満を持して
32.
力が抜けてゆく。
そのくせ全身総毛立ち、目が回る。グルグル回る。ボールに詰まって転がされているみたい。酷い不快感と嘔気が胃を絞る。鼻を突く腐臭は痛いほどに器官を圧迫し、神経をチリチリと焦がして、脳味噌を掻き回す。
「瑠衣ちゃん、しっかり!」
肩が揺すられる。返事ができない。舌が痺れて動かない。
あぁそうか。
傾いているのは、世界じゃなくて。
「呪詛の濃度が限界を超えたんだ……くそっ、こんなときに!」
頬を叩く感触も、華音さんの声も、どこか他人事めいて遠い。
呪詛が限界を超えた?
ずっと眠り蛇が発し続けていた呪詛が?
ははぁ、なるほど。飽和したってことか。満員電車になったんだ。行き場をなくした呪詛は、ギュウギュウ押しくらまんじゅう状態。いくら結界や護符に守られていても、それだって鉄壁じゃない。浸透圧ってやつだな。
高濃度の呪詛が、わたし達の身体に染み込んできてるんだ。
……うん、わかった。
わかったから、眠い。
眠くて眠くて堪らない。
「起きて! 死んじゃうよ、瑠衣ちゃん!」
ごめんなさい、疲れた。これ以上、意識を保つのは辛い。ていうか、生きてるの億劫になってきたんだけど。そんなときは眠るに限る。楽しい夢でも見て、忘れるのがいい。たとえ醒めない夢だとしても、この眠気よりはマシだろう。
夢?
こっちが夢?
そっか。きっとそうだ。だよね。こんな薄情な現実が、あるはずがない。
長い悪夢だったなぁ。
ぼやける視界、焦って困って泣き出しそうな華音さんの顔が、近付いてくる。
近い近い。どうしたの。近いですよ。見えてますって。
口紅の落ちた唇まで、もう、すぐ、目の前――。
ちゅっ。
微かな音を立てて、華音さんの唇が、わたしの唇を吸った。
ほら、やっぱり。
こんなの夢…………。
…………!
「か、華音さんっ!?」
自分の喉から、素っ頓狂な声が飛び出した。
拍子に、瞼が跳ね起きる。唇で弾けた爆弾は、一瞬で凍えた身体に火を灯し、胸を焼いて、神経をビリビリと焦がし、スリープモードの脳味噌を直撃。停止していた思考回路を別の意味でショートさせ、耳まで真っ赤に染め上げた。
い、いいいいいまの!
ももももしかして!
「……ごめんよ、他に思い付かなくて」
みつめるブルーの視線が、気まずげな軌跡に泳ぐ。けれど何故だろう。すっかりメイクの剥げた素顔は思春期の少年よろしく仄かに紅潮し、控えめに綻んだ唇は、うっすらと。ある種の充足感を湛えているように見えた。
「わ、わたし……華音さん……あ、ああああののあのの今、今なにし」
「それ着てて。呪詛を和らげる効果がある」
わたしの言葉を遮って、華音さんが立ち上がる。
言われてみれば、なんだか両肩が温かい。いつの間にか、わたしは華音さんの衣を羽織っていた。代わりに、華音さんが軽量化している。群青色の袈裟を片手に、白衣一丁。見るからに寒そうだ。
「この結界も君の護符も、もうもたない。俺が奴の注意を引き付けるから。その間に逃げて。どっかの寺か神社に匿ってくれるよう頼むんだ。いいね?」
早口で告げて、華音さんは、ふと微笑む。
ぽん。不意打ちで頭に置かれた掌が、返事も待たずに離れていった。
矢継ぎ早に起こった事態に思考が追い付かず、わたしはキョトンと首を傾げる。 が、それも束の間。背を向けた金髪を揺らす不吉な風に彼の意図を知り、いったんは昇ったはずの血が、即座に頭から引いた。
だって、白衣だ。いつもの華音さんとは正反対。飾り気もなにもない、ただ白いだけの衣装。仇志乃家の慣習により、襟は左前で着付けられている。多くの世俗人にとって、こんな晴衣裳を纏う機会なんて、一度きり。
生涯……ううん、それが終わってから着せられる。
旅装束じゃないか。
「待って! 華音さん! 駄目!」
遠ざかる後ろ姿で、華音さんが親指を立てた。
それが……答えなの?
