カーテン・コール
34.
ぷしゅん。
なんとも気の抜けるユルい音に、場が固まった。
え?
な、なに? その音?
生贄の魂が隠されてる場所でしょ? 最後の封印でしょ?
そんな間抜けな音でいいの?
思わず垂れてしまった鼻水を拭うことも忘れて、わたしは目を見開く。
華音さんは真逆。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、瞬きを繰り返している。紫音さんは訝しげに首を傾げ、当の先輩ですら、茫然自失。眠り蛇の脇で、木刀を構えたままフリーズしていた。
…………。
「うぉおおおっ!」
テイクツー。再び先輩の雄叫びが、白けた静寂の空間を切り裂く。
そうだ。さっきのはNGなんだ。ちょっと手元が狂ったんだ。
こ、今度こそ。
とうとう綺麗な胴一本が、眠り蛇の腹板に――封印の腹に、決まった!
ぷしゅん。
コーラを開栓したような音が、尻すぼみに抜けていった。
「……ぼ、僕、失敗してないもん! 間違いないからね!?」
あまりの気まずさに耐えられなくなったのか、先んじて保身に回った流音君が、しどろもどろに主張する。が、言われるまでもない。流音君だって仇志乃。ここぞという場で、そんなミスを犯すはずはないのだ。そこは信用していい。
じゃあどういうこと?
なんで? 封印が解けないの?
そんなにも奴の防御力は高いんだろうか。
バフった先輩が、全力で放った一撃。それが、まるで通じないほどに?
「離れなさい世音!」
紫音さんの声に、先輩がハッとして跳び退った。
間一髪。眠り蛇の爪が、今し方まで立っていた地面を抉っていったのだ。
いつまでも呆けてはいられない。先輩の表情に、緊迫が戻った。こうなったら、三度目の正直だ。構えた木刀を盾代わりに、次こそはと、間合いを計っての接近を試みる。
しかし、これがいけなかった。
「世音!」
「先輩!」
叫んだのは、長兄か。次兄か。
ありえない方向から襲った尾の一撃。
辛うじて受け止めた先輩の身体は、けれど衝撃を殺しきれず、数メートルの距離を弾き飛ばされた。
『うがああぁぁあぁあああ!!』
眠り蛇の、仰け反る喉から、血を吐くような絶叫が上がった。
先輩を張り飛ばした尾が、のたうち回って地面を叩く。かと思えば、長い胴体が脈絡もなく伸縮を始めた。併せて、両腕は狂ったヤジロベエと化し、振り乱れた髪が、夜目にも甚だしくデタラメな軌道を書き殴る。
あぁ、もうメチャクチャだ。まるで駄々っ子。癇癪を起こした赤ん坊が泣き喚く図、そのものじゃないか。その喚声は耳をつんざき、空間を震わせ、猛々しく荒れ狂う。地団駄を踏む足があれば、奴はこの場で地面を踏み抜いてしまっただろう。
然もありなん。
奴は四人を――仇志乃の四兄弟を相手にしているのだ。
四層の壁は厚い。一人が倒れれば、一人が支える。二人が倒れれば、一人が盾となる。やっと三人片付けたと思ったところで、最も厄介な壁が蘇る。それが四人ということ。長く受け継がれた、仇志乃の血なのだ。
眠り蛇でなくとも、堪忍袋の緒が切れて当然。
そろそろ発狂モードに突入したとて、なんら不思議ではない。
ではないが、次の攻撃は、さすがに予想外だった。
『おのれおのれおのれおのれおのれえええええええ!!』
――黒い閃光!
