Coma.の憂鬱 1
★仇志乃華音
仇志乃家次男。神経質なビジュアル系。
人気ロックバンド「NervousMESSIAH」の花形ボーカリスト。ゴシック系の美貌と美声、ファッションで、ある種の層から熱狂的支持を得ている。アーティストらしい気取った言動が目立つが、本来は非常に繊細で気の弱い青年。実は対人関係が苦手で傷付きやすく、完璧超人だった兄に強い劣等感を抱く。
防衛本能の強さ故、よくわからない地雷を大量に所持しており、その明確な設置ポイントは弟達も知らない。唯一、紫音だけが安置を把握している。
現在、音楽活動休止中。マネージャーに預けたモモちゃん(アンゴラウサギ)が気になって仕方がない。24歳。178㎝:58㎏。
1.
『独占インタビュー! カリスマボーカリストComa.のすべて!』
特集・素顔のComa. 現在の心境を直撃!
本誌限定! 活動休止の理由を激白!? 「解散ありえない」
付録DVD付き! Coma.秘蔵映像満載~私生活に密着h24~
センセーショナルな煽り文句を被り、表紙を飾るキメ顔は、文句なしのイケメンである。
アップにした長い金髪。
所々に入ったメッシュと、ピンクのエクステ。
イヤーカフも含めて、ピアスは合計七つ。
眼の周りと唇を黒く塗った、所謂ゴス系のメイク。
これまた黒い衣装。
あちこち露出しているくせに、やたらベルトや鎖が巻き付くという謎仕様。
攻撃力の高そうな装備……じゃない、アクセサリの数々。
カメラ目線のカラコンは、薄く透き通ったグレー。
ちなみに、純然たる日本男児。
――凄い。
うん。言いたいことはわかる。わたしも凄いと思う。
が、真に驚くべきは、実のところ、その特異性ではない。これらのファッションが決して本来の美貌を殺さず、むしろ引き立ててすらいる、という事実だ。
彫りの深い顔立ちは、濃いメイクを施されて尚、絶対的な存在感を放つ。綺麗に整っていることは言うまでもないが、中でもキリッと上がった眉と、くっきり二重の垂れ目。このバランスが絶妙で、見る者を惹き付けて止まない。
とにかくインパクトがあるのだ。
この物憂げな眼差しだって、そうだ。撮影用なのだろうが、蔑むような、それでいて懇願するような、なんとも形容し難い色気を醸し出している。
そういえば、バンドの理念は「激情の中に翳る脆さ」だったか。
なるほど。流し目一つで、見事に表現しているではないか。
そのイケメンなんですけど――……
いるんですよ。
めっちゃ近くに。
わたしの隣で。今。
運転してるんですよ車を!
「急に誘っちゃってごめんよ。無理言ったかな?」
「いいえ全然! 大丈夫です!」
「なんだか口数が少ないね。もしかして、予定あった?」
「大丈夫です!」
全力でブンブンと首を振り、わたしは、手にした雑誌を抱き締める。
「なら良かった」
Coma.こと華音さんは、ウインクして、唇の端を持ち上げた。
サングラス越しとはいえ、その破壊力は抜群だ。一般人がやろうものなら、ドン引き間違いなしのキザな仕草。それを彼ってば、こんなにも格好良く、自然に披露してみせるのだから。
キュンと跳ね上がった心臓に、わたしは無意味な咳払いを一つ。
横目で盗み見た華音さんは、まるで雑誌から飛び出してきたみたい。
やっぱり、超絶イケメンだった。
三月に入ったばかりの、ある日。
学校帰り、何気なく寄った書店で、バッタリ華音さんに出会った。
仕事かと訊けば、ボイストレーニングでスタジオに入っていた、とのこと。
他愛ない世間話が始まったわけだが、そのときわたしが、たまたま手にしていたのが、この音楽雑誌だった。
音楽の流行に疎いわたしでも、存在くらいは、デビュー当時から知っていた。
曰く、ビジュアル業界の貴公子。
決して万人受けする芸風ではないけれど、そのルックスとイケボで、多くの女性を魅了。一定数からは、崇拝とも言うべき支持を得る、カリスマボーカリスト。
それが華音さんの仕事だ。
初めて聞いたときは、そりゃもう驚いたものだった。Coma.といえば、わたしのクラスにも何人か熱狂的なファンがいる。ほとんど異世界の住人だったのだから。まさかご本人とお近付きになり、本名を知り、実家にまで出入りするようになるとは。人生、いつどうなるか、わかったものではない。
しかも、このタイミングでバッタリ出会うとか。
ほんに世間とは、斯くも広く狭きものよ。
まぁ、そういう事情もあり、わたしはテンションが上がっていた。
ついついミーハー根性が頭を擡げ、買ったばかりの雑誌を差し出して、サインしてください、なんて言ったのだ。
すると華音さんは、ポケットからペンを出して(持ち歩いてるのね)、サラサラとサインを済ませ、事も無げに、こう返してきた。
その代わり、今からデートしてくれるかい?
