001 僕と彼女は二人ぼっちになっていた。
大学受験を控えた浪人生の僕こと、窪塚学は、渋谷にある有名予備校の窓辺の席で夏講習を受けていた。ふと外を見ると林立するビルの谷間からのぞく青い空。白い雲がゆったりと流れていく。道路を見下ろすと、歩道にあふれかえる同世代の若者たちの群れ。
こんなはずじゃなかったのになあー。今頃は、入学した大学にも馴染み、彼らと同じように夏休みを満喫していたはずなのに・・・。初めての彼女なんかいたりして・・・。ところが、なんてこった。インフルエンザで受験に失敗するなんてさー。質の悪い物語のようだ。わきが甘いと言うか、僕の人生、大事なところでついてない。
んっ。ごった返す若者の群れをかき分けて、歩道を走る白い制服の少女の姿が目にとまる。あーあー。バカなやつ。この暑いのによくやる。あっ。アイスクリームを持ったバカップルにぶつかった!何やってんだか。ありゃりゃ。白い制服が台無しだ。恥ずかしー。僕は思わず苦笑してしまった。
「おい、そこのキミ。私の授業がそんなに楽しいか!」
「すみません。集中します」
ちっ。怒られちまったじゃんか。って、アホなことをしている暇はない。本当に集中しなきゃ。僕は再び黒板に向かってノートを取り始めた。
今回、失敗したら僕にはもう後がない。小学校一年からから進学塾に通って必死に勉強して、何とか東京世田谷にある中高一貫の難関男子進学校、私立秀徳学園に合格。青春なんて言葉は存在しないと自分に言い聞かせて、わき目もふらずに頑張った時間を無駄にはできないのだ。女の子なんかに見惚れている場合じゃない。
ガラーッ、ガシャ!
その時、教室の後ろの引き戸が大きな音を立てて勢いよく開いた。生徒たちの目が一斉に振り向く。白い制服に身を包んだ女子が息を切らして立っていた。恐らく校章が縫い付けてあるだろうと思われる制服の胸のポケットには、アイスクリームの七色の大きなシミ。さっきの娘だ。
「遅れてすみません!」
彼女が体育会系のノリで、声を張り上げてから頭を大きく下げてお辞儀をした。声がデカい。そう言うのは静かにそっと入ってくるもんだ。気が散るじゃないか。彼女の姿を見て、冷ややかなクスクス笑いが教室中にわき起こる。
顔を上げた彼女を見て僕の心臓がドクンとなった。セミロングの艶やかな黒髪がふわりと中を舞い、ゆっくりと落ち着いていく。整った目鼻立ちに、見開かれた黒くて大きな瞳。離れていても感じ取れる長いまつげ。陶器のような白い肌には、この年代にありがちなシミやソバカス、吹き出物など一切なかった。
ドジっ子でなければ、アイドル並みのかなりの美少女。いや、それ以上かもしれない。夏制服の襟からのぞく細くて長い首と華奢な鎖骨。袖から連なる細くてしなやかな腕。節を感じさせない指。活発そうな短めのスカートから伸びる白くて長い脚。
目を奪われてしまうのも無理はない。小学校を卒業して以来、女っけなしの男子校で育った僕には目の毒だ。
「キミ、名前は?」
講師の声が明らかにイラついている。
「私立、白蘭女学院。高等部三年、星宮奈菜です」
元気のよい声が教室に響きわたる。
「ほう、都内でもトップレベルのお嬢さん校か。学校では『時間厳守』と言う言葉を教わらなかったのかな?まあいい。キミは窓際で、口をあんぐりと開けている『燃え尽きくん』の横だな」
講師がニヤリと笑って、チョークを持つ手で僕を指し示した。振り向いた受講生たちがさげすむように僕を見る。教室中にどっと笑いが巻き起こる。
くっそっ。何だよそれ。いつ、僕が燃え尽きたって言うんだ。それに口なんて開けたおぼえがない。あれっ。開いているかも!僕は自分の姿を想像して狼狽せずにはいられなかった。
星宮奈菜!キミのせいだ。僕まで被害を被ったじゃないか。ってか、彼女に隣りに来られたのでは、正直、落ち着いて勉強ができる気がしない。
僕の座る二人掛けの長テーブルの隣りが空いている。周りに気を取られるのが嫌で、いつも一人で座れる後ろの席を選んでいたのが災いした。受験一筋だったので、体力にはあまり自信がないが、目と耳は、かなりいい方だと思う。
