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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
35/46

目醒め

27.






「兄さん!」


 華音さんの声で、我に返った。

 すっと視界がクリアになる。見れば、華音さんが紫音さんの元へ駆け寄ってゆくところだった。少しだけど、足を引き摺っている。二人とも心配だ。慌てて、後を追った。

 静まり返った校庭に、動くものは、わたし達だけ。

 完全ではないが、地面から吹き出していた蒸気も収まっていた。先の勢いは既になく、数カ所でプスプスと、細く燻っているのみだ。靴の裏がちょっと熱いくらいで、踏んでも全然大丈夫だった。

 鬼の腕は、何処にもいない。

 ……そっか。さっきのは、やっぱり。

 見えずとも、薄々勘付いてはいたことだ。きっと邪念のエネルギーを使い果たして、此岸に存在する理由がなくなった。身軽になって、彼岸へと渡っていったのだろう。あの清々しいほど朗らかな笑い声は、つまり、そういうことなんだ。

 一方、こっちは、あんまり見たくない。

 やや離れたところで、黒い頭と胴体が、死に別れて転がっている。眠り蛇の残骸だ。断面からは、湯気だか煙だか、謎の黒い気体がもうもうと立ち上り、未だ強烈な禍々しさを放っていた。


「紫音さん!」

「兄さん、大丈夫?」


 わたし達の方を向いて、紫音さんは、にっこり笑う。

 あぁ、酷い。綺麗な顔が傷だらけだ。あんなに艶やかだった黒髪も、所々が焦げて大惨事。ほとんど衣服の体を成さない僧衣からは、焼け爛れた腕が、脚が、無残にも赤黒く変色して覗いていた。

 でも……。

 でも、勝ったんだよね?


「すごい! 圧勝じゃないですか、紫音さん!」

「いや」


 咳払いして、紫音さんは首を横に振る。


「なかなかに食えぬ。結局のところ、彼奴の呪詛を防ぎきることはできなかったのだからね。防御していては、先に此方の呪力が尽きたろう」

「そんなの、勝てば良かろうです!」


 ついテンションが上がって、わたしは声を弾ませた。拍子に、思いっきり鼻水も垂れてしまったが、この際どうでもいい。だって、もう帰れる。みんな生きてる。生きて、日常に帰れるんだ。悪夢の夜は終わり。これで――


「ところで華音、乙女達の……ケホッ……魂が見当たらないのだが」

「え? あ、ほんとだ……感じない。何処にもいないよ?」


 言われて、華音さんは、キョロキョロ辺りを見回した。

 わたしにも、なにも見えない。


「困ったね。彼奴の体内に隠されているのだとばかり思っていたけれど……」


 眉根を寄せ、紫音さんは口元に手を当てた。

 ……あれ?

 紫音さん、なんか微妙に傾いてないか?

 気のせいではなかった。よく見れば、普段まっすぐ正している姿勢が、らしくもない猫背。心持ち肩を竦め、やや右寄りに重心を掛けた様は、なにか荷物でも持っているみたいに不自然だ。

 口調にも覇気がなかった。まぁ、あれほどの術だ。心身に掛かる負荷も尋常ではないのだろうが、それにしたって息が荒い。まるで喘息、呼吸の度にゼエゼエと、変な音が混じって聞こえる。


「瑠衣君」

「あ、はい」

「頼みがあるのだが、華音の、」


 かくん。

 話の途中で、なんの前触れもなく、紫音さんが膝を折った。

 え?

