対峙
23.
『……忌々しや』
腹を抉られるような轟音に、わたしは、思わず耳を覆った。
天から降ったか、地から沸いたか。遠雷にも似た威圧感は到底、人の発声器官に出せる音ではない。事情を知らなければ、神の声と思ったかもしれない。
『あと一人……あと一人で……百人に達したものを…………』
でも違う。
カラカラに嗄れ、そのくせ粘りけを帯びて濁る、ゾンビめいた怒声。
こんな声が、神様のわけがない。
神だとしたら……そう。
死神。
『我が念願を阻む愚か者は、誰ぞ』
奴が口を開く度に、古めかしい日本語が、頭の中にガンガン響く。
どうやって喋っているのか考えようとして、やめた。あれは呪詛だ。どうせ人間の常識なんて、治外法権。わたしには理解不能な方法で、意思を発しているに違いないのだから。
それでも、ただ一つ、わかることがある。
裂けた口が苛立ちを吐くのに併せて、辺りの空気が淀んでゆくのだ。
締め切った室内に十人のヘビースモーカーが監禁されたら、或いはこんなふうになるんだろうか。息苦しいほどの嫌悪感が、場に充満しつつあった。漂う悪意は、梅雨時の湿気に刺でも生えたよう。ピリピリと尖って纏わり付き、喉を刺す。
そんな空気をものともせず、紫音さんが、不意に一歩を踏み出した。
「おはよう」
《 死 ね 》
いきなり!?
ちょっと、紫音さん。挨拶ついでに処刑か。ガチで殺す気満々か。ご近所さんに「あらどちらまで」のノリでか。登場シーンはスキップする派か。
様々なツッコミどころが脳内を駆け巡ったが、言霊は音声。即ち、音速である。その一瞬で、オタマジャクシの元へ届いただろう。シンプル且つ無慈悲。素っ気なく放たれた一言は、わたしが知る中で、最も殺傷能力の高い凶器だ。
だから、普通ならば、これが致命傷となるはずだった。
哀れ前口上も許されず、奴は倒れて、そのままポックリ逝くはずだった。
はずだったのだ。
『小賢しいわ』
ところが、オタマジャクシは、ぶるんと頭を一振り。
億劫げに身動いだのみ。
倒れるどころか、苦しむ素振りすら、見せないではないか。
「…………」
吹く風の音が、十秒。二十秒。虚しく過ぎてゆく。
紫音さんの黒髪が揺れる。
「…………」
う、うそ?
――言霊が効いてない!?
「おや」
まるで平然としている相手に、紫音さんが、小首を傾げた。
いや、あんたも、そんなリアクションでいいの!?
『斯様な囀り、蠅の羽音よ。先は夢うつつに不覚を取ったまで』
オタマジャクシの避けた口が、ニヤリと三日月の形に持ち上がる。
笑っているのだ、と思った。
『やはり言霊使いか。剣呑な若造じゃ。ようも食事の邪魔をしおって』
「眠りながら食べるとは、ずいぶんと行儀の良いことだね」
奴の言葉に応じて、紫音さんが、再び一歩を踏み出した。
「だ、駄目! 紫音さん!」
わたしは、慌てて紫音さんの足にしがみついた。
マズいでしょ、これは。
そりゃ言霊は最強だけど、それは通ってしまえばの話だ。逆に言えば、紫音さんには、これしかない。封じられたとなれば、ただの綺麗なお兄さんなのだ。あんな化物と戦えるわけがない。
「あいつ、言霊が効いてません!」
「そのようだね。強力な呪詛になると、呪力に妨げられることもあるのだよ」
「危ないですって! 逃げてください!」
「この場で私が退いたなら、残された弟達や君は、どうなるね?」
予想外の力強い即答に、わたしの方が、言葉に詰まった。
「これまでに食われた乙女達は、どうなるのだね。私は僧として、彼女達の無念を往生に導かねばならない。ああして暗い呪詛の底に囚われ続ける運命が、どれほど辛く哀しいことか……中にいた君が、わからぬはずもあるまい?」
それは……。
畳み掛けられて、わたしは、視線を落とす。食われた。頭蓋骨達の合唱が、脳裏に蘇る。薄々そんな気はしてたけど、あれってやっぱり、同じように井戸に食われた女の子達だったんだ。
……彼女達は、まだ、いるのか。
あんなにも暗く冷たい、絶望の底に。
「あの呪詛は、この世に存在してはならぬ厄だ。此処で討ち漏らせば、必ずや後生の憂いとなろう。見過ごすわけにはいかないのだよ。人として、仇志乃として」
反論できなかった。
自分で引き留めておいて、圧倒されていた。
