快笑
26.
へっぴり腰ながらも、わたしは、どうにか目的の場所へと辿り着いた。
先輩も無事、搬入完了である。いい塩梅に、大きな瓦礫の陰になっているので、そこにもたれさせ、ふぅと一息吐く。思った通り、この場には小さな結界が張られていた。安地セーブポイントってとこか。
奇しくも、意識のない兄弟三人が、仲良く並んだ。
華音さんは両足と鼻から、流音君は左手から、血を流してグッタリと横たわっていた。もう血は固まっていたが、近くで見ると、それが余計に痛々しい。
なにがあったのかわからないけど、きっとわたし達を助けようとして、無理をしたんだ。
……ごめんなさい。
わたし、いつも迷惑ばっかり掛けて……。
『ぐげぇうぅうッ!』
ヒキガエルが絞め殺されるような濁声に、感傷が吹っ飛んだ。
そうだ。眠り蛇はどうなったの?
走らせた視線が、釘付けとなる。
眠り蛇を握る左手を、更に右手が握り込んで、両手でギュウギュウと締め上げていたのだ。
『ごっ、ごえ、あ』
ビチャビチャと、大きな口から飛沫が散る。粘液か唾液か、はたまた血か。なんにせよ、さながら絞り出される歯磨き粉である。いくら軟体動物とはいえ、あれは堪らないだろう。
腕も腕だ。常時じゅうじゅう焼かれながらも、力を緩めようとしない。
――じゅぅううう。
あぁ握り潰れる、と思ったそのとき、眠り蛇が強か身を捩った。
一際激しい蒸気が上がり、両手が指の拘束を解く。ボトリと地面に落ちた眠り蛇は、まさしく這々の体で退避を試みた。さっきまでの勢いと余裕は、完全に消滅。紫音さんには目もくれず、逃げ場を探してヨタヨタと這いずる。
だが、何処へ行こうというのかね。
此処は見晴らし抜群、学校のグラウンドだ。
果たして、右手に回り込まれてしまった。
特大拳骨が、真正面から、眠り蛇をブン殴る。べちゃ、じゅう。蒸発音と粘液を撒き散らし、黒い巨体が宙を舞う。進行方向には左手がいた。蠅でも殺すような気のない仕草で、眠り蛇を叩き落とす。
それは、まだ善悪も知らない子供が、好奇心で虫をいたぶる様そのものだった。
「…………」
なんというか、言葉もない。
本当に、紫音さんが味方で良かった。しみじみ噛み締めつつ、半ば呆れた心持ちで地獄絵図を堪能していた、そのときだ。
「ぎゃあ!」
「んぐ」
なにかが、わたしの足首に絡み付いた!
反射的に蹴りを入れてしまって、はてと首を傾げた。靴の裏で仕留めた感触は、妙に生暖かい。哺乳類を思わせる弾力と凹凸だ。それに、なんか聞こえた。非常に情けない悲鳴ではあったけれど、安心と信頼のそのイケボは、ひょっとして。
「あいたたた……」
恐る恐る、足下を見る。
うずくまって鼻を押さえているのは、やっぱり。
仇志乃四兄弟次兄、華音さんだった。
「きゃーごめんなさい!」
大慌てで、顔を覗き込む。せっかく止まった鼻血が、再び出血大サービス。ボタボタと溢れて、衣の襟元を濡らしていた。あぁ、わたしったら、なんてことを。仮にも人気ボーカリストの看板を。大事な商売道具を。こともあろうに。
全力で顔面キックしちゃった!
