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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
33/46

奥の手は鬼の手

25.






 紫音さんは、ていた。

 真正面で鎌首を擡げる大蛇を、ではなく。

 遙か頭上、いつしか群雲に翳る白い月を。

 おおい、おおおい。夜空を行き交う亡者の声は、相も変わらず不気味に鳴いて、寒々しい死の旋律を奏でている。けれど最早、それは彼岸からの呼び声ではない。彼等は、来ていたのだ。わたし達の、すぐ傍まで。


 おおおおおおい。


 見上げる夜空が、一面俄に掻き曇る。

 おかしな雲だった。手放した風船みたいに、流れる方向がバラバラだ。風雲急とは言うけれど、それにしてもちょっと自由すぎやしないか。だいたい、その悪趣味な形はなんだ。まるで生首が海水浴でもしてるみたい……、


「ひっ」


 よくよく眼を凝らして、わたしは即座に後悔した。

 雲ではない。

 人魂、である。

 曇天と見たのは、空を埋め尽くす人魂の潮流。雲だとばかり思っていた歪な楕円は、意外に小さな黒い気体で、一つ一つが人間の顔をしていたのだ。

 いつの間に、こんなに集まっていたのか。とんでもない数だった。百や二百じゃ利かない。墓場より酷い。ひしめく彼等の隙間から、うっすらと射す月光に、何故だか鮭の遡上が思い浮かんで、吐き気がした。

 いや、魚というより……虫か。

 夏の夜、さながら蛍光灯に群がる羽虫。


「あぁ、頃合いだ」


 紫音さんの僧衣が、黒髪が、巻き上がる風に踊る。

 尋常ならざる雰囲気に、わたしは、もう脳味噌まで凍り付いていた。


『貴様、其処を動くな!』


 場に満ちる異常な空気を感じたのは、わたしだけではなかったらしい。

 明らかに狼狽えた様子で、眠り蛇が紫音さんを怒鳴り付けた。

 そうだった! 漫画じゃあるまいし、こんなとき、バカ正直に待っててくれる敵が、何処にいる? 追い詰めたはずの獲物が、不穏なイベントを企てているのだ。これは迅速に排除せねばならない。誰だってそうする。

 どんな奥の手があるにせよ、発動させなければ問題ないのだ。本人さえ始末してしまえば良かろうなのだ。わたしだって、そうする。

 眠り蛇も、直ちに行動へ移った。

 黒い巨体が、二メートルほどを一息に跳躍し、紫音さんに襲い掛かった。まさに蛇が蛙を呑まんとする挙動。凄まじい速さだった。危ない。叫んだところで、間に合わない。

 あっと思った瞬間、最大限にまで開かれた口が、すぐ目と鼻の先に!


「いいとも。私は動かない」


 ――パキィイン!


 凄い破裂音がして、弾かれたように、眠り蛇が吹っ飛んだ。

 というか実際、弾けた。超速で紫音さんに肉薄した奴の身体を、ガラスを思わせる薄い膜がぐにゃりと受け止め、瞬時に包み込んで、粉々に爆発四散したのだ。


「……一歩も動かずとも良いのだよ」


 相当な衝撃だった。紫音さんの髪一本にすら触れることもなく、三メートルほど弾き飛ばされた眠り蛇は、引っ繰り返ってピクピクと痙攣している。その巨体には腹と言わず頭と言わず、漏れなく深い裂傷が刻まれていた。


『馬鹿な……まだ……斯様な術を…………』

「ふふ。案の定、一直線に突っ込んできてくれて、ありがとう」


 どうやら今のは、防御と攻撃を兼ねた反撃技。それも、かなり暴力的な部類の術らしかった。なるほど、動かずに済むはずだ。哀れ眠り蛇は、あからさまな嫌味に反論しようともせず、仰向けに伸びたまま、大きな口を震わせていた。

 ちょ、紫音さん。こんなの使えるなら、何度も機会があったんじゃ……?


「マルチタスク、とか言うのだったね。一度に複数の呪詛を扱う場合、呪力の配分と所要時間の計算が成否の鍵だ。聞こえているなら、憶えておきたまえ。世音」


 唐突な振りに、わたしは、膝枕の先輩を見る。

 兄の有り難い垂訓が聞こえているのか、いないのか。すっかり回復した先輩は、安らかな顔で呑気な寝息を立てていた。


「これだけ集めるには、存外、時間が掛かるようだからね」


 それを聞いて、ゾワッと鳥肌が浮いた。

 ……そうか。

 紫音さんは、ただ攻めていたわけではない。

 初めから、眠り蛇を殴殺する気など更々なかった。紫音さんの真の目的は、この状況を作ること。つまりあの肉弾戦は、これから行う呪詛・・・・・・・・を妨害されぬよう、舞台を整える手順だったのだ。

 けれどもその呪詛は、発動まで時間が掛かる上に、奴に勘付かれて対処されてしまう可能性が大きかった。わたしが気付いたくらいなんだから。

 従って、その際に生じる隙を、如何に切り抜けるか。考えた結果が、先の反撃技なのだろう。

 紫音さんは、ずっと、そのための呪力を練っていたのだ。眠り蛇の攻撃パターンを観察しながら。どのタイミングで奴の動きを止めるか。それまでに肉弾戦で使える呪力は、どれくらいか。「奥の手」に必要な所要時間と呪力配分。

 全部。全部、緻密に逆算してたんだ。


 怖ッ!

