005 一貫、二千円のお寿司でランチなんて安いものだ。
渋谷の街を一周してみたが、人の気配を見つけ出すことはできなかった。何時もだったら学生で賑わう道玄坂も、ひとっこ一人いない。早朝でもないのに静まり返った街の景色は不思議なものだった。
「やっぱり誰もいないね」
僕は運転する奈菜さんの横顔を見つめて言った。きれいな顔をしている。長いまつ毛に魅了される。人はいないが、街は渋谷の街そのものだ。お店も普通に開いてる。
「そうだね」
夏の太陽が頭上から強烈な光を注いでいる。
「もう直ぐお昼だ。食事にする?」
「そうしよっか」
「うん。気持ちが落ち着いたら、お腹が空いてきた」
「学くんって、こんなことになっても、あんまり動揺しないんだね」
ライバルに囲まれて、追い立てられるように勉強ばかりさせられて過ごしてきたので頭でっかちになったが、実生活に実感がない。無人島にでも漂着したのならまだしも、ここは大都会の真ん中だ。
「奈菜さんも落ち着いて見えるけど」
「そう。そうかなー。私たちって似た者同士かも」
「結局、僕らの力じゃどうにもならないしね」
「うん」
奈菜さんは運転しながら頷いた。
「電話もネットも使えるし、家族も無事。差し迫った危険もないようだし」
「うん。渋谷の街が二人のものになっちゃったね」
「そうだね。何を食べたい」
「うーん。高級なお寿司」
奈菜さん、お寿司は良いけど大問題が一つある。
「寿司を握る職人さんがいないと思うけど」
「でもたぶん、ネタとかご飯とかは朝仕込んであると思う」
そうなんだ。確かにコーヒーショップでは淹れたてのコーヒーがそのままだった。
「詳しいんだね」
「これでもラーメン屋の娘だから。ネタさえあれば少しくらいなら、私、握れるよ」
「えっ。そうなの?お寿司を握るのは何年も修行がいるんじゃない」
「まあ、プロみたいには行かないけど。家でお父さんに教わったことがある」
「それじぁあ、スマホで調べてみる」
僕はスマホを操作して出来るだけ高そうなお店を探した。
「近くに『やまむら』ってお店があるけど。紹介サイトの説明だと二人で十四貫でだいたい予算三万円だって。え、えぇー。一貫、平均二千円以上ってこと!信じられない。ラーメンなら二杯食べられるじゃん」
「そんなもんでしょ」
「えっ、奈菜さんってこんな高いお寿司屋さんに行ったことがあるの?」
「うーん。お誕生日の時くらいかな。絶品だよ」
さすが天下のお嬢様学校、私立白蘭女学院の生徒だけある。僕ら庶民の生活とは次元が違う。どんだけ凄い食材を使っているんだろう。思わずゴクリと唾を飲んでしまった。
「良いのかなー」
「良いんじゃない。渋谷の街はもう誰もいないんだし」
「うーん」
煮え切らない僕。だって一貫二千円ですよ。たったの一口が我が家の夕飯の材料費に匹敵するなんて・・・。
「腐っちゃう前に食べちゃった方がエコじゃない」
「エコ?そ、そうだね」
「じゃあ、決まりだね。お店の場所を教えて!」
「えっと、あれ、駅前じゃん。渋谷で一番高い複合ビルの超高級ホテルの中だ。ほら、最近できたばっかりの」
「知っている!じゃあ行くね」
僕たちは、今やポンコツと化した、もと一億円の高級外車で渋谷駅方面に戻った。まあ、いっか。既に一億円を使っているし。それに比べたら、一貫、二千円のお寿司でランチなんて安いものだ。