……わかってる。いや、わかってる。
デートというのは冗談だ。ただの軽食か、ちょっとした買い物。お散歩的なノリの用事に付き合え、という意味のリップサービスだろう。だって彼、Coma.だよ。こんな地味な女子高生と、デートなんかするわけない。できるわけない。
ていうか、そんなことがファンに知れたら、殺される。地の果てまで追い詰められて八つ裂きにされる。獄門コース待ったなしだ。
だから、デートなんて真に受けたわけじゃないけど。
やっぱり……変なテンションだったんだ。
二つ返事で了承し、ホイホイ車に乗り込んだ結果が、これだよ。
「どうかした? なんだか顔が赤いけど」
「いえ! 大丈夫です!」
「そうかい……? 別に、変なところに連れていこうってんじゃないからね?」
「大丈夫です!」
「そ、それはどういう意味の大丈夫?」
「大丈夫です!」
「ほんとに大丈夫かい!? さっきから壊れたレコードみたいになってるけど!?」
「ダイジョウブデス!」
死ぬほど緊張してるだけですから。
車は、商店街を抜けて、大通りへと差し掛かった。
沈黙の車内に漂う、コロンの匂いが悩ましい。
薔薇をベースに、幾つかの花をブレンドした、上品で華やかな香り。
華音さんの匂いだ。
あぁ、いかん。意識したら、余計にドキドキしてきた。耳が熱い。
本来、華音さんは、緊張すべき相手ではない。
初対面でこそ、世紀末な外見に戸惑ったが、それはすっかり過去のこと。穏やかで気遣いの細かい彼が、実はとても心優しい青年だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
それでも、どうしたって、華音さんはComa.だ。
しょっちゅう会っているせいで、深く考えたことはなかったけれど。
彼は人気者なのだ。多くのファンを抱える勝ち組で、彼がテレビに映るだけで、女性達はキャーキャー騒ぎ、手を振れば歓声が沸き立ち、グッズの発売日には行列ができるのだ。
地味で鈍臭い凡人のわたしとは、住む世界の違う殿上人。
二人きりになって初めて、それを思い知った。
これでリラックスしろって方が無茶だよ。
もう慣れたはずのインプレッサが、ふわふわと宙を飛んでいるみたいだった。
「これ……サインありがとうございます」
「あぁ。でも売り飛ばさないでおくれよ? 事務所がうるさいんだ」
フフフ。紫音さんによく似た笑い方に、わたしは、つい最近も同じような出来事があったのを思い出した。そういや、あれも死ぬかと思ったな。
つーことは、このままじゃ命に関わる。
なにか話題を探そう。わたしは、雑誌のページを捲った。
かなりの枚数をComa.の特集に裂いている。トップは、ファンからの質問に本人が直接答える、という主旨の記事だ。
えーと、なになに。
「趣味……ビリヤード」
あ、似合う。だけど、やってるとこは見たことないなぁ。
「実家は……教会」
まぁ、近いっちゃ近いか。寺だもんね。
「きょうだいは……なし?」
いや、兄と弟がいますよね。それもめっちゃ濃い衆が。
でも素性が割れちゃうと、面倒なことも多いだろうしな。隠す方が賢明か。
「好きな食べ物は……ブルゴーニュ風サーモンのシャ、シャンぴ、に……」
なんだそりゃ?
「ペットは……タランチュラと……?」
た、たたたタランチュラ!?
