海千山千
31.
『山で千年。海で千年。百人ずつ乙女の魂を喰らえとのことであった』
何処か遠くを眺めて、眠り蛇は金色の眼を瞬いた。
海千山千。聞いたことはある。山で千年、海で千年過ごした蛇は、天に昇って龍となる。そういう言い伝えが、あるにはあるのだ。
だけど、生贄付きなんて条件は初耳だ。なにその凶悪バージョン。
何処の魔界の伝承よ。
「蠱毒……」
華音さんの呟きに、わたしはハッとした。
そうだ。
これってまるで――。
「儀式……祈祷師……生贄……そうか……読めてきたぞ」
口元で拳を握り、華音さんは、眉間を絞る。
蠱毒とは、規定数の毒虫を密室に閉じ込めて共食いを強要し、最後に残った一匹で行う呪術の一種。磨り潰して体液で呪文を記したり、式神として使役したりと、様々なが用途ある。
効果は高いらしいが、先輩達がやっているのは見たことがない。戒律などの規約によるものではなく、単に彼等が殺生を嫌うからだ。わたしが知る限り、仇志乃の四兄弟は、動物を贄に捧げるような呪術をほぼ禁じ手として自粛している。
特に蠱毒なんて。残酷な方法は。
この場合、誰かが……怪しいのは儀式を持ちかけた祈祷師だが……仕組んだものか、偶然そうなってしまったものかは、判別付きかねる。けれど結果として、儀式の様相は蠱毒を成す条件と一致し、その産物が、眠り蛇となった。
つまり、アイツは本来、ただの蛇。
それが蠱毒によって生き残り、呪力を持った存在だったのか。
「で、でもそれ生贄なんて必要でしたっけ?」
「ううん。けど、元が蠱毒で生まれた存在だろう? 手順や様式が歪になるのは、別に不思議じゃない。長く付き纏うものなんだよ。業って」
なるほど。誕生からして不自然な存在なのだから、いちいち生き方が邪悪になるのは仕方がないということか。
「生贄は儀式なんだ。山で千年。過ごす間に、乙女達の魂を食らう。百人で満願になる。そうしたら海に出て、また同じことを繰り返すつもりだ」
ごくり。わたしと華音さんは、唾を飲んだ。
――冗談じゃない。
海なんかに引っ越されたら、もう二度と捕獲不可能、接触不可能。退治する機会は永遠に失われてしまう。
ただでさえ、これほどに厄介な相手なのだ。生贄式海千山千なんて邪悪な儀式が成就した暁には、どんな最悪の呪詛が誕生するか。わかったもんじゃない。誰にも手が付けられない邪龍になるに決まってる。大惨事だ。
頭がグラグラした。
これは最早、わたし達だけの問題ではない。
いつしか事はグローバル。無駄に壮大なスケールは、下手なラノベそのものだ。否、ラノベなら、どんなに良かったか。それってつまり、今この瞬間、流音君の肩に全世界の未来が搭乗してるってことだぞ。
る、流音君――!
「マジすか! やっべー! じゃあ龍になるんですか!? パねぇ!」
『龍神だ。儂は龍神となり、永遠の生と力を得るのだ』
流音君が、尊敬の眼差しで以て声を上げる。
パねぇの意味が通じたのかどうかは謎だが、そのオーバーアクションには大いに気を良くしたのだろう。眠り蛇は得意げに呵々大笑。すっかり腹心に昇進した流音君へと、己が野望を申し渡した。
『あと一人。あと一人で百人となる。さすれば儂は海に出よう。その折には、貴様も来い。潮も波も物ともせぬ、剛健なる肉体を授けようぞ!』
眠り蛇は両腕を掲げ、再び天を振り仰いだ。月さえも掴まんと、差し伸ばした掌に滾る野心を込めて。狙ったかのように吹いた風が奴の長い黒髪を靡かせ、それはあたかも災厄の前兆として、仄暗い闇で一等、暗い存在感を示した。
こんなわかりやすい悪はないだろう。
会心の笑みが、傍らの流音君を見下ろす。
流音君は、たっぷり間を溜めて、天使のように愛くるしい唇を開いた。
「――ないわ~」
眠り蛇の表情が、哄笑の形で氷結した。
『な……に…………?』
「クソ寒い自分語り乙。てゆかさ~こんなガキに乗せられちゃうんだ? そんなんで世界征服できんの~? やめたら? 僕なら信用したフリして利用するよ?」
ギリギリと見開いてゆく金色の両眼。死人の色をした頬にうっすらと射した赤みは、わたしの見間違いだったのだろうか。けれど間抜けな半笑いのまま、裂けた唇が戦慄く様は、どうしたって隠しきれない。
「ずーっと井戸なんかにヒキってるから、そーなるの。時代後れの老害。今はね、情報戦国時代なわけ。いくらチート呪詛だからってねぇ? 詐欺に引っ掛かったらオワコンだよ? ダサすぎ、ウケるんだけど! だいたい強い方に付くなら」
兄ちゃん達の方に決まってるでしょ?
