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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
38/46

仇志乃流音は ずる賢い

30.






 ……は?

 ちょっと流音君。いやいや、ちょっと。

 なに言ってるの?

 この期に及んで。この状況で。勇敢に戦う先輩の姿を目の当たりにして。

 なに言ってんのよ?


「てめぇ流音! っざけんな! この呪符どういうつもりだ!?」


 先輩が吼えた。

 今にも掴み掛からんばかりの勢いだが、身体の自由が利かないらしい。木刀を杖に片膝を着いたまま、顔だけを上げて流音君を睨み付ける体勢になってしまった。言わば弟に見下される格好で、これでは兄の威厳も半減である。

 流音君は余裕綽々。

 完全脅迫モードの先輩に対して、フフンと軽く鼻を鳴らすのみだ。


「えへへ、動けないでしょ?」

「さっさと剥がせ、クソガキが! 状況わかってんのか!」

「わかってないのは世音兄ちゃんじゃないの~?」


 むしろ嫌悪感を煽るような口調で切り返して、流音君は、偉そうに腕を組んだ。これみよがしに肩まで竦めて、クスクスと破顔する始末。


「ムカつくんだよね、兄だからって。いっつも僕のことバカにして」


 ――いい気味。

 嫌味たっぷりに吐き捨てて、流音君は、いっそう高らかに笑った。

 真っ白になった頭の中、無慈悲に反響する笑い声は、どこか他人事めいて遠い。ショックだった。釘バットで後頭部をブン殴られた気分だ。指先から血の気が引いてゆくのがわかる。なのに、耳だけがじんわり熱い。

 嘘、嘘よ。流音君が裏切るわけないじゃない。

 自分で自分に言い聞かせ、どうにか平静を保とうとする。駄目だ。動悸息切れが収まらない。だけど、でも……そうよ。きっと作戦なんだから。でも。

 今、わたし、思いっきり叫びたい。

 なにやってんだ殺すぞガキ。

 てめぇ小悪魔じゃなくて普通に悪魔じゃねーか。


「きゃはははっ! ばーかばーか!」


 その悪魔的な笑顔と嘲笑が琴線に触れたのか、警戒の色はそのままに、眠り蛇が首を捻った。

 奴にしても、流音君の寝返り宣言は突拍子もない話だ。まだ完全に信用したわけではないのだろう。とはいえ、まったく有り得ない超展開と一蹴するには惜しい。事実ならば大いに旨味のある商談と考えたのかもしれない。

 なにより、流音君の呪術が興味を惹いたらしかった。

 直ちに襲い掛かってくるような気色はない。


『仲間割れか?』

「まぁ、そんなとこです。僕、合理主義者なんで。長い物に巻かれようかなって」

『その小僧は貴様の兄ではないのか』

「だって蛇様の方が強いんだもん。弱肉強食は世の常、じょーしき。お互い利益は一致するでしょ? 僕は長生きしたいし、蛇様は召使いが手に入る。僕もね、どうせ組むなら強い方が断然いいんです。安全だし、威張れるでしょ?」

『……其の術は?』

「あ、僕、呪術師なんで。基本的な呪術なら一通り囓ってます。いちおー動き封じてみたんですけど、どうです? なかなかでしょ?」

『…………』


 見開かれた金色の両眼が、ぐいと流音君の鼻先に迫った。


『信用ならぬな。貴様、なにを企んでおる?』


 二股に分かれた舌でチョロチョロと頬を嬲られても、流音君は、眉一つ動かさなかった。傍観してるこっちの寿命が縮みそうだ。類い希なる鉄の心臓の持ち主なのか、はたまた単なる狂人か。眠り蛇でなくとも、判断しかねるところだ。

 いつでも一口で呑み込める距離を保っているのは、敵ながら賢明だと思った。


「あ、もっと? もう一押し行きます? んじゃ、これなんか」


 ここで流音君は、更に懐から一枚の呪符を取り出した。

 恭しく眠り蛇に一礼し、いそいそと先輩に歩み寄ってゆく。


「てめぇクソガキが……ブッ殺す……!」


 歯軋りして睨み付ける先輩は、依然として動けない。

 跪く兄。見下す弟。

 平素と逆転した視界は、両者の立場、力関係のメタファだというのか。


「ごめんね~? これが僕の方法やりかたなの。長生きしたいから」

「憶えとけよ……ぜってー呪い殺してやる……」

「はいはい、負け惜しみ乙。んじゃね。お世話になりました~」


 ヒラヒラと掌を振り、流音君は、先輩の額に呪符を貼り付けた。


「! うっ…………ぐあッ……!」


 一瞬硬直した先輩の肩が、弾かれたように跳ね上がる。

 掠れた声で呻くや否や、先輩は大きく頭を振った。震える手が、ブラウスの胸を掻き毟る。そこからは、もう錯乱したみたいに激しかった。地面に突っ伏し、髪をボサボサにして身悶え、暴れる爪先が、地面にグチャグチャな軌跡を描く。


「あぁ! うっ! 流音、てめぇ……ぐっ、あっ、ああぁああぁっ!」


 尋常ではなかった。

 毒でも盛られたか、悪霊でも取り憑いたかという騒ぎだ。こんな苦しそうな先輩は見たことがない。その場から逃げることも叶わず、呪符で作られた小さな円の中で七転八倒する姿は、さながら陸に上がった魚。いや、ネズミ花火だ。

 ひ、ひどい!

