仇志乃流音は ずる賢い
30.
……は?
ちょっと流音君。いやいや、ちょっと。
なに言ってるの?
この期に及んで。この状況で。勇敢に戦う先輩の姿を目の当たりにして。
なに言ってんのよ?
「てめぇ流音! っざけんな! この呪符どういうつもりだ!?」
先輩が吼えた。
今にも掴み掛からんばかりの勢いだが、身体の自由が利かないらしい。木刀を杖に片膝を着いたまま、顔だけを上げて流音君を睨み付ける体勢になってしまった。言わば弟に見下される格好で、これでは兄の威厳も半減である。
流音君は余裕綽々。
完全脅迫モードの先輩に対して、フフンと軽く鼻を鳴らすのみだ。
「えへへ、動けないでしょ?」
「さっさと剥がせ、クソガキが! 状況わかってんのか!」
「わかってないのは世音兄ちゃんじゃないの~?」
むしろ嫌悪感を煽るような口調で切り返して、流音君は、偉そうに腕を組んだ。これみよがしに肩まで竦めて、クスクスと破顔する始末。
「ムカつくんだよね、兄だからって。いっつも僕のことバカにして」
――いい気味。
嫌味たっぷりに吐き捨てて、流音君は、いっそう高らかに笑った。
真っ白になった頭の中、無慈悲に反響する笑い声は、どこか他人事めいて遠い。ショックだった。釘バットで後頭部をブン殴られた気分だ。指先から血の気が引いてゆくのがわかる。なのに、耳だけがじんわり熱い。
嘘、嘘よ。流音君が裏切るわけないじゃない。
自分で自分に言い聞かせ、どうにか平静を保とうとする。駄目だ。動悸息切れが収まらない。だけど、でも……そうよ。きっと作戦なんだから。でも。
今、わたし、思いっきり叫びたい。
なにやってんだ殺すぞガキ。
てめぇ小悪魔じゃなくて普通に悪魔じゃねーか。
「きゃはははっ! ばーかばーか!」
その悪魔的な笑顔と嘲笑が琴線に触れたのか、警戒の色はそのままに、眠り蛇が首を捻った。
奴にしても、流音君の寝返り宣言は突拍子もない話だ。まだ完全に信用したわけではないのだろう。とはいえ、まったく有り得ない超展開と一蹴するには惜しい。事実ならば大いに旨味のある商談と考えたのかもしれない。
なにより、流音君の呪術が興味を惹いたらしかった。
直ちに襲い掛かってくるような気色はない。
『仲間割れか?』
「まぁ、そんなとこです。僕、合理主義者なんで。長い物に巻かれようかなって」
『その小僧は貴様の兄ではないのか』
「だって蛇様の方が強いんだもん。弱肉強食は世の常、じょーしき。お互い利益は一致するでしょ? 僕は長生きしたいし、蛇様は召使いが手に入る。僕もね、どうせ組むなら強い方が断然いいんです。安全だし、威張れるでしょ?」
『……其の術は?』
「あ、僕、呪術師なんで。基本的な呪術なら一通り囓ってます。いちおー動き封じてみたんですけど、どうです? なかなかでしょ?」
『…………』
見開かれた金色の両眼が、ぐいと流音君の鼻先に迫った。
『信用ならぬな。貴様、なにを企んでおる?』
二股に分かれた舌でチョロチョロと頬を嬲られても、流音君は、眉一つ動かさなかった。傍観してるこっちの寿命が縮みそうだ。類い希なる鉄の心臓の持ち主なのか、はたまた単なる狂人か。眠り蛇でなくとも、判断しかねるところだ。
いつでも一口で呑み込める距離を保っているのは、敵ながら賢明だと思った。
「あ、もっと? もう一押し行きます? んじゃ、これなんか」
ここで流音君は、更に懐から一枚の呪符を取り出した。
恭しく眠り蛇に一礼し、いそいそと先輩に歩み寄ってゆく。
「てめぇクソガキが……ブッ殺す……!」
歯軋りして睨み付ける先輩は、依然として動けない。
跪く兄。見下す弟。
平素と逆転した視界は、両者の立場、力関係のメタファだというのか。
「ごめんね~? これが僕の方法なの。長生きしたいから」
「憶えとけよ……ぜってー呪い殺してやる……」
「はいはい、負け惜しみ乙。んじゃね。お世話になりました~」
ヒラヒラと掌を振り、流音君は、先輩の額に呪符を貼り付けた。
「! うっ…………ぐあッ……!」
一瞬硬直した先輩の肩が、弾かれたように跳ね上がる。
掠れた声で呻くや否や、先輩は大きく頭を振った。震える手が、ブラウスの胸を掻き毟る。そこからは、もう錯乱したみたいに激しかった。地面に突っ伏し、髪をボサボサにして身悶え、暴れる爪先が、地面にグチャグチャな軌跡を描く。
「あぁ! うっ! 流音、てめぇ……ぐっ、あっ、ああぁああぁっ!」
尋常ではなかった。
毒でも盛られたか、悪霊でも取り憑いたかという騒ぎだ。こんな苦しそうな先輩は見たことがない。その場から逃げることも叶わず、呪符で作られた小さな円の中で七転八倒する姿は、さながら陸に上がった魚。いや、ネズミ花火だ。
ひ、ひどい!
