世渡り上手は罰当たり 2
2.
「まずは、三組の小杉満里奈ちゃん!」
たっぷり五秒ほど溜めて、流音君は、スクールバッグから小さな平箱を取り出した。透明なラッピングの袋越しに、明るいピンクの包装紙が見える。
同封された封筒には、小杉満里奈より、と書かれている。
「明るくて活発! ショートが似合ってて、芸能人で言うと……」
「そういうのいいから。勿体付けないで」
「手紙見ようぜ手紙」
「あ、ちょっと世音兄ちゃん!」
せっかちな先輩が、流音君の手から、手紙を引ったくった。
取り返すべく、流音君が立ち上がる。
「駄目だって返してよ!」
「いいぜ。ここまで届きゃ返してやんよ? ほらほら」
「なにこいつムカつく~! ちょっと背高いからって!」
「誰がコイツだ? 兄貴に向かって?」
「世音、やめなってば」
「あーもう先輩! 流音君、困ってるでしょ」
「うるせー、困らせてんだよ」
先輩は、手紙を高く掲げて、あっちこっちへ動き回る。
追い掛ける流音君も、スピードは申し分ないのだが、なんせ相手は百八十センチの長身。加えて、その長い腕を最大限に生かす戦法を採っているのだ。どう足掻いても、背丈が足りない。猫じゃらし宜しく、いいように弄ばれるだけだ。
流音君は益々、ムキになる。
そんな流音君を見て、先輩は一層、喜ぶ。
子供か、あんたら。
ここに、華音さんまで混じるものだから、もう、えらい騒ぎだ。仲裁目的のはずが、一緒になって遊んでいるようにしか見えないのは、やっぱり、兄弟だからか。大きなお友達、居間でドタバタと鬼ごっこするの図である。
放置プレイに徹する紫音さんは、さすがに長男の貫禄だった。
「えーっと、なんて書いてあるんだ? どれどれ……」
ところが、この馬鹿騒ぎは、唐突に終息を迎えることとなった。
先輩の読み上げた言葉が、場の音という音を消し去ったのだ。
「大好きな、赤井君へ」
「…………!」
「…………!」
「…………?」
「…………!?」
あかい。
「我が家は先祖代々、仇志乃なのだがね」
ややあって、紫音さんが、首を傾げる。
「……誰だい、赤井って?」
恐る恐る華音さんが続く。
流音君は、それこそ書いた文字を読むように、答える。
「右隣の……ロッカーの奴」
プッと、先輩が吹き出した。
「だっせぇえええ! 間違われてやんの!」
「う、うるさい!」
「ひゃっははははは!」
「黙れバカ! 返せ手紙!」
「はははははは!」
……あーあ。
なんというか、ご愁傷様。
さっきまでのハイテンションは何処へやら。流音君は、顔を真っ赤にして、頬を膨らませている。勘違いもそうだけど、あれだけ大見得切った後だもの。さぞかし恥ずかしく、バツの悪い思いをしているに違いない。
「まぁまぁ、もう一個あるんでしょ?」
わたしは見かねて、先を促した。
自慢じゃないが、叶瑠衣。この程度の不運ならば、慣れっこなのだ。
そんな不運少女からのワンポイントアドバイス。こういうときに、落ち込んではいけない。ネタになったぜと、笑い飛ばすくらいで、ちょうどいいのよ。起こってしまった事故、怪我してから悩んだって、治るわけでもないからね。
気持ちは良くわかるが、とっとと次へ移るに限る。
「そ、そうだよね……そうだよ!」
流音君は、此方を向いて、精一杯の笑顔で親指を立ててみせた。
だが無理すんな。若干、ぎこちないぞ。
「次、一組の中村夕子!」
気を取り直して、再チャレンジ。スクールバッグに手を突っ込む。
今度は、白いラッピングの包みが出てきた。
例によって手紙付きだ。
「一人くらい別にいいもん。ていうか中村のが好みだし。こっちが本命だし」
しかし今更だけど、本命が二人ってどうよ。
「えっと……突然のお手紙で、ごめんなさい。あなたが好きです……!」
学習したのか、先輩に奪われる前に、流音君が自ら、手紙の文面を読み上げた。
先輩が、ひゅうと口笛を吹く。
満更でもない様子で、流音君は続ける。
「初めてチョコレートを作りました。食べてもらえると嬉しいです。」
「いいねいいね」
「それから?」
「急かさないで。えっと、いつも部活を頑張っている姿に、ドキドキします。」
