Coma.の憂鬱 4
4.
其処に立っていたのは、一ヶ月は引き籠もるはずの張本人。
華音さん、だった。
手にはスマホが握られている。
確認は不要だろう。流音君の通話の相手は、彼だ。
ということは、さっきの先輩の演説、全力で筒抜けだったのか。
「る、流音君……!? どういうこと?」
「華音兄ちゃん、スマホ2つ持ってんの。知らなかったっけ」
「ていうか、いつから……ゲームしてたんじゃないの?」
「ん~、グズグズすんなクソ坊主、の辺り?」
わたしと流音君が騒いでいる間に、華音さんは、リビングに足を踏み入れた。
ゆっくりと一歩一歩。踏み締めるように、先輩に近付いてゆく。
もう怯えてはいなかった。ぎゅっと拳を握って、唇を噛み締めて。
灰色の眼に、決意が映っているのが、わかる。
狼狽していたわたしも、状況を理解して、口を噤んだ。
――兄と弟が、向き合う。
「…………」
「……世音」
先に切り出したのは、華音さんの方だった。
気まずそうに俯いてはいたけれど、目線は、しっかりと先輩を捉えていた。
「……なに?」
「さっきのこと、だけど」
躊躇いではない。おそらく言葉を選ぶために、華音さんは、息を継ぐ。
「俺、やっぱり、いいよ。自分で処分する。解呪とか、そのうち必要になったら、頼むかもしれない。けど……今回は……悪いんだけど……いい」
「…………」
先輩は、黙っている。
その表情に、怒りや嘲りの色はなかった。
待っているのだ。次の言葉を。
「世音の考えとは、違うけど……俺は、そう、したい」
華音さんは、スッと顔を上げて、まっすぐに世音先輩を見据えた。
「……最初っから、そうやって、堂々としてりゃいいんだよ……」
芝居めいて腰に手を当て、先輩は、濡れた茶髪を掻いた。
華音さんと先輩、互いの視線が溶け合えば、二人は揃って相好を崩す。
キリッとした眉。特徴的な垂れ目。くっきり二重。こうして見る横顔は、本当によく似ていて、わたしは、わけもわからず安堵する。そういや、仇志乃兄弟でいちばん顔が似てるのは、次男と三男。この二人なんだっけ。
うんうん。似てる。
ほら、照れた顔なんか、そっくりだ。
どうやらわたしは、あと二つ、勘違いをしていたらしい。
華音さん、初めから、何処にも行ってない。
ずっと此処にいたんだね。
格好付けた華音さんも、落ち込んだ華音さんも、情けない華音さんも。全部まとめて、一人の人間。仇志乃華音という人なんだ。
よく考えれば、誰だってそうだよね。彼の場合、あんまり差が激しいから混乱したけど、大なり小なり、いろんな側面を持ってるのが普通だ。完璧超人なんて滅多にいないし、そもそも人間なんて、欠点の方が多いもの。
みんな、それを隠すのに必死なんだから。
……それから……。
わたしは、チラリと先輩を見た。
そうだったっけ。
口は悪いし、ちょっと短気だけど、根は優しいんだよ、この人。
華音さんが嫌いなんじゃない。
先輩は、きっと悔しかったんだ。華音さんが、自分に自信を持てないこと。本当は大好きで、尊敬してるのに。いや、だからこそ。華音さん自身に、自分を認めてやってほしいんだ。もっと堂々と、笑っていてほしいんだ。
それが上手く言えなかっただけなんだよね。
先輩が、お兄さんを見捨てるわけないじゃないか。
そんなの、とっくの昔に知ってたはずなのに。
疑っちゃって、ごめんね。
鬼とか悪魔とか、好き勝手に言って、ごめん。
後で謝っておこうっと。
「はいはーい! もういいすかー! 流音、発言いいすかー」
空気を読んだのか、壊しに来たのか。
ここで流音君、華麗に挙手である。
「お腹空いたんですけどー、作るのメンドいんでー、食べに行かない?」
「だな。俺も作る気分じゃねぇわ。来雷軒どうよ?」
「ラーメンいいね! ただし世音兄ちゃんのオゴリなのだ」
「はぁ? ったく……今日だけな」
「ゴチでーすあざーす!」
「ったく、調子いいぜ」
苦笑して、世音先輩は、流音君の頭を軽く小突いた。
確かに、流音君グッジョブだったもんな。一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど、どうにか一件落着したのは、彼が機転を利かせてくれたおかげだ。こりゃ、わたしもジュースでも奢ってあげなきゃ。
しかし敵に回したくない子だ。末恐ろしいこと、この上ないわ。
「そろそろコートいらなくね?」
「そだね。夜だけどあったかいし。パーカーとかでいいかも」
「つか、着替えるのメンドいし、俺このままスウェットで行くわ」
「髪は乾かしてよ! 一緒にいる方が恥掻くんだから」
「あー、食ってる間に乾くんじゃね」
「世音兄ちゃんは、もっと人目を気にしてよ……」
上着を取りに行くんだろう。先輩と流音君は、連れ立ってリビングを出る。
と、思ったら、先輩。
あっと呟き、踵を返して、ひょっこりドアから顔だけ覗かせた。
「言い忘れたけど」
「うん?」
先輩は、わたしと華音さんを交互に見て、コホンと咳払いを一つ。
「今後、勝手に瑠衣を連れ回すな。コイツ、ただでさえドジでマヌケで世話が焼けるんだからな。余計なこと憶えたら、俺が困る。自重してくれ」
言い捨てて、返事も聞かずに、スタスタと歩いて行ってしまった。
残された華音さんは、瞬きを二つ。
数秒、キョトンとしていたけれど、じきに合点がいったのか、肩を竦めてフフフと笑った。
「そっか。俺としたことが、気が利かなかったね……」
わたしは、頭上にハテナが三つ。
なにそれ? なんで通じちゃってるの?
