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店を探す間、二人の間に会話はなかった。
佑香は彼の後をただ付いて歩いた。
こんな時でも、彼は佑香に合わせてゆっくり歩いてくれているのが分かる。
その優しさは、今の自分にとってはただ残酷なだけだと、そう思った。
あまり人気のない寂れた喫茶店を見つけて、ようやく二人は落ち着いた。
彼はメニューを見ずに、おススメのコーヒーを二つ注文した。
コーヒーを待つ間も、二人は押し黙ったままだった。
静かな店内には、香ばしいコーヒーの良い香りだけが広がっている。
注文したコーヒーが運ばれて店員が去ると、彼は懐から一通の封筒を取り出して佑香の方へと差し出した。
覗き込むようにしてそれを見た佑香は、顔面が蒼白になった。
「これ……って」
それは、先日彼に渡ったはずの、佑香が書いた手紙だった。
一度は受け取ってもらえた手紙を突き返された――その衝撃は大きかった。
「すみません、天羽さん。僕にはこの手紙を最後まで読む事が出来ませんでした」
最後まで読めなかった……
途中で読むのをやめたという事か。
読む側にとってはただ長いだけのつまらない内容だったに違いない。
本当に伝えたいのは、最後に綴った、たった二行。それだけなのに。
「そうですか……そうですよね」
それしか言えなかった。
佑香は返された手紙を手に取ると、そのまま鞄の中にしまおうとした。
「待って。手紙はしまわないで下さい」
「え?……だって」
どういう事だろう、訳が分からない。
自分は手紙を突き返されたのではなかったのか?
「天羽さん、失礼を承知でお願いします。その手紙を僕に読んで聞かせて下さいませんか?」
「え!?」
彼からの意外な頼み事に、佑香は正直戸惑った。
そもそも口で言う事が出来ないから手紙を書いたのだ。
「よ、読むんですか? これを、私自身が?」
「全部読んで頂かなくて構いません。あなたが一番僕に伝えたかった箇所だけでいいんです」
そんなものは、手紙を見るまでもなく頭に入っている。
たった二行の、ありきたりの言葉。
少し迷いを見せつつも、佑香はおずおずと封筒から手紙を取り出すと姿勢を正して彼の方へと向き直った。
ちらり、と彼の様子を伺い見る。
彼の視線は真っ直ぐに佑香へと向けられている。
佑香は仕方なく見る必要のない手紙に視線を落し、ゆっくりとその口を開いた。
「私は……あなたが好きです。もしよければ、私とお付き合いして下さい」
不安と緊張でその声は震えていた。
けれど、その言葉はものの十秒と掛からずに言い終わってしまった。
手紙をもらった時点で、その内容は容易に予想出来ただろう。
案の定、佑香の告白を聞いても、彼の表情は少しも変わらなかった。
「手紙の一番最後に書いた、たったこれだけの事が言えなくて。何日も掛かってだらだらといらない文章を書いたりして。何か馬鹿みたいですね、私」
佑香は自虐的にそう言った。心の底からそう思った。
「そんな事はありません。手紙は自分の気持ちを伝えるための立派なツールです。あなたは、その手段を使ったにすぎません」
「でも……読んでもらえなかったんですよね」
彼はその問いには答えず、少し間を空けてから逆に別の質問をしてきた。
「天羽さん、『ディスレクシア』ってご存知ですか」
「『ディスレクシア』……ですか?」
何だろう――記憶を探ってみるが、やはり聞いた事のない言葉だった。
「ごめんなさい、知りません。何ですかそれ?」
その反応に、彼は何かをあきらめたようにまた寂しく笑った。
「そうですよね。日本ではまだあまり知られていないし、普通の人には興味のない事でしょうから」
「え? あの……?」
よく理解できないと言った佑香の顔から目を背けるようにして、彼は話を繋げた。
「学習障害の一種で、文字の読み書きが困難な人達をそう呼ぶんです」