「いいよいいよ。俺こそ、驚かせてごめん」
「ごめんなさいごめんなさい! わ、わたし! なんという狼藉を!」
「いや、いきなり女の子の脚を掴む方が悪いよね……ごめんよ」
「滅相もない! わたし如き底辺が! coma.様のご尊顔をぉおお!」
「いいって、気にしないで。俺、頑丈だからさ」
「わたしもヘシ折れてお詫びを!」
「だ、大丈夫だから! それより、瑠衣ちゃんが無事で良かった」
申し訳なさと自己嫌悪で、発狂寸前。一人アホみたいにパニクるわたしに、華音さんは、笑顔で手を振ってみせる。血塗れなのが若干ホラーだけど、その如何にも彼らしい優しさに、不覚にもジーンときた。
うん、ここはひとまず落ち着こう。
それで全部解決してから切腹しよう。そうしよう。
「ところで状況は……うわっ、兄さんなにやってんの!?」
「お、鬼の腕とか言うらしいですけど」
「あぁそっか……流音が開けた鬼門使ったんだ……」
「開いてたんですか鬼門!?」
「うん。あ、でも今は閉じてる。兄さんが閉じたんだね」
「そんな勝手口みたいに開閉していいもんなんですか……?」
斯々云々。わたし達は、眠り蛇の悲鳴と亡者達の嬌声をバックミュージックに、お互いの情報を交換した。わたしは、井戸に落ちてからの経緯を。華音さんは、古より続く眠り蛇の呪いを。それぞれ語って、欠けた部分を埋めてゆく。
だいたい付き合わせて考えると、つまりこうだ。
村人に見殺しにされた雨乞い男は、彼等を恨み、村を祟った。その祟りを鎮めるため、彼は荒御霊として祀られる。荒御霊――眠り蛇――となった彼は、おおよそ十年に一度の間隔で、生贄を求めるようになった。
それは十六歳までの処女でなくてはならない。
眠り蛇が生贄を欲するのは、満月の夜。工事現場の一件で、わたしに目を付けていたんだろう。恰も良し(わたしには、この上ない不運だったが)、御守りをなくしたところで、先輩もろとも呑み込んだ。
先輩が身代わりになってくれたおかげで、わたしは食べられずに済んだものの、どうもわたしで百人目の生贄だったらしい。
地元の年寄りによれば、眠り蛇は決して起こしてはいけない荒御霊。起こせば、とんでもない災厄が街を襲うという言い伝えが……。
「ごめんなさい! わたしのせいで迷惑かけちゃって……怪我させて……」
「なに言ってるのさ。怖い思いをしたのは瑠衣ちゃんだろう。可哀想に」
切なげに眼を細め、華音さんは、わたしの頭を撫でた。
その優しさ、気遣いに、他意はない。
涙が零れそうになった。長時間、呪詛に晒され、すっかり凍えた心を、身体を、神経を。華音さんの真心が、じんわりと暖めてくれる。ふわり香る薔薇のコロン。華音さんの匂いだ。
このまま気絶してしまえたら、楽なんだろうな。
彼の優しさに、温もりに甘えたまま。都合の良い夢だけを見て。目が醒めたら、なにもかも終わってる。それで日常に戻るんだ。わたしなんて、別に戦えるわけでもなし。いてもいなくても…………。
駄目だ。
ハッとして、わたしは唇を噛む。危ねぇ、立ったまま寝るとこだったぞ。
まだよ。眠るのは、まだ。
わたしだって当事者なんだ。先輩の助手なんだから。
最後まで見届ける義務があるだろう。
甘えたら駄目。せめて精神だけでも、一緒に戦わなきゃ。
悲劇のヒロインは、もうたくさん。
「わたしなら大丈夫です! それより紫音さんを応援しましょう!」
自分で振っておいて、しまったと眉を上げる。
指さす先は、シュール極まる衝撃映像。
眠り蛇「お手玉」されるの図、だった……。
歪な放物線を描きつつ、黒い巨体が、右手と左手の間を飛び交う。心身の自由を奪われ、平衡感覚を弄ばれる不快感は、如何ほどのものだろう。ゴエッゴエッと、嘔吐きにも似た悲鳴が、ブランコのように往来する。
何度目かにパスされたとき、左手が、これを拒否した。別に深い意味などないのだろう。ほんの戯れに、キャッチすると見せかけた掌をサッと引いたのだ。行き先は無情なる地面である。
これでは覚悟もさせてもらえない。
『グゥエッ』
不意に訪れた衝撃に、受け身も取れず、眠り蛇が呻いた。
さて、続いて開幕したのは、第一回カオス杯・鬼の腕デコピンサッカー。
ルールは簡単、右手と左手が、互いにシュートの応酬をするだけだ。ただし、球は眠り蛇とする。
バチン、びちん、ぶちん、バチン。なんとも形容し難い効果音に、眠り蛇の悲鳴が混ざり込む。衝撃に次ぐ衝撃で、眠り蛇の身体は、あっという間にボロクズへと変貌していった。
「…………」
「…………」
二人して、開いた口が塞がらない。
「兄さん、ブチキレてたもんなぁ……」
ぽつり呟く華音さんの顔には、明らかな憐憫の色が浮かんでいた。
ごめんなさい、応援の必要なさそうです。
「でも……なんか可哀想ですよね……雨乞いの人」
