Coma.の憂鬱 3
3.
帰るに帰れなくなったわたしは、例によって仇志乃家に一泊を決めた。
ラインは控え、個人のアドレスにメールを送ったが、未だ華音さんからの返信はない。車も靴もあるということは、外には出ていないのだ。二階の自室に籠もっているのは確実なのだけれど。
何度か、声を掛けた。
もちろん、刺激しないように、当たり障りのない話題を選んだ。
お茶を淹れましたよ、とか。お風呂どうですか、とか。
返事は……一切なかった。
なるほどね。
これは確かに、お手上げだ。
先輩達が放置する理由が、少しだけわかった気がした。
一人リビングで悶々していると、やがて流音君が、本堂から戻ってきた。
「終わったの?」
「うん、任務完了」
流音君は、中啓で自らをパタパタと扇いだ。この季節だというのに、首筋には汗が滲んでいる。護摩壇は熱いからなぁ。
「先輩は……?」
「お風呂に直行したよ。これ衣。畳んどいてってさ」
「もう」
渡された黒衣と袈裟を抱いて、わたしは、頬を膨らませる。
さっさと部屋着に着替えた流音君は、居間に寝転んで、スマホを弄り始めた。
「ねぇ、流音君。華音さんって……二重人格?」
流音君の傍に正座し、まず五条袈裟を畳みながら、わたしは訊ねた。
白衣、黒衣、袈裟。こういった衣装を仏教用語で衣体と言うのだが、その畳み方は、順序も型も独特だ。何度も先輩にダメ出しを食らって、最近やっと憶えた。
「ううん。世音兄ちゃんが地雷踏んで、化けの皮、剥がれただけ」
「地雷って……なにが地雷だったの?」
「僕の知る限り、四つはあったよ」
「四つ!? あの短時間で先輩、四つも人の地雷踏んだの!?」
「うん。もっとあったかもしれないけど」
「それで引き籠もっちゃったってこと?」
「そう。あーなると長いんだ。一ヶ月はヒキるんじゃない?」
「そんなに!?」
「ねー困っちゃうよねー。ほとんど二本足のマンボウ」
「実兄をマンボウ扱い!?」
「よく二十四歳まで生きられたよねー」
「そ、そんなに繊細な人だったんだ……」
知らなかった。
今日だって、書店で偶然会って、声を掛けてきたのは華音さんの方だ。
デートしてくれるかい?
なんて、ドラマみたいな台詞を、さらりと吐いて。
オシャレなお店に連れて行ってくれて、美味しいスイーツを御馳走してくれて。
穏やかな笑顔とスマートな仕草は、隙のない全方向イケメンフォーム。
慣れてるんだろうなって、思ってた。
勝ち組のリア充で、余裕に溢れた業界人。
それが華音さんだと思ってた。
違ったんだ……。
「華音兄ちゃんはね、僕とおんなじ。余所行きの仮面を幾つも持ってるのさ。でも僕とは違う。僕は、注目を浴びてチヤホヤされたいから、武器としてそれを使う。華音兄ちゃんの場合は……逆。傷付かないための鎧、みたいなもん」
画面から目を離さず、流音君は体勢を変えた。
「ああ見えて、怖がりなんだ。人前じゃ素顔も晒せないくらいにさ。いつも誰かに嫌われるんじゃないかって怯えてる。で、いざ攻撃されても誰も恨めないから、殻に閉じこもって。ひたすら傷が癒えるのを待ってる」
ピコンピコン。バシュン。乾いたゲームの音が、流音君の言葉に重なる。
「いい歳して、ダサくない? ひとりぼっちで――惨めにさぁ」
猫のような吊り眼は、相変わらずスマホの画面を見たまま。
その口元だけが、複雑な形に歪んでいる。
対人関係に秀でた利口な彼は、繊細で優しすぎる兄に、なにを思うのだろう。
少し待ってみたが、流音君は、それ以上を語らなかった。
依然、華音さん放置プレイの方針は揺るぎないようだ。
かく言うわたしも、どうして良いかなんて、わからない。
もっと言えば、人様の家庭の事情だ。
赤の他人のわたしが、土足で踏み込める線は、超えているのかもしれない。
ベストな方法があるなら、血の繋がった家族、兄弟である彼等が、とっくに行動しているはずなのだから。
わたしは、畳み終わった衣体を行李に収め、居間を離れて、ソファに座った。
