いつもの先輩だ
28.
襟足の長い茶髪が、サラサラと風にそよぐ。
前を見据えて、立っている。それだけの姿に、じわり涙が滲んだ。
なんでこの人ってば、わたしが困ってるのわかるんだろう。
いつもいつも。もう駄目ってときに、絶対助けてくれるんだろう。
「……先輩……」
「よぉ瑠衣。無事か? ヤバかったな」
「世音!」
呼ばれて、先輩が振り向いた。
若干バツの悪そうな顔をしていても、身体は、すっかり元通り。頬も額も首も、肌は瑞々しく潤い、両足はしっかりと地面を踏み締め、袖を捲った腕には、剣道で鍛えた筋肉が張り詰めている。なにより、眼。その瞳に。
いつもの先輩らしい、まっすぐな意思が宿っていた。
「悪ぃ、華音。迷惑掛けた」
「身体は? もういいのかい?」
「呑気に寝てらんねーだろ。こんなときだっつーのに」
「な、なにしたの?」
「これ」
ぞんざいに振られた掌から、パラパラと白い砂が落ちた。
一般的な魔除けで言う、塩に当たる。仇志乃では呪詛除けの砂だ。
「ただの目潰しだからな。すぐ復活すんぞ。あっち行ってろ」
どっから持ってきたんだか、先輩の手には、一振りの木刀が握られている。
戦うつもりなのか。
わたしは、全力で頭を振った。
「出直した方がいいって! 無茶しないで!」
「駄目だ。お前も知ってんだろ。コイツ土に潜れるんだぜ。見失ったらいつ何処で襲われるかわかんねー。俺達だけじゃない、誰もがだ」
そうだった。忘れてたけど、先輩が言霊で紫音さん達を呼んでくれて、わたし達は助かったんだ。でなきゃ今頃、二人仲良く土の中で御陀仏してる。
つまり、一般人が襲われたなら、逃れる術はない。
先輩に言われて、初めて気が付いた。
紫音さんは、時間を稼ぐためだけじゃない。わたし達以外の誰かに――何処かの知らない十六歳以下の女の子に――被害が及ぶのを防ぐため。眠り蛇を逃がさないために、あんな執拗に煽ってたんだ。
自分を狙わせることで……。
グッと胸の奥が痛くなる。
だけど。紫音さんの決意も戦いも、立派だけど。
死んじゃったら、なんの意味もないじゃない? 生き延びてナンボでしょ?
「で、でも……紫音さんが勝てなかったのに!」
「だから俺がやるっつってんだ」
「今の状況わかってる!? 大ピンチだよ!?」
「逆だぜ。チャンスだ。せっかく兄貴が本体引き摺り出してくれたんじゃねーか。むしろ好転してんだよ。ここで逃したらマジで取り返しつかねーぞ」
思いがけない反論に、瞠目した。
チャンスって……どういうことなの?
「世音、勝算があるのかい?」
言葉を失ったわたしの代わりに、華音さんが訊ねた。
あぁ、と先輩が頷く。
「アイツの強みって、要はタフネスだろ。体力っつーか生命力っつーか、とにかく耐久力。それがパネェわけだ。半分寝てたけど、半分は見てたぜ」
「それで?」
「寝てるときにさ。声が……聞こえた。井戸ん中で」
先輩は、ふっと目を伏せて、重い息を吐いた。
「意識トんで、もう死ぬんじゃねってときに。「助けて」って」
あ。そういえば、そんなことを言ったような気がする。
あのとき、あんまりテンパりまくってて、思わず叫んじゃったんだ。
「……それ、わたしかも」
けれど先輩は、首を横に振る。
「違う。もっと大勢の女だ。此処から出してくれって、泣いて訴えるんだよ」
夥しい頭蓋骨の海を思い出した。
彼女達のことか。
紫音さんも言ってたっけ。考えてみれば、いくら密閉空間だからって、何百年も頭蓋骨のまま風化しないなんて変だ。この流れで行くなら、なんらかの呪詛的要素が作用していると推測して然るべきなんだろう。
「ごめん、水を差すみたいだけど、それって夢じゃないのかい?」
口にした華音さんに対して、先輩は、また首を振った。
「いや。ほら、俺って他人の本音聞けただろ。あれと同じ感覚だった。怨嗟じゃなくてSOSってのがイレギュラーだけど。もしか瑠衣に向けたアピールだったのかもな。俺が拾っちまっただけで。まぁ、んなこたどうでもいいんだ。ぶっちゃけ、女達が眠り蛇の秘密をリークしてくれたってことの方がデカい」
秘密?
