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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
29/46

解き放て!

21.






 促されるまま、俺は《鶴》の落ちていた場所に立った。


「動かないでね、華音兄ちゃん」


 いつの間にか、流音の右手には肥後守が握られている。


「! なにを」


 するのかと問う暇もなく、流音は己の掌に刃を宛がい、スッと引いた。

 一切の躊躇いは、なかった。


「いたっ……」

「流音!」


 童顔が痛みに引き攣り、ポタポタと血が滴る。

 慌てて覗き込んだ俺を押し止め、流音は、血塗れの手で貫紐を握り締めた。


「……くない、痛くない、痛くないもん」


 必須手順なんだろう。涙目で顔を顰めながら、流音は、長い紐に血を染み込ませてゆく。俺は黙って見ているしかなかった。後で病院に連れて行かないと。

 その作業が終わると、流音は、貫紐の片端を俺の足首に括り付けた。二本用意していたらしい。左右の足首に一本ずつだ。血に濡れた毛髪の感触は、正直、気持ち良いものじゃない。

 だけど俺はまだマシ。流音、痛いだろうな。

 なんだか堪らなくなって、俺は手を伸ばし、足下に屈んだ流音の頭をポンと撫でていた。

 吃驚したような顔が、俺を見上げる。


「もう! 子供扱いしないで! 痛くなんかないんだったら!」

「うん。なんかちょっと、お前が可愛くなっちゃって」

「ば、バッカじゃないの! 今は僕が上官! いらないよ、そんな気遣い」

「うん、ごめん」


 頬を膨らませて、流音は俺に背を向けた。

 そうして三、四歩ほど歩いたところで立ち止まり、大きく深呼吸する。

 振り返った面立ちは、やっぱり、あどけなさを残す十四歳のそれだ。ふっくらした頬も、大きな眼も、薄い眉も、柔らかな髪も。俺の知ってる流音だ。

 けれどその佇まいは、既に覚悟を決めた、一人の立派な呪術師だった。


「……始めるよ」


 俺は頷いて、紅入貝の中身を一息に煽った。

 すかさず加持水で流し込む。金魚の餌みたいな味がした。死ぬほど不味かった。不味いだけだ。喉を降りるときに若干、胸焼けに似た感じがしたけれど、拒絶反応はない。これといって違和感もない。平気、みたい。

 俺って頑丈なんだな。

 幾分、呆れて夜空を振り仰いだ。

 白い満月が、不気味な笑みを浮かべて、俺達を見下している。

 寒い。そういえば三月の夜なんだ。焦ってばかりで忘れてたけど、今夜は一等、よく冷える。吐く息は白く曇り、指先はかじかんで、乾いた唇は温度を失い、風が吹く度に、ピリピリと痛む。

 今更ながら、身震いした。

 二人は、もっと寒いだろうな。

 井戸の中は暗いだろう。狭いだろう。どんなに、どんなに怖いだろうか。

 そっと、懐にしまった《鶴》に手を重ねた。

 待ってて。

 今、助けるから。









「……オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ」


 流音が合掌し、真言の詠唱を始めた。

 慎重に、でも迅速に。流音の呪力が解放されてゆくのが、わかる。それは電波のように拡散し、鬼門を封じている要素――地蔵や祠――を目指して街中に飛び、今この瞬間にも何処かで、封印を壊しているはずだ。

 盛塩は黒く染まるだろう。注連縄は千切れるだろう。お地蔵様は、その穏やかな表情を険しく変えるだろう。目撃する人がいたら、腰を抜かすに違いない。

 一分ほど経った頃か。

 風に混じって、不思議な音が聞こえてきた。

 注意していなければ気付かないくらいの低音。うう、とも。ああ、とも聞こえ、音というよりは、なにか……呻き声に近いような……。


 うう、うううう。おおおん。うおおおおお。


 風が……強く吹く。

 流音の柔らかい髪が踊る。

 アップにした金髪がバサバサと暴れて、俺の頬を叩く。

 ザワザワと木の葉が舞い散り、俺と流音の衣が、袖が、裾が、(ひるがえ)る。


「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ。オン、カカカ、ビサンマエイソワカ」


 キンキンと、耳の奥が痛くなる。

 高音が混じってきているらしい。


「オン、カカカ……ビサンマエイ……ソワカ…………」


 四方に張り巡らされた呪符が、邪念を感知して、激しく震える。

 流音の声は、ひどく緊張していた。

 この寒さの中、仄暗い闇に於いても、その肩が小刻みに上下し、呼吸は乱れて、滴る汗が襟元を濡らすのを見て取れる。固く閉じられた眼の、その間。深く刻まれる皺が、極度の疲労を表している。

