なにも心配はいらない
24.
想像してみてほしい。
たとえば直径二メートルの砲丸が、がばっと鈍角にまで口を開けて、自分を呑み込もうとしてきたら。あなたなら、どうするだろうか。
わたしだったら、動けない。頭を庇うか悲鳴を上げるか、それぐらいはするかもしれないけど、次のシーンには、あっさり相手の腹に収まっていると思う。普通、そうだよね。映画じゃあるまいし、丸腰の一般人なんだから。
だけど、紫音さんの取った行動は、驚くべきものだった。
掌底である。
飛び掛かった眠り蛇の下に滑り込み、掌底で腹を突き上げたのだ。
ドン、という物凄い音がした。どんな威力だったのか、眠り蛇の身体がバウンドする。間髪入れず、膝蹴りと共に両の手刀が叩き込まれた。
『が……ッ!?』
「へ」の字に曲がった眠り蛇が、呻き声を上げた。奴に骨があったら、ヘシ折れる音も聞こえただろう。
紫音さんは、まだ解放を許さない。両手で奴の頭の付け根を抱き込み、衣の袖を使って、締め上げる。びたんびたんと、粘液を撒き散らしながら、太い尻尾が地面を打った。
「あ」
手が滑った。
すかさず眠り蛇が、ぬるりと抜け出す。
『何者だ、貴様!?』
たっぷり三メートルは離れて、眠り蛇が叫んだ。
「だから一介の僧なのだよ」
今度は、紫音さんが飛び掛かる。
というか、飛んだ。
跳んだ、のではない。本当に飛んだ。
助走もなく、ふわり舞い上がった長身。虚を突かれて、眠り蛇が硬直する。紫音さんは、その一瞬を逃さなかった。くるりと転身、急降下して、眠り蛇の脳天に、綺麗な踵落としを食らわせる。
ドン。と、また衝撃音が響いた。花火か太鼓のような、重量を感じさせる音だ。併せて、奴の喉からも苦痛の声が漏れる。もしかして直接、呪力をブチ込んでるっていうのか。先輩みたいに、物理で?
反動を利用して、今一度、紫音さんは宙に舞った。より高く。
僧衣が捲れ、夜目にも真っ白な太腿が露わとなる。
――ちょっと。
さっきから、重力、仕事してない。
なにこれ。なんなの? 紫音さんの動き、おかしいんだけど。まるでCG。速度も跳躍力も、対応力も、ありえない。合気道の有段者とは聞いていたが、もうそんな次元じゃないだろ。最初の超反応からして、人間離れもいいとこだ。
紫音さん、あんな化物と、肉弾戦してる!
「訊かれなかったから、言わなかったけれどね」
長い黒髪と紫の衣が、ふわりと月にシルエットを描いた。
「なにも他者を操るだけが言霊の使い方ではないのだよ」
再び、急転直下。ぶにゅっと嫌な形に凹んだのは、また頭だった。弱点と判断したのだろうか。執拗に狙ってる。そりゃまぁ、攻略法としては正しいけどさ。ちと無慈悲が過ぎやしませんか、紫音さん。
と、半分相手に同情しかけたわたしだったが、そこは敵だ。やはり情けは掛けるべきではなかった。
どんな構造をしているのか、頭を踏み潰されたままの状態で、眠り蛇が太い尻尾を振るったのだ。
紫音さんは、グリコポーズそっくりの不安定な姿勢。
それでなくとも背後からの反撃、避けきれなかった。
「ぐっ」
脇腹に尻尾の直撃を受け、紫音さんが、初めて唸った。長身が傾ぐ。吹っ飛ばされはしなかったものの、あれは相当に重いはずだ。踏ん張った足が、ざざっと砂煙を上げる。まずい。倒れたら、奴がマウントを取りに来る。
あわや横倒しか、と息を呑んだ、そのときだ。
紫音さんの白い腕が、尻尾を抱えた。
防御――ではない。なんと紫音さんは、奴の体重と勢いを生かし、ここでまさかの一本背負い。気合いの声と共に、眠り蛇の巨体をブン投げてしまった。
「はぁっ!」
引っ繰り返った腹を目掛けて、更に容赦のない踏み蹴りが放たれる。
しかし、眠り蛇もしぶとい。ぐにゃりと身体を捩って、これを躱した。紫音さんの足が、ほぼ同時に、地面へと足形を残す。惜しい。あぁもう、ぐにゃぐにゃ鬱陶しいな。ウナギか、こいつ。
『これは……貴様……よもや』
学習能力を発揮して、眠り蛇は、さっきよりも長い間合いを確保した。
頭は、何事もなかったかのように元通りになっている。
こいつも人間じゃ……なかったな、最初っから。
つーか、今更だけど、蛇だったのか。てっきりオタマジャクシだとばっかり。
『よもや、己の身に言霊を』
「正解」
乱れた長い黒髪を掻き上げ、紫音さんは短く答えた。
「相手に通じぬのならば、己に命じるまで。この身よ天狗となれ、とでもね」
自分に言霊!?
