましょうか)
(え? い、いや、そこまでの覚悟はまだ)
(さすがは勇亡者様です。いきますよ)
「ちょ、ちょっと待っ――!」
残った内臓が、一気に浮き上がる感覚。
その心地よいとは言えない現象で、エッドは透明の手が消え去ったことを知った。ほぼ同時に、空と森の色彩が油絵のように溶けて混ざりあう。
「う……!」
独特の気持ち悪さに、エッドは思わず目を瞑った――