世渡り上手は罰当たり 3
3.
あまりに悲惨で、目も当てられない。
小柄ではあるけれど、それなりに筋肉の付き始めた、中二男子の背中。この歳で既に世渡り上手、全方向に愛嬌を振りまく背中。後ろ姿でもアピールを怠らない、ちゃっかりした背中。人の気を惹こうと、いつだってピンと伸ばした、背中。
こんなに小さかったかしら。
力なく項垂れて、意気消沈。グシャグシャに乱れた髪を整えようともせず、輝きをなくした眼は、潤んで畳を凝視するのみだ。完膚なきまでに叩きのめされて、もう愚痴を吐き出す気力すら、ないらしい。
誰がどう見ても、敗者以外の何者でもない。
悔しかったんだろうな。
世音先輩に、赤井君や足立君に、負けたこと。
ううん。それ以上に、紫音さんの言葉が堪えたに違いない。
紫音さんの気持ちは、なんとなく、わかる。彼だって、流音君のことが心配で、仕方がないのだ。だからこそ、いちばん痛いところを狙って、お灸を据えた。決して嫌味でも意地悪でもない。本心からの説諭、長男の愛に他ならない。
とはいえ……なぁ。
あぁ。これ以上、見ちゃおられん!
意を決して、わたしは、リビングに走った。
鞄の中からオレンジの包みを引っ掴み、居間へ取って返す。
たぶん、余計なお世話だ。人様の家庭問題に首を突っ込むようで、図々しいことは承知している。あとで、紫音さんや先輩に苦情を頂くかもしれない。自己満足の出しゃばり女だ。わかってはいる。
だけど、こんな流音君、放っておけないもの。
いいやもう知らない。
怒られたら、謝ればいいや。
「流音君。はい、これ」
わたしは、流音君の正面に膝を付いて、両手で包みを差し出した。
「…………?」
ちらり。流音君は、脱力感に満ちた視線で、わたしを一瞥する。
この状況じゃ、そうだよね。
わたしだって、忘れるとこだったし。
「これね、ハッピーバレンタイン! わたしから流音君へ」
えっ、と小さく呟いて、流音君が面を上げた。
「チョコレート……?」
「うん。ちょっと変な形になっちゃったけど。ごめんね」
「瑠衣ねえちゃんが……作ったの?」
「まぁね」
「僕に?」
「うん」
「僕のために?」
「そう」
「……ウソ。どうせ、兄ちゃん達のが余ったんでしょ……?」
「違うんだなーそれが。四人とも別の味。流音君はね、フルーツ好きだから、一口サイズに切って入れてみたの。紫音さんのは極甘で、華音さんのはビターチョコ」
「ほんとに……僕だけの……ために?」
「もちろん!」
とびっきりの笑顔で、わたしは、大きく頷いてみせた。
呆気に取られた様子で固まっていた流音君だが、すん、と洟を啜った拍子に、涙がホロリ。瞬きを忘れた眼から、零れ落ちた。
それが頬を伝い、顎を滴り、固く握り締めた拳へと落ちたとき、唇が戦慄いて、とうとう嗚咽が堰を切る。そうして困惑、驚愕、衝撃と、実に複雑な過程を経て、その童顔が、くしゃっと歪んだ。
あ、泣いちゃうかな?
思った次の瞬間。
「瑠衣ねえちゃん……!」
流音君は、叫んで、わたしの胸に飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと流音君!?」
驚いて身を引くも、畳に膝立ちの体勢。ぺたんと尻を着いた格好で、わたしは、流音君を抱き止めていた。ちょうど、先程の紫音さんと同じ要領で。
でも、違う。
今度の流音君は、喚いたりしない。逆だ。なにも言わず、幼児が母親の膝でするように、わたしの胸に埋めた頭を左右に振り、押し殺した嗚咽を挙げている。制服の襟を濡らす感触は、偽りのない熱。止め処なく溢れる、涙だった。
「ねえ、流音君……?」
「…………」
「流音君?」
「…………」
「……大丈夫?」
ビックリした。
いつだって明るい、お調子者。自分を魅力的に見せるため、ときに聡明を、ときに愚鈍を装う。チャラチャラして、小生意気で、人を出し抜くのが得意で。利益にならない競走には、てんで興味がない。そんな流音君が。
そんな流音君が、泣いてるんだもの。
なにひとつ繕うこともなく、こんなに素直に。
たった一箱の、チョコレートなんかで。
「……瑠衣、ねえちゃん」
ひっく、と喉を鳴らしながら、流音君の額が、胸から離れた。
あ、駄目。これ嫌な予感がする。まずいぞ。
いかん!