 ……あぁ、わかるぞ。

 流音の呪力と、封印の力が、せめぎ合ってるんだ。

 頼む。頑張ってくれ。

 俺はギュッと両目を瞑った。


 おんおんおん。うおおおおん。おおおお。

 おん……おおおおお、うう、おおおお………い、


 奇妙な音は、確実に近付いている。


 おーーーーい。


 なにかの拍子で、それはハッキリと聞こえた。

 音、じゃない。

 街の周囲に漂う邪念、呪詛、穢れ。亡者達の声。風に絡んで聞こえていたのは、彼らの呻き声だったらしい。期待とも揶揄とも知れない、変に間延びした音程で、おおい、おおいと。繰り返し、誰かを呼んでいる。

 俺達を呼んでいるのか。

 いずれにせよ、気付いたんだろう。

 封印が崩れつつある様に歓喜し、垂涎して、扉の開く時を待っているんだ。


「オン、カカカ……ビサンマエイ…………ソワカ」


 開くぞ。

 ほら開くぞ。

 もうじき開くぞ。

 嬉しや嬉しや。


「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ!」


 流音が頭を振り、いっそう声を張り上げた。

 その小柄な身体から、執念の呪力が迸る。

 おそらく、可能な限りの最大出力だった。放たれた呪力は、直線を成して鬼門の方角へ飛び、力の均衡を打ち破って、突き抜ける。びゅう、と一際。強い風が吹いて、俺達の衣を膝の上まで捲り上げた。


 おおおーーーーい。

 おおおおおおおおおおおおおい。


 狂喜の叫びは、邪念達のものだろうか。

 それとも、俺のものだったのか。

 今、奇しくも望みは同じ。

 開け、扉。

 鬼よ――来い!


 ばきん。

 巨大な硝子を叩き割ったような音が、場に響いた。

 流音が、風圧に押されて仰け反る。

 散らばった米が宙に浮き、みるみる黒く炭化して、粉々に砕ける。暴力的なまでに荒れ狂う風、邪念、圧力が、ごうごうと何事か叫びながら、結界の中を吹き抜ける。大勢の人間が一斉に嘲笑するような、物凄い振動が、頬を震わせた。

 やったぞ。

 鬼門が開いたんだ!


「開いた! 開いたぞ!」


 叫んだ俺は、笑っていたんだと思う。

 でも、流音の方は、それどころじゃなかった。

 可愛そうに、今の衝撃で三メートルは吹き飛ばされて、風圧に押されながらも、倒れないよう必死で踏ん張っている。踵から砂塵を巻き上げ、両腕を前で組んで頭を守ってはいるが、垣間見えた表情は、かなりヤバそうだった。


「る、流音!」


 一歩を踏み出しそうになる。

 前触れもなく、突然、俺の腰がガクンと落ちた。


「なッ……!?」


 みっともなく尻餅を着いた格好で、咄嗟に足下を確認する。

 地面に撓んだ貫紐が、するする動いて土へと潜り、伸びきるのを見たのは、ほんの寸刻の出来事。なにが起こったのか考えるよりも先に、それは俺の自由を奪っていたんだ。

 重い。

 信じられない重量が、下半身を地面に打ち付けている。

 鉛を付けられたような、なんて比喩があるけれど。そんな易しいもんじゃない。鉄球か大岩、でなきゃタンカーだ。重さを知覚するよりも先に、筋肉が敗北した。まるっきり身体の自由が利かない。

 あぁ、そりゃそうだ。

 ようやく頭が回り始めて、俺は歯軋りした。

 この先には、井戸が釣り下がってるんだから。

 ということは、だ。

 貫紐は、ちゃんと井戸を捉えたってわけだな。

 なら問題ない。いい。順調だ。

 よしよし。よし。落ち着け。このまま……


「んぐ!」


 なんだけど、そうはいかなかった。

 どういうわけだか、俺は、自分の鼻に全力で膝蹴りを入れていたんだ。


「んっ……!?」


 言っとくけど、こんなときに、そんな趣味はない。

 原因は……そう。それしかない。

 貫紐に捉えられた井戸が、罠を察して暴れ出したらしい。

 貫紐の片端は、井戸を捕まえている。そして、もう片方の端は、俺の足首に固定されている。繋がってるんだから、井戸が暴れれば、その振動は貫紐を通して俺に伝わるだろう。必然の道理だった。


「動かないで!」


 流音に怒鳴られるまでもない。動けなかった。

 もちろん、井戸が暴れているせいもある。だけど、違うんだ。

 足の裏がムズムズする。

 嫌らしさ。禍々しさ。陰鬱さ。あらゆる不快感を統合した、邪悪な存在。

 それが、俺のすぐ足下で呼吸しているのが、わかる。

 なんだこれは。裸足でムカデでも踏んでるみたいだ。

 いる(・・)

