Coma.の憂鬱 2
2.
約四十分後。
仇志乃家、到着。
「知り合いが、ちょっと珍しい石鹸をくれたんだけどさ」
サングラスを外して、華音さんは、玄関の戸に手を掛ける。
「俺、肌に合わなくて。世音は、匂いが気に入らないって言うし。兄さんや流音は使うだろうけど、無添加だから、そんなに保たないんだって。でも結構、量があるんだよね。腐らせるのも勿体ないし」
やや上向けた顎は、計算し尽くされた角度。
「だから、貰ってくれないかな? 好きなだけ持って帰ってよ」
そしてトドメの笑顔である。
わたくし、頷く他ありませんでした。
ですよねー。
うんなるほど。これは紛う事なきお持ち帰り。まったく言葉通りの意味だ。
石鹸ですか。いやぁ有難いですね。助かりますね。頂きますとも。
ですが、誤解を招きかねない発言は、どうか御遠慮くださいませね。
これでも、わたし、多感な女子高生なんですよ。
乙女なんです。処女なんです。
諸々の邪な煩悩が、脳裏に渦巻いてしまっただろうが!
「ただいま」
「こんばんわ……」
実は今日、家に誰もいなくて……という展開も頭を過ぎったが、別段そんなことはない。ごく普通ーに、流音君が出迎えてくれた。
「おかえりー」
「お邪魔し……あれ?」
和室から現れた流音君に、わたしは少し驚いた。
だって彼が着ているのは、学ランでもパーカーでも、寝間着でもない。
黒衣に五条袈裟、足袋。腕に二輪念珠を巻き、袂にはキッチリ中啓まで差した、ガチの僧侶衣装だったのだ。
「流音? 今日ってなんか法要あったっけ?」
上がり框でブーツを脱いでいた華音さんが、図らずもわたしの質問を代弁してくれた。
「兄さんの杖と雪駄もないけど?」
「檀家さんの七回忌だよー」
「お前は付き添わなかったのかい?」
「それが、婦人会のオバチャン達がワラワラ来てさぁ。紫音兄さんだけ、ソッコーで掻っ攫って行っちゃった。未成年はアウトとか言われて、僕、蚊帳の外」
「ちょっと、それって飲まされるパターン……」
「かもね。でもあそこ、看護師さんもヘルパーさんもいるし。平気じゃん?」
「じゃあ、お前はどうして袈裟着けてるのさ?」
「これ、別件だから」
萌黄色の袈裟を抓んで、流音君は、和室へと視線を遣った。
別件とは? なんぞや?
疑問符を浮かべた顔を見合わせて、わたしと華音さんは、和室の襖を開ける。
其処では、これまた黒衣に緋色の袈裟を纏った世音先輩が、床の間を背に胡座を掻いていた。
専用の硯と墨、加持水が平机の上に並べられている。どうも、お札に真言を記していた最中のようだ。
流音君が、先輩の向かいに腰を下ろす。
わたしと華音さんも、その辺に適当に座った。
「……お前ら、なんで二人で帰ってくんの?」
ちらり此方を向いた眼は、心なしか険しい。
事情を説明すると、世音先輩は、ふーん、とだけ言って、乱暴に筆を置いた。
なによ、訊かれたから答えたのに。えらく不機嫌だなぁ。
「先輩こそ、どーしたんです? その格好」
なんだか面白くないので、わたしはワザと敬語を使ってやった。
すると世音先輩は、ふと真面目な顔になって、机の上の封筒を手に取った。
「し、ご、と」
ピンときた。
この手のニュアンスの仕事とは、所謂一般的な法務を指すのではない。
月忌参りでも、葬儀でも、永代供養でも、紫音さんが現在行っているであろう、回忌法要のことでもない。
言わば、仇志乃家の本業。
即ち、呪詛返しの依頼を請け負ったということだ。
事の次第は、次の通りである。
依頼主のとある男性。
ストーカー女に付き纏われて、心底困っているんだそうな。
のみならず最近、彼自身や身内に、事故や病気が多発。弱って霊媒師に相談したところ、どうもそのストーカー女に呪われている、ということが判明した。
彼女が何者なのかは不明だ。独学で呪詛を学んだのかもしれないし、誰か呪術師を雇ったのかもしれない。
いずれにせよ、これが割と強力な呪詛で、その霊媒師の手には負えなかった。
それで、呪詛返し専門である仇志乃に依頼が回ってきた……。
「現物も調達したし、今からこれ使って《返品》する」
「な、なにが入ってるの?」
「ストーカーの髪。大量に送り付けられてきたってよ」
「げぇ……」
なんというプレゼント。相当イッてるなぁ、その女。
でもまぁ、世音先輩としては好都合だ。対象の身体の一部があるなら、それだけ仕事が楽になる。
「わたし、なにを手伝えばいい?」
「いや。流音にやらせる。そろそろ現場踏ませねーと」