眠り蛇を覆う呪力が、鋭く四方へフレアを尖らせたかと思うと、幾本もの黒い矢となって、放射状に迸った。
もしかしたら、攻撃、ではなかったのかもしれない。
攻撃だの防御だの、たぶん、もう知ったことではないのだ。ただ煮え滾る憎悪と憤怒の感情。限界を超えたドス黒い呪詛が、行き場を求めて爆発しただけに過ぎない。目標など、標的など、初めから定めてはいなかったんだろう。
何処を狙うでもなく放たれた呪力は、結果として、辺り一帯を無差別に襲った。
「ぐっ」
「うわわっ」
「くっそ!」
流音君が、自分と傍の兄二人に防御壁を展開する。
なにぶん、咄嗟のことだった。反応できただけ優秀である。だから、わたし達のことにまで手が回らなかったのは、決して怠慢ではない。不可抗力だったのだ。
「きゃあっ!」
「瑠衣ちゃん!」
目と鼻の先に迫った閃光が、瞼を焼く。
あっと思った瞬間、わたしは強い力で突き飛ばされていた。
――パキィイン……。
倒れ込みながら聞いたのは、ひどく物悲しい音だった。
華音さん。叫んだような気がする。
けれど伸ばした手は、虚しく空を掴むだけ。わたしを庇って呪力の直撃を受けた身体は、ぐったり脱力して、遙か後方へと跳ね飛ばされていた。なにが起こったのか。理解する時間もないまま、じゅう、と胸が熱くなる。
地面から数センチの視線。なにかの砕けた透明な欠片が、キラキラと残光を引いて落ちてくる。
……そっか。
悲しいはずだ。
今のは、結界が壊れる音。
正真正銘、破滅の音だったのだから。
ぎゅう、と巨大な手に握り潰されたような感覚が襲った。
氾濫する呪詛が、容赦なく全方向から伸し掛る。凄まじい腐臭が喉を塞ぎ、肺を燻し、胃を掻き回して、手足の自由を奪っていった。脳味噌が沸騰する。息ができない。苦しい。陸に放り出された魚の気持ちが、痛いほどわかった。
熱い。
胸が……。
感傷ではない。それは純然たる痛覚として、わたしの皮膚を焼いていた。
ブラジャーに押し込んでいた護符だ。結界が崩れたため、此方も高濃度の呪詛に耐えきれず消滅してしまったらしい。
……やっぱり、こうなるのか。
わたしは、先輩達とは違う。ただの一般人。とてもじゃないが、眠り蛇の呪詛に対抗する術など持たない。ちっぽけな女子高生なのだ。むしろ呪詛を寄せる体質、華音さんの衣を羽織ってはいても、せいぜいが数分といったところか。
わたしってば、いつもいつも。肝心なとこでツイてないんだから。
紫音さんが復活しても、エリクサーが発動しても、結局こうなるんだ。
ほんの少し寿命が延びただけだった。
瞼が降りてくる。どんな吹雪よりも冷たい死の手が、慇懃無礼に背中を撫でた。意思とは無関係に硬直する手足は、まるっきり虫の残骸だ。期待はしていなかったけれど、思いの外、惨めな末期。もうすぐ、この土と同じ温度になるのか。
「……、………!」
「……!」
誰かが、わたしを呼んでいた。
先輩かな。紫音さんかな。
ごめん、よく聞こえないの。
ねぇ先輩。先輩なの?
だったら、最後だから、もっと大きな声で呼んでよ。
瑠衣って呼んで。
…………、さま。
るい、さ、ま。
――――瑠衣様。
ふと気が付くと、わたしは暗闇の中に立っていた。
ひんやりとした石に周囲を囲まれ、ひどく窮屈で寒い空間だった。出口は何処にも見当たらない。筒の中に閉じ込められたみたいだ。微かに漂う腐臭と、耳が痛くなるほどの静寂。なんて嫌な場所なんだろう。
わたしは此処を知っている。
井戸の底だ。
ということは……食べられちゃったのかな。
――瑠衣様。
不意に人の声がした。
こんなところで?