そ、そんなことできたの……?
初耳だが、一見に如かずである。ご覧の有様である。こいつ人間じゃねぇという感想は、そのものズバリ当たっていたのだ。今の紫音さんは、身体こそ生身の青年でありながら、内部データ的には人外、それも明らかなチート。
本当に《天狗》ってわけだ。
だけど、それって自分自身を呪うってことだよね?
いろんな意味でゾッとした。
「肉体を得たのは不運だったね。物理干渉を許すことになるのだから」
合気道の構え(先の自供によれば、これは詐欺罪に相当するのでは?)を取った紫音さんの全身から、黒い煙のようなものが立ち上る。
呪力だ。物凄く強い。素人のわたしにも見えるほど具現化してる。
「このままじわじわ嬲り殺されるのが望みかね? それとも、大人しく調伏されるかね? 好きな方を選びたまえ」
『ほざけ! 人間風情が、いい気になりおって!』
ぐわり、眠り蛇が鎌首を擡げ、奴もまた邪念を纏った。
両者の周囲に満ちた憎悪は、月下の薄闇にあって、尚暗い。或いは巨大な鎌か、或いは牙を剥く猛獣か。互いに互いの生命を刈り取らんと、相手を威嚇し、自身を誇示し、二つの力が、有りっ丈の気迫で睨み合う。
なんという殺意の応酬。
ごく、と渇いた喉が鳴る。実は飲み込む唾なんて、とっくの昔に枯れていた。
おんおんと不吉な声を絡ませて、強く風が吹き抜ける。紫音さんの長い黒髪は、生き物のように乱れて踊り、波打つ海藻めいて、邪念の海に漂うのだった。
「ならば仕方あるまい」
紫音さんが、これみよがしに溜息を吐いた。
「私の大切な者達を傷付けた罪は重い。死して償ってもらおう!」
『死ぬるのは貴様だ! 阿呆が!』
両者、同時に地を蹴った。
図らずも、タイミングは完璧に一致。真っ正面からいった。ガチのガチンコ対決だ。テレビで見た相撲の立会いが、頭を過ぎる。力士相手なら四つにでも組む流れだが、こちとら巨大な頭を持つ蛇との大一番。この角度は鬼門ではないのか。
前傾姿勢の紫音さんに対して、案の定、奴は大口を開けて待ち構える。
だが甘いぞ。仮にも仇志乃の長兄が、考えなしに特攻するわけないだろ。
果たして紫音さんは、微妙に進路をずらして、難なくこれを躱し――
――ドン。
奴の喉元に、かの有名な西部式ラリアットを見舞った。
そりゃあもう本家不沈艦もウィーと喜びそうな、美しくも猛然たる一撃である。双方、全力前進のすれ違いざまに、この反動だ。さすがの巨体も、衝撃で宙に浮き上がった。首がもげないのが不思議なくらい、ヤバい音がした。
相手が人外で良かった。人間なら、通り魔殺人事件として明日の朝刊一面を飾っただろう。
けれども、紫音さんの狙いは、その無防備に晒された腹ではない。
喉だ。
急所と思しき場所は、もれなく潰していく意向か。実に紫音さんらしい。
もうどっちが人外やら、格ゲー顔負けのモーションで、しゃがみジャンプに絡めた跳ね上がりアッパーが、眠り蛇の喉を突き上げる。
――ドドドドドドン!
なっ、七連撃!?
打ち上げられるみたいに、眠り蛇が夜空へ運ばれてゆく。
そろそろ慣れ始めていたわたしも、これにはビビった。だって、全然見えなかったんだもん。音だけが、少し遅れて聞こえた。速い。今までも人間じゃなかったけど、これは卒業しちゃってる。あっちの世界の住人だ。
だがしかし、眠り蛇も化物なのだ。やられっぱなしではなかった。すぐさま体勢を整え、反撃に出る。
体勢といっても、巨大オタマジャクシのことだ。手も足もない。単に大口を開けて噛み付く、という極めてシンプルな攻撃(口撃?)である。
けれど、一点特化とは、他の欠点に目を瞑りさえすれば「最強」の意味。
結果として、足場のない空中で、その効果は絶大だった。
「危ない!」
声を上げたのは、わたし。
直径二メートルを超す巨頭がほぼ真っ二つに割れ、ワニのような機敏さで、紫音さんを狙った。
ばくん!
