仇志乃か
35.
「瑠衣! 瑠衣!」
「瑠衣姉ちゃん!」
「しっかりしたまえ瑠衣君!」
不意に世界が騒がしくなった。
ごうごうと唸る風。鼻の曲がる腐臭。おかえりなさいませ、と鈍痛が再発する。わたしを呼ぶ声に混じって聞こえるのは、とくん。とくんとくん。肋骨の奥、確かな暖かさで脈打つ鼓動。音が、温度が、五感が戻ってくる。
あ、わたし……
生きてる。
『よもや斯様な間近に……百人目がおろうとは……』
渾身の力で、瞼をこじ開けた。
濡れた睫の隙間から、金色の不吉な光が、じっと此方を見据えていた。
偶然じゃない。その視線には、明確な意図があった。奴は、わたしを見ていた。結界と護符が消滅したため、わたしの存在を認識できるようになったのだ。
つまり、念願の百人目が此処に。
「おい流音、結界! 早く張り直せ!」
「ま、待って! そんなすぐには無理だってば!」
「無理でもやれ! 急げ! 隠せ隠せ!」
「そんなぁ! どどどどうしよう!? 紫音兄さん!?」
「あぁもう俺がやる!」
「待ちなさい。なにか……様子が……」
本来の目的を思い出したのだろう。
眠り蛇は、しみじみと嘆息した。
先程までの激情は鳴りを潜め、我に返った表情は、驚愕とも期待ともつかない。歪な夢に冒されて、うっとりと憧憬に酔う。そのくせ、見開かれた両眼は、飢えた欲望で喜色満面。静かな狂気を湛えて血走り、わたしを捉えて放さない。
『これにて満願……あとは海へ出るのみ……なんと嬉しや』
二股に分かれた舌を舐めずり、眠り蛇が鎌首を擡げた。
先輩が、流音君が、何事か叫んでいる。紫音さんが、それを制する。華音さんの声は聞こえない。何処かで気を失っているんだろう。引き戻された現実では、まだ悪夢の夜が続いている。まだ終わっていない。
終わってないんだ。
この生命は。まだ。
――まだ使える。
「……ふっ、…………」
弱々しい五本線が、土を抉った。
脚が、腕が、身体が重い。脳味噌グラグラする。寒い。痛い。吐きそうだ。
けど、それがどうした。
喘いで、両手に力を込めた。深く息を吸う。止める。一気に上体を押し上げて、一秒。二秒。全身の筋肉という筋肉が、プルプル震える。くそ。こんなことなら、もっと鍛えておくんだった。風呂上がりの筋トレ、最近サボってたもんなぁ。
指一本動かすのが、こんなに重労働なんて。
歯を食い縛る。頭を振る。鼻水が垂れる。
ほら、もうちょっと。
泣き言ほざいてる暇ないだろう。
体力、気力、勇気。お前ら総動員だ。
こんなときに働かないでどうする。
「う…………くっ……」
あぁ畜生!
「……そがあああああぁああッ!!」
半ば放送禁止の絶叫と共に、わたしの脚は大地を踏んだ。
どういう原理なのか、立ち上がってしまえば、却って楽だった。妙に清々しい、充実した熱が、この脚を支えてくれていた。紫音さんの煙管の効果か、華音さんの衣のおかげか。或いは、彼女が力を貸してくれたのかもしれない。
なんだっていい。
たった二十メートル。
走れれば、それでいい。
『貴様、逃すか!』
叫んだ眠り蛇の身体が、バネ仕掛けのように躍進した。
わたし目掛けて、突っ込んでくる。
逃げる?
逃げるって?
逆だ、バーカ。
同時に、わたしも駆け出した。
眠り蛇に向かって。
「ばか! 瑠衣!」
「瑠衣姉ちゃん!」
自慢じゃないが、わたしは学年でもトップクラスの鈍足だ。対して、奴の推進力たるや、人外の特権。ほとんど陸上式魚雷である。此方が数メートルも進まないうちに、みるみる距離は縮まって、両者の生命線は詰められてゆく。
好都合だ。
わたしが長距離を走らなくても済む。
残り少ない体力の消耗が抑えられる。
――十メートル。
バラララ、と分厚い紙束を捌く音がした。
一瞬、鳥の群れかと思ったが、違う。飛び込んできたのは、白い紙片。呪符だ。何十何百枚はあろうかという呪符が、進路を妨害するように眠り蛇を取り囲み、顔と言わず腹と言わず貼り付いて、その動きを縛り、視界を奪う。
流音君だ!