「メンドいなぁ~。僕はさぁ、頭脳労働ってことで良くない?」
「甘えんな。兄貴が十四のときには、もうソロ活動してたぜ」
「紫音兄さんは特別っす。言霊マジ怖いシャレなんない」
なるほど。別件て、そういうことか。
だとしたら、わたしは今回、バイトお休み。出番なしってことね。
じゃあ、まったり華音さんとお喋りでもしようかなぁ。
「あ、そうだ」
流音君の髪を掻き回していた世音先輩が、出し抜けに此方を向いた。
「アンタのもやっといてやるよ。ついでだし。持ってこいよ」
グイ、と無遠慮に掌が突き出される。
わたしの隣でスマホを確認していた華音さんが、その指を止めて、顔を上げた。
「アンタさ、今年も貰ってたろ。血液入りチョコレート」
つと華音さんの表情が曇る。
聞けば、華音さん、よくプレゼントを貰うのだが、この時期は特に食べ物が集中する。その中に毎年毎年、必ず混じっているらしいのだ。
差出人不明、血液入りのチョコレートが。
「他にも髪だの爪だの……ハッキリ言って呪物。もう冗談で済まねーレベル」
うわぁ。
漫画とかでは読んだことあるけど、実際あるんだ、そういうの。
モテる人も大変だな。
「素人の仕業だし、うちは結界も敷いてあるから、ほとんど効果ねぇだろうけど。いい加減ムカつくわ。ちょうどいい。まとめて返品してやる。持ってこい」
世音先輩の言う《返品》とは、もちろん現物を送り返すという意味ではない。
返すのは、相手が行った呪詛と、込めた邪念。それに伴う結果の、
×2だ。
最初に聞いたときは、えげつないと思った。でも、一度《返品》された呪詛は、再び返すことができない。つまり、それで確実に相手の心を挫かなければ、どんな報復が待っているか、わからないのだ。
なにも呪詛だけではない。この世の中、人を困らせ、陥れ、命を奪う方法など、いくらでもあるのだから。
二度と逆らう気を起こさぬよう、完膚なきまでに叩きのめしておく必要がある。それが仇志乃家の家訓であり、また呪術師の鉄則、なのだそう。
いつか、俺はまだ優しい、と世音先輩が笑っていた。
紫音さんに掛かれば、四倍、五倍返しは平常運転だというから……。
「隠してんだろ。俺に任せろ。兄貴には黙っててやるから、早く出せ」
珍しく優しい口調で、世音先輩は、華音さんに向けた掌を振った。
彼なりに、次男の顔を立てる意図があったのだろう。
けれど華音さんは、困ったように眉を寄せ、小さく首を横に振った。
「俺は……いいよ、そういうの」
「は?」
「だから、いいって」
「なんでよ?」
「だって……悪気でやってるんじゃないだろうし……相手、女の子だろう」
可哀想じゃないか。
華音さんが薄く微笑んだ、その瞬間。
俄に、世音先輩は気色ばんだ。
「可哀想? 仕掛けてきたのは向こうだぜ? なにが可哀想なんだ?」
「呪詛の自覚なんてないんだよ。おまじないの、つもり、なんじゃないかな」
「だったら尚ムカつく。自分のやってることにリスクが伴わないと思い込んでる、お花畑の脳味噌が悪いな。自業自得だ。同情の余地なし」
華音さんは身を捩り、詰め寄る世音先輩から距離を取る。
そのとき気付いた。
華音さん、なんだか様子がおかしい。
さっきまでの余裕が一変、急にオドオドして、落ち着きがなくなった。長い指は机をコンコンと弾き、胡座を掻いた膝が忙しなく揺れ、視線はキョロキョロと泳いで、一箇所に留まらない。そのくせ、なにを探しているわけでもない。
ううん。目の前の世音先輩すら、見ていない。
それに……声から、生気が消えた。
いつもの彼とは別人みたいだ。
「先輩。華音さんには、華音さんの考えがあるんじゃない?」
もう止めた方がいいと思った。
彼等が言い争っているところは、たまに見る。
男の子なんだし、年頃なんだし、原因は他愛のないことだ。大抵は微笑ましいくらいの遣り取りで、誰かが折れて済んでいた。万一、あわやというときには、紫音さんが両成敗という方法で強制終了させていた。
でも今、此処に長男はいない。
殴り合いの兄弟喧嘩にでもなったら、怪我人が出てしまう。
なにより、華音さんが気になった。
これ以上は、なんか危ない。
重い空気を払おうと、わたしは、できるだけ明るく続ける。
「ほら、華音さん優しいし。相手だって、そのうち飽きて」
「お前は黙ってろ」
しかし、世音先輩の返答は、紛れもない拒絶だった。
聞いたこともないような、冷たい声の。
「おい、さっさと出せ」
「でも……」
