正念場
33.
ふぅ、と物憂げに眉を寄せれば、長い黒髪が、さらりと香る。
惚けたわたしの視線は、真っ先に、その濃厚な芳香を放つ指先へと吸い寄せられた。即ち、手にしている煙管へ。
普段愛用しているものとは違う。やたらに長い。三十センチはありそうだった。派手な朱塗りの羅宇も金色の雁首も、紫音さんの趣味ではない。いわゆる花魁煙管である。匂いの発生源は、どうやらこの煙管らしい。
これはこれで絵になる……。
うっかり見惚れてしまいそうになって、はたと気が付いた。
紫音さん……傷は?
火傷はどうしたの!?
ない。ない。何処をどう見ても、傷がない。綺麗さっぱり消えている。焼け爛れて破廉恥なことになった僧衣は元のままなのに、そこから覗く手足も、顔も、しどけなく零れる肩も。煙管を燻らせる繊細な指さえ。滑らかで真っ白。
まさにシミ一つない。完璧な美肌ではないか。
「……親父の形見なのだよ」
おやじ。らしくない言葉遣いで、紫音さんは煙を吐いた。
「蓬莱丹の素材が入っている。無論、効果も同じなのだよ。此方の方が、気化して広がる分、より強力であると言えるね。味もね、不味くはないのだよ」
言われてみれば、わたしの全身を支配していた倦怠感も癒えていた。
それどころか、頭は冴え、眠気も吹っ飛び、筋肉痛も、空腹や渇きすら感じないのだ。体力と気力はすこぶる充実し、体調はすこぶる良好、十時間熟睡して目覚めた日本晴れの朝みたいだ。
紫音さんってば。まだ奥の手を残していたのか。
だけど、ハラハラさせるなぁ。こんなエリクサーがあるなら、もっと早くに使ってくれれば良かったのに。ていうか、わたしが食った臭い丸薬はなんだったんだ。全然匂い違うやんけ。
当然の疑問と、ささやかな不服を口にしようとしたそのとき、紫音さんの唇が、忌々しげに歪んだ。
「まったく、こんなものを遺してゆくくらいなら、高額の生命保険にでも入っておいてほしかったのだよ。眠り蛇の件とて、石田に赴いた経緯があるのなら、その際に退治しておいてくれれば良かろう。そうすれば私達が今苦労することはなかったのだよ。息子に丸投げとは、不届千万。だいたい、あの男はいつもそうなのだよ。ロクなことを思い付かぬ。不遜で、我が侭で、食い意地が張っていて……」
な、なんかすっごいイライラしてる!
ちょっと紫音さん。お父さんとなにがあった?
あと言っちゃなんだけど、それって貴方とそっくり……。
「あぁ、もう、腹が立ってきたのだよ」
チッ、と舌打ち。長い黒髪を掻き上げて、紫音さんは煙管を咥える。一息に吐き出された煙は、彼の胸中を代弁するかのように勢い良く拡散し、辺りの腐臭を浄化して、景色を薄紫色に染め上げていった。
煙の行方を追って、視線を巡らせる。黒が埋め尽くす校庭の中央、いっそう黒い塊が、山盛りになって蠢いていた。
待って待って! あれって華音さん達じゃないの!?