 昇って……きている。

 理屈もなにもなく、そう直感した。


「る、流音! 昇ってるぞ!」

「わかってる!」


 流音は、両手を前に突き出し、空中を掴んで、なにかを引く動作を始めた。

 一見パントマイムだが、意図は明白だ。離れた場所から、貫紐を《引っ張って》いるんだ。遠目にも、掌の切り傷が血を噴いているのがわかる。血液を介して貫紐を操ってるってことだ。


「う……くっ」


 井戸が昇り始めたため、重さは和らいでいた。

 でも代わりに、暴れっぷりが半端じゃない。

 前後左右、狂ったような勢いで負荷が掛かり、俺の足は、もう操り人形だった。法則性なんて知ったこっちゃない。端から見れば、完全に狂人だ。バタバタと足が宙を蹴り、開き、閉じ、そのくせ立ち上がることも許してくれない。


「いたっ! 痛い痛い痛い!」


 関節を弄ばれる痛みがこれほどとは、思ってもみなかった。

 俺は、情けない悲鳴を上げながら、なるほど確かに釣りだな、なんて変に納得していた。井戸は、釣り餌に掛かった魚なんだ。それも、とんでもなく巨大で重くて邪悪な魚。

 ……釣り上げなきゃな。

 ここまできて、逃してなるもんか。

 二人の命が懸かってるんだ。足の一本や二本、どうってことないさ。


「ううっ……ぐっ……」


 吹きすさぶ邪念の嵐に、俺と流音の衣は着崩れ、髪はグチャグチャに乱れた。

 依然、この場は激流の最中。

 だけど今は、それが却って好都合だった。おかげで相当な引力が発生しているらしく、流音が引く度に、少しずつ、井戸が持ち上がってきている。本当に十センチか十五センチか、その程度だけれど、それは希望の進捗だった。

 流音にしてみれば、本当は留まっているだけでも精一杯なんだろう。それでなくとも、鬼門解放とかいう大技をやってのけた直後だ。気力も体力も呪力も、消耗は計り知れない。とっくに倒れてても、おかしくないんだ。

 ボロボロの状態で、残った力を振り絞ってくれてる。

 承知の上で、敢えて願った。

 頑張ってくれ。もうちょっと。もうちょっとだけ、無理してくれ。


「んっぎぎぎ……ぐっそ……ぢっくしょう……!」


 暴風の合間に、流音の雄叫びが聞こえた。

 普段の様子からは想像も付かない必死の表情で、流音は貫紐を引いている。歯を食い縛り、髪を逆立て、眼は据わって、鬼の形相と言っても過言じゃない。見栄もプライドも。全部かなぐり捨てた、流音の本気(マジ)が其処にあった。

 ずる……ずる。

 井戸が上がってくる。

 五十センチ? いや一メートルは昇ったんじゃないか?

 意味はないと知っていても、俺の手は、貫紐を握り締めていた。

 上がれ、上がれ、上がれ!


 ――そのときだ。


「うあああぁあッ!!」


 足首を激痛が襲った。









 反射的に身を縮めて、視線の先にあった光景に、俺は愕然とした。

 貫紐が、足首を食っていた。


「あぁっ! うっ!」


 声にならない絶叫を上げ、俺は身を捩った。

 結び目は勝手に解けていて、その先が、いとも容易く皮膚を突き破り、肉に吸い付き、神経を囓りながら、ぐいぐいと身体の奥へ侵入してくる。直径五ミリに満たない貫紐の径が、まるで鉛筆でも押し込まれたみたい。凄まじい激痛だ。


「痛いっ! 痛い痛い痛い!!」


 さっきも同じことを口にした気がするけど、これは比じゃない。

 肉を蹂躙し、背骨を跳ねるビリビリした圧迫感は、痛覚が電気信号であることを俺に思い知らせた。他の感覚はブッ飛んだ。熱いのか、冷たいのか。それすら認識できない。感電って、こんな感じなんだろうか。


「ああ、あ、うっ」


 無意識のうちに、俺の指は、臑を掻き毟っていた。

 そんなことで手加減してくれるような呪具じゃない。わかってるんだ。

 だけど、この激痛の前に、理屈なんて紙屑ほどの意味もなかった。

 体内を侵される痛みと恐怖に、泣き叫ぶことしかできない。


「ちくしょぉおおおお! うわあああああ!」


 気付けば、流音も絶叫していた。

 気合いとか、そんな可愛いんじゃない。咆吼だ。震えて悶えて、メチャクチャに頭を振って。なんとか井戸を釣り上げようと、渾身の力で貫紐を引いている。半ばヤケクソなんだろう。黙っていたら、おかしくなってしまうのかもしれなかった。