世音先輩は、華音さんから眼を逸らさない。
立て膝のまま一歩も動いていないのに、物凄い圧迫感が、華音さんだけでなく、わたしの存在さえ萎縮させていった。
「俺が嫌なら、兄貴にやってもらうか? 四倍ぐらいで」
「だ、ダメ。それは……死んじゃうよ……」
「だから俺に出せ。さっさとしろ」
「だけど……実害は……ないんだし……俺、大丈夫、だし」
「そーいう問題じゃねぇ。呪術師が身内呪われて黙ってられっか。呪詛は呪詛なんだよ。やられたら倍返し以上。アンタだって仇志乃の人間だ、わかんだろ?」
「でも……だけど……」
「おい!」
世音先輩が、思いっ切り、拳で机を叩いた。
わたしと華音さんの肩が、ビクリと跳ねる。
「でも? だから? だって? さっきから、そればっかじゃねーか!」
今にも掴み掛からんばかりの剣幕で、先輩は声を荒げた。
「アンタ、昔っからそうだよな! 上辺ばっか飾って、肝心なとこスルーで。解決より言い訳探すのに必死じゃねーか。優しい人とか思われて満足か? んなの都合良く利用されるだけだろ、バカじゃねーの! どうせ自分じゃ解呪もできねーんだから、俺に任せときゃいいんだよ! さっさとしろ、このグズ!」
「…………っ」
鼻先を付き合わせて、世音先輩は、華音さんを睨む。
華音さんは、その目を見ない。
視線を斜め下へ落としたまま、おずおずと立ち上がり、後退る。
そして、閉めた襖に背中をぶつけ、ひっと情けない声を出して、膝を折る。
「逃げんのかよ。アンタだって兄貴のくせに」
嘲るような先輩の声は、おそらく、もう聞こえていない。
顔色を失った華音さんは、完全なる挙動不審。探り当てた引手を掻く指は震え、足が畳を擦る音が、サラサラと虚しく響いて、和室の温度を下げてゆく。
怯えて……いるんだろうか?
己の弟に?
華音さんは――たぶん渾身の力で――襖を引いた。
駆け出す直前、一度だけ振り返った彼と、視線が交わる。
凶器を持った殺人鬼を見るような、眼だった。
「あ~あ」
我関せずを決め込んでいた流音君が、ここで嘆息した。
「まーたやった。世音兄ちゃん、ほんっと学習しないねぇ」
「うるせー……」
片手で額を覆い、世音先輩は、顔を顰める。
視線で流音君を威圧しようとしているが、効果は非常に弱かった。噛み締めた唇にも、歯切れの悪い返答にも、自己嫌悪が滲み出て、迫力なんか全然ない。
「どーすんの? 冬眠コースだよ、あれ」
「わかってんなら、お前も仲裁しろってんだよ!」
「やだ。怪我したくないもん」
「くそったれが」
「僕は安全圏から出ませーん。紫音兄さんのお仕置き、楽しみだねー?」
「てめぇ、このガキ」
チッと舌打ち一つ。世音先輩は、流音君の頭を小突いた。
そうか。紫音さんが帰ってきたら、先輩には関節技フルコースが……
って、いやいやいや。そうじゃないでしょ。心配するとこ。
華音さんでしょ!
「ねぇ! か、華音さん、どうしよう?」
叫んだら、呆然としていた頭が、ようやく回り始めた。
足音からして、自室へ駆け込んだのだろう。ということは、華音さんは今、一人きり。誰か傍に付いていなくて大丈夫なんだろうか。あの取り乱し様は、普通じゃなかった。もしかして、持病でもあるのかもしれない。だったら、看病しなきゃ。
わたしは立ち上がっていた。
足は、いつでも華音さんの元へ走り出せるように。
けれど、世音先輩と流音君は、億劫に顔を見合わせる。
しばし思案したらしい流音君が、やがて、わたしに苦笑を向けた。
「いいよ瑠衣ねえちゃん。ほっといて平気」
「えぇ!?」
「いつものこと。あの人、ちょーっと繊細すぎるんだよねぇ」
「でも、でも華音さん、あんなに具合悪そうで……」
「神経症っての? 小さい頃からだったよ。ストレス、すぐ身体に出ちゃうんだ。しばらく休めば回復すると思う。経験則から言って、構うの逆効果」
「…………」
あまりの言葉に、わたしは再び茫然自失。
それって、いくらなんでも冷たくない?
反射的だったと思う。わたしは、咎めるような視線を投げていた。
流音君にではなく、原因を作った世音先輩に。
「先輩……」
「俺ら兄弟の問題だ。お前が心配することじゃねー」
どこかバツが悪そうに、先輩は腰を上げた。
「瑠衣」
背中で呼ばれる名前に、わたしは返事をしない。
先輩は、大股で歩を進めて、渡り廊下へと続く障子に手を掛ける。
「……机の上、カタしとけ」
衣の裾が翻り、世音先輩の姿は、縁側を遠ざかっていった。