あんな姿に成り果てたとはいえ、元は人間。それも村を救うべく、自らを犠牲とした尊い人物なのだ。その結果がこの惨状では、さすがに同情を禁じ得ない。
身を挺してまで村を救ったのに、あっさり見殺しにされて。死んでからも呪詛になって、何百年も成仏できないでいる。おかげで紫音さんにボコられるわ、鬼の腕には玩具にされるわ、踏んだり蹴ったりだ。
食われかけておいて脳天気な話だが、今はそれが率直な印象だった。
「……ほんとに、雨乞いの男なんだろうか」
しかし、華音さんの返事は、予想とは違っていた。
「どういうことですか?」
「うん。なんかさ、気になってるんだ。それ」
腕を組み、眉を寄せて、華音さんが目線を上げた。
「瑠衣ちゃんの話だとさ、やたら傲慢っていうか……上から目線だよね、アイツ。俺が聞いたのは、無口で陰気なコミュ障タイプだったから。キャラ違うなぁって」
言われてみれば、そうだ。
登場したときから、眠り蛇は自信満々。人間風情がとか、呪術師のくせにとか、えらく紫音さんを見下していた。華音さんの話では、雨乞い男は村カースト最下位……いや、圏外のモブタイプだったはずだ。わたしみたいな(とほほ)。
呪詛になると、そんなに性格が変わるものなんだろうか。
「それに、瑠衣ちゃんが狙われたってのも引っ掛かる。瑠衣ちゃんは、石田村とは無関係なんだよ。よっぽどお腹が空いてたのかもしれないけどさ。生贄が村人じゃなくてもいいなら、そもそも村への復讐心は消えてるんじゃない? だとしたら、いつまでも生贄にこだわる理由って、なんだろうね?」
うん。そのとおりだ。そこんとこ、わたしも理不尽に思ってた。
「あとさ、言ってたんだろう? 瑠衣ちゃんで百人目って」
「え、はい。念願がなんとかって。紫音さんが邪魔したって怒ってました」
「……念願……百人で念願か……」
青いカラコンの垂れ目が、何処か遠くをみつめて瞬く。
「百人目で……どうなるんだろう?」
華音さんは、それきり口を噤んだ。
答えられずに、わたしも考え込んでしまった。
確かに、なにかが噛み合わない。
雨乞いの男。村への復讐。生贄。一見して辻褄が合っているようで、実は発端と結末が微妙にズレている。華音さんの言う通り、村人に復讐することが目的なら、生贄は村人から選出しなければ意味がないはずだ。
なのに、今回狙われたのは、わたし。
まぁ三度も生贄の捕食に失敗していれば、腹も減るだろう。形振り構わぬ事態というのも、わからないではない。でも、それにしたって、百人目が念願とは、どういう趣旨だ。これじゃまるで……。
初めから、百人の生贄が目的だったみたい。
熟考すれば、或いはこの場で答えが出ていたのかもしれない。
けれどそのとき、唐突に地面が揺れて、わたしは思考の中断を余儀なくされた。
「きゃっ」
「おっと」
バランスを崩して倒れそうになったわたしを、華音さんの腕が抱き留める。
「あ、ごめんなさ……」
「ううん。それより、俺の後ろに隠れてた方がいいかも」
「え」
「女の子が見て楽しいものじゃないと思うよ。こっから先は」
そう言われると、却って注目してしまうのが人情というもの。
華音さんの忠告を無視する形で、わたしは振り向いてしまった。
地震の原因が、両手でバンバンと地面を叩きまくっていた。
「うっわ」
な、なんで怒ってんの? 怖くなって、反射的に華音さんに縋り付く。
と思ったら、違っていた。非常に荒っぽい動作ではあるが、そこに明確な怒りはない。適当というか、ぞんざいというか。ある意味で億劫さすら含まれた、投げ遣りアクションである。
強いて言えば、癇癪だった。まだ理屈の通じない幼児や赤ちゃんが、食事中、急にむずがり出すあれ。あれに似ている。もしかして、眠いんだろうか。亡者が? それとも、意外に粘る相手に焦れてきたのか。
いずれにせよ、こっちは鬼の腕。育児板ではない。
しかして地上では、眠り蛇が逃げ惑っていた。
鬼の腕は、これといって目標を定めず、やたらめったら地面を叩く。そこに法則性はなく、意図が汲めないところが、逆に厄介なのだろう。何処へ逃げたものか、却って進路に逡巡する眠り蛇の動きは、ぎこちない。
あーもうメチャクチャだよ。
ちゃっかり華音さんに抱き付いたまま、離れる気も起きない。バンバンと地面が叩かれる度、震度三クラスの揺れが視界をぶれさせ、その馬鹿馬鹿しいほど異常な光景に、ハハッと乾いた笑いが漏れた。
これだけ数打ちゃ嫌でも当たる。
なにかの拍子に、巨大な右手が、眠り蛇を捉えた。
『ぎっ』
手形のプレス機にやられたようなものだ。
しかも念入りなプレス機である。もういっちょ、グッと地面に押し込んだ右手が離れると、跡には頭のデカいオタマジャクシが、押花よろしく刻印されていた。
……叩き潰した。
紫音さんの命令通り。本当に、叩き潰したのだ。あの恐ろしい眠り蛇を!