ほんとにもう、優等生なんだから。この子ってば!
『おのれ小賢しい!』
眠り蛇は、速度を緩めない。
両手でバリバリと呪符を引き剥がし、依然、怒濤の勢いで前進を続ける。
奴にしても、ここが最後の一手なのだ。わたしを食えるか否かで、運命が決定する。顔の皮膚一枚、気に留めている場合ではない。
――五メートル。
《 押さえろ! 》
紫音さんの声と共に、地面から無数の黒蛇が湧き出した。
相変わらず、数が尋常ではない。百匹、二百匹、千、二千。わたしが一歩を進む間に、続々と現れては牙を剥く。そうして瞬時に激流と化した彼等は、新しき主の命の下、先を争って眠り蛇の身体に纏わり付いた。
目の前に、たちまち黒い山が聳え立つ。巨体を誇る眠り蛇だが、さすがにこの数で拘束されたのでは堪らない。俄然、勢いは衰え、スロー再生に切り替えたみたいに、進行が鈍った。
それでこそ仇志乃の長男! 頼りにしてます、紫音さん!
『ぬ……っうおあおおおお!!』
しかし、押し止めたと思ったのも束の間。
獣じみた咆吼を上げ、眠り蛇が、ぶんぶんと身を捩る。
どんな遠心力が発生したのか、黒蛇達は、てんでんばらばら。大多数が払い落とされ、方々に弾き飛ばされてしまった。
残りの黒蛇達を蹴散らし、眠り蛇は、再び進撃を開始する。
――三メートル。
食い付ける距離に達したと判断したのだろう。
眠り蛇が、大口を開いた。
しとどに黒い咥内から、涎だか血液だか、最早よくわからない飛沫が散る。
この鈍臭い神経が、よく反応できたものだと思う。わたしは羽織っていた僧衣の襟を両手で掴み、頭から被って、身を屈めていた。
じゅぅ、じゅうううっ。本能的な危機感を煽る音が、衣一枚を隔てて爆ぜた。頭で焼き肉パーティーでも開催された気分だ。真夏の太陽光線が直撃したみたいに、髪が熱い。なのに、予想していたような痛みはなかった。
衣の焦げる臭いと、仄かな薔薇の香り。混ざってキュンと胸を突く。
最後まで……守ってくれて、ありがとう。華音さん!
「うあっ!?」
ところが、世の中そう甘くない。重複するが、わたしは鈍臭いのだ。
上にばかり気を取られていたせいか、足元の亀裂に気付かず、思いっきり躓いてすっ転んだのである。このタイミングで。
ちょっとこのバカ校庭! なんでこんなとこに段差があるのよ!
物言わぬ大地に理不尽な怒を向けるも、状況は待ってはくれない。頭上に感じる邪悪な気配が、もうすぐ傍まで迫っていた。ポツポツと、雨漏りめいて降り注ぐ涎に、じゅうと髪の毛が焼け焦げる。くそ、ハゲたらどうしてくれんだ。
衣を翳して見上げれば、黒く透けた至近距離。
百八十度に開いた大口が……!
「伏せろ!」
先輩の声に、迷わずバタンと倒れ込む。
さっきまでわたしの顔面があった場所を、なにが棒のようなものが、高速回転で横切っていった。
木刀だ。
ガッ、キン!
先輩の投げた木刀が、奴の大口に栓を支う形で、すっぽり填まった。
今まさに餌を一呑みにすべく、猛然と口を閉じるところだったのだ。不意打ちの妨害と顎への衝撃で、テンパりまくった眠り蛇は、ガッツリ心張り棒となった木刀を吐き出そうと、大わらわ。
『んっが、ぐ、ぐ』
目を白黒させ、口元を掻き毟り、まるで殺人餅を喉に詰まらせた老人だった。猫がやるみたいに尻を振り、腰を引きながら、クネクネと後退る。口を開ければ済む話なのに。そんな単純な道理を忘れるほどに焦っているのか。
「おいボケッとすんなグズ!」
ハッとして、一瞬、振り返った。
檄を飛ばした本人が、立てた親指を地面に向け、最高に悪い顔でウインクした。
「今だ、やっちまえ!」
……うん。
うん。うん。
いつもグズでごめんね。
信じてた。絶対に助けてくれるって、わかってたから。
だから。わたし、ちっとも怖くなんかないよ。
先輩!