《 動 く な 》
出し抜けに発せられた低音に、わたしの肩が跳ねた。
だが違う。
止まったのは、わたしではない。
華音さん達に群がっていた蛇どもが、総じて動きを止めたのだ。本当に、比喩ではなく一匹残らず。或いは口を開けたまま、或いは鎌首を擡げたまま、何千匹という蛇が、停止ボタンを押したみたいに、その場でピシリと固まった。
《 散 れ 》
次の一言で、黒い山が崩壊した。ゾロゾロと這い出してくる蛇どもは、さながら黒い津波だ。潮が引く、とは言うけれど。これは壮観。押し寄せたときと同じ速度で逆流する黒津波に、わたしは今更ながら鳥肌を立てた。
ぽっかり現れた空間に、ボサボサの金髪が見える。華音さんだ。なにが起こったのかわからない様子で、呆然と此方を眺めている。
隣から伸びた手が、その白衣を掴んだ。
先輩だった。華音さんに縋りつつ身体を起こし、彼を見上げながら二言三言、口を動かす。流音君も目を醒ました。いつもより高い視点が不思議なのか、担がれた格好で、しきりにキョロキョロしている。
突然の出来事に、状況が呑み込めないでいるんだろう。三人は、困惑の表情で、不安げに視線を交わした。
「狼狽えるな小僧ども!」
ここで紫音さんの一喝。弟達は、そろって仲良く飛び上がった。
三つの視線が、おずおずと長兄に集まる。
それが見えているかのように、紫音さんは、煙管で弟達を指した。眉間と鼻頭に深く刻まれた皺、威圧的に上向けた顎、小刻みに痙攣する指先と、こめかみ。発散される怒りの呪力が、わたしの皮膚までをピリピリと炙る。
「な・に・を・モタモタしているのだね。相手は一体、お前達は三人。役割を分担すれば容易かろう。私は疲れているのだよ。寝ている間に片付けておきたまえよ。少しは兄を労う気持ちはないのかね。まったくお前達は、いつまで経っても子供のまま。図体ばかり大きくなって。その頭は飾りかね、空っぽなのかね。んん?」
ドスの利いた声で、紫音さんが刺々しく捲し立てる。何故かは知らないが、あの煙管。よほど気にくわない代物らしい。可哀想に、弟達は戦々恐々である。三人で身を寄せ合って縮み上がり、今にも土下座せんばかりの怯えようだ。
なんか眠り蛇よりビビってないか?
「お前達は阿呆かね? お前達を育てた私が阿呆なのかね?」
「「「ハイ! ワタシタチが阿呆デッス」」」
どう見ても脅迫です本当にありがとうございました。
が、見事にハモった弟達の返事を聞いて、ひとまず溜飲が降りたのか。紫音さんは溜息を吐き、やや落ち着いた口調で、諭すように言った。
「……あと少しではないのかね。もう一押しだ」
華音さんと先輩と流音君が、はたと顔を見合わせる。
やっぱり、それが見えているかのように――
紫音さんは、不敵に唇の端を持ち上げるのだった。
「さぁ、そろそろ畳むよ」
土は腐り、木々は枯れ、雲は逆巻き、風は障気を含んで暴れ回る。
依然、事態は崖っぷちだ。正念場に変わりはない。紫音さんの復活は暁光だが、それは此方側のプラスであって、相手が弱体化したわけではないのだ。このままでは数分と経たず、辺り一帯の生命が死に絶えるだろう。
紫音さんの奥の手も、たぶんこれで最後。あの煙管が正真正銘、最後の一手だ。あんなに不機嫌になるほど使用を躊躇っていたんだもの。これ以上があるとは思えない。みんなわかってる。肝に銘じてる。
それでも――ううん、だから、だ。
長男、次男、三男、末弟。四人の兄弟は、凜々しい顔で頷いた。
覚悟と矜恃と希望と。それぞれが、固い決意を胸に秘めて。
『おのれおのれおのれ! またしても! またしても貴様か!』
ぶんぶんと、眠り蛇が連獅子の如く頭を振った。
長い髪が振り乱れ、怒声のために振動する空気は、相も変わらず生臭い。金色の両眼を零れそうなほどに剥き、顔中に皺を寄せ、裂けた口を百八十度に開いて、奴は全身で戦慄いた。
怒ってる。べらぼうに怒ってる。
『人間の分際で! 性懲りもなく! 如何ほど儂を愚弄するかぁ!』
絶叫に近い咆哮を上げて、眠り蛇は、紫音さんを睨み付ける。
答えたのは、先輩だった。
「てめぇがくたばるまでだよ、バーカ」
ちゃっかり悪態を吐いて、すらり木刀を構える。
既に臨戦態勢、すっかり復調したらしい。煙管の効果か。
「勝つまでやれば勝率百パー。世音兄ちゃんの持論だよねぇ」
後方に控えた流音君が、追従しながら呪文を唱えた。
強化の術だろう。淡い光が、四人の身体を包み込む。
「ほらね、お生憎様。しぶといのさ、俺達四兄弟は」
捨て台詞を残して、華音さんが踵を返した。
わたしのことを心配してくれているんだ。それはわかる。とっても嬉しい。でも言うだけ言って大急ぎで此方へ駆け戻ってくる姿は、格好良いんだか悪いんだか、どうなんだろう。
『逃すか貴様ァ!』
激昂した眠り蛇が、何故か華音さんの背に襲い掛かった。
おい、ターゲッティング間違えてるぞ。離脱する盾に突っ込んでどうする。
これは思った以上のブチギレっぷりだ。先程までの狡猾さは何処へやら、頭に血が上りすぎて、完全に判断力がトンでしまっている。チャンスだ。
すかさず飛び出した先輩が、下から上へ。通過する横っ腹を斬り上げた。
じゅうぅっ。蒸発音がして、真っ黒な液体と蒸気が派手に飛沫く。呪詛で強化してあるとはいえ、刃を持たない木刀が、硬い鱗を切り裂いてみせた。
す、凄い。先輩の攻撃力、めっちゃアップしてる!