「華音さん、タランチュラ飼ってたんですか!?」
「あぁ、それは嘘。インタビューなんて打ってるけど、台本があるのさ」
「そ、そうなんですか……」
なぁんだ。ちょっと見たかったのに、生タランチュラ。
「そういえば、私生活に密着ってありますけど、そんなの来てましたっけ?」
わたしが知る限り、仇志乃家に撮影隊が訪れた形跡はない。誰からも、そんな話は聞いてない。
「それも嘘。東京でマンション一室借りてね、撮影したんだ」
「えー!? じゃ、じゃあ、これ嘘ばっかり!?」
「そうだよ。フフフ、信じてたのかい」
なんでも、こういう商売、キャラクターとしては、うんと謎めいて現実離れしている方がウケるんだそうな。イメージ戦略ってやつだ。
「真実なんて、そんな紙切れには載らないさ」
暮れ始めた車窓の外、何処か遠くをみつめて、華音さんは呟く。
灰色のカラコンが、なんだか一瞬、翳ったような気がした。
†
三十分ほど走って、わたし達の乗った車は、郊外に出た。
閑静な住宅街から少し離れた場所に建つ、こぢんまりした店舗。可愛らしい童話のような佇まいには、ちょっと不釣り合いな駐車場に車を停めて、華音さんが指をさす。控えめな看板には「Chocolate house」とあった。
「なかなか洒落てるだろう? 割と知られてないんだ。穴場」
華音さんが車を降りる。
どうにか新鮮な空気を吸って生気を取り戻すと(わたしは草か)、華音さんの後に続いて、歩き始めた。
「ホワイトデーまでの期間限定で、チョコレートバイキングやっててさ」
「へぇ……あ、男一人で来るのが恥ずかしかったんでしょ?」
華音さんは、さりげなく歩幅をわたしに合わせてくれる。こういうところ、世音先輩にはない気遣いだ。凄く紳士で、頼もしい。
なんか歩く度にジャラジャラ不穏な音がするけど、事と次第によっては、それはそれで頼もしい。
「いや……もうすぐホワイトデーじゃない」
「え、はい?」
「なにを贈っていいのか、わからなくてさ」
店の扉を開け、華音さんは、ごく自然な動作で、わたしを先へ促す。
カウベルが鳴り、落ち着いた店員さんの声が、いらっしゃいませと告げた。
「食べ物にしても服にしても、どうしても俺の好みになっちゃうから。それじゃ、却って迷惑かなって。いろいろ考えたんだけど、なら瑠衣ちゃんに選んでもらおうと思ってさ。此処なら、チョコの種類も多いし。近いうちに誘うつもりだったんだよ。今日はタイミングが良かった」
ふわり。店内から零れた照明が、華音さんの笑顔を暖かく照らした。
「……え」
瞬間、ギュッと胸が絞られる。
ホワイトデーに? 贈る? わたしに? なにを?
いやいやいや……それってあれですか。
マジですか!?
「じゃ、じゃあこれ、バレンタインの……お返しってことですか!?」
「そうだよ。俺からのプレゼント」
今、気付いたのかい。可笑しげに肩を竦め、華音さんは、手袋を外した。
マジですか。
せっかく正常値に戻った体温が、また急上昇してきた。
頬の火照りは、きっと暖房のせいだけじゃない。
世音先輩と学校帰りに寄るのは、いつもファストフード店。それも決まって自腹である。流音君に至っては、たかられてる回数の方が多い。そもそも彼等に出逢うまで、男の子に誘われるなんて経験、一切なかったし。
だから、こういうシチュエーションって、正直、憧れだったんだ。
とっくに諦めてたのに……。
颯爽と窓際の席へ向かう華音さんの背中が、イケメンすぎて。
わたしは、眼鏡の隙間に指を突っ込んで、ゴシゴシと眼を擦った。
そうか。
プレゼントっていうのは、物で機嫌を取る行為じゃないんだ。
それは、華音さんが、お金も時間も心も。
わたしのために使ってくれたってこと。
……嬉しい。
「さぁどうぞ。お姫様」
恭しく引かれた椅子に、尻餅を着くような形で腰を下ろす。
それから、店員さんが来るまで、わたしはボンヤリ夢心地だった。
「チョコレートとケーキのバイキングを二つ。それから、紅茶とコーヒーを」
「かしこまりました」
気付けば、華音さんは、手慣れた様子で注文を済ませ、ついでに会計まで終わらせていた。先払いのシステムらしい。
さも当然のようにカードを切る姿に、仇志乃家に於ける格差社会を見た。
世音先輩なんか、ポケットに裸で野口さん入れてるもんな。
「こういうところ、初めて?」
「は、はい。どうすれば……いいんですか?」
「あっちで選んで、お皿に取って、此処で食べるだけ」
「パン屋さんみたいですね」
「そうそう、そんな感じ。行こうか」
パン屋さんと聞いて若干、余裕が出来たわたしは、店内を見渡し、そのオシャレなバランス感覚に、はぁと息を吐いた。中世ヨーロッパを思わせる内装。ロココ調な調度品。壁の絵や小物、なにもかもがハイセンスだ。
や、やっぱり場違いじゃないだろうか、わたし。
ドレスコードとか、ないよね?