「おお!」
「剣道部なんて、かっこいいですね。凄いと思います。」
「年中汗臭いけどな」
「ファブってるもん! んと、次の大会は、優勝できるといいですね。」
「そうだね」
「良かったら、今度、一緒に水族館へ行きませんか? お返事待ってます。」
足 立 君 へ 。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
…………。
「左隣かね?」
再び氷点下の沈黙に包まれた場で、紫音さんだけが、平常運転だった。
「あの、る……流音君……?」
両手で手紙を持ったまま、フリーズしてますけど。
華音さんも、二度目を訊ねる勇気はないらしい。あからさまに哀れな弟から眼を逸らして、胡座を掻いた膝を、ソワソワと揺するのみだ。どう声を掛けたべきか、必死に考えているようだった。
「――ひゃっはっはっは!」
沈黙を破ったのは、先輩の馬鹿笑いだった。
「やべーツボった! はははははは! ざまぁああ!」
「ちょっと先輩」
わたしは、世音先輩の脇腹を突っつく。
気の毒に流音君、ショックでプルプル震えてるじゃないか。この状況で爆笑するとか、あんたそれでも兄ちゃんか。いくらなんでも、デリカシーなさすぎるんじゃないか?
「はははは、マジかよ連チャンって! ひゃっはははは」
「先輩ってば!」
「や、やめなよ世音」
「だってバカじゃんありえねー!」
「世音、いい加減に……」
「ひゃははははは!」
わたしと華音さん、二人掛かりで制しても、先輩は聞く耳を持たず、腹を抱えて笑い続ける。
遂には、あろうことか、傷心の流音君に向かって、トドメの一撃を放った。
「普段調子こいてっから、バチが当たんだよ。上手く立ち回ってるつもりなんだろうけどよ、案外見られてるぜ? そーいうの。わかる奴はわかるんだ。裏表の激しい男なんざ、信用ならねーってな。勉強になったじゃねーか!」
う。
きっつ!
「ま、これに懲りたら、ちったぁ誠実になれば? はははっ」
そのとき突然、流音君が、勢い良く立ち上がった。
「きゃっ」
止める間もない。
先輩に掴み掛かった流音君は、呆気なく足を払われ、畳の上に横倒しとなった。
起き上がろうとした、そこに先輩が伸し掛かって、顔面にアイアンクローを仕掛ける。流音君は抵抗する。ジタバタと藻掻いて先輩の背中を蹴ろうとするも、如何せん体勢が悪い。力が入らないみたいだ。
「ちょっと二人とも!」
華音さんが咎める声を上げても、二人は、ガン無視。
組んず解れつ、居間の端へと転がってゆく。
え、これってケンカ?
いきなりケンカ始まった!?
「笑うな! 笑うなバカ!」
「ひゃっははははは!」
「呪うぞ! 呪ってやるぞ!」
「やめなってば世音! 流音も!」
「呪うってか? やってみろよ! 熨斗付けて返品してやんぜ!」
「いい加減に……痛いっ! ちょ、それ俺の髪……ッ!」
「殺す! バカ兄貴ブッ殺してやる!」
「痛い痛い痛い踏んでる! 踏んでるってば! 俺踏んでるのどっち!?」
逆上する末っ子。
それを更に煽るアホな三男。
二人に挟まれ、とばっちりで被害を被る次男。
さっきのドタバタと構図は似ているが、今度は全員がガチだ。微笑ましいはずのイベントは一転、和やかムードは吹き飛んで、最早この場は、暴力と罵声の支配する世紀末と成り果てていた。
「し、紫音さん!」
どうして良いかわからず、わたしは、紫音さんの肩を揺すった。
けれども、この長男。弟達が取っ組み合って暴れる傍で、マターリ茶など啜っているではないか。先刻と同じく正座したまま、微塵も慌てる気配はない。
「放っておきたまえ。いつものことなのだよ」
「でも……」
「皆、死なぬ程度は心得ているよ」
「そんな! そういう問題なんですか!?」
「瑠衣君は離れていたまえ。巻き添えを食ってはつまらない」
「このままじゃ怪我しちゃいますよ!」
「それは好都合。骨の一本でも折れば必然、収まるのだよ」
「猛獣の一家!?」
どういう教育方針なの、紫音さん。
いや、男兄弟には、よくあることなの? あるあるなの?