華音さんが気になり、自分のスマホを確認する。返事はない。
溜息を吐いて、鞄から今日買った雑誌を取り出した。
そういえば、付録のDVDがあったんだっけ。
流音君に許可を貰い、AVデッキにDVDをセットして、テレビを点けた。
薄暗い、高級マンションの一室。ベッドに眠る男性。
素顔のComa.と題したゴシック体が、映像の上部に現れる。
男性――華音さんが、眼を開ける。ベッドに上体を起こして、伸びをする。やや乱れた金髪を掻き上げて、カメラに流れる視線。おはよう、と呟いて上がる口角。シーツを退けて、寝床を抜け出す半裸の身体は、細いけれど均整が取れている。
起床から始まる一日分のドキュメンタリー、という企画らしい。
映像の華音さんは、ベランダで煙草を吸い、着替えて、コーヒーを飲む。
朝食は、オシャレなフレンチトースト。
たまに目線を此方に向けて、今日の予定なんかを喋ってる。
でも違う。
華音さんは、寝起きが悪い。
起床の時間は、決まって遅い。早くても、午前十時を過ぎた頃だ。それに低血圧だから、唇なんかテキメンに青くなる。薄くメイクして、ベッドの中で眼を瞑っていたんだろう。つまりはヤラセ。顔色が良すぎるもの。
小食で、起き抜けに食事を取ることだって、少ない。兄弟揃っての朝食なんて、二回しか見たことがない。
コーヒーだって、ブラックじゃない。
ミルクと砂糖をスプーン一杯ずつ。それが華音さんの好みだ。
画面の中、華音さんは、慌ただしく一日を始める。
インタビューに応じて、スタジオに入って、バンドメンバーと曲を作って。車で移動して、PVの収録があって、雑誌の撮影をこなして、ちょっとだけビリヤード場に寄って、オシャレなバーで飲んで。
本人にネタバレされなくたって、気付いただろう。
素顔なんて、真っ赤な嘘。
なにもかも作り物だ。
仕事でやっているのだから、それはそれでいい。いや、ファンに向けたサービスという意味では、Coma.のキャラに徹するのが、プロとしては当然とも言える。
けれど、なんだろう。
とても寂しい。
映像も嘘。雑誌も嘘。
今までわたしが見てきた華音さんも……嘘?
本当の華音さんは、いったい、何処にいるんだろう?
ぼんやり映像を眺めていると、そのうち廊下の方から、足音が近付いてきた。
程なくして、スウェット姿の世音先輩が、タオルで濡れ髪を擦りながらリビングに入ってきた。
足早に冷蔵庫へと直行し、コーラを出してラッパ飲み。
ちらり、と此方を見る。
わたしは、思いっ切り顔を逸らせてやった。
「……なんだよ」
先輩は舌打ちし、そのくせ歩み寄ってきて、わたしの隣に座った。
すぐ傍で立ち上る薄い湯気から、薔薇に似た匂いがする。先輩にしては、主張の激しい匂いだった。シャンプーを変えたんだろうか。
「なんでアイツのDVDとか見てるわけ。嫌がらせ?」
「先輩よりマシでしょ」
「なに怒ってんだよ……意味わかんね」
「自分の胸に訊いてみたら?」
「あ?」
「なんなら、デリカシーのない口でもいいけど?」
世音先輩は、わざとらしく苦い溜息を吐いてみせた。
「言っとくけど、俺は間違ってねーからな」
「そういう問題じゃない。先輩には、思い遣りってものがないの?」
「アホらし。なにそれ食えんの」
「へー知らないのー先輩って案外、バカなんですねー」
「はいはいはい、お前よりマシなら構わねーぜ、俺は」
「いつまでそんな態度でいられるかなー。紫音さんが帰ってくるまでかなー」
「…………」
途切れた会話に、気まずさは感じなかった。
実の兄をあんなふうに追い詰めて傷付けて、この言い草。信じられない。なんて意地悪だ。ここまで冷たい人だとは思わなかった。
先輩なんて、紫音さんに、腕ひしぎ逆十字固めでも食らえばいいんだ。
このまま華音さんに謝るまで、口利いてやらないから。
なんて思ってた、そのとき。
狙い澄ましたようなタイミングで、わたしのスマホが震えた。
華音さんだ。
メールが返ってきた!