 突然の不可解な行動に、わたしは一瞬、間抜け面のまま固まった。けれど違う。折った、のではない。折れたのだ。気付いたときには、もう紫音さんの肩は斜めに傾ぎ、わたしの視線よりも下ってしまっていた。

 困ったね。

 もう一度呟いて、長い黒髪が、切ないほど素敵な香りで頬を掠める。垣間見た横顔は、憔悴か痛みか。複雑な苦笑を浮かべながら、やけにゆっくりと、前のめりに崩れ落ちていった。


「兄さん!」


 すかさず華音さんが抱き留めて、肩を支える。


「どうしたの? 兄さん? 脚? 傷が痛む?」


 早口で訊ねる華音さんに、けれど紫音さんは弱々しく頭を振った。

 答えられないはずだ。長い黒髪に隠れた顔は、それでもわかるくらい真っ青で、俯く額には玉の汗。喉を押さえた手は震え、なにより戦慄く唇からは、おびただしい鮮血が滴って、襟を濡らしていたのだから。

 どうして? またなにかの冗談なの?

 思い込みたい感情を置いてけぼりに、すぅっと手足が冷たくなる。

 冗談で、こんなに血を吐けるものか。


「え、えっ!?」


 自分の声に驚いて、ようやく事態を把握した。

 紫音さんが苦しんでる!


「どどどどうしたんですか!? 紫音さん!? 大丈夫ですか!?」

「兄さん? 喉? 喉が痛いの? しっかりして!」

「病気だったんですか!? まさか血を吐くような病を押して……」

「そんなはずないよ! 兄さん? 兄さんたら!」


 なにを訊ねても、紫音さんの返事は激しい咳だった。覗き込む表情は、取り繕う余裕もなく苦痛に歪み、口だけが魚のように弱々しく動く。その度に溢れ出す血が咳と絡んで、コポコポと奇妙な泡を作った。

 これって喉から血が出てるの?

 ど、どうしよう!


「救急車! 救急車呼ばなくちゃ!」

「あの道じゃ来れない!」

「あ、そうだ! あの! くっさい丸薬! あれで治るんじゃないですか!?」

「蓬莱丹? あれは一粒作るのに十三年掛かるんだ。もうないよ!」

「そんな!」




 ――ぐちゃり。




 わたしと華音さんが大声で騒ぐ中、それは、他人事のように白々しく。

 けれど、ハッキリと聞こえた。

 二人して言葉を切り、顔を見合わせて、同じ方向へ視線を歩ませる。

 其処にあるのは、眠り蛇の死体。

 というか、それしかない。


「まさか……」


 ごく、と華音さんの喉が鳴った。

 強い腐臭が鼻を突く。

 足の裏が熱くなった。じわり滲んだ汗は、そのせいだったのだろうか。空気が、闇が質量を増し、まんべんなく全身に伸し掛かる。胃を握り潰されるような、重い憂鬱。つい先程まで校庭を覆っていたのと同じ――……いや。

 それを遙かに上回る、冷酷で凶暴で、邪な。

 呪詛の気配が充満してゆくのが、わかる。

 凍り付く場に、ぬちゃり。再び不吉な音が響いた。

 だらしなく弛緩していた眠り蛇の胴体が、ビクビクと痙攣を始める。ずるずる、ぐちゃ、びちち。最早どの部分から、どういう原理で、そんな音が出るのか。理解不能な異音と共に波打つ表皮が、服でも脱ぐみたいにたわんで、捩れた。

 ずるり。

 一際大きく胴体が跳ねて、本当に、皮が脱げた。

 同時に、首と繋がっていた断面から、なにかがヌルッと這いずり出る。芋虫かと思った。だって、まるで蝶の羽化を早回しで見ているみたい。余った皮を鬱陶しげに払い除ける手に気付かなければ、誰だって勘違いしただろう。

 そうなのだ。

 奴は、人間の胎児のように、身を丸めた格好で生えてきていた。

 もとい。奴の胴体から、胎児のように身を丸めた「上半身」が生えた。たぶん、そう述べた方が正しい。


 ぐぷ、ぐぷう。


 ひれ伏すような格好で、そいつは黒い粘液を吐いた。

 項垂れた頭に、豊かな髪が生え揃う。肩は丸みを帯びて人間のそれとなり、指先は等間隔で五つに分かれて、爪までが伸びてくる。続いて腕が、顔が。明瞭な輪郭を形成するにつれて、転がったままの丸い頭部は、あっさりと朽ちていった。