 なんて人だ。

 仇志乃家の弟達が、何故あんなにも長兄を恐れるのか。

 今更ながら、わかったような気がした。


 おおおおぉおおおい。


 期待とも好奇心ともつかない、変に高揚した声が、耳元で唸りを上げた。

 近い。

 空耳かと、キョロキョロ辺りを見回す。その間にも、背後で。足下で。おおい、おおいと、誰かが笑う。

 なにこれ。わたし、幻聴を聞いてるの?

 ショッキングな出来事の連続で、とうとう精神が参ったんだろうか。

 でも、だとしたら。

 脚。腰。髪。

 へたり込むわたしの身体に纏わり付く、幾本もの痩せた腕も……幻覚?


「見えるかね? 街中の邪念と悪意が、此処に集まっているよ。往くべき場所を見失い、自ら檻に吹き溜まって、標もなく叫ぶ術しか持たぬ。哀れな存在達だ」


 すらり、星を掴むように、紫音さんは夜空へ手を差し伸べる。

 軽蔑したような口調とは裏腹に、その指先は紫音さんらしく優雅で繊細で。

 どこか愛おしげですらあった。


「おいで。卑しき有象無象ども。私が使命を与えてあげよう」









 途端、これまでで最大の突風が、わたしのスカートを全開まで捲り上げた。

 風圧に眼を閉じたのは一瞬のこと。その一瞬で、見事に全身が凍った。

 わたしは聞いてしまったのだ。空へと昇る大音量の嬌声。

 男も女も区別なく、大勢が確固たる意思を持って送る喝采。

 それは麗しき主人に従属する喜びを叫ぶ、奴隷達の絶叫だった。


 おおおおおおおおおおい。


 声は風を纏って舞い上がり、互いに互いを押し合って、愉快げに渦を巻いた。

 背後に佇む満月の、なんと明るく不憫なことか。たちまち雲は裂けて霧散し、渦に食われてしまった。その月光、周りの人魂、流れる雲をも絡め取り、ごうごうと笑いながら、しかし一方で渦は、そこはかとない邪気を撒き散らす。

 あぁそうか。現実感のない光景を目の当たりにしながら、わたしは、妙に納得していた。彼等が此岸へ近付いたのではない。あの空に、彼岸が来たのだ。彼処では今、風向きも重力も、自然の法則さえも狂っている。

 けたたましく笑う渦が、然りとばかりに、身悶えた。

 すると、どうしたことか。好き勝手に飛び回っていた渦が、ある箇所でぴたりと止まり、なにやら奇妙な姿へと変形を始めた。

 それが、一カ所ではない。

 二カ所である。闇夜に浮かぶ眼のように、左右対称に陣取った渦が、モゾモゾと膨らみ、質感を増し、輪郭を備え、見知った形に整形されてゆく。


「奥の手、か……ふふふ。言い得て妙だね」


 こんな状況とて、わたしは、紫音さんの言葉に頷くしかなかった。

 だって、腕だ。

 次の瞬間、呆然と眺める夜空には、右手と左手。

 二本の腕が、ニョッキリと宙から生えて浮かんでいたのだから。

 肘から先。黒と緑を混ぜた感じの、グロい配色だった。肉付きや骨格からして、男の腕だろう。皮膚と言って良いものか、表面には、これまた無茶な顔色の面子が勢揃い。指先まで鈴生りとなって、前科百犯の人相でニタニタと笑っていた。

 猛禽類を思わせる鋭い爪が、一狩り前の準備運動とばかりに、空を掻く。

 でも、わたしが腰を抜かしたのは、そのビジュアルではない。

 おかしいおかしい。サイズがおかしい。

 その大きさたるや、まるっきり、ふざけた建造物なのだ。

 眠り蛇も大きいけれど、ハッキリ言って比じゃなかった。こちとら親指だけで、成人男性に匹敵するサイズだ。この腕と並べれば、眠り蛇なんて、リカちゃん人形同然。いや、百三十円の缶コーヒーか。それくらいの差があった。


 こんなものが、偶然で生成されるはずがない。

 紫音さんによる計画的犯行だ。

 眠り蛇自身に言霊か効かないなら、他者を操って攻撃させればいい。奴には無効化されてしまったが、それは例外。基本的に言霊は、あらゆる意思ある者を操る。生者だろうと亡者だろうと、関係なしに。