俄然引き締まった表情で合掌し、流音君は素早く呪文を唱えた。
地面から生じた光が、瞬く間に眠り蛇を取り囲む。結界だ。さっきの、円を描くモーション。眠り蛇の周りをグルグル回っていたのは、これを仕込むためか。
光は動線となって編まれ、鳥籠の形に眠り蛇を包み込んだ。泡を食って巡らせた金色の視線、どこもかしこも逃げ場はない。遅かった。その身は既に、光の檻へと投獄されていたのだ。
『こっ……これは…………!』
狼狽える眠り蛇を前に、流音君の行動は迅速だった。
懐に隠し持っていたらしい肥後守を取り出し、自分の髪を掴むと、無造作に一束を切り取った。
「――行け! 探せ!」
天高く放り投げられた髪の束が、宙でバラバラと四方に拡散する。
すると、どうしたことだろう。その一本一本が、意思を持っているかのように、眠り蛇へ群がってゆくではないか。
「潜虫だ!」
華音さんが身を乗り出し、拳を握った。
「そっか、その手があったんだ!」
「な、なに? なんですか?」
「呪詛の一種さ。普通は嫌がらせなんかに使う。ごく弱い術なんだけど……」
曰く、対象に取り憑いて、軽い頭痛や腹痛、虫刺され程度の痒み、ちょっとした不快感などを与える。お使い感覚の手軽な呪詛らしい。通常は一本から数本の規模で行う、ほとんどイタズラのようなものだ。
けれどもこの《潜虫》、術者の腕によっては、実に様々な仕事をこなす。たとえば相手の鼻に侵入してクシャミさせたり、脇の下をくすぐって笑わせたり、隠し持つなにかを探させたり。
効果はショボいが、その分バリエーションは豊富。使い道は術者次第だ。
「遠くまでは飛ばせない。術者の近くでしか生きられないから、相手と至近距離を保つ必要があるんだけど……なるほどね。数を増やせば……」
そのために眠り蛇を拘束したのか。
『なにを……この虫けらども……!?』
数百本の髪の毛に纏わり付かれる感触とは、如何なるものか。あんまり考えたくない。痛みはなさそうだが、超キモい。無頓着でいられる事態でもないだろう。
実際、奴は大わらわ。潜虫を剥ぎ取るべく、クネクネと身を捩りながら身体中を叩きまくっている。潜虫は毛髪サイズだ。如何に鋭い爪を立てようと、剛腕に物を言わせようと無駄な努力である。
その間抜けなこと、下手な盆踊りでも踊っているように見えて、わたしは思わず吹き出した。流音君ではないが、ちょっとウケるわ。これ。
……が、当然ながら、笑っている場合ではなかった。
『おのれ貴様! 謀ったな!』
困惑の表情を般若の形相へと変え、眠り蛇が声を荒げた。
ここへ来て流音君の目的を悟ったようだ。俄に怒気を含んだ呪力が、荒れ狂う熱の波となって、結界内を駆け巡る。ドン、ドン。大砲かと言わんばかりの轟音が、結界を通して辺りの空気を震わせた。
「くっ」
流音君が、咄嗟に両手を翳す。僅かに光度を増した結界が、暴れる眠り蛇の身体を縛った。
しかしそれも一瞬のこと。ぶるんと大きく尻尾を一振り、いとも容易く光の束縛を引き千切ると、奴は結界の四方八方に体当たりを始めた。
どすん、どかん! 結界の外、離れた場所に立つわたし達のところまで、衝撃が伝わってくる。光と潜虫を絡ませたままの腕が、胴体が、尻尾が、半径数メートルの範囲内を所狭しと這いずり、メチャクチャに暴れ回った。
巨人が飛び跳ねているような凄まじい振動に、わたしの足元もグラグラ揺れる。すぐ傍にいる流音君が感じている恐怖は、ダメージは、どんなに過酷なものだろうか。それでも彼は動かない。
その場にしっかり両足を踏ん張り、震える両腕を伸ばして。
一秒でも長く結界を維持しようと、残り少ない呪力を振り絞っている。
『ええい、貴様! 悪童めが! 喰ろうてやる! 八つ裂きにしてやる!』
そんな流音君を目掛けて、眠り蛇が、ガリガリと結界を囓る。怒りで我を忘れているのか、結界ごと食い破ろうとしているのか。真意は知れないが、確かなのは、流音君に向けられた憎悪。執拗なほど凄絶な殺意である。
これ、結界が解けたら流音君どうなるの?