 ……ズルいだろ、これ。

 いや、わかってる。自然界に於ける生存戦略に、卑怯もクソもない。

 敵の目を欺くため、擬態を凝らす動植物は、いくらだっている。生き残るための知恵だ。そういうものだ。だけど、これはあんまりじゃないか。紫音さんの支払った代償に対して、奴の損害が軽すぎる。いっそ新品って、オマエ。

 本体は――こっち。


 ぐっぷ。


 今一度、奴はゲップにも似た不快な溜息に全身を揺らすと、太い尻尾で、強かに地面を打った。纏わり付いていた皮がぼろりと剥がれ落ち、内側の下半身を覆っていたものは、他でもない。

 鈍く黒光りする、蛇の鱗。









 まさか、まさか。

 心臓が早鐘を打つ。嘘だ。認めたくない一心で、敢えてソレを凝視した。

 思いの外、整った容貌をしている。

 派手さはないが、典型的な大和撫子。小ぶりな鼻も薄い唇も、細面の輪郭に要領よく収まり、地味なりに、こぢんまりした趣がある。長い黒髪は艶やかで、粘液を拭って乾かせば、さぞかし和服に映えただろう。美人と言って差し支えない。

 爛々と輝く、蛇の両眼さえなければ。


『ははっ…………ふ、ふはははは』


 聞き覚えのある胴間声が、場の空気を震わせた。

 あぁ、悪ふざけも大概にしてほしい。

 細い腕。なだらかな肩。慎ましやかな鎖骨。くびれた腰。ふっくらとした乳房。柔らかな曲線で描かれた体格は如何にも手弱女然としていて、そのくせ、声だけがしわがれた男のそれだ。自由すぎて、頭がガンガンする。

 頭の片隅では、既に理解していた。だけどこれが現実だなんて、あまりにも救いがない。何処かに希望の欠片でも落ちてやしないか。脳味噌を引っ繰り返しても、出てくるのは、真っ黒な絶望だけ。

 なんでこうなるの?

 蝶の羽化と見たのは、まさしく然り。

 いわば蛹だったのだ。もうオタマジャクシなんて呼べない。下半身は大蛇。上半身は女。奴は、あの冗長な胴体に守られ、ずっと安全に眠っていた。本物の肉体を危険に晒すことのないよう。無傷のままに。

 あぁ――そうか。

 だから……「眠り蛇」なのか。


『阿呆が! 貴様が葬ったは儂の皮一枚! 仮初めの衣に過ぎぬ!』


 ぐわり、蛇腹を器用に使って、奴が巨体を持ち上げる。

 ちょっとデカすぎるんじゃないだろうか。いくら手弱女だからとて、このサイズでは台無しだろう。普通の人間の倍以上はある。そんなふうに凄まれたら、整った顔も豊満な胸も、迫力満点の汚物以外の何者でもない。

 尤も、一抱えを超える胴体と融合している身だ。構造上、やむを得ない仕様なのだろうが。


『よう耐えたものよ。されど所詮は人の子。苦しかろう?』


 くくく、と嫌味ったらしく投げ付けられた嘲笑に、反論は不可能だった。事実、こうしている間にも、紫音さんの喀血は止まらない。半ば自動的に背中を擦る華音さんの手は、控えめに言って震度五弱はあった。