いずれにせよ、わたしには、なにもできない。
オロオロしながら、成行を見守るしかなかった。
一発の拳が、流音君の頬に決まった。
怯んだところに二発、三発。先輩が続ける。流音君もやり返す。でも、体格差が絶望的だ。軽くあしらわれ、お腹を蹴飛ばされて、背中から倒れ込む。逃げようとしても、間に合わない。
先輩が、マウントを取った。
流音君の両手を押さえ付けて、勝利を宣言すべく、ニヤリと笑う。
その顔に、流音君が渾身の頭突きを放った。
油断していたんだろう。先輩は、仰け反って、腰を引く。
この隙が、流音君の追撃を許した。
跳ね起きた勢いで、先輩に体当たり。
初めて、先輩が怯んだ。
好機。最大まで体重を乗せた拳を、引き絞って、放つ。
しかし、先輩は躱さない。逆だ。するりと鮮やかな身の熟しで、逆に流音君の懐へ滑り込み、パーカーの襟首と胸元を掴んで、膝裏から脚を掛ける。
――膝車だ!
「…………ッ」
受け身を取り損ねた流音君は、背中を強打し、ぐっと呻いて、口を噤んだ。
先輩が、手の甲で口元を拭う。
「そこまで! 勝負あり! 勝負ありッ!」
すかさず華音さんが、間に割って入った。
「お前達、それ以上は両成敗だよ」
少し遅れて、紫音さんが、追い打ちで釘を刺す。
長次兄、二人の宣言を以て、すべては終了したのだろう。
「十年早ぇんだよ、クソガキが」
捨て台詞を残して、先輩は、リビングを出ていった。
†
二階へ上がる先輩の足音も途絶えて、居間は、怖ろしいほど静かになった。
「流音君……?」
流音君は、答えない。
両手足を放り出したまま、仰向けで、憤然と空を睨み付けている。
「流音」
紫音さんが、末っ子の名を呼んだ。
「流音。おいで」
すべて心得ているのか。その声は、とても優しい。
これを待っていたのかもしれない。
流音君は、上体を起こして、一直線。
紫音さん目掛けて突進していった。
「うわぁあん!」
「おや」
半ば押し倒されるような格好で、紫音さんは、流音君を抱き止めた。
「紫音兄さん! 紫音兄さぁん!」
「あぁ流音。傷付いたのだね。よしよし」
「世音兄ちゃんが! 殴った! あんなこと言う!」
和服の膝に突っ伏して、流音君は頭を振る。
その頭を、紫音さんが撫でる。
「あれは、あれなりに流音を心配しているのだよ」
「嘘だ! 僕のこと嫌いなんだってアイツ!」
「本当に嫌いならば、あの子は、なにも言わない」
「だって!」
「心配は無用。お前は愛されているよ」
「紫音兄さんだけだもん! 僕のことわかってくれるの!」
「そんなことはない。嫌いな者に使える時間など、大人にはないのだからね」
「アイツ高校生じゃん! しかも兄貴のくせにデリカシーゼロ!」
「む、それは否定できないね」
「つーかフラれたし! 僕フラれたし!」
「それも事実だね」
「みんな僕のこと嫌いなの? だから意地悪するの?」
「よく聞きたまえ、流音」
紫音さんは穏やかな、けれど拒絶を許さない凜とした声で言って、流音君の頬に手を添えた。
「それは皆が真剣に、お前と向き合っているからだよ。嫌なことも言えば手も出るだろう。見返りなど求めていないのだからね。その上で、考えてみたまえ。お前が本当に欲しかったものは、なんなのだね? チョコレート? 称賛? 拳骨?」
流音君は、ハッとして、紫音さんをみつめた。
「どれも違うのではないかね? 仮に此の世が、一切の損得を介さぬ世界であったならば。そのとき、お前は、どうするだろうね? 利に聡いことは、必ずしも悪ではなかろう。けれど過ぎた固執は、いつか眼を曇らせる。わからなくなってしまうよ。はて、己が心から求めているものは、いったい、なんだったのだろう。と」
それが見えているかのように。
紫音さんは、ゆっくりと頷く。
「…………」
ぷっつりと喚くのをやめて、流音君は、黙り込んでしまった。