「あり、がとう……」
ドギュゥウウン。
予感的中。
そこはかとなく萌えキュンな上目遣いが、心臓を撃ち抜いた。
糖度満点の、幼い顔立ち。長い睫は泣き濡れて、それでなくとも潤んだ眼をキラキラと、少女漫画さながらに際立たせている。困ったように寄せられた眉。への字に結ばれた唇。いずれも、母性本能を覚醒させるには、充分な威力である。
くっそ、辛抱たまらん!
沸き上がる庇護欲に、矢も楯もたまらず、わたしは流音君の和毛を撫で回した。存分に撫で回した。そりゃもう、剥げそうなくらい撫で回した。
やばい可愛い。マジで可愛い。なんなの、この子。ヤバイんだけど。
本当に、なんてタチの悪い子なんだろう。
いつも、計算尽くの笑顔ばかり振り撒いてるくせに。
無防備な涙の方が、よっぽど愛くるしいなんて。
余計、始末に負えないじゃないか。
なんだか照れ臭くて、わたしは、徒に視線を遊ばせる。
と、流音君の脱ぎ捨てた学ランに、目が留まった。
正しくは、その内ポケットにだ。ソファに放り出された学ランの、捲れた内側、几帳面に折り畳まれた紙片が、角を覗かせている。
「あれ? 手紙?」
誰に言うともなく、わたしは呟いた。
それが聞こえたらしい。華音さんがわたしの視線を追って、ソファに歩み寄る。
学ランの内ポケットからスッと引き出したのは、やっぱり手紙だった。
「…………」
ザッと目を通して、華音さんは、何故か驚いたように眉を上げた。
「流音、ちょっと」
「え?」
「おいで。これ」
流音君は、訝しみつつ億劫な仕草で立ち上がり、華音さんに歩み寄る。
気になって、わたしも彼に追従した。
ほら、と広げられた手紙を、左右から覗き込む。
そこには、なんとも少女らしい、可憐な丸文字で、こう書かれていた。
仇志乃流音君へ。
初めまして。ずっと、流音君が好きでした。
プレゼントを用意したのですが、勇気がなくて渡せなかったんです。
でも、どうしても、諦められない。この気持ちを伝えたい。
良かったら、明日の午後三時、体育館の裏に来てください。
待ってます。
「…………」
キョトンとして瞬きを繰り返す、流音君。
そして、わたし。
「――だってさ。どうする? 本命じゃないけど?」
揶揄っぽく言ってみせる華音さんは、けれど、とても優しい眼をしている。
流音君は、ちょっと恥ずかしそうに肩を竦めて、
「行くだけ……行ってみる」
明後日の方を見ながら答えると、鼻の頭をポリポリ掻いた。
「……はぁ~あ」
華音さんから受け取った手紙を丁寧に畳み、ズボンのポケットにしまう。
大きく伸びて、深呼吸。
そうして涙の跡を拭えば、あっけらかんとした笑顔は、スッキリ晴れ渡って。
なんということでしょう。ものの数秒で、流音君は、しれっと再起動を果たしたのであった。
さすが末っ子。
切り替えも立ち直りも、早い早い。
「お腹空いた~! 華音兄ちゃん、ピザあっためといて。お風呂入ってくる!」
「オーライ。飲み物はコーラでいいかい?」
「あざっす」
スクールバッグ、コート、学ラン。パタパタと無駄のない動線で荷物を回収し、流音君は、リビングのドアに手を伸ばした。
その手が、はたと止まる。
振り返った視線の先には、チョコレートの入った紙袋があった。
流音君が、雑魚と断言して、床に放置していたものだ。
「……メンドいなぁ」
なんてね。
口調こそ小憎たらしいが、紙袋を抱える手付きは、この上なく柔らかかった。
「こっちはどーしよ。赤井と足立。明日、ロッカーに入れといてやるかなぁ」
あ~メンドい。
わざとらしくボヤきながら、流音君は、足早にリビングを出ていった。
「うちの母親が亡くなったとき、あの子は、まだ三歳だったのだよ」
流音君の足音が消えた頃、紫音さんが、ぽつりと口にした。
「そう、なんですか?」
見ると紫音さんは、華音さんに手を引かれて、ソファへ移動するところだった。
頷いたのは華音さんで、それから身振りで、わたしに座れと促してきた。
「ビールをおくれ、華音」
紫音さんは、ソファに腰を埋めて、深い溜息を吐く。
わたしも、ダイニングチェアに掛けた。
なんだろう。
よくわからないけど、珍しく沈痛な面持ちの紫音さんが、気になった。
「父親は、その一年後に失踪してね。ずいぶんと苦労をしたものだよ」