同時に呟くわたし達を交互に見て、先輩は、結論を述べた。
「アイツの原動力は、生贄達の魂だ。捕まえた怨嗟と無念のエネルギーを取り込んで汲み上げて循環させて。呪力として使ってるんだ。鬼の腕と一緒さ。野郎、無理矢理に自分を守らせてやがる。そこが鍵だ。女達を解放すれば、勝機はある」
なるほど。そこから「チャンス」に繋がるわけか。
行き当たりばったりの思い付きじゃなかったんだね。
「どっかに隠してんだよ。だから、それを見付けるんだ」
「でも、何処に? どうやって?」
「戦いながら考えるっきゃねーな」
前言撤回!
「それ作戦って言える!?」
「うっせー、他に方法ねーんだろうが」
舌打ちして、先輩はボリボリと茶髪を掻いた。
肝心なとこが駄目じゃん。脱皮した眠り蛇は、たぶん全回復してる。紫音さんはもう戦えない。流音君は補佐向きだし、華音さんだって言い方は悪いけど、ほぼ非戦闘員だ。まともなダメージソースは先輩だけ。
その上、生贄達の魂を探すなんて。一人で両方こなすってことだぞ。
大丈夫なのか。わたしは頭を抱えた。
「やるっきゃねーだろ。できるかできないか、じゃねぇ。やるんだよ」
その頭に、ぽん。
軽く手が乗せられた。
わしゃわしゃっと髪の毛を撫で回しながら、先輩が、私の顔を覗き込む。
「兄貴だってやったんだ。俺がやらねーでどうするよ?」
「…………」
「心配すんなって。なる早で片付けて、甘い物でも食おうぜ」
脳天気なほど軽いノリで言って、先輩は、わたしの額を小突いた。
……もう。
なんでよ。
どうしてこんな状況で。そんな顔して笑うの。
月光に縁取られた髪。肩。指先。滲み出る決意が涙でキラキラと輝いて、長い夜の末に、確かな希望の煌めきを放つ。途方もなく優しい瞳に映るのは、情けない顔で困惑するわたし。ドジで地味でなにもできない、わたしだっていうのに。
眩しくて、ドキドキして、頬が熱い。
まるで無敵のヒーロー。
王子様みたいに見えるじゃないか。
「あと、誤解してるみてーだけど、うちの兄弟って、そんな弱っちくねーから」
三人ともな。
やや小声で付け足して、先輩は、ちらり視線を流した。
「つーわけで、流音叩き起こしてくれ。さすがにソロはキツいわ」
「……オーライ」
視線を受けた華音さんは一瞬、驚いたように眉を上げて瞬いたけれど。
じき唇の端を持ち上げ、鼻血を拭った手で、親指を立てた。
『おのれっ……! 虫けらが一匹……増えたところで……ッ!』
眼を押さえて唸っていた眠り蛇が、怒声を上げる。
砂の効果が切れてきたのか。
「あんま話し込んでる時間もなさそうだな」
先輩はブレザーのポケットから筆ペンを取り出し、唾液と混ぜて、素早く梵字を描いた。腕と首、そして木刀にも。深い緑の光が、薄い膜となって身体を覆う。
最初の二つは、攻撃と防御のバフだ。元の能力を強化し、底上げする処置。本来は流音君が得意とする分野だが、ひとまずセルフで間に合わせるしかないだろう。素面で戦える相手じゃない。
だけど、木刀。これがわからなかった。
なんだろう? 初めて見る字体だ。
「こっち向けよ、蛇野郎。虫けら様のお出ましだぜ!」
準備を終えるや否や、先輩が叫んだ。
目潰しから立ち直った眠り蛇が、此方に向き直る。涙を浮かべて充血した眼は、それでも充分すぎるほど憎しみに満ちて、不気味な金色を放っていた。
『貴様……貴様も邪魔をするか……次から次へと……』
完全に先輩に注意を取られた眠り蛇は、最早わたし達など眼中にない。
無論、これが目的で煽ったんだろう。この場で戦えるのは、先輩だけ。わたし達を狙われたら、否応なしに防戦一方に回ってしまう。それは避けたい展開だった。