つか、先輩。二言三言、多いですよ。
なに保護者みたいなこと言ってるんですか。彼氏でもないくせに。
ないくせに。
……ないくせに。
先輩の慌ただしい足音が、流音君を追って、二階へ昇ってゆく。
ちぇ。風邪引いちゃえ、バカ。
まーあ、いっか。
なんか腑に落ちない部分も多々ありますが。
華音さんは元気になったんだし、先輩のオゴリなんだし。
とりあえず腹減った。
よし食うぞー。ガッツリ食うぞー。煮卵トッピングとかいっちゃうぞー。
脳味噌をラーメンに切り換えて、わたしは、外出の支度を始めた。
テレビと暖房を消す。財布とスマホを持つ。その辺をザッと片付けて。
コートを羽織ろうとしたとき、不意に背後で声がした。
「ありがとう、瑠衣ちゃん」
華音さんの神妙な面持ちが視界を掠めたのは、一瞬のこと。
わたしが振り向くのと同時に、彼は、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「なにがですか?」
「俺のために怒ってくれて。嬉しかった」
「当然じゃないですか! あれは先輩が悪いんです!」
「でも怖かったろう? ごめんよ」
「ぜんっぜん大丈夫ですよ! ていうか、わたしが出る幕でもなかったですよね。結局、流音君のファインプレーで一件落着したんだし」
「ううん。切欠を作ってくれたのは、間違いなく瑠衣ちゃんだよ」
「そんな……」
「おかげで、世音の本当の気持ちが聞けた。ありがとう」
至近距離で見れば、華音さんのメイクは、すっかり落ちてしまっていた。
アイラインは頬に流れ、眉には黒い地毛が混じり、アイシャドウは不鮮明に霞んで、唇は、きちんと人間の色をしている。いったん解いて結び直したらしく、長い金髪は、首筋のところで緩く纏められているだけ。
カラコンさえ入れたままだけど、これ、ほとんどスッピンだ。
あれ?
でも華音さん、こっちの方が断然、イケメンなんじゃないだろうか……?
「きっと世音は、君のそういうところが気に入ってるんだろうね」
前触れもなく、その微笑が、寂しげに翳った。
ポン、と頭に掌が乗せられる。
「あの子が弟じゃなかったら、横取りもアリだったのかなぁ……」
ふわり。薔薇の香りが呟いて、わたしの傍を通り過ぎてゆく。
「…………、だよ。瑠衣ちゃん」
なに。
今、なんて言ったの?
「華音さん……?」
「お願い、二度目は言わせないで。フラれたときくらい、格好付けさせてよ」
呼び止めようとして、躊躇った。
手を伸ばせば届いたかもしれない背中は、けれど、どうしようもなく遠い。
だって華音さんの後ろ姿には、哀愁と美学の防波堤が築かれていて。
これ以上、踏み込めば、きっと、彼を侮辱することになる。
女のわたしにも、それが理解できてしまったから。
ねぇ、華音さん。
あなたが今、口にした言葉。
わたしの聞き間違いでなければ――
「コートはさ、いらないと思うよ」
あぁ、わたし、変だ。
生まれて初めて告白されたのに。
それも、こんな素敵な人に。到底、釣り合わないような人に。
嬉しいはずなのに。飛び上がって踊り出したっていいくらいなのに。
どうして涙が出るの?
どうして苦しいの?
どうして。
……世音先輩の顔が頭に浮かぶの?
車の鍵を真上に放り、落ちてくるところを薙ぐようにキャッチして、華音さんは足を止めた。
なんて彼らしい気遣いだろう。わたしの涙を、見て見ぬフリ。
肩越しのウインクは、完璧に計算された角度とタイミングだった。
「きっと大丈夫。春はもう、すぐそこまで――来てるから」
Coma.の憂鬱/了