彼女が僕の横につくと、何事もなかったように講義が再開された。都内の有名大学を狙った選抜クラスの講義なので、かなりのハイレベル。受講生の頭の切り替えも半端ない。直ぐに集中し、ペンの走る音だけが教室に響きわたる。僕は彼女のことを意識しないように必死に講師の言葉に耳を傾けた。
「あのー。ハンカチを貸していただけませんか」
「えっ!」
「これ」
彼女は胸をせり上げるようにして、制服についたアイスクリームのシミを僕に見せた。女の子に対する免疫が、これっぽっちもないこの僕にだ。教壇に立つ講師と目が合う。ドギマギする僕を見て講師があごを微かに動かして許可をした。慌ててポケットからハンカチを取り出す。
ハンカチを受け取ろうとする彼女の手が僕の指に触れる。男の子とは違うやわらかい感触が伝わってくる。女の子の発する甘酸っぱい香りに包まれた。やばい。
ドリリン、ドリリン、ドリリン。
こっ、今度は何だ!彼女のスカートの中のスマートフォンが大音響で鳴り出した。彼女が、慌ててスマートフォンを取り出してスイッチを入れる。
「お嬢!大丈夫ですか。間に合いましたか」
おっ、お嬢って?スマートフォンから響きわたる野太い男の声は、明らかにカタギのものとは思えない。この娘、ヤクザさんの娘か何かですか。
ドスン!!
大きな振動と共に教室の机がはねた。
グラ、グラー!
揺れる教室、飛び散る文房具やカバン。
「うおっ」
「ギャー」
「やばくね」
「ヒャッ」
転ばないように机にしがみつく生徒たち。慌てて教壇にしがみついた講師が大声で叫ぶ。
「じっ、地震だ!机の下に隠れろ」
僕はとっさに彼女を抱きかかえるようにして、二人掛けの長机の下に身をひそめた。しばらくドドドと言う地響きが続き、ようやく揺れがおさまる。心臓がバクバクと鼓動している。静まり返る教室。
「ふぅ。ついに関東大震災が来たかと思った。大丈夫?」
僕は彼女に声を掛けた。
「あのー。手をどけてもらえませんか」
・・・?程よい丸みで、プニッとしたやわらかい感覚が両手に。えっ。ええー。僕は慌てて彼女の胸から手を離した。
ドスン。
イタッ。
頭を思いっきり机の裏に打ち付けた。顔から火が出そうなくらい熱い。
『おっ、お嬢ー!じっ、地震です。大丈夫ですかー』
床に落ちた彼女のスマートフォンが、がなりたている。電話の声ですら恐ろしい。電話の向こうにいる、ほおに傷のあるいかつい男を思い浮かべてしまった。胸に触ったなんて因縁を付けられたらどうしよう。大事な受験を前にして、変な人たちに目をつけられたらたまったもんじゃない。
「ご、ごめんなさい。今のは事故です。ところで、ヤクザさんのご関係の方ですか?」
「失礼ね。違います!」
キッパリと否定する彼女に僕はホッと胸をなでおろした。彼女と目が合う。ほんのすぐそこに彼女の顔がある。先ほど言葉を発したツヤツヤの唇。ドキッ!ときめいてはいけない。別の意味で受験があやしくなるではないか。
僕たちは椅子を引いて机の下から這い出た。
「えっ!うそっ」
「誰もいない!」
彼女と僕を残して、教室の中から講師も受講生たちも全員が忽然と消えていた。持ち主を失った散乱する文房具とカバン。彼女がスマートフォンを拾い上げる。
「私は大丈夫です!そっちは大丈夫ですか?」
『ええ、ちこっと揺れたくらいで。何ともありません』
彼女のスマートフォンはつながっているのに何か変だ。渋谷の街の騒めきが聞こえない。僕は窓によって渋谷の街を見下ろした。歩道にあふれかえっていた若者たちも、道路を行き交っていた自動車も、全てが消えていた。無人と化した渋谷の街を、どこからか舞い降りたカラスが数羽、我がもの顔で歩いているだけだった。
「なっ、何だこれ?」
僕と彼女は二人ぼっちになっていた。
見つけていただけて、読んでいただけて嬉しいです。
勉強や仕事、家事に疲れた時に、ときめいていただけたら嬉しい限りです。
●お読みいただいたら、ご感想をぜひとも。楽しみにしています。
●ブックマーク、ご評価もよろしくお願いします。
坂井ひいろ