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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
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凶夢の正体

22.






 ……寒い。

 なんでこんなに寒いんだろう。

 解けて乱れた髪が、バタバタ頬を叩いていた。スカートは頼りなく揺れて、素足に風が吹き込んで冷たい。そうか、風だ。こんなに強く吹いてれば、そりゃ寒い。三月の夜だもの。コートもなしに屋外で寝てれば、とうぜ…………

 ん、風?

 どうして吹いてるの?

 だってわたし達、井戸の中にいたんじゃなかったっけ。

 えっと、確か、体育倉庫でヤバいことになって、先輩が助けに来てくれて。外に出ようとしたら穴が空いて落ちて。何故か井戸の中だったんだよね。で、黒い蛇がワラワラ出てきて、先輩に絡み付いて。

 助けてって叫んだら、凄い地震が起きて、身体が浮いて、それから。


「世音! 瑠衣君! 何処にいるのだね?」


 眼を開けた。

 わたしは、固く均された土の上に寝ていた。辺りは薄暗いが、眼鏡がなくとも、だいたい景色の輪郭が把握できる程度には、視界も利く。尤も、九十度傾いた世界が見慣れた校庭だと気付くには、数秒が必要だったけれども。

 あれ、外……?

 足下を埋めていた頭蓋骨は? 何処に消えたんだろう?

 ていうか、なんで外に…………?


「返事をしたまえ! 何処だね!?」


 いやいや、呼ばれてるじゃん!

 現状を把握できないままに、わたしは慌てて飛び起きた。

 隣には先輩が倒れている。

 そのすぐ傍に紫音さんがいて、両手で空中を探っていた。


「こ、此処です!」


 見当違いの方向をキョロキョロしていた紫音さんの顔が、此方を向く。縋り付こうとしたけれど、身体が痛くて言うことを聞かない。うんと手を伸ばして、どうにか衣の裾を掴んだ。


「助けてください! 先輩が! 先輩が!」


 思えば、まずは礼を述べるべきだったのかもしれない。だけど、わたしの頭の中には、先輩しかなかった。先輩が動かない。喋らない。眼を開けてくれない。正気を取り戻すと同時に襲ってきた恐怖が、わたしに他の思考を許さなかった。


「怪我はないかね? 瑠衣君」


 紫音さんが屈んで、そっとわたしの手を握る。

 柔らかい低音が、なんだかとても懐かしかった。


「わ、わたしじゃないんです! 先輩が」

「落ち着いて。世音も此処にいるのだね?」

「う、動かないんです! 全然、喋ってもくれなくて!」

「生きているね?」


 言われて、先輩の胸に耳を当てた。

 ……とくん。

 大丈夫。応えるように、弱い鼓動が聞こえた。


「はい!」


 ふぅ、と嘆息。

 表情を緩ませた紫音さんは、懐に手を入れ、なにか摘まんで取り出した。

 チョコボール大の、黒い……なんだろう。丸薬?


蓬莱丹ほうらいたんという。飲ませてやっておくれ。じき回復するだろう」

「でも、歯を食い縛ってて……」

「ならば口移しで」

「え?」

「口移しで」


 紫音さんは、念を押すように頷いた。


「…………」


 二、三秒。考えた。

 だけど、決まってる。恥ずかしがってる場合じゃない。

 どういうわけだか、近くにペットボトルまで転がっている。お誂え向きである。なんだってこんなところに。これも神……いや、仏様の思し召しなのか。

 わたしは、蓬莱丹を受け取り、まず自分の口に入れた。

 途端、とんでもない臭いが、ガツンと脳天まで突き抜けた。なんというか、餌。魚か亀の餌みたいな独特の生臭さがある。続いて、舌が痺れるような苦みが口内を暴れ回り、終いには涙と鼻水まで出てきた。

 うう、それがどうした。

 不味いぐらい、なんぼのもんじゃ!

 嘔吐きながらバリバリと噛み砕き、ペットボトルを呷り、先輩の頭を上向ける。


 別人のように痩けた頬。艶の失せた髪。固く閉じた眼。長い睫は、この距離まで近付いて、震えもしない。僅かに開いた唇は、変な紫色になったままで。よせよ、とも。来いよ、とも。なにも言ってはくれない。


 ……ごめんね、先輩。わたしのせいで。

 ぐっと胸が詰まった。もう恥も外聞もない。

 わたしは、先輩の唇に、自分の唇を押し付けた。

 その冷たさに、一瞬ビクッと肩が跳ねる。零れそうになる涙を堪え、食い縛った歯を舌でこじ開けた。少しだけ出来た隙間から、更に舌を差し入れて奥へ。離乳食よろしく蓬莱丹を押し込む。焦りは禁物。少しずつ。確実に。