わたしは、おっかなびっくり歩を進める。
が、陳列スペースまで来たとき、そんな不安が、感嘆の溜息へと変わった。
あらカワイイ。
定番から見たこともないようなものまで。いろんなチョコレートが、ファンシーなレイアウトで並んでいた。
全部トリュフくらいの一口サイズだが、形が凝ってる。正方形から丸、ハート、星形。色だって、文字通り色々カラフルだ。味も豊富らしく、キャラメル、ビターやナッツ、ベリー、オレンジ、バナナ。目移りするほどに取り揃えてある。
「好きなやつ、好きに食べていいからね。遠慮しないで」
というわけで、お言葉に甘えて、隣のケーキスペースも物色。
こっちもカワイイ。
三センチ角ぐらいに切り分けられていても、デコレートは一つ一つ、手抜きなく施されている。どれもこれも美味しそうで、カロリーの計算なんか、すぐに頭から吹っ飛んだ。
うーん、どれにしよう。迷っちゃうなぁ。
なんか、なんか、楽しくなってきた。
お店はオシャレだし、プランから送迎から精算まで、すべて男性のエスコート。
これってガチでデートじゃん!
ひとまず、めぼしいブツを選別、確保。
席に戻ると、すぐ紅茶とコーヒーが運ばれてきた。
わぁ、食器もカワイイ。カップの把手が羽根になってる。
「いただきます!」
「おや、お行儀がいいね」
「仇志乃家に出入りしてたら、癖になっちゃいますよ」
「あぁ、そうか」
なんせ、仇志乃家の四兄弟は、全員が僧籍を持つ僧侶だからして。
あの世音先輩ですら、食前食後の礼は欠かさないのだ。
本当はもっと長ーい文句なのだけれど、出先だし、そこは省略。
ホワイトチョコを一つ、摘んで頬張る。
……いける!
たちまち、二つめに手が出る。こっちも旨い。
三つ四つ。あらやだ止まらないわ。此処のチョコ、すっごく美味しい。
「どう?」
「美味しい! 美味しいです!」
「気に入ってくれたかい。良かった。紅茶、おかわり自由だからね」
華音さんも、チョコレートを一粒、口に運んだ。
手入れの行き届いた爪に、黒いマニキュアが光っている。
あの指先を舐めたら、どんな味がするんだろう。
ふと、そんなことを考えて、ドキッとした。
チョコレートの甘さと、落ち着いた店内の雰囲気のせいだろうか。
いつしか緊張も和らいで、わたし達は、普段通りに談笑していた。
小食の華音さんは、既にフォークを置いている。
一方、わたしは、食べるのにも喋るのにも夢中。なんとも口が忙しい。
はしたないかな、とも思うけど、せっかく華音さんが用意してくれた時間だ。
そんなの、可愛い子ぶって遠慮する方が、失礼じゃないか。
「ほんと美味しいなぁ。一個一個、味が違う」
「瑠衣ちゃんのチョコも美味しかったよ」
「で、でもあれ……先輩には、うんことか言われましたよ……」
「世音? 嬉しかったんじゃないかな」
「うんこが!?」
「いや、そうじゃなくて」
おもむろに煙草を咥えて、華音さんは、足を組み替える。
「あの子さ、基本的に人から貰ったもの食べないんだ。昔、ちょっと嫌な思いしてて。でも、瑠衣ちゃんのチョコは、その場ですぐ食べてたろ。俺、初めて見たよ。それって凄く君を信用してる、ってことじゃない?」
へぇ……。
そうなんだ。
ふーん。
ふーーーん。
何故か気恥ずかしくなって、わたしは、華音さんから視線を逸らせた。
見るつもりもなかったが、なんとなく、一組の女性客が目に留まる。
流行の服装で、流行のメイク。女子大生だろうか。わたしと歳は変わらないようだけれど、纏っている雰囲気は華やかで、楽しげで、垢抜けていた。如何にも青春を謳歌する若人。イマドキの女子はこうじゃなきゃあ、ってオーラ満々だ。
けれど、なんだろう。
様子が変だ。
チラチラと此方を見ては、声を潜めて、なにか囁き合っている。
「……ねぇ、あれ……じゃないの?」
「えぇー? ないわ、ないない」
「だって、そっくりじゃん」
「じゃあ隣の女子高生、誰よ?」
「妹……?」
「うっそォ、似てない」
「んじゃファン? それにしたってダッサいけど」
「つか、彼ってば東京にいるんでしょ?」
「それが噂だけど、ほんとは実家に帰ってるってぇ」
「マジー? てことは、この近くに……」
チラッと耳に入った会話は、どうも雲行きの怪しい内容だ。
それに、あれ。
片方の女性が広げているのは、件の雑誌じゃないか?