 ちょっと、なにしたのよクソガキ!?


「きゃはははっ! ダッサ! さいっこーマジウケる!」


 堪らず睨み付けた流音君は、腹を抱えて爆笑中。

 あどけない笑い声は、その無邪気さのために却って辛辣で、心なしか弱者を虐げる快感に酔っているようだった。


『……ほう』


 居丈高に流音君へと視線を流し、眠り蛇が、ニヤリと笑った。


『悪党が』

「じゃあ採用してもらえます? 悪の主従関係ってことで!」

『良かろう。何れ儂も地上で燻る身に非ず。手下の一匹も軽便よ』

「やった~! あざっす!」


 おどけた仕草でビシッと敬礼をかまして、流音君は、新しい主人へと寄り添う。小柄な体躯と大蛇、チグハグな取り合わせのシルエットが、白い月光に照らされて不愉快な影を伸ばした。

 その先には、苦しみ続ける先輩の姿がある。

 こっちは、たった一つの影。あまつさえ、つい今し方まで戦っていた敵の傍らには、臆面もなく笑う実弟が舌を出しているのだ。


 ……もう限界。

 大概にしとけよ、この童貞ショタ○ン厨二小僧!


「流音君っ! どういうつもりよ! なにやって……」


 これ以上は、見てられない。

 叫んで、わたしは結界を飛び出そうとした。

 すかさず華音さんが進路を塞ぐ。本来ならば胸キュン必至の模範的イケメン行動だったが、今ばかりは正直、カチンときた。お願いだから邪魔しないで!


「駄目、瑠衣ちゃん。出たら危ないよ!」

「だって流音君、裏切った! あんなこと言って! 先輩を見捨てた!」

「違う! 流音には流音の考えがあるんだ!」

「保身ですか!? よっぽど己が可愛いんでしょうね! 流音君らしい自己中」

「そうじゃないッ!!」


 思いがけず厳しい口調が、一発でピシャリ。わたしの文句を組み伏せた。

 普段の華音さんからは想像も付かない、険しく尖った眼が、咎めるような感情を含んで、わたしを見据える。相応な声量と相まって、驚きの迫力だった。

 あの華音さんが。他者との衝突を極端に嫌い、いさかいを避けることばかりに腐心している、華音さんが。頑として、わたしの発言を否定したのだ。

 叱られたのか、わたし。

 華音さんに。

 初めて怒鳴られた。

 どうして?

 考えるまでもなかった。彼は、流音君の実兄だ。わたしなんかより、ずっと長い時間を共に過ごしている。それだけ流音君のことをよく知っている。知っていて、だからこそ――

 信じてる。


「…………ご、ごめん」


 慌てたように、華音さんはわたしから眼を逸らせた。

 気まずげに俯く横顔は、既に通常運転。繊細で気の優しい次男だった。


「いいから……流音に任せて。ね?」


 遠慮がちに付け加える語勢に、わたしは、返す言葉もない。

 軽率な衝動に任せて破裂した怒りが、みるみるうちに萎縮してゆく。埋め合わせと言ってはなんだが、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。

 ごめんなさい。

 わたしこそ。流音君のこと、疑ってごめんなさい。

 アイツならやりかねんとか思ってごめんなさい。ショタ○ンとか言ってごめん。

 邪魔しちゃ駄目なのは、わたしの方だ。

 なにもできないなら、おとなしく見守っていよう。

 頑張って、流音君。


「ところで蛇様って~……ぶっちゃけ何者なんですか?」


 軽やかな足取りで、流音君は、眠り蛇の周囲を歩き回る。

 媚びを売らせたら一流な末っ子のこと、茶目っ気たっぷりに微笑んでみせたり、ウインクしてみたり。愛想を振りまく猫(ただし空腹に限る)の如き技法を駆使して、特に怪しまれることもなく、さりげなく輪を縮めていった。


「うっわ! 硬い! 鎧みたい!」


 時を置かずに至近距離。流音君の手が、眠り蛇の鱗をペチペチと叩いた。

 そんなことしたら捻り潰されるんじゃないかとハラハラしたが、この蛇様、案外満更でもない様子だ。気を許したと同時に大サービスか。プライドの高さ故に、己を崇め奉る者には、割に寛容なのかも知れない。


