祈ろう、君のために。
37.
一面ピンク色の世界に、わたしは、はぁと溜息を吐いた。
目の前に広がる桜は、どれもこれも見事に満開。視界を染め上げる淡い色彩が心にまで染み込んで、暖かく花を咲かせてゆくようだ。そよそよと風が吹けば、無数の花弁が夢みたいに宙を舞う。なんてロマンチックな光景だろう。
……バックの墓石や卒塔婆さえなければ。
紫音さんの快気祝いで花見に行こう、と誘われて、喜んで着いてきたら、隣町の墓地だったでござる。山を登ったところにある霊園で、駐車場の端からは街が一望できる。ロケーションもバッチリだ。穴場っていうか墓場だけど……。
マジに人っ子一人いやしない。そりゃ普通の神経なら、此処で酒盛りは無理だ。
ところが仇志乃兄弟は、これは良い場所だとご満悦。早速休憩所で、買ってきた菓子やら飲み物を開封し始めた。
流音君は自撮りに夢中。先輩は黙々と手を動かす。華音さんさえ、綺麗だねとか言って笑ってる。紫音さんに至っては、既に焼酎をロックでキメている。
あかん。たぶんこの坊主ども、霊園と公園の区別が付いてない。昼間っから化けて出られても、下手したら仲間に入れかねない。
もう一度、別の意味で溜息を吐く。
こうなったら食うぞ。食うしかないだろ。
わたしはジュースを一気に呷り、スナック菓子に手を伸ばした。
眠り蛇の騒動が片付いて、三週間。
先輩達が入院したり、警察が来たり、期末テストが悲惨だったり、風邪を引いて春休みが潰れたり、いろいろあったけど、わたしの日常は落ち着いた。
ガタガタになった校庭は未だ工事中で、不運な新入生は、鉄板の上を歩いて入学してきた。そんな感じに不便はあるものの、今日から学校も始まっている。わたしは二年生に、先輩は三年生に。なんとか進級できたみたいだ。
で、なにか変わったことがあるかというと――
ない。マジに、なんもない。
たまに家を訪れ、一緒に登下校し、くだらないことで口喧嘩して、笑う。あんなことがあったというのに、進展も後退もない。拍子抜けするほど元のままだ。あの夜のことは夢だったんだろうか、と記憶を疑うくらいに。
まぁ、誰一人として命を落とさず日常に戻れたのだから、これ以上を求めるのは贅沢というもの。全然オッケー、むしろ大吉である。不満はない。それは本当。
でも、ちょっとだけ。引っ掛かってるというか。
気になることがある。
一つは、眠り蛇が末期に口にした言葉だ。仇志乃と聞いて、奴は確かに驚いた。そして言ったのだ。お前達も自分と同じ、堕ちた邪神ではないか、と。
あれはどういう意味だったんだろう。誰も説明しないし、詳しく語らないけど、負け惜しみや当て付けとは、どうしても思えない。先輩達も呪詛だっていうのか。普通に学校行ったり働いたりしてるのに? まさかね?
それから、もう一つ。
あの日――わたしは先輩にフラれた。
勇気を振り絞って告白したわたしに、先輩は「嫌だ」とハッキリ答えた。
その後バタバタしすぎて、それどころじゃなくなって、確認は取れずにいるが、忘れられるはずがない。わたしの恋は玉砕したはずだった。なのに先輩は、わたしを傍に置いてくれる。相変わらず、意地悪ばっかり言いながら。
まったく、どういうつもりなんだ?
怖くて訊けずにいるけど、思い出すと気になって仕方がない。
わたし、此処にいていいんだろうか。
ふとした瞬間、怖くなる。本当は迷惑なんじゃないか。実はウンザリされてるんじゃないか。明日にでも、もう来るなって。離れてくれって、宣告されるんじゃないか。考えれば、居ても立ってもいられない。
もしかしたら、今だって、そう思ってるのかも……。
「なにやってんだ、お前」
呆れたような先輩の声に、ハッとする。
いけない。抓んだままのチョコレート菓子がドロドロに溶けていた。
「あ、えっと、考え事……してて……」
「汚ねーな、ガキかよ。ほら」
ポンとティッシュが飛んできた。
うぅ、誰のせいだと思って。
「あのさ、瑠衣」
「わかってるって、ごめん。お行儀悪いよね」
「いやそうじゃなくて。それ拭いたらさ。ちょっと話さね?」
指先を拭う手が止まった。
思わず先輩の顔をみつめてしまう。
先輩も、じっとわたしを凝視していた。
「え、え、別に……いいけど」
でもどうして?