「…………」
な、なんかマズイかもしれない。
目配せすると、華音さんも気付いたようだ。
ふと顔を曇らせて、まだ長い煙草を灰皿に押し付ける。
そのときだ。
椅子から上体を浮かせ、彼女達が、此方に向かって手を振った。
「すいませーん。ちょっといいですかー」
「お兄さん、もしかして、NervousMESSIAHの」
「行こう、瑠衣ちゃん!」
わたしの手を取り、華音さんが勢い良く席を立った。
「えっ? えっ?」
「早く」
半ば引き摺られるような形で、わたしも慌てて立ち上がった。
そのまま手を引かれ、急いでテーブルを離れる。
華音さんは、強ばった表情で足早に店内を抜けてゆく。コツコツ、とブーツの音が焦っていた。いつもより歩幅が広い。実際、かなりピンチなはずだった。下手したらスキャンダルだもの。
今の時代、情報はあっと言う間に広がる。そうしたら、たぶん凄く面倒臭いことになる。
なのに華音さん、まったく走り出す気配がない。
へっぴり腰で後を追うわたしを、無理に引っ張ったりもしない。
どう考えたって足手纏い。邪魔でしかないはずの、わたしの手を。
ギュッと繋いでくれている。
この人ってば……!
ダメだ。
こんなに優しい人を、これ以上、晒し者にするわけにはいかない。
「華音さん、走りましょう」
わたしは華音さんに耳打ちした。
「え? けど……」
「いいから! わたし、全力ダッシュします!」
華音さんは、少し戸惑ったように口を噤んだけれど。
「……わかったよ」
すぐ頷いて、わたしを引き寄せ、走り出した。
途端、その背中に、黄色い歓声と不躾なシャッター音が投げ付けられる。
「やっぱComa.じゃん!」
「うそーホンモノー!?」
あ、やめろ。
撮るな撮るな!
ていうかムカつくな、こいつら!
よーし、見てろ。
「違うから! この人、わたしのお兄ちゃんだからね!」
わたしは、鞄で華音さんの顔を隠し、目一杯の変顔でカメラを威嚇してやった。
プッと、隣で吹き出す声。
……あーあ、やっちまった。
華音さんにも見えてたか。こりゃ、わたしも笑うしかない。
二人、顔を見合わせて、クスクスと笑う。
笑いながら、走る。
それでも手は離れなかった。
バタバタと忙しなく店を出て、駐車場を駆け抜けて。
車に滑り込んで、直ちに発進。
しばらくして、どちらからともなく、大声で笑い出す。
「はっはっはっは!」
「あははははは!」
なんだこれ。
まるで駆け落ち。禁断の逃避行みたい。
それも、わたしと華音さんという、極めて釣り合わない二人。
可笑しいったらない。
「……はは、ごめんよ。迷惑かけて」
「いえ。楽しかったです」
「じゃあ、今日は満足してもらえたのかな?」
「もちろん! ありがとうございました!」
やがてスピードは安定し、車は、帰宅ラッシュを遡る。
擦れ違うライトに眼を細めて、わたしは、不思議な優越感に浸っていた。
あぁ。
こんな地味なわたしに、こんな素敵な時間をくれて。
本当に、ありがとう。華音さん。
最高のデートだった。
「なら、この後は――」
しかし次の瞬間。
華音さんが発した一言に、わたしは、笑顔のままフリーズする。
「お持ち帰り、する?」