どうして。どうして、こんなときに限って強引なのよ?
わたしは奥歯を噛んだ。追いかけなきゃ。わかってる。でも。華音さんは、逃げろと言ったのだ。そのために、衣を着せてくれた。わたしを逃がすために、自分は死装束一枚。玉砕承知の特攻を決めたのだ。
ここで出て行ったら、彼の覚悟が無駄になる。
けど、だからって、みんなを見捨てるなんて、ありえないでしょ?。
いや。いや。でも――!
追うか、逃げるか。完全に拮抗した二つの選択肢は、結果として、わたしの足を場に縫い付けた。進むことも戻ることもできない。ただ華音さんの衣を握り締めて佇むばかり。こんな卑怯者を包む薔薇の香りは、それでもひたすらに優しい。
ボロボロと溢れる涙は、なんの役にも立たないというのに。
「世音、流音! しっかり!」
荒ぶる呪詛の渦中に飛び込んだ華音さんは、まず先輩を引き寄せ、その背を支えた。それから流音君に袈裟を着せ、肩に担ぎ上げる。三男と四男。二人の弟を固く腕に抱いて、仇志乃の次男は、不倶戴天の敵を見据えた。
ドス黒い憎悪と憤怒が、やにわに長い黒髪を逆立てる。
『貴様……何故に平然と動いておるのか!』
度重なる割り込みに、もう箸が転がっても癇に障るのだろう。華音さんを認めるなり、奴は裏返った怒声を上げた。
「お生憎様。俺は頑丈だけが取り柄なのさ」
『おのれ次から次へと鬱陶しい! こうなれば纏めて捻り潰すまで!』
「やってみなよ?」
侮蔑の角度に顎を上げ、華音さんは、フッと短く笑う。
きっと一世一代。誰にも見せたことのない、挑発用のキメ顔で。
「やれるもんならね、この変態ロリコン処女厨野郎!」
ブチィッ。
太い綱が切れるような音が、鼓膜を突いた。
びきっ。びきびきびき。続いて響き渡ったのは、不穏すぎる断裂音。確認の手間は不要だ。出所は、華音さんの言葉にブチキレた眠り蛇だった。赤も青も通り越して蒼白となった血相は最早、誰が見ても悪鬼以外の何者でもない。
『おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれ』
ぐにゃり、と飴細工のように景色が曲がった。何事かと眼を凝らせば、地面が、土が、ボロボロと腐り始めていた。靴を通して足の裏を舐める感覚に、ぞわり肌が粟立つ。なんて感触だろう。裸足でゴキブリでも踏んだ方が、よっぽどマシだ。
校庭の内周で整列する木々も、立ったまま朽ち果てていった。洞を穿ち、幹は崩れ、枝を折り、さながら歯周病の末期だった。枯れて干涸らびた木片は次々と風に浚われ、あとには抜け殻ばかりが残る。
生きとし生けるすべてのもの。草も木も土も、空気でさえも。膨張した眠り蛇の呪詛に蝕まれているのが、わかる。人は言うに及ばず。華音さんの衣を羽織っていても、その禍々しい死神の爪は皮膚を貫き、この命を削り取らんと垂涎するのだ。
意識は再び黒い霧に覆われ、わたしは猛烈な眠気に襲われた。
『おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれ……』
殺意の響きが、重篤な憂鬱と倦怠感を伴って、自律神経を這い回る。
何処から聞こえているのか、もう方向感覚も定かでない。
右か、左か、上か下か。或いは地獄か。地の底か。
ぐらぐら揺れて回る地面、校庭中に広がった亀裂から、黒い蒸気が噴き出した。不鮮明な気体は、細かく分かれて細長く引き伸ばされ、質量を伴って、それぞれが確固たる輪郭を得てゆく。見覚えのある、おぞましい形状に。
気付けば、地面を埋め尽くす数の黒蛇が、舌なめずりで鎌首を擡げていた。
どの蛇にも眼がなかった。それなのに、餌の在処は的確に把握しているらしい。幾百幾千もの頭が一斉に、同じ方向を向いた。奇しくも、それは蛇達の中心。輪の真ん中に位置する白装束である。