そうえいば、さっきも聞こえた気がする。
先輩でも紫音さんでも、華音さんでも、流音君でもない。
振り向けば、見知らぬ少女が其処にいた。
歳の頃は中学生くらいだろうか。まだ幼い顔立ちは、その声に相応しく、可憐で愛くるしい。不思議なことに、鼻を抓まれてもわからない闇に於いて、彼女の姿はハッキリと見えた。白衣に緋袴という、巫女装束まで。
「あなたは? 誰?」
――名は忘れてしまいました。
少女は、悲しげに眼を細めた。
苦笑と言うには、あまりにも悲しい笑顔だった。
――それよりも、瑠衣様。どうか封印を解いて、我々をお助けくださいませ。
その言葉で、合点がいった。
そうか。彼女、眠り蛇に食われた生贄の一人なんだ。
なら、わたしにできることは、なにもない。
申し訳なさと情けなさで俯いた。
「ごめんなさい。わたしも助けてあげたかったの。でも、アイツありえない。先輩の攻撃も効かなかった。わたし、ただの一般人だし……とてもそんな力は」
――いいえ。
信念に基づいた強い口調で、少女は首を横に振る。
その迫力に、わたしは口を噤んで、おずおずと面を上げた。
――貴女様にしかできません。
眠り蛇は、半ば龍になりかけている。言わば、半呪半神の存在なのです。
手練れの呪術師であれば、傷を負わせることもできましょう。
或いは再び地の底へ縛ることも叶いましょう。
けれど、それまで。
これは龍の封印です。
呪術では解けないのです。
解けるのは、浄化の力を持つ巫女のみ。
貴女様にしか、できないのです。
「ちょっ、ちょっと待って!」
意味がわからない。
この子、なにを言ってるの?
ミコって巫女だよね?
わたし、そんなんじゃないんだけど。
だいたい、先輩ができなかったことが、わたしにできるはずないじゃないか。
ていうか、巫女はあなたじゃないの?
「うちは普通の家よ? わたしは普通の女子高生! 祝詞も知らないし、変な能力なんて、なんにもないんだってば。人違いじゃないの?」
――いいえ。
今一度、少女はキッパリと否定した。
――貴女様は、生まれながらにして呪詛を浄化する力を持っています。
貴女様こそ、現代の身代わり巫女なのです。
「身代わり巫女って……?」
――凡そ百年に一度、俗世に生を受けるといいます。
身を以て、悪しき呪詛を除くことを天命と致します。
かつて眠り蛇に挑み、一度は土中に封じた者もございます。
その者は、力尽きて食われてしまいましたけれど……。
少女の唇が、うっすらと綻ぶ。
愁いを帯びた微笑は、咲き誇る初桜にも舞い散る桜吹雪にも似て、そのあまりの儚さに、思わず息を呑んだ。まっすぐにみつめる眼差しが、胸の奥。遙かな郷愁を呼び起こす。理由もなく懐かしくなって、わたしはギュッと唇を噛む。
……まさか。
ねぇ。ひょっとして、あなたは――。
――お願いします。瑠衣様。
少女が、わたしの手を取った。
――どうか、我々の魂をお救いくださいませ。
現代がどのような時代なのか、わたくしは存じません。
されど、これだけは申し上げます。
生贄の封印を解くのは、貴女様の役割なのでございます。
真っ黒な瞳で真摯に瞬き、少女は頷く。
前触れもなく、その愛らしい唇が色褪せ、輪郭を失った。
微笑む目元が深く窪んで、ぼろり。粘土細工のような眼球が零れ出る。
あとは一瞬だった。皮膚は剥がれ、頬は痩け、黒髪は抜け落ち、肉は削げてドロドロに溶け崩れ、みるみるうちに骨が剥き出しになってゆく。
いつしか、周囲には夥しいガイコツがひしめき合っていた。
みんな泣いていた。
ぽっかり空いた眼窩、なくなってしまった眼から、止め処ない涙を流して。
タスケテ。タスケテ。タスケテ。
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。
何本も足りない歯をカタカタと震わせて、口々に訴え掛けてくる。
先輩が聞いた声って、これなんだ。
この子達、みんな……みんな、眠り蛇の犠牲になった女の子。
気の遠くなるほど長い間、眠り蛇に囚われているんだ。
おそらくは、なんの罪もない無垢な少女達。いくら昔の事情だからって、女の子だもの。オシャレもしたかったろう。恋もしたかったろう。願わくば、素敵な男性と結婚して、お母さんにだってなりたかっただろう。
幸せに生きたかっただろう。
生贄になんて、ならなければ。されなければ。
そんな人生を送れたかもしれないのに。
こんな暗くて寒い場所で……ずっと…………。
こんな――
『――斯様な傍におったとは』
すぐ耳元で、おぞましい声が、意識を舐め上げた。