わたしは、急いでスマホを確認した。
先輩が露骨に顔を顰めるが、そんなこと知らない。今は華音さんが心配だ。
ショックで落ち込んでる真っ最中なんだから。
どうだろう。ドン底まで落ちてなきゃいいけど……。
Re.大丈夫ですか?
>死にたい。
――既にドン底ォオオ――!!
いかんいかんいかん。慌てて返信の返信を打った。
>ダメです! 気をしっかり持って!
>もう嫌だ。鬱だ。溶けたい。消えてなくなりたい。
>先輩が無神経なだけですから! 気にしないで! 早まらないで!
>いいんだ。世音の言ってることは正しい。
悪いのは俺だよ。俺が無能なのが悪いんだ。
あかん。これマジに重症だぞ。
なんとか慰められないだろうか……と、わたしは頭を抱える。
次の文章を纏められないまま、続きが届いた。
>世音の言う通りさ。俺は駄目なんだ。
自分じゃ解呪もできない。
やらないんじゃない。できないんだ。
俺には、呪詛の能力がないから。
仇志乃なのにね。
そう……だったの?
そんな話、誰からも聞いたことないのに。
戸惑うわたしの掌で、再びスマホが振動する。
見れば、今度は結構な長文だった。
>たまに、こういう欠陥品が生まれるんだって。
父さん母さんは、大丈夫だから気にするなって言ってくれたよ。
でもそれって、もう兄さんがいたからかな。
結局、後に生まれた世音や流音にも、強い能力が備わっていたけど。
俺は欠陥品なんだよ。
なんにもできない。
兄さんも、世音も、流音でさえ、ちゃんと仇志乃として生きてるのに。
俺だけが、どうして。
世音の言う通りなんだ。
俺、逃げてばっかりなんだよ。
頑張って格好付けても、本当は、いつも怯えてる。
怖いんだ。
怖いんだよ。凄く怖い。潰れそうだ。
世音に怒られるんじゃないか。
流音に嗤われるんじゃないか。
兄さんに嫌われるんじゃないか。
いつか、みんなに、見捨てられるんじゃないかって。
欠陥品だから。
なんにもできないから。
俺は、
存在してていいのかな。
最後の一行に、ザワッと鳥肌が立った。
胃がギュッと絞られ、遅れて動悸がやってくる。
……わたしは、大きな勘違いをしていたようだ。
華音さんが怖れているのは、世音先輩じゃなかった。
今回の件、先輩の一言が切欠だったのは間違いないだろう。だけど、本当の原因は、そこじゃない。もっと根深くて、複雑で、重い事情が、華音さんを苦しめているのだ。私が考えていたよりも、長い間。
いつものことだよ。流音君の声が、頭の片隅に蘇った。
華音さんは、繰り返してきたんだろう。
ずっとずっと、強い無力感と劣等感を抱え込んだまま。
欠陥品は……見捨てられる。
もっと飾らなければ。有能を演じなければ。厚く塗って隠さなければ。
――あまりにも悲しい仮面舞踏会。
「先輩!」
わたしは、先輩の長い襟足を引っ張った。
拳の間から水分が滲み出て、袖を濡らす。
「痛ぇ! なにすんだよ!」
「謝って。華音さんに」
「だからそれは……アイツが悪いんだろ!」
「どっちが悪いとか、高校生にもなって、つまんないこと言わないの! グズグズすんなクソ坊主! ほらダッシュ! 早く!」
華音さん。
わたし、見捨てません。
あなたのこと絶対、見捨てたりしませんから。
欠陥品なんて、とんでもない。
誰にも、そんなこと言わせない。
なにがあっても、コイツを土下座させてやりますから!