初撃を躱した紫音さんに、ホッと息を吐く。しかし、それで終わるわけもない。上体を傾けたそこへ、腰を捻った傍から。四撃、五撃と、次々に連続する猛攻が、紫音さんを襲う。
ばくん、ばくん、ばくん!
守るにせよ攻めるにせよ、先述の通り、空中戦。足場が不安定すぎる。どうにか避けてはいるものの、かなり際どい回避だった。ハラハラする。あんなの、一撃でも食らったら即死エンド待ったなしだ。
その威力たるや、想像に難くない。あまりの重さと素早さに、己の身体すら振り回されているのではないか。裂けた口が開閉する度、妙なリズムで引っ張られる後半身は、さながら高速尺取虫。
ビチャビチャと撒き散らされる粘液が、遠目にも吐き気を催す。
ドン。
上手い。ちょうど口を閉じる瞬間を読んで、奴の脳天に肘打ちだ。
反動を利用して、紫音さんが背後を取った。白い脚は僧衣を翻して弧を描き、無防備に伸びきった奴の背中を真上から、ベストショットで蹴り落とした。
黒い巨体が衝突し、僅かながらも地面が揺れる。
そこへ、最早お約束の追撃。紫音さんの爪先が、眠り蛇の頭を踏み潰した。
――ジュッ。
予想と大きく異なる音に、わたしの肩がビクッと跳ねた。
え、なに? 今の音?
なんで急に音が変わったの?
脊髄反射でビビった。考えるよりも先に、身体が反応した。さっきまでの、太鼓みたいな重低音じゃない。もっと身近で一般的な。なんなら、わたしにも聞き覚えがあるくらいの。誰もが知っている音、だった。
でも、だからこそ、おかしい。
それなら、こんなシチュエーションで鳴るはずがない。
「紫音さん……?」
無論、返事などしている余裕はなさそうだ。頭を潰された眠り蛇が、長い胴体をのたうち、激しく暴れる。振り落とされる前に、自ら跳躍した紫音さんは、しかし距離を取ろうとしたのではなかった。
眠り蛇のすぐ脇に着地して、その後頭部へと回し蹴りを打ち込んだのだ。
じゅっ。
今度は、はっきりと見えた。
紫音さんの脚と眠り蛇が接触した、その部分。
一瞬だが、火花が散って、蒸気が爆ぜた。
やっぱりだ。
これ、熱したフライパンに水を入れたときの音……!
的中してしまった不安が、たちまち冷や汗に変わって、額を伝った。はだけた衣から覗く紫音さんの脚。滑らかで真っ白で、傷一つなかったはずの、美脚。遠くて確認できないのは、却って良かったのかもしれない。
だって、もう何度、紫音さんは眠り蛇に触れただろう?
いくらチート覚醒したといっても、紫音さんは人間だ。身体は生身なのだ。素手で「熱したフライパン」に触ればどうなるか。それこそ、火を見るよりも明らかではないか。
紫音さん――!
尻尾の反撃を警戒してか、紫音さんが、後方に跳び退る。着地の瞬間を狙って、巨体が大口を開けて突進する。いなす。
ジュッ。
滑り込ませた脚が眠り蛇の腹を掬い、シャチホコの形に浮き上がった下腹部へ、裏拳が叩き込まれる。
ジュッ。
聞くに堪えない音と、人間の焦げる臭いが、二度三度と火花を散らす。あまりの痛々しさに、わたしは両手で顔を覆った。
眠り蛇の纏う呪詛の作用か、奴自身が高温を発しているのか。どちらにしても、結果は同じ。炎属性のボスに近接攻撃を仕掛ければ、火傷のダメージが跳ね返ってくるのは道理だ。どんなゲームだって、そうだ。
ゲームなら、初見で負けても、対策を練って再戦が可能だ。仲間にヒーラーでもいれば、回復しながらゴリ押しという方法もある。でも、紫音さんは、ひとり。言うに及ばず、コンテニューなんて存在しない。敗北は即、死を意味する。
それでも紫音さんは、決して、攻めの手を緩めようとはしなかった。
どうして。
ザワザワと、不安が項を駆け上る。
どうして。
どうして紫音さん、防御しないの?
呪力は、使用者の意思次第で、武器にも防具にもなる。彼ほどの呪術師ともなれば、たとえば半分を攻撃に。もう半分を防御に。効率的に割り振って、ダメージを抑えることだってできるのに。防御無視で攻め続けているのは、どうして?
どうして、そんなに急ぐの?
ううん。違う。そうさせているのは、なに?
そもそも、紫音さんが、これだけ全力の攻撃を叩き込んでるっていうのよ。
どうしてアイツ……倒れないの?
全然平気でピンピンしてるの?