――ゼロ。
「うわぁあああぁあっ!!」
立ち上がりざま、拳を握る。硬く硬く、気合いを込めて。
ほら、もう目の前だ。みんなが導いてくれた希望が、此処に。
わたしは有りっ丈の力で、封印の蓋を――緑の腹板を、ブン殴った。
ぱきん。
薄氷を破るように、それは呆気なく砕けた。
飛び散る破片の隙間から、ふわり。白い光が泳ぎ出る。
蛍……?
いや、白い。
続いて二匹目が。三匹。五匹。十匹。たくさん。
次々に溢れて、たちまち数え切れなくなった。まるで光のベールだ。いっぱいに満ちた光で、視界が真っ白に染まる。雲に包まれたか。タンポポの綿毛に飛び込んだか。柔らかくて、峻烈で、少しメルヘンチックで、でも儚い。
とても不思議な純白だった。
蛍の群れは、解放の残響も惜しまず、クラゲめいてほろほろと舞う。瞬く光は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。けれど、その点滅は決して悲しみではない。根拠はなくても、わかる。
なんて美しい光景だろうか。
あまりの荘厳さに、わたしは時間を忘れて呆然としていた。
――ありがとうございました。
聞き覚えのある囁きに、ハッとして眼を見開いた。
頬で煌めく一粒の光。なんだか、知っている人のような気がして。
ずっと昔から、仲間だったような気がして。
彼女が笑ったような気がして。わたしは、ねぇ、と呼びかける。
――これで――
そのとき、わたしを覆う影が、ぬぅっと伸び上がって不審に揺らめいた。
あ、ヤバい!
封印解いた後どうするのか、考えてなかった!
『き、さま……よくも…………よくも儂の……貴様…………小娘が……』
苦しいのか、怒っているのか、或いは両方か。押し殺して震える声には、限界を超えた殺意が付着していた。気付けば、しゅうしゅうと、蛇特有の呼吸音が、すぐ頭上で涎を滴らせている。やっと木刀が外れたらしい。
らしいが、これは崩れる。直感した。
言うに及ばず、奴は建物ではない。でも本能で悟った。
わたしは今、崩壊する天井の真下にいる。
『この……餌がァあぁああァあッ!!』
もう呑み込むとは言わない。食い千切るか、齧り付くか、噛み砕くか。とにかく殺す気満々の牙が、猛スピードでわたしに襲い掛かった。
気力も体力も使い果たした身では、逃げることも叶わない。そもそも、わたしはこの場にいる誰よりも常人である。避けられるはずがなかった。
……しかし、動いたのは奴だけではない。
彼もまた、地を蹴っていた。眠り蛇よりも、一足先に。
「瑠衣!」
間一髪。
突っ込んできた先輩の逞しい腕が、わたしの腰を抱いて、眠り蛇の懐を滑り抜けた。寸刻遅れて、背後で金属の噛み合うような音。ギリギリすぎて、冷や汗も出やしない。先輩のスライディングで砂煙が上がって、ようやく腰が抜けた。
「せ……せんぱ……」
「無茶するぜ、ったく」
嘆息して、ポンポン背中を叩いた手が、そっと髪を撫でてゆく。
涙目のわたしは、鼻水を垂らしながら先輩にしがみついた。
「……あとは任せとけ」
その肩を優しく押し返し、素手でわたしの鼻を拭って、先輩は立ち上がった。
「乙女達よ!」
精悍な声が、高らかに響く。
仇志乃の長男は万事心得ていて、すっかり導師の面持ちで、潮時を告げた。
「邪悪の輩も最早これまで! 諸君の無念、今こそ晴らしたまえ!」
さぁ。
付け加えた一言が、言霊だったのかどうかは知れない。
でも紫音さんの意思は、きっと彼女達の恐怖を取り去り、背中を押した。
だって彼女達は、このときを待っていたのだ。
往くべき場所に導いてくれる僧侶を。
「世音兄ちゃん!」
いつの間に拾ったんだ。やや離れたところから、流音君が木刀を投げた。さっきのドサクサに紛れてだろうけど、ちゃっかりしてる。