 こく、と先輩の喉が動いた。


「!」


 焦るな焦るな。咽せて吐き出しちゃったら、それこそ水の泡だ。

 一口、二口。繰り返す。

 ゆっくりながら、先輩の喉仏が上下しているのが見えた。逸る気持ちを抑えて、水を足す。何度目かを境に、先輩の喉は、こくこくとリズミカルに動いて、与えられたものを素直に飲み下すようになっていた。


「…………ん」


 すべての蓬莱丹を飲ませ終え、わたしは、ぷはっと息を吐く。

 はぁ、ふぅ。あぁ苦しかった。なんか一分くらい息が止まってた気がする。そのせいかな。動悸がヤバい。なんか火照ってきたし。耳も熱いぞ。

 口元に手を遣れば、長く糸を引く唾液が、わたしと先輩を繋いでいる。

 急に変な罪悪感が襲ってきて、ゴシゴシと唇を拭った。

 で、でもこれで、大丈夫なんだよね?

 恐る恐る、先輩の顔を覗き込んだ。

 あらまぁ!

 苦しげに刻まれていたはずの眉間の皺は、もう跡形もない。既に肌は潤い始め、唇には色が戻りつつあり、痩せこけた頬も指も、心なしか、ふっくらしてきた。それどころか、息遣いまでが、穏やかな呼吸に変わっているではないか。

 なにこれパネェ効果。

 目に見える早さで回復してる!


 はぁ。

 はああぁあぁあああ。


 今度こそ、魂が抜ける勢いで、胸の重荷を吐き出した。

 両手で地面に突っ伏して、ガッツリ深く項垂れれば、ぽろり。涙が落ちた。

 良かった。良かった。良かった。

 何度も呟き、わたしは先輩に縋り付いた。とくん。とくん。正常な間隔で脈打つ鼓動が、もう大丈夫だと告げている。そうだ。助かったんだ。わたしも、先輩も。此処は外、元の常識的な世界。閉ざされた闇の底ではない。

 緊張。不安。恐怖。その他あらゆる種類のストレス。まだ駄目だと、暗い牢獄で溜めに溜めていた毒が、嗚咽と共に堰を切り、涙に混じって、流れ出してゆく。ようやく解放を許された感情に、わたしは心底安堵した。

 なんて長い暗闇だったろう。

 ほんとうにもう……死ぬかと思った…………。

 現金なもので、こうなると、若干の余裕が生まれる。

 わたしは、周囲を見回した。


 大変なことになっていた。


 グラウンドの、そこかしこに刻まれたヒビ。

 丸裸になった木々は軒並み枝が折れ、校舎の窓ガラスはことごとく割れ、敷地を囲むフェンスには、何百枚という呪符が張り巡らされている。妙に散らかったなぁと思ったら、その代わり、近くに直径二メートルを超す大穴が誕生していた。

 その上、何処から持ってきたのか、巨大な石造りの柱が豪快に倒れて、輪切り状の瓦礫と化している。傍には、謎の赤い液体が、点々とシミを作っていた。

 すっごく嫌な予感。わたしの視線は、シミの跡を辿る。

 瓦礫の陰に、銀鼠と萌黄の衣が横たわっていた。


「華音さん!? 流音君!?」


 ちょっとちょっと! 血が出てる!

 華音さんは両足と顔面。流音君は左手を。赤く染めて、反対に、顔色は真っ青。二人とも消耗しきった様子で、ぐったりしていた。呻き声すら聞こえないってことは、気絶してるんだろうか。ていうか、生きてる……よね!?


「問題ない。少々、無理をしたようだね。じき目を醒ますだろう」


 紫音さんが、さっきと同じようなことを言った。

 それで気が付いた。

 わたしが一人でドタバタしているうちに、紫音さんは立ち上がって、明後日の方を望んでいた。元はゴールポストがあったはずだが、何処へ消えたんだろう。今は片付いてしまった、がらんどうとした校庭を、食い入るように――

 みつめて(・・・・)いる。

 察した瞬間、ぞわっと全身が粟立った。

 あぁ、まさか。そんな。

 ガチガチと奥歯が鳴る。足が竦み、涙の種類が、再び恐怖に上書きされる。理解してしまえば、瞭然たる事実だった。わたしは、この気配を知っている。なにしろついさっきまで、どっぷり嫌というほどに浸っていたのだから。

 いる。

 其処に、いるのか。

 光をなくした紫音さんが、その特別な眼で、視るべき相手が。


「これを」


 僅かに身体を傾けて、紫音さんは、後ろ手に一枚の護符を差し出した。

 ……マジですか。

 なんてことだ。

 人生最悪の夜は、まだ――


「簡易の護りだ。離さず身に付けていたまえ。まだ油断してはいけない」


 まだ、終わっていない!