「え!? そうだったんですか……?」
なにそれ。ひどい。
小さな流音君も含めて、四人の子供を置き去りにして消えるなんて……。
うっかりドン引きしてしまって、わたしは、慌てて表情を取り繕った。
それが無意味な行為だと気付くのは、いつも遅れて寸刻だ。
繕うべきは声だったろう。彼の前では。
不自然な間に、紫音さんは、ちょっと不思議そうだったけれど。
些細なことと判断したらしい。話を続けた。
「その分、長男である私が親代わりを務めるべきだったのだけれど……私は、眼がこんなふうだから。情けないことに、逆に世話を掛ける形になってしまってね」
受け取った缶ビールの栓を空け、中身を一口。
紫音さんは、自嘲気味に唇を歪ませる。
「きっと、愛情に飢えているのだよ。金銭や物質に執着するのも、そのせいだろうと思う。けれど、そんなもので得られる満足など、たかが知れている。それでああやって人の気を惹こうとするのだろうね。また、これがなまじ上手くいってしまうものだから、味を占めてしまった。大人や世間の残酷さを軽く見ている節があるのだよ。己がまだまだ幼いということ、とんと自覚が足りぬと見える」
両手で缶を握って、紫音さんは、小さく頭を振る。
「要領は良いのだけれど、詰めが甘いのだよ」
わたしは、そんな紫音さんの指先をじっと、みつめている。
「いつか、酷い目に遭うのではないかと……心配でね」
紫音さんは、そこで言葉を切って、思い出したようにビールを呷った。
正直、戸惑った。
なんでこんな話を、赤の他人の、わたしにするんだろうと。
でも反面、妙に納得もしていた。
紫音さんは、家長として、長男として、仇志乃家を背負う身だ。
責任は重大だろう。人知れない苦労だってあるだろう。それでも、弟達に弱みを見せるわけには、いかないんだ。少なくとも、成人前の先輩や、流音君には。
わたしは一人っ子だし女だし、他人だから、きちんと事情を理解してるとは言えないけれど。男の世界って、たぶん、そんな感じなんだろう。
たまには無関係な人間に話を聞いてもらいたい。
そんなときだって、あるのだ。
「大丈夫ですよ!」
わたしは明るく言って、胸の前で拳を握った。
「流音君、お利口さんですから。本当に危ないときには、ちゃっかり逃げてきますって。それにほら、こんな優しくて素敵なお兄さん達がいるじゃないですか。なにがあったって、ヘッチャラです! 彼だって、仇志乃家の末っ子なんですよ?」
「…………」
ありがとう。
しばらくして、聞こえてきたのは、長男と次男。
二人分の声だった。
†
二月十五日。
ちょうど翌日が土曜だったこともあり、わたしは結局、仇志乃家に一泊した。
といって、別にアレやコレやムフフな事案が発生したわけではない。全然ない。悲しいくらいない。宛がわれた部屋で、普通に一人寂しく、寝て起きて、掃除やら洗濯やら手伝っただけである。
なんということもなく過ごして、時刻は、午後五時半。
華音さんは自室。わたしはリビングで読書。先輩は、夕飯の支度に取り掛かっている。メニューは、チーズインハンバーグのトマトソース煮込み。流音君の大好物だ。先輩なりの、励まし方なんだろう。
紫音さんは、居間のコタツで、お気に入りの怪談動画を視聴していた。
某怪談の巨匠が、怖いな~怖いな~と早口で喋りまくっている。
『で、そんときアタシね、ヒョイとね、見るとはなくドアを見たらば』
――イイィイ~イイイイ――……。
「ぎゃあッ!?」
開いたんですよドアが! 人気もないのに!
そして其処には、白いワンピースを着た長い黒髪の女が!
「……あれ?」
ということはなく、立っていたのは、ダッフルコート姿の中学生。
ただの流音君だった。
なんだよもう、ビックリさせないでよ!
そういえば、手紙の主に会いにいくとかって、外出してたんだっけ。
「流音君? おか、え、り……?」
「…………」
おや?
なんか変だぞ流音君。
わたしが声を掛けても、返事はなし。それどころか、リビングに入ってくる気配すらなく、何故か無言で直立不動だ。髪は乱れ、顔は青ざめ、見開かれた眼は血走って、そのくせ何処も見ていない。
それよりなにより、纏っているオーラが、尋常じゃなくドス黒い件。
な、なにがあった?