鋭い爪が、雑巾でも扱うように、眠り蛇を摘まみ上げた。
重い頭を下にした眠り蛇は、グッタリとして動かない。抗う力も残っていないのか、最早されるがまま、プラプラ弄ばれる振り子と化している。纏う呪力は弱体化して、鬼の爪は、微かな煙をあげるのみ。火傷すら負わせられない。
力なく伸びきった胴体を、左手が握った。
応じるように、右手が丸い頭をムンズと鷲掴みにする。
あ、いや、ちょっと待って。
わたしが勝手に焦ったところで、誰も待たない。待つわけがない。
何故だか鬼の腕は、もう笑ってはいなかった。
ごく、と華音さんの喉が鳴る。
風は吹くことを止め、明るい月は、知らん顔で惨劇の予感を見下ろしていた。
《 ――殺れ 》
痛いほどの静寂、終わりの審判を告げたのは、やはり紫音さんの声だった。
『ギィイィイイイ!!』
途端、この世のものとも思えぬ絶叫が、校庭中に響き渡った。
右手と左手が、それぞれ反対方向に、眠り蛇を引っ張り始めたのだ。
今まで幼児のように眠り蛇を玩具にしていた鬼の腕だが、これは違った。加減をしている様子は微塵もない。手の甲にも腕にも、ひしめく亡者の顔はすべて憤怒の形相を浮かべ、血走った眼で、眠り蛇を睨み付けている。
本気だ。渾身の力で引っ張ってる。
ギィギィと喚いて、眠り蛇は暴れた。とはいえ、己の身体は文字通り、敵の手中に収まってしまっている。脱走は叶わず、徒に悲鳴と粘液を撒き散らすのみだ。
びち。
にち、ぷち。
ゾッとするような音を立てながら、眠り蛇の首が伸びていった。
構造上、アイツに首があるのかどうかは、知らない。でも、胴体と頭の接着部分を首というなら、あそこは首だ。
『ヒ……イ……ヒィイイ』
声帯が伸びてしまったのか、眠り蛇の悲鳴は、なんとも奇妙な音へと変わった。隙間風のような、下手くそな笛のような。既に声とも言えない、それは初めて聞く音だ。同期して、首も長く細く。無理矢理に引き伸ばされてゆく。
眠り蛇はビクビクと痙攣し、口から体液を垂らし続ける。断じて一般人の正気が耐えられる光景ではない。わかっているのに、眼が離せなかった。
断末魔って案外、地味なのかも。
そんなことをボンヤリ考える程度には、きっと、わたしの思考も麻痺していた。人間、呪詛にだけはなるものではない。死んだら、とっとと地獄に堕ちた方がまだマシだ。いつか先輩が皮肉混じりに放った台詞、今なら激しく同意する。
プチ。皮膚が裂ける。
ぴち、パチ。あぁ肉が裁たれる。
ブチブチ、ビチ、ブチ、
びりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびりびり、
「まずい、駄目!」
華音さんの掌が、わたしの眼を覆った、そのとき。
――ぶつん。
なにかが引き千切れる音がしたかと思うと、じき「大きな丸い物」が地面に落ちて、グエッと小さく、一声鳴いた。
「…………」
寸刻置いて、わあっと歓声が巻き起こった。
老いも若きも男も女も。塞がれた視界の向こう、何百、何千という人間が、一斉に笑い声を上げている。あまりにも場違い且つ脈絡のない爆笑は、けれどまったく愉快げで、奔放に辺りを飛び回り、くるくると踊った。
やれ嬉しや。
嬉しや嬉しや。
軽し軽し。
これで昇れる。
彼処へ昇れる。
それは嘲笑でも、嬌笑でも、哄笑でもない。
心から晴れ晴れとした、無邪気な笑いだった。
「ご苦労。よくやってくれたね」
呆然と立ち尽くす耳に、紫音さんの優しい吐息が、囁いたような気がする。
「もう君達は、こんなにも綺麗だ。安心するといい。ゆっくり休みたまえ――」
《 お往き 》
応えて、呵々大笑。ふわり舞い上がった彼等は、ようやく長い呪縛から解き放たれたのだろう。朗らかに笑いながら、空高く浮かび、遠ざかり、やがて一陣の風を残して、夢のように消えてゆくのだった。