柔らかなはずの、紫音さんの声。そこに込められた正義と矜恃が、揺るぎない刃となって、わたしの胸に突き刺さる。あぁ、やっぱり兄弟だな。何故か先輩の顔が思い浮かんで、妙な得心に、唇を噛んだ。
「大丈夫。なにも心配することはない」
前を見据えていた紫音さんが、わたしの方を向いて、頷いた。
いつもと変わらない、穏やかで不敵な微笑を浮かべて。
……ほんとにもう、男って奴は。
言っても聞きやしないんだから。
「あいつまでの距離は、二十メートルくらいです」
わたしが囁くと、紫音さんの柳眉が片方、ピクリと上がった。
幸い、今夜は満月だ。遠くまで見通せる。
「まっすぐなら、これといった障害物はありません。でも右側、危ないです。注意してください。井戸の残骸が倒れて、瓦礫が散乱してます。それから、地面が蜘蛛の巣みたいに割れてます。足を引っ掛けたら転びそうですよ。スポッとハマっちゃうことは、なさそうですけど。き、気を付けてください」
一息に言い切って、ぐっと拳を握る。
付き合わせた美貌が数秒、キョトンとして。
それから、ふわりと破顔した。
「わかった。ありがとう、瑠衣君」
世音を頼むよ。
呟いた唇を引き結び、紫音さんは、わたしに背を向けて歩き始めた。
「お前が《眠り蛇》かね?」
『さてな。千年の月日のうちには、そう呼ばれることもあったろうが』
紫音さんが問う。
奴が答える。
眠り蛇、という単語が、何故か耳の奥でざわめいた。
「差し支えなければ、目的をお聞かせ願いたい」
『貴様の知ったことか。何れ邪魔をするのだろうが』
「生憎、資料を残さねばならぬ身でね。形式上の質問なのだよ」
一歩。また一歩。足先で地面を探りながら、紫音さんは、じりじりと距離を詰めてゆく。交差する二つの声は、美と醜。真逆の音色を奏でつつ、けれども同じ魂胆を含んで、互いを牽制し合っていた。
「尤も、いくらか見当は付いているがね」
紫音さんの後ろ姿が、遠ざかる。
『貴様こそ、何者ぞ? ただの人ではあるまい』
「なに、一介の僧だ」
『ここ数日の騒ぎは、貴様の扇動か。何故、儂の邪魔をする?』
「成行上……と言いたいところだがね。事情が変わったようだよ」
『事情だと?』
「うむ。その上で、是非とも頼みがあるのだが」
『命乞いか』
「いいや。まぁ、頼みというよりは、提案なのだよ」
長い黒髪を靡かせる風は、ごうごうと唸り、不気味な声を運んでくる。
おおい。おおおおおい。
呼んでるんだ。彼岸の国から。仲間を求めて。
紫音さんか。奴か。
どちらを。
冷たい汗が背中を伝い、わたしは護符を握り締めた。
「ここはひとつ、無抵抗で大人しく調伏されてはくれまいか」
紫音さんが足を止めた。
『なん……だと……?』
両者、間合いに入ったのだろう。
斯くして、僧衣の美丈夫と巨大オタマジャクシが、至近距離で対峙した。
……デカい。
ここまで近付けば、歴然だ。体格差なんてもんじゃない。百八十センチの長身が小さく見える。奴の特大砲丸のような頭は、その直径だけで紫音さんの背丈を軽く超えてしまうのだ。
勝ち目あるのかこれ。
もちろん、紫音さんは、ただ喋ってるだけじゃない。細心の注意を払いながら、たぶん、呪力を練ってるんだろう。でも、言霊は効かなかった。どうする? なにか考えがあるとは思うんだけど……。
思うんだけど、なんでそんな煽っていくスタイルなんですか、紫音さん。
さっきから聞いてて、わたしの方がハラハラしてるんですけど。
「さすれば、お前は無駄に痛い思いをせずとも済む。私は楽ができる。互いの利が一致するというわけだ。今夜は少々疲れている。早くお風呂を頂いて、温かい布団で眠りたいのだよ。それに、あぁ、忘れていたけれど、お腹が空いたね」
ぶちん。
太い紐が切れたような音がした。
オタマジャクシの背景が、黒い炎のように歪む。
濃度を増す悪臭。喉を刺す嫌悪感は不快感へと変わり、息苦しさに輪を掛ける。吹く風が一際、荒々しく空気を浚えば、あとには急激に膨張した邪気。奴の発する憎悪と殺意が渦巻いていた。
『ぬかせ、黄口児が! たかが呪術師の分際で!』
大喝一声、オタマジャクシが吼えた。
『飢えておるのは儂ぞ! 貴様が邪魔をしたのだ! あと一人であったものを!』
次の瞬間、ぐわり上体を持ち上げたオタマジャクシ……いや、眠り蛇が、黒い涎の滴る大口を開けて、紫音さんに襲い掛かった。