 地面から、黒い陽炎が幾筋か昇った。

 ゆらゆらと朧気に揺れていたのも僅か、それは見る間に数を増し、量を増し、色濃く染まり、太り、奇妙な踊りのように身をくねらせて、ある一点に収斂された。即ち、紫音さんの意識の先。

 形を成したそれは、なんとも馬鹿げたサイズの、オタマジャクシだった。

 無論、そんな可愛い相手ではないことは、承知している。いるのだが、そう形容する他にない。だって真っ黒でヌメヌメして、丸い頭に、全身が尻尾みたいな身体というデザイン。ずんぐりむっくり、爬虫類じみた物体なのだ。

 ただし、デカい。

 頭の直径が二メートル、全長で五メートルはある。

 言うまでもなく、アンバランスに膨らんだ頭部がまた、異常にデカい。


「走れるかね?」


 紫音さんが、涼しい声で訊ねた。

 それ、を認識しているはずだというのに。すらり伸びた背筋も、泰然と構えた面も、風に靡く黒髪も。あくまで平常運転、あっけらかんとしている。なんでそんなに冷静なの。どうなってんだ、あんたの神経。


「む……むむ、無理」


 申し訳ないが、文字通りの腰抜けである。

 わたしは、首を横に振ることしかできなかった。

 うむ、と頷いて、紫音さんは、わたしを庇う格好で、身を乗り出した。


「ならば、私の後ろに。じっとしているのだよ」


 長身越しに、オタマジャクシが、のそりと動く。

 その大きな頭に横一文字、亀裂が走って、パックリと綺麗に裂けた。

 口だ。なんとなく、直感した。

 そういや、懐ゲー動画で見たことがある。円に三角の切れ込みが入ってて、パクパク動いて敵を食べるキャラ。あれを立体に起こしたら、ちょうどこんな感じになんじゃないだろうか。

 などと、呑気なことを考えたのも束の間。

 凄まじい腐臭が、鼻腔を焼いた。

 つられて、さっきの蓬莱丹が、胃の中で暴れ出す。種類は違えど、あれはあれで人間の味覚に準じた代物ではなかったのだ。たちまち食道を遡る嘔気。否応でも、窮屈な暗闇を思い出させる。

 同じ臭いだ。

 工事現場で、井戸の底で嗅いだ、あの臭いと。


「まさに化けの皮が剥がれた、というところか。さながら脱皮だね」


 紫音さんの呟きに、ハッとして、わたしは、視線を動かした。

 大きな石柱。かなり崩れてしまってはいるが、あれだって、直径は二メートルぐらいだろう。位置からして、隣の大穴と無関係だとは、どうしても思えない。否、それ以外なら、なんなのだ。


 出てきたんだ。

 土の中から。

 石化した外皮を脱ぎ捨てて。


 蘇るわたしの恐怖心に呼応するかのように、それは、此方を見た。

 眼が、ない。

 黒く塗り潰された頭には、口だけ。目も鼻もなかった。それなのに、わかる。

 傲慢で、禍々しくて、どこまでも歪な敵意が、わたし達を凝視している。

 ずん、と気分が悪くなった。嘔気とは別の、もっと陰鬱なものが、胸を、腹を、頭を鷲掴みにする。なんだこれ。曇天が落ちてきたみたいだ。身体が重い。自分の意思とは無関係に、憂鬱の塊が、気道を塞ぐ。

 然もありなん。

 あれは、呪詛なのだ。

 憎悪という憎悪を固めて、腐るまで煮込んで、拗らせた結果の産物。

 この世で最も邪悪。最も強力な。

 生命を蝕む呪詛なのだ。


 べちゃり。それが身を捩った。

 全身に纏う粘液までが黒い。

 眼が熱を持ち、鈍痛に疼き始める。危なかった。護符がなかったら、とっくに眼が潰れてる。これ、見ただけで呪われるパターンだ。わかっていながら、直視している自分が怖い。

 それでも、眼を離せなかった。

 おおい。おおおい。

 ごうごうと叫ぶ風に混じって、遠く低く、呼ぶ声が聞こえたような気がした。


 凶夢の正体が――今。

 頭をもたげる。







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