「うっ……」
蛇達が、雪崩を打って華音さんに群がる。
正確には、華音さんを含めた兄弟三人へ、だ。眠り蛇の意思なのか、単に奴等が飢えているのか、その勢いやるや止まるところを知らない。砂糖に集る蟻の如く、真っ黒な激流となって、白い姿を呑み込んでゆく。
「このっ、くそっ!」
蹴飛ばし、薙ぎ払い、激しく暴れて、華音さんは抵抗した。控えめに言って最善の対処だったと思う。だが数が数だ。払っても払ってもキリがない。足元から膝、太腿、腰、腹。押し寄せる蛇に絡まれ、じき身動きが取れなくなった。
蛇どもが、華音さんに牙を突き立てる。彼の呪詛耐性が勝っているため、これで生命を吸われることはないだろうが、これだけの蛇に噛まれたら、誰だって普通に痛い。声にならない悲鳴を上げて、華音さんは頭を振った。
それでも、弟達だけは、決して放さない。
自分の身体を盾にして、二人に群がる蛇を懸命に払い続ける。
……あぁ、駄目だ。
もう駄目だ。
わたし達、此処で死ぬんだ。
涙に歪む黒い視界、蛍光グリーンの灯りが、チカチカと瞬く。希望の光は彼処にあって、わたし達を待っているのだ。けれどもう。わたしには為す術もない。身体は言うことを聞かず、意識は永遠の安息を求めて闇の底へ沈んでゆく。
終わりなんて呆気ないんだな。
死んだら、どうなるんだろう。
先輩に聞いたんだけど、仏教的な指標に照合すれば、ほとんどの人間は餓鬼道。良くて畜生道行きらしい。自分を善人だと思っている人は多いが、それはあくまで人間の作ったルールに由来するもので、生命全体の理とは別の話だ。
生涯ただ一度の殺生もせず、誰一人騙さず、何一つ壊さなかった人間が、何処にいるというのか。当然、わたしも凡夫。虫も殺したし、嘘も吐いた。知らず誰かを傷付けたこともあっただろう。定めし餓鬼道が妥当なところか。
いやでも、先輩の手伝いで結構、呪詛も祓ったし。
ここはひとつ、畜生道でお願いできませんかね。
生まれ変わるなら猫がいい、猫。猫好きに飼われる猫。瞳はグリーンで白っぽい長毛種希望。飼い主がイケメンだったら最高。毎晩一緒に寝てやるぞ。ご飯は文句言わない、なんでも食べます。あぁでも煮干しは苦手かなぁ。
……なんて、来世に思いを馳せていたそのとき。
不意に、良い匂いが漂ってきた。
甘く切なく清々しくて、それでいて官能的な、なんとも言えない極上の香り。花のようでもあり、果実のようでもあり、蜜のようでもあった。絵本の挿絵、お姫様が眠る木漏れ日の下では、きっとこんな匂いがするんだろうな。
優しく燻るそれは、充満する腐臭をも掻き消し、疲れ果てた意識をふわり、労うように揺さぶった。あらゆる苦痛から解放されてゆくみたい。心地良さに、思わずうっとり寝返りを打つ。
これは極楽の匂いだろうか。
え、まさかのお浄土ルート? えらい太っ腹だな、阿弥陀さん。
いやいや、お気遣いなく。勿体ない。わたしごときは畜生で充分ですって。
「……やれやれ」
低い呟きと共に、心底ウンザリといった溜息が聞こえた。
「これを使う羽目になるとはね」
阿弥陀如来の声って、紫音さんにそっくりなんだなぁ。
夢うつつで、クスリと笑った。なんだか不機嫌でいらっしゃる。まぁ、あらゆる生命の往生を願って幾星霜。土日なしでご多忙なのだ。そりゃストレスも溜まるわな。それにしても、紫音さんに似てるなぁ。そういえば、この匂いも……、
…………!
霧散した意識が一転、芳香に導かれて、焦点を結んだ。
見開いた眼に映るのは、極楽とは程遠い。腐って泥濘んだ地面と、仄暗い闇。
けれど、其処に佇む美丈夫の姿は、今のわたし達にとって、それこそ阿弥陀如来にも匹敵する有り難さ。絶望の沼に降臨する、紛う事なき救世主ではないか。
「紫音……さん」




