三男の戦いはこれからだ
36.
「流音は一緒ではなかったのかね?」
「ナースステーションで看護師さんと喋ってるよ。えっと……」
兄さんに羽織を着せながら、俺は病室を見渡す。
狭いクローゼット。小さな冷蔵庫。ちょっとしたワゴン。うん、忘れ物はなさそうだ。こんなとき個室は有り難い。扉という扉、誰に気兼ねなく開けっ放しにしておけるからね。確認が楽でいいや。
あとは窓を閉めてテレビを消せばオーライ。いつでも退院できる。
「なにか交換したと喜んでいたけれど」
「連絡先。社会人が中学生と合コンするはずないのにね」
「おおかた友人にでもチラつかせて、紹介料を取る気なのだよ」
「なにその闇ブローカー!? まだ中学生だよね!?」
「あれは大成する」
「どっちの方向に!? 矯正してやってよね、兄さん!」
くっくと喉を鳴らす兄さんに、俺は呆れて肩を竦めた。
テレビでは、昼のワイドショーが始まっていた。なんでも今日の特集は、一夜にしてバーコードがフサフサになったという、不思議な男性の体験談だ。再現映像に混ざる本人インタビューを見て、俺は、ふと首を傾げる。
なんか何処かで見たような人だなぁ。
『そうなんです。あれは忘れもしません。地盤沈下の日でした。会社帰りに、あの災害に出会しまして。ええ、ワタシ、運良く無傷で済んだのですが。すぐ傍で目の不自由な方が困っていらしたので、声を掛けたんです。そしたら急に意識が……』
あれから、三週間が経った。
俺が気を失ってる間に、全部終わってたんだってね。目が覚めたらベッドの上。搬送先の病院で、事の顛末を聞いた。
瑠衣ちゃんは泣いて謝ってくれたけど、今回のMVPは間違いなく彼女だ。肉壁しか能のない俺が役に立ったなら、むしろ本望。ナイト気取りのウインク一つで、内心ちょっとだけ誇らしかったのさ。ヒロインを守れたんだから。
とかなんとか、格好付けてはみたけれど、俺を含め野郎四人は、満身創痍。怪我と体力が回復するまで、兄弟仲良く入院するハメになった。
特に長引いたのが兄さんで、呪力の消耗が激しかったためか、一時は食事も喉を通らないほどだった。ただの疲労だって言うのに、檀家さんやら看護師さんやら、ひっきりなしに女性が訪れて心配しまくるもんだから、もう姦しいこと。
結局、最後まで居残るって決定したとき、速やかに個室へ移動してもらった。
やれ腫れ物扱いだの歳は取りたくないだの、本人はブチブチ零してたけど、同室の俺達からすれば、当然の防衛措置だ。せっかく死線を潜り抜けて、兄のストレスで呪い殺されたらシャレにならないでしょ?
一方、真っ先に退院した俺は、いつの間にか、事情聴取窓口に任命されていた。
無駄に呪詛耐性が高いおかげで、回復も早い。社会人やってる。あと決着シーン見逃した。等々、罪状は多岐に渡る。公正なる兄弟裁判の判決だそうだ。いつものこととはいえ、俺って本当に次男なんだろうか。
何度も同じ事を訊きに来る警察に、ウンザリしたったらない。
後で知ったんだけど、俺達が戦っている間に、街は甚大な被害に見舞われていたらしい。至る所で陥没と地割れが発生、水道管は破裂するわ電柱は倒れるわ、終いには自衛隊まで出動しての、国民的災害に発展した。
原因究明は、遅々として進まない。学者も政治家も、みんな首を傾げるばかり。まぁ、呪詛の仕業だなんて、誰も夢にも思わないだろうから。真相が判明したところで、発表するわけにもいかないし。
これだけの事態で、一人の死人も出なかったことだけは、不幸中の幸いだ。
もしかしたら、瑠衣ちゃんの能力が守ってくれたのかもね。
最近は、めっきり報道される回数も減った。
復旧作業は大変で、まだ街中で工事が続いてるけれど、それでもほとんどの人達は、平穏な日常を取り戻していた。
世音も流音も瑠衣ちゃんも無事に進級したし、学校も普通に始まっている。
解決ってことで、いいんだろう。
マネージャーが奔走してくれたおかげで、俺の周囲も比較的平和だ。入院も被災も伏せられてるし、ファン達が騒ぐこともない。丸く収まったんだと思うよ。愛車はお釈迦になったけどね!