「安心しろよ。百人兄弟なんてオチじゃねーから」
ひとまず挑発は成功。
先輩は、ニヤリと皮肉な笑みを浮かべて、自ら眠り蛇の攻撃範囲内へと踏み込んでいった。
「つーか、お前なにがしたいわけ? ただの処女厨ロリコンの変態か?」
『やかましい! 邪魔ばかりしおって! 貴様等こそ、何者ぞ!』
「俺等? 呪術師だぜ。兄貴から聞いてね?」
アバウトな言葉遣いは平常運転だが、先輩の眼は真剣そのもの。喋りながら徐々に移動し、奴を誘導して、わたし達から引き離してゆく。
「ま、どーでもいいけど」
その脚が止まった。
先輩も、間合いに入ったんだ。
「今から輪切りにされんだからな。念仏でも唱えろや、廻向してやんよ」
『――ぬかせ小僧! 所詮、人の子よ! 虫けらではないか!』
ぐわり、巨体を持ち上げたかと思うと、眠り蛇が跳んだ。
本物の蛇もそうだけど、あいつら下半身の筋肉どうなってるんだ。凄いバネだった。人間がジャンプするより、よっぽど速い。この分だと、おそらく上半身の筋力も相当に強いはず。
「きゃあっ!」
案の定、振るわれた腕が、轟音と共に地面を抉った。
読んでいたのか、先輩は避けて無事だ。けれど続いて左、右。長い腕が、交互に先輩を襲う。その指先には、鋭い爪。あれは嫌な予感がする。先輩、焦らないで。
心配するまでもなく、先輩は冷静だった。四回。五回。相手の動きを見極めて、着実に躱してゆく。さすが接近戦に慣れてる。既視感を憶える立ち回りに、わたしは、ふと思い出した。
何度か観戦した剣道の試合。あのときは地区予選の決勝だったかな。開始早々、攻めに入ったのは敵だった。対する先輩は、これを躱すのみ。なかなか反撃に出ない。速攻が身上の先輩らしくない戦法だ。誰もが訝しんでいた。
そうして敵の竹刀を弾きつつ、制限時間が近づいたときだった。
『ぐあぁっ!』
眠り蛇の悲鳴が、当時会場を沸かせた歓声と重なって聞こえた。
――引き小手が入ったのだ。
ただ逃げていたわけではない。先輩は、間合いとタイミングを計っていただけ。もちろん試合は一本を先制した先輩の有利で進み、我が校は団体戦と個人戦の両方で、県大会への切符を手することとなった。
『なんっ……? これは……』
打たれた手首を押さえて、眠り蛇が後退る。
チャンス。今度は先輩が地面を蹴った。
その飛距離、約三メートル。紫音さんほどではないが、呪詛ドーピングによって超人化された脚力は、一飛びに眠り蛇の目線まで駆け上がった。威力を増すため、上半身に捻りを加えて。同じく強化された腕力で、先輩は木刀を振るった。
狙うは首。
刎ね飛ばしたところで、どうせ新しいのが生えてくるだろう。でも、生贄の魂は何処に隠されているかわからない。探すなら、最も難易度の高いところから。敢えて選んでいくのは、如何にも先輩らしいと思った。
「おらぁ!」
しかし、眠り蛇も然る者だ。
すぐさま反応し、大きな手で、これを叩き落とした。
じゅう、と蒸発音が爆ぜて、わたしは条件反射で身を竦ませる。紫音さんの肌を焼いた呪詛だろうか。木刀まで焼けるなんて、見境ない。
不安定な場所で横に薙ぎ払われて、先輩の体勢が、ぐらり傾く。まずい。
わたしが息を呑むのと同時、太い尻尾が振るわれた。
まだ滞空している先輩に、これを躱す術はない。そんなの戦ってる本人が、誰よりもわかっていること。先輩は咄嗟に木刀を脇構えの形に固め、衝突に備える。盾の代わりにしようという判断だ。
確かに、身体に直撃するよりはマシだろう。
でも、あの尻尾。チート化した紫音さんが薙ぎ倒されたほどの威力だぞ。ポキッと折れてしまうのではないか。そうしたら木刀諸共、先輩もバラバラに……?