 最初から、これが目的だったんだ。紫音さん。


 わたしだって、先輩の助手として様々な呪詛を経験した。その勘が言う。

 これはヤバい。非常にヤバいぞ。

 紫音さんによって、完全にコントロールされているのは、わかる。それでも枷が外れれば、あの腕は文字通り手当たり次第、辺りの生命を貪り食うだろう。直感というか、本能で理解した。

 あの腕は、凡そ人間界に存在する悪意の塊で構成されている。


「鬼の腕」


 他人事のように言って、紫音さんは、暴れる黒髪を掻き上げる。

 続いて与えられた命令は、極めてわかりやすい、シンプルなものだった。


《 叩 き 潰 せ 》


 ぐわん、と風がしなり、冗談のような拳骨が振り下ろされた。

 どうにか様相を取り戻したらしく、すんでのところで、眠り蛇は、これを躱す。だが腕は二本あるのだ。即ち、逃げた先には、左手が待ち構えていた。

 無造作に――いやマジで机のゴミでも払うみたいに――巨大な左手が、眠り蛇を叩く。咄嗟に身を屈めるも、大きな頭が仇となった。鼻の辺りから上が、左手の隅に残ってしまったのだ。

 左手と地面に挟み込まれ、おかしな形に折れた胴体は、悲痛な声で喚きながら、そのままザリザリと地面を削っていった。


『がっ……おぉおおお!』


 遙々遠方まで運ばれて、ようやく眠り蛇は、左手から脱出した。

 その背後に、再び右手が現れる。

 ん、なんか変?

 軽く拳を握って、輪を作る要領で、中指と親指の先がくっついてる。

 あれは……。


「あぁ、そうだった。忘れるところだったのだよ」


 まさか。まさかな。

 はは、と謎の引き笑いが漏れる。


「火傷の礼をさせてもらうよ。お前が原形を留めているうちにね」


 その、まさかだった。

 紫音さんが言うや否や、メガサイズのデコピンが、眠り蛇の頭を直撃した。


『ごぉおッ!!』


 ご愁傷様な叫びと共に、黒い塊が転がってゆく。

 もげたか、と内心ドキッとしたが、撒き散らかっているのは、奴の粘液だった。あれだけ紫音さんの攻撃に耐えた頭だ。ちょっとやそっとでは外れない、安心設計なんだろうな。

 今度は左手が、眠り蛇の回転を止めた。

 止めたというか、摘まみ上げて、手の内にギュッと握り込んだ。

 じゅぅうう。髪の毛の焼ける臭いがして、左手から蒸気が爆ぜた。何人かの顔が焼けたみたいだ。きゃあきゃあと、悲鳴が上がる。可笑しいのか、別の何人かが、ドッと色めき立つ。哄笑。そこに混じる、眠り蛇の悶え苦しむ声。

 ……さっきので外れちゃった方が、楽だったんじゃないだろうか。

 阿鼻叫喚の地獄絵図に、わたしは、ひたすらドン引きするばかりだった。


 でもこれ、いけるんじゃね?

 絵面は最悪だけど、圧倒的だ。あの腕スゲェ。攻撃力、存在感、威圧感。どこを取っても、眠り蛇の上位互換じゃないのか。負ける気がしない。このままサクッと畳めるかもしれない。

 いいぞいいぞ。ハラハラさせてくれちゃって、もう。

 俄然、燃え上がる希望に、わたしの心は熱く奮い立った。


「あ、熱っ」


 直後、わたしは間抜けな声を上げて、腰を浮かせていた。

 なにこれ。胸アツとかじゃなくて、ほんとに熱い。

 尻が熱いぞ!?

 ちょっとどうなってんの?

 確認すれば、なんということ。地面に走った蜘蛛の巣状の亀裂から、もうもうと黒い蒸気が噴き出しているではないか。

 此処だけではなかった。あっちもこっちも、校庭中の亀裂という亀裂が、そろって勢いよく黒煙を噴き上げている。凄まじい熱気と腐臭、不快感が、喉と肺を詰まらせ、気管を焼いた。

 実はうちの学校、地下に温泉が……なんてオチはないだろう。

 呪詛だ。

 紫音さんが、鬼の腕の呪詛を着々と進めていたのと同じ。

 眠り蛇の呪詛も、また濃度と悪質さを増していたのだ。

 マズい!

 このまま座ってたら、数分と経たずに焼き芋だ。

 移動しなきゃ。ひとまず、華音さん達のところへ行こう。

 手を空けるため、護符を畳んでブラジャーに押し込む。挟む谷間がないのは悲しいが、これなら少しぐらい、無茶な体勢を取っても落とすまい。よし、と頬を叩いて、気合い入魂。震える脚を叱咤して、立ち上がった。

 有り難いことに眠り蛇は、わたしの存在を気にも留めていない。護符の効果で、接触している先輩共々、認識できなくなってるんだろう。今のうちだ。

 わたしは、先輩の両足を掴み、ズルズルと引き摺る形で後退を開始した。

 ……なんという死体遺棄!







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