奥の手は鬼の手
25.
紫音さんは、視ていた。
真正面で鎌首を擡げる大蛇を、ではなく。
遙か頭上、いつしか群雲に翳る白い月を。
おおい、おおおい。夜空を行き交う亡者の声は、相も変わらず不気味に鳴いて、寒々しい死の旋律を奏でている。けれど最早、それは彼岸からの呼び声ではない。彼等は、来ていたのだ。わたし達の、すぐ傍まで。
おおおおおおい。
見上げる夜空が、一面俄に掻き曇る。
おかしな雲だった。手放した風船みたいに、流れる方向がバラバラだ。風雲急とは言うけれど、それにしてもちょっと自由すぎやしないか。だいたい、その悪趣味な形はなんだ。まるで生首が海水浴でもしてるみたい……、
「ひっ」
よくよく眼を凝らして、わたしは即座に後悔した。
雲ではない。
人魂、である。
曇天と見たのは、空を埋め尽くす人魂の潮流。雲だとばかり思っていた歪な楕円は、意外に小さな黒い気体で、一つ一つが人間の顔をしていたのだ。
いつの間に、こんなに集まっていたのか。とんでもない数だった。百や二百じゃ利かない。墓場より酷い。ひしめく彼等の隙間から、うっすらと射す月光に、何故だか鮭の遡上が思い浮かんで、吐き気がした。
いや、魚というより……虫か。
夏の夜、さながら蛍光灯に群がる羽虫。
「あぁ、頃合いだ」
紫音さんの僧衣が、黒髪が、巻き上がる風に踊る。
尋常ならざる雰囲気に、わたしは、もう脳味噌まで凍り付いていた。
『貴様、其処を動くな!』
場に満ちる異常な空気を感じたのは、わたしだけではなかったらしい。
明らかに狼狽えた様子で、眠り蛇が紫音さんを怒鳴り付けた。
そうだった! 漫画じゃあるまいし、こんなとき、バカ正直に待っててくれる敵が、何処にいる? 追い詰めたはずの獲物が、不穏なイベントを企てているのだ。これは迅速に排除せねばならない。誰だってそうする。
どんな奥の手があるにせよ、発動させなければ問題ないのだ。本人さえ始末してしまえば良かろうなのだ。わたしだって、そうする。
眠り蛇も、直ちに行動へ移った。
黒い巨体が、二メートルほどを一息に跳躍し、紫音さんに襲い掛かった。まさに蛇が蛙を呑まんとする挙動。凄まじい速さだった。危ない。叫んだところで、間に合わない。
あっと思った瞬間、最大限にまで開かれた口が、すぐ目と鼻の先に!
「いいとも。私は動かない」
――パキィイン!
凄い破裂音がして、弾かれたように、眠り蛇が吹っ飛んだ。
というか実際、弾けた。超速で紫音さんに肉薄した奴の身体を、ガラスを思わせる薄い膜がぐにゃりと受け止め、瞬時に包み込んで、粉々に爆発四散したのだ。
「……一歩も動かずとも良いのだよ」
相当な衝撃だった。紫音さんの髪一本にすら触れることもなく、三メートルほど弾き飛ばされた眠り蛇は、引っ繰り返ってピクピクと痙攣している。その巨体には腹と言わず頭と言わず、漏れなく深い裂傷が刻まれていた。
『馬鹿な……まだ……斯様な術を…………』
「ふふ。案の定、一直線に突っ込んできてくれて、ありがとう」
どうやら今のは、防御と攻撃を兼ねた反撃技。それも、かなり暴力的な部類の術らしかった。なるほど、動かずに済むはずだ。哀れ眠り蛇は、あからさまな嫌味に反論しようともせず、仰向けに伸びたまま、大きな口を震わせていた。
ちょ、紫音さん。こんなの使えるなら、何度も機会があったんじゃ……?
「マルチタスク、とか言うのだったね。一度に複数の呪詛を扱う場合、呪力の配分と所要時間の計算が成否の鍵だ。聞こえているなら、憶えておきたまえ。世音」
唐突な振りに、わたしは、膝枕の先輩を見る。
兄の有り難い垂訓が聞こえているのか、いないのか。すっかり回復した先輩は、安らかな顔で呑気な寝息を立てていた。
「これだけ集めるには、存外、時間が掛かるようだからね」
それを聞いて、ゾワッと鳥肌が浮いた。
……そうか。
紫音さんは、ただ攻めていたわけではない。
初めから、眠り蛇を殴殺する気など更々なかった。紫音さんの真の目的は、この状況を作ること。つまりあの肉弾戦は、これから行う呪詛を妨害されぬよう、舞台を整える手順だったのだ。
けれどもその呪詛は、発動まで時間が掛かる上に、奴に勘付かれて対処されてしまう可能性が大きかった。わたしが気付いたくらいなんだから。
従って、その際に生じる隙を、如何に切り抜けるか。考えた結果が、先の反撃技なのだろう。
紫音さんは、ずっと、そのための呪力を練っていたのだ。眠り蛇の攻撃パターンを観察しながら。どのタイミングで奴の動きを止めるか。それまでに肉弾戦で使える呪力は、どれくらいか。「奥の手」に必要な所要時間と呪力配分。
全部。全部、緻密に逆算してたんだ。
怖ッ!