木刀は弧を描いて空を切り、ちょうど差し出された先輩の手に、吸い付くように収まった。
先輩が八相に構える。仄白く漂う灯りが、すらすらと宙を舞う。一粒。また一粒と、乙女達の魂が、小鳥を思わせて刃部に留まる。そうして木刀は光の剣となり、白く輝いて薄闇の中、凜々しく唇を結ぶ先輩の相貌を照らした。
最後に一粒。
名残惜しげな瞬きが、その輝きに溶けていった。
「オラァ行くぞ! 百倍スペシャルで《返品》だ!」
先輩が、高く跳躍した。
気付いた眠り蛇は、攻撃に応じるべく身構える。
大蛇と少年剣士。満月に、おとぎ話のようなシルエットが踊った。
「くたばりやがれ!」
次の瞬間、振り下ろされた光が、目映いばかりの煌めきに迸った。
太刀筋に沿って、眠り蛇の身体が、脳天から真っ二つ。
唐竹割に、臍まで裂けた。
『………………ば、か、な……』
ずるりと、カチ割れた身体の片方が頽れる。
もう片方の口で、眠り蛇が、呟いた。
『儂……儂は……龍となる者……斯様な……小僧……どもに…………』
先輩が、片膝立ちで着地する。
それが刺激となったのか、残りの片方も、支柱を抜かれたボロ屋みたいに崩れていった。驚くべきことに、あの巨体が、音も立てずに。
黒髪は色が抜け、老婆然とした白髪に。ぬらり漆黒に艶めいた鱗は、枯葉のように剥がれて歯抜けに。筋肉で張り詰め、屈強を誇った胴体は、萎びて干柿と見紛うほどに。あれよという間に、その肉体が崩壊してゆく。
呪詛の死だ。
魂すら残らない。即ち、此の世からの、完全なる消滅。
「仇志乃を舐めんな」
ぶん、と木刀を薙ぎ、先輩は眠り蛇を見下した。
『あだしの?』
奴が、身動いで金色の片眼を剥く。
『貴様等、仇志乃か』
おそらくは最後の力を振り絞って、奴は戦慄く面を上げた。
と言っても、やはり半分しかない。残りの半分は、ピクリとも動かなかった。灰色にくすんだ皮膚、そこに刻まれた亀裂は校庭の土と一体化して、何処からどうなっているのか、見分けも付かない。尾の方は、疾うに蛇型の盛砂である。
『おのれ。おのれ仇志乃。口惜しや。貴様等さえいなければ……』
心底忌々しげに呻き、眠り蛇は、しわくちゃに顔を歪めた。
視線の先、仇志乃の三人が佇んでいる。けれど、今際の憎悪に燃える眼光が睨み付けていたのは、華音さんを含めた、四兄弟の姿だったろう。
『貴様等とて、儂となにが違うのか!』
天を仰いだ首が、ぼろりと落ちた。
曰く、眠り蛇。
龍になり損ねた呪詛の亡骸。
志半ばで潰えた身体が晒す断末魔は、哀れなほどに矮小で、寂しくて。
わたしには、か弱い虫の悲鳴に聞こえて、仕方がなかった。
『貴様等とて……神にも仏にもなれぬ……堕ちた邪神では……ない、か』
言い終わると同時に、その頭部が、ざらり。砂の塊へと転じ、ぱらぱら崩れて、粉微塵に散った。
ごうと吹き抜ける風が、わたしのスカートを揺らす。
先輩の頬を打つ。流音君の僧衣を嬲る。紫音さんの黒髪を靡かせる。
「――それを人間と言うのだよ。我々の業界ではね」
紫音さんの声に、もう返事はない。
風は尚以て強く吹き、眠り蛇と呼ばれた砂塵を巻き上げ、そのすべての情念を腕に抱いて、果てしない夜空へと連れ去っていった。
後を追うように。先輩の木刀から、ぽろぽろと光が離れる。
離れて、零れて、舞い上がる。彼女達もまた、天へ昇るときが来たのだ。
いつしか、全員が合掌していた。
百匹の蛍を一斉に解き放ったみたいだった。
何処かで救急車のサイレンが鳴る。
夜空に消える灯火に、ふと思った。
いつか、もう一度、巡り逢えないかしら。
一部始終を見届けた満月が、朧の雲を従えて、素知らぬ体で静かに浮かぶ。
降り注ぐ月光は、なにも答えてはくれなかった。
ただひたすらに白く――此の世は無常と微笑むばかり。