「おま……ちょっと落ち着け。な?」
きっとわたしは、般若の如き形相をしていたんだろう。先輩の達者な口が、宥めの言葉を探して痙攣していた。
「落ち着いてます! わ、た、し、は、冷静です!」
「いや興奮してんじゃねーかよ!」
「だいたい先輩は、華音さんが心配じゃないの? 鬼なの? 悪魔なの?」
「心配したって……しょうがねぇだろ」
「なにそれ!? 華音さんがいちばん傷付くこと言っといて!? 信じらんない!」
「アイツが毅然としてりゃ済む話だったんだ!」
「それでも弟なの!? あっきれた! 華音さんは、あんなに優しいのに!」
「華音華音って、お前にアイツのなにがわかんだよ!」
先輩は、遂に頭にきたのか、わたしの腕を掴んで声を荒げた。
「アイツはなぁ! お前が考えてるような男じゃねーんだよ!」
勢い良く立ち上がれば、百八十センチの長身が、わたしを見下ろす。
なに、この後に及んで逆ギレ?
望むところよ、やってやろうじゃない!
わたしはグッと拳を握って、臨戦態勢に入った。
「お袋が死んで兄貴が失明したとき、ピーピー泣くだけだった俺等を仕切ったの、誰だと思ってんだ! 華音だぜ! アイツが崩れなかったから、俺も流音も底まで堕ちなかったし、兄貴だって立ち直れたんだ! 普段ビビリなくせに、そんなときは気張るんだよ華音って奴は! 意味わかんねーし!」
先輩の肩からタオルが落ちて、音もなく床に沈む。
負けじと長身を睨み返し、わたしは、つと首を捻った。
……ありゃ?
「親父がいなくなったときだって、そうだ。うちが借金押し付けられて金に困ってる最中、真っ先に社会に出て稼いだのが華音なんだよ。自分は高校も行かなかったのに、しれっと俺等の学費とか作りやがって。今だって、うちの台所支えてんのは華音だ! どれだけ助かってるか、わかってんのかよ!」
えっと……あれ?
これ、どう反論すればいいの?
「呪詛の能力がない? そんなの、なんだよ。代わりに音楽の才能があるだろ! アイツにしかできない方法で真剣に戦って、しかも勝ってるじゃねーか。誰にでもできることじゃねぇ。充分だ! そこを誇れよ! 自信持てよ! 胸を張れよ! 俺が尊敬してんだから。自分で自分を認めてやらないで、どーすんだよ!」
一気に捲し立てて、先輩は、大きく肩で息を吐いた。
「だから先輩、そんな言い方って……!」
「あぁ? …………」
「って…………」
「…………」
「…………」
先輩の、まだ濡れた茶髪の先から、ぽたりと水滴が滴る。
そんな言い方って……、
別に良くね?
ていうか、むしろ、めっちゃ褒めてね?
「だってさ、華音兄ちゃん」
場違いに暢気な声に振り向くと、流音君が、スマホを耳に当てていた。
畳に伏せて頬杖を突いたまま、上目遣いでニヤリ。
此方に向けたスマホの画面には、予想外の三文字があった。
――通話中。
キィ、と音がして、リビングのドアが開いた。