悔しいから、上位モデルを即金で買ってやった。
昨日納車して、初仕事が兄さんのお迎えってわけさ。
「葛葉が連絡してきたよ。例の件、引き受けるそうだ」
「わざわざ京都から通ってくれるの?」
「あれは此方にも弟子がいる。顔の広い男だよ」
「だったら、もっと早く助けてくれれば良かったのに……」
「まったくだ。それはそれで、高額の報酬を毟り取られたろうけれどね」
兄さんの顰めっ面。射し込んだ光が明るくて、いまいち迫力不足かな。
吹き込んだ風はカーテンを揺らし、すっかり春めいた緑の匂いと、遠い工事の音を運んでくる。
工事と言えば、事件の発端になった工事現場。
あれ、パーキングエリアの計画は続行するんだけど、吉村氏に頼んで、ちょっと別にスペースを設けてもらったんだ。
奥まった、誰も立ち入らないような場所。井戸を埋めた跡地だ。其処に、小さな社を建てた。俺達だけで、既に簡易的な法要は済ませてある。神主の手配は済んだみたいだから、今月中にでも祀れるだろう。
眠り蛇――いや。
もう二度と目醒めない。とある蛇神の御霊をね。
もちろん、生贄達の鎮魂も忘れてないよ。こっちは俺達の領分だ。きっちり永代供養させてもらう。石田の人達に事情を説明したら、是非お地蔵さんを寄進させてほしいって。お金を出し合って慰霊碑を作る話も出てるみたい。
犠牲になった少女達は、誰一人として戻っては来ないけど。
これで少しは浮かばれるかもしれない。
「……眠り蛇を焚付けたのって、誰だったのかな」
「さてね。葛葉は、雨乞いの祈祷師が黒幕だと言っていたが」
葛葉さんというのは、兄さんが懇意にしている陰陽師だ。今回の騒動、そっち系が絡んでると踏んで、いち早く助言を頼んでたらしいんだけど……返事が来たのが解決した後っていうね。あの人、兄さん以上にマイペースで困る。
祈祷師の正体は、おそらく同業者。つまり陰陽師で、己に都合の良い式神を作るべく外法を試み、失敗したのではないか。とは、葛葉さんの談だ。成功していれば眠り蛇を完全に制御できたはずで、当初はその予定だったに違いない、と。
眠り蛇とは、なんだったのか。
一言で表すなら、業だ。分不相応な欲望と生命への執着が、蛇の姿を取って具現化した存在。少なくとも俺達は、そう解釈する。
けど、そんなものは、人間なら誰もが背負う荷物じゃないか。
なんか……俺はさ。お人好しかもしれないけど。
アイツだけが悪いようには、どうしても思えないんだ。
「彼奴も哀れだね。ただの蛇として天寿を全うしていれば」
兄さんの横顔が、ふと翳る。
「もっと楽に生きて、死ねたものを」
感慨深げな呟きに、俺は、どう答えていいのかわからなかった。
微かに歪んだ唇は、笑っているようでもあり、怒っているようでもある。皮肉で憐憫で、哀愁で、侮蔑で、途方もなく優しい。いつもそうだった。こんな顔をするとき、どうしてか兄さんは、凄く寂しそうなんだ。
射し込む陽射しは、底抜けに明るくて。眩しいくらい。
眼を閉じれば、キラキラと瞼の裏、狂おしいほどの生命力に溢れた残光が、不憫な呪詛の面影を抱いて飛び回る。これじゃ黙祷にもならないな。苦笑して、軽く頭を振った。
「ごっめ~ん! もう片付いてる?」
シリアスな空気を吹き飛ばす勢いで、病室の扉が開いた。
猫みたいな笑顔が、悪びれもせず此方を覗く。流音だ。よく言うよ。タイミング見計らってんだ。最初っから手伝う気なんてなかったくせに。
合流したのか、後ろには世音も立っていた。
「あれ、瑠衣ちゃんは? 一緒じゃなかったのかい?」
「便所」
「そこは化粧直しとか言ってあげなよ……」
「あいつスッピンじゃん」
開けっ放しの棚や引き出しを閉めながら、世音は室内を一巡して、ベッドに腰を下ろした。学校から直で来たんだろう。まだ制服だ。今日が始業式だったっけ。
「紫音兄さん、これなーんだ?」
言いながら流音が、手にした植物で、兄さんの頬を突く。
兄さんはそれを指先で軽く抓み、撫で、少し考えて、ふわっと破顔した。
「あぁ。もうそんな季節なのだね」
当たり。悪戯っぽく笑って、流音は、兄さんの黒髪にネコヤナギを挿す。これがやたらと似合うもんだから、俺達弟組は爆笑。スマホでの撮影会が始まった。
フフ、なんか一気に騒がしくなっちゃった。
「どっから持ってきたのさ?」
「ナースステーションに飾ってあったの。一本もらった。でもさー、今はやっぱ桜でしょ? 僕、調べたんだけど、隣町に絶景ポイントがあるんだって」
ちゃちゃっとスマホを操作して、流音が画面を見せてくる。
表示されていたのは、口コミや花見特集のサイトではなく、地図だった。知らない場所だけど、此処から三十分程度の距離だ。本当に穴場らしい。これ、見付けるの結構大変だったんじゃないだろうか。
「そんなに遠くないんだね」
「うん。だからさ、行こうよ。紫音兄さんの快気祝い兼ねて!」
「おいおい今からか? 俺、ガソリンねーぞ。出直さね?」
「なに言ってんの。半分は世音兄ちゃんのためだよ?」
「あ?」
予想外の返答にキョトンとして、世音が眼を見開いた。
流音は、鞄から小さな缶を取り出し、そんな世音の鼻先で振ってみせる。カシャカシャ軽い音がした。煙草ぐらいのサイズで、可愛らしいデザイン。女の子向けの小物ケースみたいだけど、なにが入ってるんだろうか。
「はい、紫音兄さん。あーーーん」
流音は缶を開けて、中からこれまた可愛らしい包装を摘まみ出した。
そうして、隣で開いた口にポンと放り込んだのは、茶色い……玉?