「おいおい、すっぽかされたのか?」
先輩が、エプロンで手を拭きながら、流音君に歩み寄った。
事情は昨日のうちに聞いている。さすがに気の毒だと思ったのか、口元に浮かべているのは嘲笑ではなく、苦笑だ。
「ま、残念だったな。そーいうことも……」
ポン。肩を叩かれた流音君は、気怠げに視線を先輩へ流した。
視線だけを。
「……ふ、うふふ」
「?」
「うふふふふふふふふふふふ」
「お、おい流音?」
「あはははははははは」
続いて響き渡った奇妙な高笑いに、わたしも先輩も絶句した。
だって、流音君、眼が笑ってない。
むしろ完全に据わってる!
「流音、お前どうしたんだよ!?」
「くくく……いた? いたかって? ちゃーんといたよ?」
なんだ、いたんじゃないか。彼女。
なにがそんなに、
「――次郎丸渡っていう、三年のゴリラがね!」
ん?
んん? え、はい? 渡? ワタル? ワタル……
……君?
それってまさか……。
「柔道部の主将! ガチムチだよ! 男子だよ! 男だよ!」
大事なことなので二回言いました。
先輩の視線が、みるみる憐憫の色を帯びる。
「あーあーもう意味わかんない! なんなの!? なんでゴリラ来んの!? ていうか危うくカンチョーされるとこだったんだけど! お近づきの印!? 意味わかんないんだけど! なんでカンチョー!? 童貞の前に処女喪失するとこだったよ!」
ちょ、ちょっと流音君……。
「ていうか愛情表現がカンチョーとかどうなってんの!? 受け取れるかボケェ! ていうか、なんなの? バレンタインの神は、僕になんか恨みでもあるの? バカなの死ぬの? そんなに僕に呪われたいの? 仏教徒ナメてんの!?」
流音君、落ち着いて!
「そうかわかった呪ってやる。呪ってやるよチクショオオウ!」
「流音君!」
「呪ってやる呪ってやる! 神を! すべてを呪ってやるぅうううう!」
発狂モード全開。髪を掻き毟り、地団駄を踏み、有らん限りの暴言を捲し立て、流音君は絶叫した。なにがあったのかは、推して知るべし。詳細を問い質すなんて惨い真似は、わたしには、とてもできない。というか知りたくもない。
ひとしきり心の内を吐き出したのか、流音君の肩が、突然ガクッと落ちた。
膝に両手を突き、前傾姿勢で、ぜえぜえと息を吐く。
力尽きたか。思って、ぶっちゃけホッとした、そのときだ。
すいと、流音君の顔が持ち上がった。
「――――!!」
一見して、無表情の中学生である。
だが、おわかり頂けただろうか。
すべての感情を失ったかの如く、生気の失せた眼。貼り付いた眉。人の言葉などいっそ不要とばかりに結ばれ、そのくせ嗜虐の予感に微笑む唇。其処にいたのは、小さな五体に途方もない憎悪を秘めた、立派な少年呪術師なのであった。
「五寸釘……何処しまったっけ……」
呟いて、流音君は、スタスタと本堂の方へ歩いていった。
「…………」
「…………」
哀しみを背負った後ろ姿を見送り、わたしと先輩は、顔を見合わせる。
「ふふ、ふふふふ」
出し抜けに、紫音さんが笑いだした。
「兄貴……ひょっとして、あれ、なんかした?」
「なに、私は眠っているあの子の耳元で囁いただけだよ」
先輩の問い掛けに、紫音さんは、満面の笑みで答えた。
「今年のバレンタインは、少々痛い目に遭う。とね」
先輩は眉間を絞り、低く呻いて、天井を仰ぐ。
「おや。お前が言っていたのではないかね、世音。傲慢にはバチが当たると」
してやったりのドヤ顔で、紫音さんは、尚も可笑しげに笑い続ける。
わたしは確信した。
……当てたのは、紫音さんですね。
紫音さんは、言霊という方法での呪詛を得意としている。
詳しくは長くなるので割愛するが、術者が発した言葉が強制力を持ち、対象は、その意思に関係なく、術者の言葉通りの状態に陥るのである。要するに、ハゲろと言ったら相手はハゲる。転べと言ったら相手は転ぶ。死ねと言ったら死ぬ。
この人ってば。
そんな身の毛もよだつ怖ろしい術を、よりにもよって実弟に……。
きっと、わたしと先輩は、同じことを考えていただろう。
この長男がいちばん、洒落にならない。
「命に関わるものではない、微弱な言霊とはいえ、身内の呪詛に気付かぬとはね。まったくあの子は……ふふふ。詰めが甘いのだから。ふふ、ふふふふ」
それこそ、チョコレートのようにね。
クツクツと喉を鳴らす紫音さんの背後。
プギャーとほくそ笑む仏様が、見えたような、気がした。
世渡り上手は罰当たり/了