強い視線に気圧されて、訊ねる声は、上擦っていた。
「ちょっとな。話したいことあって」
明後日の方角に視線を逸らし、先輩は、後頭部を掻く。
「じゃ、あっちで待ってる」
駐車場を顎でしゃくって立ち上がり、先輩はブラブラと歩いて行った。
遠ざかる背中は桜吹雪に霞んで、ひらひらと淡くピンク色。
なんだか、吸い込まれて消えていくみたいに。
急に怖くなって、わたしは身震い一つ。
ギュッとスカートを握り締めた。
†
先輩は、駐車場の端、杭を打って鎖を渡しただけの手摺りに頬杖を突いていた。
吹く風が、長い襟足をパタパタ揺らしている。
なんとなく声を掛けづらくて、黙って隣に並んだ。
「……眼鏡」
切り出したのは、先輩だ。
「眼鏡、変わったな」
「え? あ、うん」
前のが壊れたからね。昨日まで予備のを掛けてたんだけど、春だし、気分を一新したくて新調した。一緒にお店を回ってくれたのは、華音さんだ。
カラコンを勧められたけど、丁重にお断りした。新学期デビューで調子乗ってるとか思われるのもイタいし、わたしには似合わない。絶対コスプレみたいになる。何事も分相応、過ぎたことは望まないのが平穏に暮らすコツである。
「火傷」
また至極どうでも良さそうに、先輩は呟く。
「護符で火傷したんだろ。あれどうなった?」
「あ、うん。なんか綺麗に治っちゃった。跡もないの」
「巫女の体質かもな」
「それって、よくわかんないんだけど……」
「俺も知らねーけど」
「なにそれ」
「他人のダメージ肩代わりすんだから、回復力も強いんじゃねーの?」
「あぁ……」
そうかも。
言って、チラリと先輩を盗み見る。
何処に注意を向けるでもなく、端正な横顔は、ぼんやりと空を眺めていた。
らしくない。
こいつ、パンチラしてようが鼻毛が出てようが、人前でズバリ指摘してくる奴だぞ。こんな世間話をするために、わざわざ場を設けるはずがない。本題は別にあるんだ。たぶん、ちょっと大事な話。兄弟には聞かれたくないような。
でも、だったらどうして早く言わないの?
普段せっかちなくせに。
よくよく観察すれば、単にボケーッとしてるだけじゃなかった。
瞬きの回数、たまに彷徨う視線、頬を叩く中指。仕草に、妙に落ち着きがない。不安なのか躊躇いなのか、どういう事情があるのか知らないが、やっぱり、いつもの先輩らしくなかった。
……もしかしたら。
ズキンと胸が痛む。
あんまり言いたくないことなの?
もう近寄るなとか。付き纏われるのは迷惑だとか。そういう系?
だったら、早くして。覚悟なんてできてないけど、終わりは終わりだ。ハッキリ告げられれば、一応のケジメは付く。わたしは元の生活に戻ればいいだけ。青春の夢でも見ていたと思えば、僅かなり慰めにもなる。
じわじわ引き伸ばすなんて、本気で意地悪だからね?
風が吹く。
先輩は、なにも言わない。
不自然な沈黙が、気まずい。
「……ねぇ、先輩」
わたしは、思い切って口を開いた。
このまま黙っていても、埒が明かない。珍しいことに、先に焦れたのは、わたしだった。
この機会を逃せば、一生謎のままだろう。せめて、疑問だけでも解消して別れたい。わたしなりの意地だった。どうせドン引きされるなら、気まずさついでだ。今訊いてやろう。
「変なこと訊くけど……眠り蛇が、最後に言ってたでしょ? お前達も自分と一緒だって。堕ちた邪神がなんとかって。あれって……どういう意味?」
あぁ、と先輩が頷いた。
「むかーしむかし、あるところに、とんでもねー邪神がいたわけよ」
「へ? う、うん」
「そいつは悪行の限りを尽くすんだけど、あるとき仏の教えに感動して、仏道入りを決意するわけ」
「うん」
「けど、やっちまった悪事は取り返しが付かない。仏の従者達が反対したんだな。罪償ってから言えやゴルァって。で、邪神は考えた。どうすれば償えるだろう」
「……うん」
「それで、人間になることにした」
「どういう心変わり!?」
「自ら人に堕ちて、人の世界を浄化しようと思ったんだ。気の遠くなるような輪廻を繰り返して、その間に、百八の魔を祓う。それが叶ったとき、改めて仏に帰依を申し出ようってな。あ、仏教じゃ、輪廻転生って業だから。こっから抜け出すのが解脱、つまり仏教の最終目標だ。だから堕ちるってことな」
なるほど。
要するに、その子孫が仇志乃家の…………
って、ええええぇ!?