返り血と呪詛を浴びて、先輩を包む光が、僅かに暗く点滅した。今更だが、奴の体液には毒があるようだ。紫音さんも火傷してたし、本来なら近接攻撃は悪手なんだろうな。気兼ねなく攻めることができるのは、バフのおかげである。
流音君がいなかったら、危なかった。
「世音兄ちゃん、緑、緑!」
「わかってら!」
着地した脚が、再び地を蹴る。高くは跳ばない。もう探す必要はないのだ。何処を狙い、なにをすべきか。此処にいる全員が理解していた。
蛍光グリーンの腹板を目掛けて、先輩が木刀を突き出す。
払い除けようと、眠り蛇が丸太のような腕を振るう。
駄目だ、あれはマズい。怒りに任せた粗雑な軌道だが、その分、重量とスピードがこれでもかと乗っている。先輩の体重は六十キロちょっと。接触したら、軽々と跳ね飛ばされてしまう。せっかく全快したところだっていうのに。
じゅぅうっ。
腕と木刀が衝突した。
あぁ、先輩が吹っ飛ばされ…………
「っぐ!」
……ない!
なんてことだ。
低く腰を落とし、鍔迫の形で、奴の攻撃を押し止めている!
いったいどれほどの体重差があるのか。見当も付かないくらい巨大な相手を目の前にして、先輩は、一歩も退かない。踵で砂煙を上げながらも、正中線はまっすぐに保たれて、危うげな挙動は少しもなかった。冷静だ。
『おのれおのれおのれぇええぇ』
「う……くっそ…………!」
お互い、全力を振り絞っているんだろう。眠り蛇の呪力と、先輩の呪力。二つの黒いオーラが、ギリギリと鬩ぎ合う。両者を中心に、空気が歪む。渦巻く圧力が、静かな嵐となって荒れ狂う。
喩えが間抜けで申し訳ないが、あれだ。両手を合わせて力を込めるエクササイズを思い出した。上腕とバストアップに効くやつ。たまにやってる。
「ぐ…………」
先輩は、まだ耐える。
これいけるんじゃないか。押し切れるんじゃないか。
頑張れ!
わたしは拳を握った。
『…………』
不意に、眠り蛇の口が、にんまりと三日月の形に笑った。
嫌な予感が、掌に汗を滲ませる。果たして、三日月がパックリ割れた。そこから二股に分かれた舌が伸びて、チロチロ涎を垂らしながら先輩に迫ってゆく。腕に気を取られている先輩は、気付かない。いや。
気付いたところで、二方向からの攻撃に対処できるだろうか?
やっぱりマズい。このままじゃ、数秒後には、頭から齧り付かれる!