なんて人だ。
仇志乃家の弟達が、何故あんなにも長兄を恐れるのか。
今更ながら、わかったような気がした。
おおおおぉおおおい。
期待とも好奇心ともつかない、変に高揚した声が、耳元で唸りを上げた。
近い。
空耳かと、キョロキョロ辺りを見回す。その間にも、背後で。足下で。おおい、おおいと、誰かが笑う。
なにこれ。わたし、幻聴を聞いてるの?
ショッキングな出来事の連続で、とうとう精神が参ったんだろうか。
でも、だとしたら。
脚。腰。髪。
へたり込むわたしの身体に纏わり付く、幾本もの痩せた腕も……幻覚?
「見えるかね? 街中の邪念と悪意が、此処に集まっているよ。往くべき場所を見失い、自ら檻に吹き溜まって、標もなく叫ぶ術しか持たぬ。哀れな存在達だ」
すらり、星を掴むように、紫音さんは夜空へ手を差し伸べる。
軽蔑したような口調とは裏腹に、その指先は紫音さんらしく優雅で繊細で。
どこか愛おしげですらあった。
「おいで。卑しき有象無象ども。私が使命を与えてあげよう」
途端、これまでで最大の突風が、わたしのスカートを全開まで捲り上げた。
風圧に眼を閉じたのは一瞬のこと。その一瞬で、見事に全身が凍った。
わたしは聞いてしまったのだ。空へと昇る大音量の嬌声。
男も女も区別なく、大勢が確固たる意思を持って送る喝采。
それは麗しき主人に従属する喜びを叫ぶ、奴隷達の絶叫だった。
おおおおおおおおおおい。
声は風を纏って舞い上がり、互いに互いを押し合って、愉快げに渦を巻いた。
背後に佇む満月の、なんと明るく不憫なことか。たちまち雲は裂けて霧散し、渦に食われてしまった。その月光、周りの人魂、流れる雲をも絡め取り、ごうごうと笑いながら、しかし一方で渦は、そこはかとない邪気を撒き散らす。
あぁそうか。現実感のない光景を目の当たりにしながら、わたしは、妙に納得していた。彼等が此岸へ近付いたのではない。あの空に、彼岸が来たのだ。彼処では今、風向きも重力も、自然の法則さえも狂っている。
けたたましく笑う渦が、然りとばかりに、身悶えた。
すると、どうしたことか。好き勝手に飛び回っていた渦が、ある箇所でぴたりと止まり、なにやら奇妙な姿へと変形を始めた。
それが、一カ所ではない。
二カ所である。闇夜に浮かぶ眼のように、左右対称に陣取った渦が、モゾモゾと膨らみ、質感を増し、輪郭を備え、見知った形に整形されてゆく。
「奥の手、か……ふふふ。言い得て妙だね」
こんな状況とて、わたしは、紫音さんの言葉に頷くしかなかった。
だって、腕だ。
次の瞬間、呆然と眺める夜空には、右手と左手。
二本の腕が、ニョッキリと宙から生えて浮かんでいたのだから。
肘から先。黒と緑を混ぜた感じの、グロい配色だった。肉付きや骨格からして、男の腕だろう。皮膚と言って良いものか、表面には、これまた無茶な顔色の面子が勢揃い。指先まで鈴生りとなって、前科百犯の人相でニタニタと笑っていた。
猛禽類を思わせる鋭い爪が、一狩り前の準備運動とばかりに、空を掻く。
でも、わたしが腰を抜かしたのは、そのビジュアルではない。
おかしいおかしい。サイズがおかしい。
その大きさたるや、まるっきり、ふざけた建造物なのだ。
眠り蛇も大きいけれど、ハッキリ言って比じゃなかった。こちとら親指だけで、成人男性に匹敵するサイズだ。この腕と並べれば、眠り蛇なんて、リカちゃん人形同然。いや、百三十円の缶コーヒーか。それくらいの差があった。
こんなものが、偶然で生成されるはずがない。
紫音さんによる計画的犯行だ。
眠り蛇自身に言霊か効かないなら、他者を操って攻撃させればいい。奴には無効化されてしまったが、それは例外。基本的に言霊は、あらゆる意思ある者を操る。生者だろうと亡者だろうと、関係なしに。
最初から、これが目的だったんだ。紫音さん。
わたしだって、先輩の助手として様々な呪詛を経験した。その勘が言う。
これはヤバい。非常にヤバいぞ。
紫音さんによって、完全にコントロールされているのは、わかる。それでも枷が外れれば、あの腕は文字通り手当たり次第、辺りの生命を貪り食うだろう。直感というか、本能で理解した。
あの腕は、凡そ人間界に存在する悪意の塊で構成されている。
「鬼の腕」
他人事のように言って、紫音さんは、暴れる黒髪を掻き上げる。
続いて与えられた命令は、極めてわかりやすい、シンプルなものだった。
《 叩 き 潰 せ 》
ぐわん、と風が撓り、冗談のような拳骨が振り下ろされた。
どうにか様相を取り戻したらしく、すんでのところで、眠り蛇は、これを躱す。だが腕は二本あるのだ。即ち、逃げた先には、左手が待ち構えていた。
無造作に――いやマジで机のゴミでも払うみたいに――巨大な左手が、眠り蛇を叩く。咄嗟に身を屈めるも、大きな頭が仇となった。鼻の辺りから上が、左手の隅に残ってしまったのだ。
左手と地面に挟み込まれ、おかしな形に折れた胴体は、悲痛な声で喚きながら、そのままザリザリと地面を削っていった。
『がっ……おぉおおお!』
遙々遠方まで運ばれて、ようやく眠り蛇は、左手から脱出した。
その背後に、再び右手が現れる。
ん、なんか変?