「だってパネェっしょ? 僕らもこれで名の通った呪術師兄弟なんですよ。それが長男も三男も、まるで歯が立たないんだもん! さぞかし名のある蛇様とお見受け致しますが~……僕、勉強不足で~あんま詳しくないんですよね~」


 更に水を向ける。濃い兄三人衆に鍛えられた猫撫で声も、堂に入っている。

 言うに及ばず、流音君の本題は、眠り蛇から情報を聞き出すことだ。これでもかと相手を持ち上げつつ、付け入る隙には遠慮なく踏み込む。その図々しさたるや、さすがに末っ子の貫禄である。


「ご主人様のことだし~、きちんと知っておきたいなって?」


 そして出た。トドメの上目遣い。


『…………』


 これが効いたのかどうか。

 しばし沈黙した眠り蛇は、ふと肩の力を抜いて、夜空を見上げたのだった。


『……よかろう。しかと聞け』









 その日、ある男が、百匹の蛇と共に古井戸に籠もった。

 祈祷師のお告げに従い、雨乞いを成すためである。しかし、与えられた食料や水は、必要最低限。村は日照りで壊滅寸前にまで追い込まれていた。当然、充分な量を用意できるはずがない。それが精一杯だったのだ。

 たちまち食料は底を突き、井戸には、恐ろしい飢餓が蔓延することとなった。

 狭く暗い井戸の中、飲む物も食べる物もない。言葉を交わす相手すらいない。

 いるのは百匹の蛇だけ。

 聞こえるのは、蛇の蠢く音だけ。

 そんな状況で時間は過ぎ、日が経ち、やがてそれすら曖昧になってゆく。壮絶な飢えと孤独が、男の精神に如何なる影響を与えたかは、想像に難くない。おそらくどんな強者であっても、この二つに適う人間はまずいないだろう。

 窮地に陥った男は、食べた。

 即ち、自分と同じ境遇にある蛇達を、である。

 この頃になると、蛇達の方も極限まで飢えていた。死んでいる個体もいた。まだ元気な奴は男の手足に纏わり付き、明らかに用途の異なる口を開いて、どうにか餌を丸呑みにしようと、死に物狂いで牙を立てるのだ。

 男は、そんな蛇達を手当たり次第に、取って食った。死体も生体も食った。肉を噛み千切り、血を啜り、皮を囓って、骨までしゃぶった。そうすることで、どうにか命を繋いでいた。

 生き長らえていた蛇達もまた、共食いを始めていた。死体を丸呑みする者、弱った仲間を絞め殺す者、互いに互いの尻尾を呑み込み、絡まってグルグル回る奴等。斯くも此の世の地獄とは、このような有様を言うのだろう。

 やがて死体すらなくなった井戸の底には、一人の男と一匹の蛇が残った。

 彼は、考えていた。

 どうにかして、食われずに済む方法はないだろうか。

 それは、思考と言うには粗末な脳の作用だった。あのときの彼は、まだ普通の蛇だったのだ。本能の延長線上にあった感覚か、或いは己を存続させるべき遺伝子の囁きか。記憶は千載の彼方に霞み、今となっては、知る由もない。

 けれど、そのとき聞こえた《声》だけは、はっきりと憶えている。


 ――お前が奴を食えば良い話ではないか。


 人の言葉ではなかったように思う。そもそも彼は、人語を解することなどできなかったのだから。にも拘らず、彼は《声》の意図を理解した。同意し、納得し、共感して、さも自明の真理であると受け取ったのだ。

 これぞ天啓。彼は確かに、そう口にしたという。

 すると、身体中に力が漲ってきた。

 筋力だけではない。知力、体力、生命力、未知の能力――呪力までが、細い身体を駆け巡り、暴れ回った。噴き出す出湯にも湧き立つ入道雲にも似た、爆発的刺激が、刹那のうちに何度も何度も、彼の存在を揺さぶった。

 寸刻の後、其処にいた彼は、もう蛇ではなかった。

 より強靱で、より賢く、より邪悪な。

 一体の呪詛と化していたのである。

 彼は、巨大化した身体で、あっさりと男を食ってしまった。

 さしずめこれで良い。さりとて、これより如何にすべきか。

 なまじ利口になっただけに、思慮すべきことは増えた。当面の脅威は去り、腹は膨れた。その気になれば、井戸を破壊して脱出することも容易。だが、その先は。自分は、何者になったのか。なにをすべきなのか。


 ――お前は龍になるのだ。


 諭すように囁いたのは、またもあの《声》だった。

 如何様にすれば? 彼は訊ねた。


 その方法とは――。







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