「世音兄ちゃん!」
わたしが叫ぶのよりも早く、先輩を呼んだのは流音君。
同時に放たれた呪符が、眠り蛇の咥内目掛けて、一直線に飛び込んだ。
『んがッ』
何処に隠し持っていたのか、出るわ出るわ。次から次へと大盤振る舞い。流音君が何十枚もの呪符をバラ撒けば、そのすべてが、眼と言わず鼻と言わず顔中に貼り付く。これでは堪ったものではない。あっという間に巨大ミイラが完成する。
呆れるほどの呪符を口に詰め込まれて、眠り蛇は、金色の眼を白黒させた。
その隙に、先輩が後方に退避した。
いったん距離を取った方が懸命と判断したのだろう。
「ボケッとしないの! すぐ復活するよ!」
「してねーよわーってるよ!」
「一カ所しか見ないの、世音兄ちゃんの悪い癖だかんね?」
「うるせー心の眼で見てんだよ! ガキは黙ってろ!」
「なにそれ、バカじゃないの! 肉眼で見なきゃ意味ないし!」
「バカって言う方がバカだ、バカ!」
憎まれ口の応酬を繰り返しつつ、先輩と流音君は、追撃の態勢に入る。
惜しかったな。もうちょっとだったのに。
「兄さん、瑠衣ちゃん! 大丈夫?」
ちょうどその頃、華音さんが息を切らせて戻ってきた。
「あ、はい。華音さんは……」
「平気さ。死ぬかと思ったけどね」
「お前でなければ死んでいた。あまり軽はずみに命を懸けるものではないよ」
「……ごもっとも」
苦笑して、華音さんは肩を竦める。髪も白衣もボロボロだったが、煙管の効果で傷はすべて癒えていた。良かった、元気そうだ。わたしは胸を撫で下ろす。
「これを。預かっていてくれたまえ」
華音さんに煙管を手渡し、紫音さんが一歩を踏み出した。
先輩達に加勢する気か。
確かに、ここで彼の参戦は非常に有り難い。でも……
わたしと華音さんは、ヒビ割れて段差だらけになった校庭を見回した。
「……出るの? 足場が悪いよ。俺が支えようか?」
「いや。それには及ばない」
軽く首を振り、紫音さんは、地面に向かって囁いた。
《 来 い 》
ずるり。
応えるように足元が揺らいだかと思うと、なにか黒くて細長い物体が、亀裂から頭を覗かせた。わたしは、驚いて後退る。だってそれ、蛇だ。ついさっきまで華音さん達に群がって、生命を吸い取ろうとしていた敵。アイツの手下じゃないか。
ずるずるずる、ずるり。あれよあれよと、十数匹が這い出してくる。
慌てるわたし達を余所に、紫音さんは涼しい顔。微笑さえ浮かべている。
その理由は、すぐに知れた。
《 我が足場となれ 》
次の命令で、蛇どもは紫音さんの真下に潜り込み、黒い足袋となって、その長身を数センチ持ち上げた。
なんとなく嫌な予感がするんですがそれは。
《 行 け 》
やっぱり発進した!
前髪を持ち上げる風に見遣れば、その姿は、既に遠い。しかも、動いているのは彼の脚ではなく、足元の黒い塊。足場となった黒蛇どもが、ジェットエンジン付きのサーフボードよろしく、猛スピードで紫音さんを運んでゆく。
進行方向、ようやく呪符を破り捨てて呼吸を確保した眠り蛇が、ヒステリックに髪を掻き毟っていた。
先輩と流音君を牽制しつつも、残った呪符を引き剥がそうと、激しく身体をくねらせている。あと少し紫音さんの参戦が遅ければ、頭皮ごと打ち捨てていたに違いない。それぐらい、逆上していた。
背後に迫る脅威には、まるで無頓着だったのだ。
紫音さんの黒髪が、ふわり夜空に弧を描く。
「手間取っているようだね。私が取ってあげよう」
相変わらず、重力ガン無視。非常識かつ幻想的な絵面で、長身が高く舞った。
反射的に上を向いた眠り蛇の顔面に、渾身の踵落としが炸裂する。
じゅうっ、ドン。ヒットの瞬間に上がった音は、離れた場所にいるわたしにも、確かな手応えを伝えた。
『ぎゃぁあああっ!』
剥がれた呪符と、ドス黒い血液と、悲鳴と、肉片めいたなにか。一度にいろいろな惨劇を撒き散らして、眠り蛇は身悶える。角度的に腹板を狙うことは叶わなかったが、充分だ。あれは額が割れたぞ。
「世音!」
「おう!」
長男の作ったチャンスを、三男は逃さない。
今、奴の腹部はガラ空きだ。確実に入る。
行け行け行け行け!
今度こそ!
「うぉおおおっ!」
気合いの雄叫びが、夜の校舎に響き渡る。
とうとう綺麗な胴一本が、眠り蛇の腹板に――封印の蓋に、決まった。