軽く拳を握って、輪を作る要領で、中指と親指の先がくっついてる。
あれは……。
「あぁ、そうだった。忘れるところだったのだよ」
まさか。まさかな。
はは、と謎の引き笑いが漏れる。
「火傷の礼をさせてもらうよ。お前が原形を留めているうちにね」
その、まさかだった。
紫音さんが言うや否や、メガサイズのデコピンが、眠り蛇の頭を直撃した。
『ごぉおッ!!』
ご愁傷様な叫びと共に、黒い塊が転がってゆく。
もげたか、と内心ドキッとしたが、撒き散らかっているのは、奴の粘液だった。あれだけ紫音さんの攻撃に耐えた頭だ。ちょっとやそっとでは外れない、安心設計なんだろうな。
今度は左手が、眠り蛇の回転を止めた。
止めたというか、摘まみ上げて、手の内にギュッと握り込んだ。
じゅぅうう。髪の毛の焼ける臭いがして、左手から蒸気が爆ぜた。何人かの顔が焼けたみたいだ。きゃあきゃあと、悲鳴が上がる。可笑しいのか、別の何人かが、ドッと色めき立つ。哄笑。そこに混じる、眠り蛇の悶え苦しむ声。
……さっきので外れちゃった方が、楽だったんじゃないだろうか。
阿鼻叫喚の地獄絵図に、わたしは、ひたすらドン引きするばかりだった。
でもこれ、いけるんじゃね?
絵面は最悪だけど、圧倒的だ。あの腕スゲェ。攻撃力、存在感、威圧感。どこを取っても、眠り蛇の上位互換じゃないのか。負ける気がしない。このままサクッと畳めるかもしれない。
いいぞいいぞ。ハラハラさせてくれちゃって、もう。
俄然、燃え上がる希望に、わたしの心は熱く奮い立った。
「あ、熱っ」
直後、わたしは間抜けな声を上げて、腰を浮かせていた。
なにこれ。胸アツとかじゃなくて、ほんとに熱い。
尻が熱いぞ!?
ちょっとどうなってんの?
確認すれば、なんということ。地面に走った蜘蛛の巣状の亀裂から、もうもうと黒い蒸気が噴き出しているではないか。
此処だけではなかった。あっちもこっちも、校庭中の亀裂という亀裂が、そろって勢いよく黒煙を噴き上げている。凄まじい熱気と腐臭、不快感が、喉と肺を詰まらせ、気管を焼いた。
実はうちの学校、地下に温泉が……なんてオチはないだろう。
呪詛だ。
紫音さんが、鬼の腕の呪詛を着々と進めていたのと同じ。
眠り蛇の呪詛も、また濃度と悪質さを増していたのだ。
マズい!
このまま座ってたら、数分と経たずに焼き芋だ。
移動しなきゃ。ひとまず、華音さん達のところへ行こう。
手を空けるため、護符を畳んでブラジャーに押し込む。挟む谷間がないのは悲しいが、これなら少しぐらい、無茶な体勢を取っても落とすまい。よし、と頬を叩いて、気合い入魂。震える脚を叱咤して、立ち上がった。
有り難いことに眠り蛇は、わたしの存在を気にも留めていない。護符の効果で、接触している先輩共々、認識できなくなってるんだろう。今のうちだ。
わたしは、先輩の両足を掴み、ズルズルと引き摺る形で後退を開始した。
……なんという死体遺棄!