「やっ……」
生々しい映像が頭に浮かび、わたしは、反射的に眼を閉じた。
『――ぎゃあぁあう!』
が。聞こえたのは、先輩ではなく、眠り蛇の悲鳴。
驚いて見ると、なんと先輩は追撃中。落下速度を利用して今一度、眠り蛇の尻尾を斬り付けたところだった。
じゅぅううう。
木刀と接触した部分、太刀筋に沿って、黒い鱗が蒸気を放つ。
え、あれ?
焼けてるの……そっち?
ていうか、どうして? 防御したんじゃなかったの?
「かってぇえ」
何事もなく着地した先輩は、木刀を右手に持ち、左手をパッパと振って、ズボンのお尻で拭った。かと思えば、顰めっ面でグーパーを繰り返している。あれは予想以上に奴の鱗が硬くて、痺れたんだな、きっと。
いや、鱗じゃないし。その木刀が硬いだろ。どんだけ頑丈なんだよ。
半ば呆れて、まじまじと先輩の得物をみつめた。
いつの間にか、描かれた梵字を中心に泡のような粒が刃部を包み、本来の黒褐色を白く染め上げている。いや、苔生してる。と言った方が近いだろうか。なんせ、鎬から峰、切先までびっしり。霜が降りたみたいなのだ。
「なんかゲームとかでよくあるじゃん? 魔法剣ってやつ?」
わたしの心中を察したのか、眠り蛇を間合いに捉えたまま、先輩が声を張った。
「あれってマジなんだな。爬虫類に冷気。結構効くわ」
そして、ぶんと一振り。その木刀で空を薙ぐ。
キラキラした氷の結晶が横一文字に散り、すぐに溶けて消えた。
あぁ、そうか。
苔じゃない。そのまんま霜だ。戦闘前のバフ、木刀に施された梵字はなんだろうと思ってたけど。冷気属性を付与する術だったんだ。紫音さんとの戦いで、眠り蛇が炎の呪詛を纏っていると知って、ならばと冷気で対抗したわけだ。
これぞ(ねんがんの)アイスソード。
「おら、ボケッと見てる場合か。さっさと行け。グズグズすんな」
先輩が、顎でわたし達を促す。
そうだった。先輩が奴を引き付けてくれてる間に、わたし達も行動しなきゃ。
目配せして頷き、華音さんが、紫音さんを横抱きにして駆け出した。
「瑠衣ちゃん、急ごう」
「あ、はいっ」
後を追いつつも、やっぱり心配で、先輩を見てしまう。
ちょうど、先輩も構えに入るところ。
お互い反対方向に振り返る瞬間で、目が合った。
ふっと綻ぶ唇に、もう一度。胸の奥がキュンと疼く。
……信じてるからね。
わたしも精一杯の笑顔を作り、名残惜しさを振り払う。
だから、背後で眠り蛇の咆吼が聞こえても、今度は振り返らなかった。




