~9~
――あ……
佑香は頭の中で、何かが弾けたような気がした。
いつも絵本しか借りていかない彼。
自分に代筆を頼んだ理由、メールをしない理由、手紙を読めなかったと言った理由――
彼のその一言で、佑香の中で総ての疑問が一気に払拭された。
「僕は『ディスレクシア』なんです。だから、すみません。頑張って書いてくれたあなたの手紙も、ちゃんと最後まで読む事が出来ませんでした」
佑香は一体何を言えば良いのか分からずに、ただ呆然とした。
それから彼は淡々と話をし出した。
「最初は自分でも何が何だか分かりませんでした。周りからはサボってるだけだとか言われちゃって。だから、ちゃんと頑張ればその内何とかなるだろうくらいに思っていたんです」
声こそ平静を装ってはいるが、その表情からは余程つらい思いをしてきたのだろうという事が容易に想像できる。
彼の目線はずっと、口ひとつ付けていないカップの中のコーヒーへと注がれていた。
「けれど実際は、何度書いても字を覚える事ができない。覚えてもすぐに忘れてしまう。その繰り返しでした。しかも文字の全てが歪んで見えて、とにかく集中力が保たなくて。読む事も相当困難なんです。とくに……手書きの文字なんかは」
自分の手紙はどうだったろう。
十枚の便箋にびっしりと並べられたあの文字に、きっと彼は……
佑香は居たたまれない思いで、ただ彼の顔を見つめながら、その話を黙って聞く事しかできなかった。
「ノートもまともに取れなかったけど、僕には一度聞いた事は忘れないという特技があって。だから、僕の場合は授業中先生の言った事を丸暗記したりして、中学までは何とか凌いできました。でも、高校に上がるとさすがに限界を感じるようになって……そんな時に、TVで『ディスレクシア』の事を知ったんです」
彼の眼に、ほんの少し光が戻ったように見えた。
「正直驚きました。ああ、これは僕の事だって。そして僕のこの症状は障害だったんだって。それから、親や学校にも相談していろいろと協力してもらって、大学まで出る事ができました」
声にも力強さが宿ったように感じる。
その所々に見られる小さな変化が、彼の人生を詳細に物語っていた。
「僕はすごく恵まれています。周りに理解のある人達がいてくれたから。でも、みんながみんなそうである訳もなくて。今までにも何人かの女性が僕に好意を寄せてくれた事はあったんですけど……僕の方が臆病になってしまって、どうにもなりませんでした」
「それって……私にも、ですか?」
その言葉に、彼はようやく顔を上げて佑香の方を見た。
「天羽さん、図書館主催の朗読会で朗読をなさった事がありましたよね」
「あ、はい……え? どうしてそれを?」
「何度かドラマ化されている小説で、僕も好きだったものですから、ぜひその原作を聞いてみたいと思って参加したんです。その小説をあなたが朗読なさって……」
「あ、あそこにいらしたんですか?」
あの時の自分はすごく緊張していて、全く周りが見えていなかった。
何度も読み間違えて、その度に笑ってごまかした。
そんな恥ずかしい記憶しかない。
「その時の、あなたの優しい声と可愛い笑顔に、僕は一目惚れしたんです。名前も……その時に覚えました」
「……は……?」
まさかの逆告白に、佑香は驚きのあまり気の抜けた変な声を出してしまった。
「きっと、僕の方が先ですよ、あなたを好きになったのは。だから、今まで見向きもしなかった図書館に足を運んだりして……あなたを見つけた時、嬉しくて思わず声を掛けてしまったんです」
彼が自分の事を好きだと言ってくれた。
しかも、自分より先に一目惚れしてたなんて言われて……
何が何だかもう訳が分からない。
「それで少しでも自分を印象付けたくて、図書カードを作るのを口実に代筆して頂いたんです。けど、実際は手なんて傷めていなかったし、自分の名前と住所くらいは書けるようにしています。要するに、僕はあなたを騙したんです……本当にすみませんでした」
彼は呆然としている佑香に向かって、丁寧に頭を下げた。
「これで僕の事はすべてお話しました。突然のカミングアウトだし、天羽さんがどう思ったかなんて正直今は怖くて……とても聞けそうにないな」
そう言って彼は席を立った。
「このまま帰ります。今日は突然お誘いしてしまって申し訳ありませんでした」
もう一度頭を下げると、佑香を残してさっさとレジへと向かった。
そして、おつりも受け取らずに、その場から逃げるようにして一人店を後にした。