「先輩って人間じゃなかったの!? み、みんなも!?」
「おいおい本気にすんなって。ただの伝承。おとぎ話さ」
「で、でも……」
「誰かが作った話に決まってんだろ、漫画じゃあるまいし。アホくせー」
先輩は、ヒラヒラと掌を振る。
そりゃ俄には信じ難い話だけど。でも、だったら、あんたらの人間離れした能力はどう説明するのよ? 呪詛は。言霊は。眠り蛇は? 全部リアルで経験してるんですけど。アホくさかろうが嘘っぽかろうが、どれもこれも真実だろ。
とはいえ、いくらなんでも邪神の末裔ってのは……無駄に壮大すぎてイメージが湧かない。先輩も否定してるしなぁ。いやいや、でも……。
あぁ、モヤッとする。なにこの中途半端な葛藤。
うんうん唸っていたら、冗談めかした先輩の笑顔が、ふと曇った。
「……けど、俺達が邪神っつーのは、ある意味でマジかも」
「え!? やっぱりそうなの!?」
「だって俺達、誰も幸せにできねーから」
予想外の言葉に、わたしは一瞬、キョトンとした。
「俺達は呪詛を使って簡単に人を不幸にできる。けど、逆は無理だ。裏技的な方法はあるけど、根本的にはルール違反。他人の――ましてや己の幸せなんて、どんなに願っても祈っても無意味だ。生み出せるのは不幸だけ。忌まわしい血だよな」
唇を皮肉の形に歪めて、先輩は溜息を吐く。
「アイツら、みんなわかってんだ。流音も、華音でさえ。祈らない。俺達は呪術を生業とする者。人を不幸にする能力を持つ代わりに、自分の利益は望めない。僧籍にあったって関係ねー。俺達の祈りは、どんな神様にも聞こえない。仏様にも救えない。バランスってもんがあるからな。仕方ねーんだよ。だから俺達は」
祈らない。
自嘲気味に言って、先輩は、再び頬杖を突いた。
真昼の陽射しを浴びた横顔は、けれど深い孤独を刻んで、乾いた諦念に髪を靡かせる。寂しそうで。不安そうで。迷子の子供みたい。途方に暮れた、どうしようもない苦笑。
あのときもそうだった。
井戸の中で、話を聞いたときも。
先輩は、こんな顔で――。
「だったら、わたしが祈ればいいんじゃない?」
先輩の頬杖が、勢い良く外れた。
物憂げな眼差しが見開き、此方を向く。信じられない、といった表情で。
思いがけないリアクションで、わたしの方が驚いた。
え、なに? なんでそんなにビックリしてるの?
そこまでイミフなこと言ったっけ?
「え、え? だからね、先輩達の幸せ、わたしが代わりに祈るの。それなら届くんじゃないの? わたしは呪術師じゃないもん。うち、たぶん神道だと思うし」
聞き取りやすいように、今度は、ゆっくりと喋った。
そうだよ。わたしが祈ればいいんだ。
先輩一人とは言わない。もう四人まとめて面倒見てやる。毎日朝昼晩、土日ナシでガッツリいこう。知ってる神様、片っ端から掴まえて、全員に祈ろう。しつこく続けてれば、そのうち根負けして叶えてくれるかもしれないじゃないか。
うん、これで本当にバランスが取れる。一方通行が輪になるぞ。我ながらナイスアイディアだ。わたしは、込み上げる笑いを抑えられなかった。
先輩は、依然なんともいえない眼差しで、わたしを見ている。
これドン引きされてるかな?
まぁ、別にいい。
……だってわたし、先輩に幸せにしてもらった。
誰も幸せにできない? バカ言っちゃいけない。
先輩の傍にいるだけで、どんなに、どんなに幸せだったか。
お別れだとしても、恩返ししなきゃね。
先輩本人が幸せにならないでどうするよ。
「瑠衣」
「なに?」
得意満面の笑顔で、わたしは先を促す。
いつもドジばかり踏む迷惑製造機のわたしが、最後に役に立てるのだ。
上出来も上出来、こんな最高の決別があるだろうか。
準備オッケー、いつでも来なさい。
取り乱したりしな――
ふわり。
吹く風が、一際ロマンチックな桜吹雪に変わった瞬間だった。
大好きな匂いが、体温が、感触が、わたしを包んだのは。