ちょっと、なにしたのよクソガキ!?
「きゃはははっ! ダッサ! さいっこーマジウケる!」
堪らず睨み付けた流音君は、腹を抱えて爆笑中。
あどけない笑い声は、その無邪気さのために却って辛辣で、心なしか弱者を虐げる快感に酔っているようだった。
『……ほう』
居丈高に流音君へと視線を流し、眠り蛇が、ニヤリと笑った。
『悪党が』
「じゃあ採用してもらえます? 悪の主従関係ってことで!」
『良かろう。何れ儂も地上で燻る身に非ず。手下の一匹も軽便よ』
「やった~! あざっす!」
おどけた仕草でビシッと敬礼をかまして、流音君は、新しい主人へと寄り添う。小柄な体躯と大蛇、チグハグな取り合わせのシルエットが、白い月光に照らされて不愉快な影を伸ばした。
その先には、苦しみ続ける先輩の姿がある。
こっちは、たった一つの影。あまつさえ、つい今し方まで戦っていた敵の傍らには、臆面もなく笑う実弟が舌を出しているのだ。
……もう限界。
大概にしとけよ、この童貞ショタ○ン厨二小僧!
「流音君っ! どういうつもりよ! なにやって……」
これ以上は、見てられない。
叫んで、わたしは結界を飛び出そうとした。
すかさず華音さんが進路を塞ぐ。本来ならば胸キュン必至の模範的イケメン行動だったが、今ばかりは正直、カチンときた。お願いだから邪魔しないで!
「駄目、瑠衣ちゃん。出たら危ないよ!」
「だって流音君、裏切った! あんなこと言って! 先輩を見捨てた!」
「違う! 流音には流音の考えがあるんだ!」
「保身ですか!? よっぽど己が可愛いんでしょうね! 流音君らしい自己中」
「そうじゃないッ!!」
思いがけず厳しい口調が、一発でピシャリ。わたしの文句を組み伏せた。
普段の華音さんからは想像も付かない、険しく尖った眼が、咎めるような感情を含んで、わたしを見据える。相応な声量と相まって、驚きの迫力だった。
あの華音さんが。他者との衝突を極端に嫌い、諍いを避けることばかりに腐心している、華音さんが。頑として、わたしの発言を否定したのだ。
叱られたのか、わたし。
華音さんに。
初めて怒鳴られた。
どうして?
考えるまでもなかった。彼は、流音君の実兄だ。わたしなんかより、ずっと長い時間を共に過ごしている。それだけ流音君のことをよく知っている。知っていて、だからこそ――
信じてる。
「…………ご、ごめん」
慌てたように、華音さんはわたしから眼を逸らせた。
気まずげに俯く横顔は、既に通常運転。繊細で気の優しい次男だった。
「いいから……流音に任せて。ね?」
遠慮がちに付け加える語勢に、わたしは、返す言葉もない。
軽率な衝動に任せて破裂した怒りが、みるみるうちに萎縮してゆく。埋め合わせと言ってはなんだが、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
ごめんなさい。
わたしこそ。流音君のこと、疑ってごめんなさい。
アイツならやりかねんとか思ってごめんなさい。ショタ○ンとか言ってごめん。
邪魔しちゃ駄目なのは、わたしの方だ。
なにもできないなら、おとなしく見守っていよう。
頑張って、流音君。
「ところで蛇様って~……ぶっちゃけ何者なんですか?」
軽やかな足取りで、流音君は、眠り蛇の周囲を歩き回る。
媚びを売らせたら一流な末っ子のこと、茶目っ気たっぷりに微笑んでみせたり、ウインクしてみたり。愛想を振りまく猫(ただし空腹に限る)の如き技法を駆使して、特に怪しまれることもなく、さりげなく輪を縮めていった。
「うっわ! 硬い! 鎧みたい!」
時を置かずに至近距離。流音君の手が、眠り蛇の鱗をペチペチと叩いた。
そんなことしたら捻り潰されるんじゃないかとハラハラしたが、この蛇様、案外満更でもない様子だ。気を許したと同時に大サービスか。プライドの高さ故に、己を崇め奉る者には、割に寛容なのかも知れない。
「だってパネェっしょ? 僕らもこれで名の通った呪術師兄弟なんですよ。それが長男も三男も、まるで歯が立たないんだもん! さぞかし名のある蛇様とお見受け致しますが~……僕、勉強不足で~あんま詳しくないんですよね~」