抱いてしまった違和感。じわり汗ばむ首筋に、一筋の懸念が混じる。
それは唐突に濃度を増した腐臭を含み、ある種の負の予感へと進行して、胸騒ぎに輪を掛けた。
駄目よ。
焦っちゃ駄目、紫音さん。
だってあなたの眼は。
紫音さんには、地形や障害物は見えない。見えていない。わかるのは、眠り蛇の動きと位置だけだ。歩幅などで計算はしていたのだろうけれど、それだって正確ではない。言ってしまえば、勘の領域。少しでも狂ったら。
一撃でも食らったら、取り返しが付かない!
瞬きも忘れて、わたしは、紫音さんの挙動を凝視した。
眠り蛇の攻撃を躱すべく、横飛びに踏み切ろうとした脚が、縺れた。らしくないミスだった。集中力を欠いた直後、ぶるんと振るわれた尻尾が、丸太のように紫音さんの腰を薙ぎ払う。
じゅうっ。
長身が吹っ飛んで、地面に叩き付けられる。
転がりながらも受け身を取った紫音さんは、脇腹を押さえて半身を起こす。
あろうことか、そのときだった。
わたしの懸念が現実となってしまったのは。
すぐ傍まで迫る眠り蛇に、紫音さんは、一歩を踏み込んで間合いを計った。だが其処には、運悪く、大きな亀裂が走っていたのだ。躓いた長身が前につんのめるのと、眠り蛇が口を開けたのは、ほぼ同時だったと思う。
『阿呆が!』
次の瞬間、奴は、紫音さん目掛けて、真っ黒な粘液を吐き出した。
――じゅぅううううぅっ!
全身に粘液を浴びた紫音さんの身体から、悲痛な音と煙が爆ぜた。
高い呪詛的防御力を誇る鎧である衣が、みるみるうちに溶けて焦げ、穴だらけになってゆく。髪の毛と皮膚の焼ける、強烈な臭い。
溶解液。ふと浮かんだ単語に、血の気が引いた。
「くっ………」
紫音さんが、片膝を着いた。初めて。
間一髪、両腕を盾としたことで、顔面への直撃は免れている。けれど、代わりに僧衣から露出した脚は、腕は、あんなに綺麗だった黒髪は、ブスブスと焼け爛れて燻り、火災現場のマネキンのような絶望感を以て、静止したままだった。
『ははははは! 死ぬるのは貴様だ! 阿呆が!』
割れ鐘のような哄笑が鳴り響く。
ずるり。黒い大蛇は頭を擡げた。
仰々しい影が、舌なめずりで獲物を見下す。
眠り蛇。
なんと厄介な相手であることか。この期に及んで、ようやく腑に落ちた。奴は、タフなのだ。化物なのだ。スピードや手数で紫音さんに劣るものの、それを補って余りある体力、呪力、防御力。耐久力を持っている。
長引けば不利。
紫音さんは、知っていたの?
あぁ、疲弊しているのは、むしろ――
『その傷では動けまい。遊戯は終いだ。刻限ぞ』
「そうだね。時間が……来たようだ」
構えを解いた紫音さんが、深く息を吐いて、頭を垂れた。
……え?
ちょっと、うそ。
なに言ってるの紫音さん。
諦めちゃうの?
ううん、そんなわけない。嘘よ、嘘。
わたしは待った。紫音さんの次の行動を。油断させて隙を突くか、裏を掻くか。なにか考えがあるはずだ。いつだって二手も三手も先を読む彼のこと、これは作戦だ、そうであるべきだ。どうにか自分に言い聞かせようとした。
けれど、その一方でまた、理解していた。
無理だ。
だらりと力なく下ろされた両腕。小刻みに震える脚。
溶けて破れた衣は、全身に負った大火傷を隠せないほどにズタズタで。
あんな身体の、何処に余力があるっていうの。
「にっ……に、逃げて! 逃げてください!」
ようやっと絞り出した声は、届いたのだろうか。
紫音さんが、此方を振り返る。
その唇が、たぶん、静かに綻んだ。
心配ない。
毅然として立ち上がり、紫音さんは夜空を仰いだ。
折しも向かい風。長い黒髪が、月光に鷹揚と靡く。
その横顔は、強く、優しく、しなやかで。妖艶なまでに美しい。
きっと、微笑んでいるのだ。
あの不敵な表情で。
眼を逸らすことも叶わず、わたしは、一部始終を見守った。恐怖と不安。焦燥と諦念が、定めしチリチリと頭の片隅を焼いている。だけど、この人なら。打破してくれるかもしれない。そんなものは、ブッ壊してくれるかもしれない。
ずっと仇志乃の家を守ってきた、この人なら。
心配ない。
この人が、言うのなら。
「さぁ、ここでもう一押し。図に乗らせてもらおう」