想像すると、生きた心地がしなかった。キスするのかってくらい間近で、眠り蛇の殺意と向き合う流音君は、けれど一歩も退かず。
まだ、まだか。
まだ見つからないの?
「ん、くっぅ……」
呻き声を漏らし、流音君の身体が強ばる。
ピキ、と結界にヒビが入った。
光は薄れ、淡い緑色が黒を孕み、弱々しくなって、くすんでゆく。
『うぉおおおぉのれええぇえっ!!』
咆吼と共に、眠り蛇が一際激しく身悶えた。
仰け反った蛇腹、隙間なく並ぶ腹板の一枚が、忽然と鮮やかな輝きを放つ。
反射的に、わたしは眼を細めた。だってその色ときたら、蛍光ペンでマークしたみたいな、夜目にも眩しい黄緑色なのだ。猛り狂う大蛇の腹部という、おぞましいロケーションに於いて、あまりに不適切で野暮なネオンカラー。
流音君らしいと思った。
間違いない。
あれは、希望の光!
「「――あそこだ!」」
わたしと華音さんが声をそろえて叫んだ、そのとき。
パキン。
甲高い破裂音と共に、結界が砕け散った。
怒濤の勢いで噴き出した呪力に、流音君が弾き飛ばされる。眠り蛇の牙を免れたのは、不幸中の幸いだったのか。わからなかった。
小柄な体躯は信じられない高さまで上昇し、脱力した手足は、その推進力と回転の為すがまま。嫌な角度に伸びきって、まったく意思を示さない。うち捨てられた人形のような悲哀を帯びて、夜空に絶望の放物線を描く。
気絶してる!
まずい、あれじゃ受け身も取れない。
落ちて首でも折ったら死んじゃう!
「流音!」
華音さんが駆け出す。
間に合わない。
その瞬間を見たくない一心で、わたしは、両手で顔を覆った。
「…………」
風が吹く。
寸刻の砂塵に、時間が止まったような錯覚を覚える。
いつまで経っても。
人間が地面に叩き付けられる衝撃音は、聞こえない。
「……クソガキが」
代わりに、チッと舌打ちが聞こえた。
恐る恐る眼を開ける。
視線の先、先輩が立っていた。
その腕にしっかりと、流音君を抱き留めて。
「俺のマウント取りてーなら実力で来やがれ……ばかやろう」
台詞とは裏腹に、その口調は、この上なく優しい。
でも、あれ? 先輩って動けないんじゃなかったっけ?
お誂え向きというやつだ。首を傾げたわたしの目元に、一枚の紙が飛んできて、貼り付いた。呪符だ。さっき流音君が使ったものだろうか。見れば、走り書きしたんだろう。崩れた筆跡で、両面に文字が記されていた。
表、へのへのもへじ。
裏には「えんぎして」とある。
「流音君……」
込み上げる感情に、呪符を抓む指先が震える。
先輩、最初からわかってたんだ。全部お芝居だって。たぶん、流音君が最初の札を切ったときから。そうだよね。何度も何度もケンカしてるんだもん。それから、同じ数だけ仲直りしてるんだもん。
――こっちだって、海千山千だ。
さぁ、あとは生贄の魂を救い出すだけ。
やっちゃってください、先輩!
「…………」
先輩?
あれ?
ど、どうしたの?
なんで……、
「………………」
また座ってるの?
地面に両膝を着いて、頭なんか垂れて。
もう演技はいいのよ?
ぐらり。前触れもなく視界が揺れた。
仄暗い闇が、白く曇る。おかしい。裸眼のはずなんだけど。なんだろう。手が、脚が、頭が、冷たい。どんどん世界が傾いてゆく。頬を叩く風の音は、妙に遠く。自分の意思とは無関係に降りてくる瞼。こんなに重かったかしら。
「瑠衣ちゃん!」
華音さんの呼ぶ声が、聞こえた、ような、気が、し、た…………。