更に水を向ける。濃い兄三人衆に鍛えられた猫撫で声も、堂に入っている。
言うに及ばず、流音君の本題は、眠り蛇から情報を聞き出すことだ。これでもかと相手を持ち上げつつ、付け入る隙には遠慮なく踏み込む。その図々しさたるや、さすがに末っ子の貫禄である。
「ご主人様のことだし~、きちんと知っておきたいなって?」
そして出た。トドメの上目遣い。
『…………』
これが効いたのかどうか。
しばし沈黙した眠り蛇は、ふと肩の力を抜いて、夜空を見上げたのだった。
『……よかろう。確と聞け』
その日、ある男が、百匹の蛇と共に古井戸に籠もった。
祈祷師のお告げに従い、雨乞いを成すためである。しかし、与えられた食料や水は、必要最低限。村は日照りで壊滅寸前にまで追い込まれていた。当然、充分な量を用意できるはずがない。それが精一杯だったのだ。
たちまち食料は底を突き、井戸には、恐ろしい飢餓が蔓延することとなった。
狭く暗い井戸の中、飲む物も食べる物もない。言葉を交わす相手すらいない。
いるのは百匹の蛇だけ。
聞こえるのは、蛇の蠢く音だけ。
そんな状況で時間は過ぎ、日が経ち、やがてそれすら曖昧になってゆく。壮絶な飢えと孤独が、男の精神に如何なる影響を与えたかは、想像に難くない。おそらくどんな強者であっても、この二つに適う人間はまずいないだろう。
窮地に陥った男は、食べた。
即ち、自分と同じ境遇にある蛇達を、である。
この頃になると、蛇達の方も極限まで飢えていた。死んでいる個体もいた。まだ元気な奴は男の手足に纏わり付き、明らかに用途の異なる口を開いて、どうにか餌を丸呑みにしようと、死に物狂いで牙を立てるのだ。
男は、そんな蛇達を手当たり次第に、取って食った。死体も生体も食った。肉を噛み千切り、血を啜り、皮を囓って、骨までしゃぶった。そうすることで、どうにか命を繋いでいた。
生き長らえていた蛇達もまた、共食いを始めていた。死体を丸呑みする者、弱った仲間を絞め殺す者、互いに互いの尻尾を呑み込み、絡まってグルグル回る奴等。斯くも此の世の地獄とは、このような有様を言うのだろう。
やがて死体すらなくなった井戸の底には、一人の男と一匹の蛇が残った。
彼は、考えていた。
どうにかして、食われずに済む方法はないだろうか。
それは、思考と言うには粗末な脳の作用だった。あのときの彼は、まだ普通の蛇だったのだ。本能の延長線上にあった感覚か、或いは己を存続させるべき遺伝子の囁きか。記憶は千載の彼方に霞み、今となっては、知る由もない。
けれど、そのとき聞こえた《声》だけは、はっきりと憶えている。
――お前が奴を食えば良い話ではないか。
人の言葉ではなかったように思う。そもそも彼は、人語を解することなどできなかったのだから。にも拘らず、彼は《声》の意図を理解した。同意し、納得し、共感して、さも自明の真理であると受け取ったのだ。
これぞ天啓。彼は確かに、そう口にしたという。
すると、身体中に力が漲ってきた。
筋力だけではない。知力、体力、生命力、未知の能力――呪力までが、細い身体を駆け巡り、暴れ回った。噴き出す出湯にも湧き立つ入道雲にも似た、爆発的刺激が、刹那のうちに何度も何度も、彼の存在を揺さぶった。
寸刻の後、其処にいた彼は、もう蛇ではなかった。
より強靱で、より賢く、より邪悪な。
一体の呪詛と化していたのである。
彼は、巨大化した身体で、あっさりと男を食ってしまった。
さしずめこれで良い。さりとて、これより如何にすべきか。
なまじ利口になっただけに、思慮すべきことは増えた。当面の脅威は去り、腹は膨れた。その気になれば、井戸を破壊して脱出することも容易。だが、その先は。自分は、何者になったのか。なにをすべきなのか。
――お前は龍になるのだ。
諭すように囁いたのは、またもあの《声》だった。
如何様にすれば? 彼は訊ねた。
その方法とは――。