「……うん。甘い」
もう一つ。満足げに頷いて、兄さんは、再び口を開ける。ツバメか。
って、そうだ。思い出したぞ。あれって確か某製菓会社の新商品。コンビニ限定の春スイーツ企画がどうとかって、SNSで見た気がする。パッケージがウケて、女子高生にバカ売れだとかなんとか。
「初めての味が蓬莱丹じゃあねぇ~? あんまりでしょ?」
俺が気付いたことに気付いたんだろう。ニンマリと意味深な小悪魔スマイルで、流音は世音に流し目を送った。
「お・口・直・し」
サッと世音の頬が紅くなる。
流音の考えてることがわかったんだ。
だよね。鈍い俺ですら、合点がいった。要するにアレだ。
そういうこと、なんだ。
「あ、あ、あれは救命行為だろ! 別にそういうんじゃねーし!」
「はいはい言い訳乙。もう誰が見てもバレバレだってば」
「違えし! 余計なお世話だエロガキ!」
「せっかくの手作りスイーツもご近所に配っちゃったしね。いいかも」
「てめぇ華音うるせえ出てくんな!」
「舞い散る桜、抱き合う二人は幸せなキスをして……うーん青春ですな~」
「黙れ厨二!」
「青姦はいけないよ、世音」
「なんで兄貴の発想は棒高跳びでブッ飛ぶんだよ!?」
「どうしてもと言うのなら、お月様で致しなさい」
「致さねーから!」
もう世音は耳まで真っ赤。傍目にも焦りまくってるのがよーくわかる。それが既に答えだってことは、俺達も重々承知だ。どれだけ嘘を吐いてもムキになっても、自分の心は騙せないんだ。本当は世音も自覚してるはず。
昔っから、素直じゃないんだ。この子ってば。
好きな子に意地悪するタイプの典型で、本当は照れ屋なだけ。俺は知ってるよ。ずっと前から、瑠衣ちゃんのこと特別扱いだったよね。わかるさ。俺だって兄貴なんだから。
だから――……
「お前も瑠衣君の想いには気付いているのではないかね?」
兄さんの秘伝、魔球を経ての直球が、ずばり的中だったのか。
喚いていた世音は、ぐっと押し黙った。
「そ、れは……」
「言っておくが、彼女に好意を持つ男が他にいないとは限らないのだよ?」
ギクッと肩が跳ねる。
え、なに? もしかして兄さん、知ってんの?
いやでも俺フラれたし。うん。終わったことだし。
これっぽっちも気にしてないからいいんだけどねハハハハハハ……。
……はぁ……。
「いいかい、世音。女性を待たせるのは重罪だよ。彼女達にとって、時間は非常に残酷なものだ。男子たる者、女性に恥を掻かせてはいけない。いつまで中途半端でいるつもりなのだね。なによりも、このままではお前自身が苦しかろうに」
「や、だから……」
「男なら男らしくケジメを付けなさい」
「…………」
十秒ぐらい、沈黙が過ぎた。
俯いて視線を遊ばせていた世音は、眉間を絞ってチッと舌打ち。
流音の頭を叩きざま、乱暴に缶を引ったくる。
なにすんの、と不服を申し立てる流音に、世音は、もう反論しない。
ただ出陣前の武士よろしく、仏頂面で空を睨むだけだった。
「観念したまえ」
兄さんがクツクツと笑う。
思いっきり肩を落とし、世音は茶髪を掻き毟った。