 畜生。

 恐怖よりも悔しさが先に立った。防御を捨てた弊害が、こんなタイミングで来るなんて。口惜しいこと極まりないが、この勝負、眠り蛇が一枚上手だったようだ。

 奴にしても、徒に呪詛をバラ撒いていたわけではない。

 大凡に於いて呪詛とは、心身の弱った箇所から狙うもの。今回の場合、紫音さんが最も酷使した器官、即ち言霊を発する喉へと、ダメージが集中してしまった。

 待っていたのだ。

 蔓延する呪詛が、どうしようもないくらい、紫音さんの身体を蝕むのを。

 オタマジャクシの肉体など、犠牲にすればいい。時間が来るそのときまで、本体さえ隠し果せれば良かったのだから。わかってみれば、なんということ。奇しくも紫音さんと同じ戦法を取っていたというオチだった。


「……、………っ」


 気丈にも、紫音さんが面を上げた。

 まだ戦うつもりなのか。無茶だ。


「駄目、兄さ……っ」


 咄嗟に華音さんが押し止めようとする。

 が、その必要はなかった。

 そもそも紫音さんは、華音さんに支えられて、やっと座っていられるような状態なのだ。立ち上がるべく踏み出した足は、一歩を進むことも叶わず、いとも容易く膝を折り、土に屈する。


「兄さん!」

「紫音さん!」


 倒れた紫音さんに取り縋るわたし達を、巨大な影が覆った。


『そのざまでは喉が潰れたな。これで小煩い言霊も唱えられまい』


 あからさまな嘲笑が降り注ぎ、見上げれば、眠り蛇が目前に迫っていた。

 わたしと紫音さんを庇う格好で、今度は華音さんが、一歩前へと進み出る。


「か、華音さん! 無理ですって!」

「下がって、瑠衣ちゃん!」


 そんなこと言われたって、わたしだけ逃げるなんて、できない。

 どうして良いのかわからず、ギュッと華音さんの背中にしがみつく。首筋を伝う大量の汗。湿る金髪に絡み、薔薇のコロンと混ざって鼻腔をくすぐる香りは、僧衣越しにも誤魔化せないほどにガタガタと震えて。

 それでも華音さんは、しっかりと胸を張り、眠り蛇を睨み付けていた。


『よう見れば、なんぞ。虫けらが増えておるわ』


 爬虫類特有の、冷たい両眼。感情を表すはずのない金色に、あからさまな侮蔑の意図を感じて、こんなときだというのに、わたしは無性に腹が立った。

 命懸けで戦った紫音さん。わたしと彼を守ろうと、我が身を盾とする華音さん。こんなにも勇敢な二人を。侮辱されたと思うと、悔しくて悔しくて仕方がない。

 ぎり、と奥歯を噛んで、わたしも眠り蛇を睨んだ。

 どうせ食われるなら、今コイツを全力で睨んでおいてやる。


『まぁ良い。腹が膨れて好都合よ』


 にぃっと不気味に笑った唇が、そのまま一直線に、耳まで裂けた。

 見せ付けるように突き出されたのは、先が二股に分かれた赤い舌だ。

 誰だよ、大和撫子なんて言った奴。やっぱり蛇じゃん。蛇女じゃん。

 どうせあの口も、アホみたいな角度に開くんだ。

 それで、わたし達を丸呑みにする気なんだ。


『貴様ら、まとめて食ろうてくれようぞ!』


 おぞましい正体を現した眠り蛇が、両手を広げて挑み掛かる。

 くそ、憶えとけよ。

 死んだら手の付けられない悪霊になって、地獄の果てまで呪ってやるから。

 華音さんの背中に顔を埋め、わたしは固く眼を閉じた。

 次の瞬間。




『――ぎゃあぅっ!』




 獣じみた悲鳴が上がった。

 わたし……じゃない。

 華音さんの声でもない。紫音さんは、気を失っている。

 誰、が?

 恐る恐る。けれど、少なからぬ期待を込めて。

 静かにそっと、瞼を開ける。

 風を受けてはためく裾は、見慣れた制服のブレザー。

 背中だった。


「……俺の身内に手ェ出してんじゃねぇよ」


 誰よりも格好良くて、広くて、大好きな背中が、其処に立っていた。







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