 俺も負けてない。ボロボロ涙を零し、鼻水は垂れっぱなしで、涎までが唇の端を伝う。コアなファンでも幻滅するくらい、酷い顔してるんだろうな。叫びすぎて、肺が冷たい。臑は血塗れになってゆく。頭ん中、真っ白だ。


「が、ぁあ、うっ」

「このやろおおおおお! っざけんなぁああ!」

「ぐ、ぐぅっ、あ……」

「くっそがぁあああ! うわぁあああああ!」


 おおおおーーい。

 おおおおい。おおおおおおおおい。


 邪念達の嘲笑が、嵐になって荒れ狂う。

 俺達は二人そろって、喉を潰すほどの大声で、あらぬことを喚き散らした。壊れたみたいに身を捩り、喘ぎ、悶えて、意味不明の絶叫を上げ続ける。夜の校庭が、なんて騒々しさだ。耳がイカレそうじゃないか。

 流音は、とっくに限界を超えてるはずだった。

 俺も、そろそろ正気が危うい。

 こんなの、いつまで続くんだ?

 もう、井戸が昇っているのか下っているのかも、わからない。

 本当に……上手くいくのか…………?


 おおーい。

 おおおおおーーーーい。


 あぁ、邪念達が嘲笑わらう。

 こいつら、俺達が負けて死ぬのを待ってるのかもしれない。

 さっさと死ね。死んで仲間になれ。呼び掛けは、そういう意味なのかも。

 死ぬ?

 そう……なのか?

 もしかしなくても、これって、死ぬかも?

 酸欠の脳味噌が、いよいよ思考を放棄して、楽になる方法を探し始めた。

 もう、いいんじゃないかな。

 ぶっちゃけ、ちょっとだけ、そう思ったんだ。

 だけどそのとき、俺達に届いた声は、邪念でも諦念の誘惑でもなく――




「――華音! 流音!」








                  †





 ハッとして、俺は校門の方に目を遣った。

 それから、その眼を見開いたまま、絶句した。

 だって、涙で滲んだ視界に飛び込んできたのは、見ず知らずの中年リーマン。

 背広はクタクタで、頭は寂しく、眼鏡がずり落ちて、靴は片方脱げてしまっている。それが、ハァハァと白い息を吐きながら、全力ダッシュで此方に駆けてくるんだから。場違いにも程がある。俺じゃなくても驚いただろう。

 しかも。

 背中に、兄さんを《おんぶ》して。


「えっ」


 なにこのシュールすぎる絵面。

 一瞬、激痛も状況も忘れ、俺は素でリアクションしてしまった。

 なにこれ。なにこれ?

 夢か? 幻覚か? 遂に狂ったのか?

 それにしたって、こんな幻はちょっと……


「どうなっているのだね?」

「いや、兄さんがどうなってんのさ!?」


 リーマンの背中から問い掛ける兄さんに、つい癖でツッコんでから、その声に、途方もない安堵を憶えて。俺は、思いっきり脱力した。


 ……遅いよ、兄さん。


 はは、と乾いた笑いが漏れる。俺は、そのまま半笑いで、リーマンが走ってくるのを眺めていた。大量に汗を掻いてるんだろう。湯気が立っている。そりゃ、あの悪路を成人男性一人負ぶって全力疾走すれば、そうなるよ。

 ところで、彼は……誰?

 なんとなく嫌な予感で待機していると、やがてリーマンは、俺達の傍まで来て、兄さんを下ろした。すっごい加齢臭。息は激しく乱れ、残り少ない髪はバーコードとなって頭皮に張り付き、案の定、その眼は赤黒く濁っていた。


「親切な方が声を掛けてくださったのでね。運んで頂いたのだよ」

「美談にしないで!? これ言霊使ったよね!?」

「ちょうど運良く拾えて良かった」

「本音出てる! タクシーじゃないよ!?」

「ありがとう。気をつけて帰りたまえ」


 家に帰るまでが言霊です。

 偉大なる仕事を成し遂げたリーマンは、気の毒な一般市民のモブだったらしい。兄さんの命を受けて、何事もなかったかのように、フラフラと立ち去っていった。あぁごめんなさい。兄がごめんなさい。なんか大変に申し訳ない。ごめん。

 でも、ありがとう! 通りすがりの人!


「流音、これ。しっかりしなさい」


 兄さんが肩を揺すると、流音は糸が切れたように、その腕の中に崩れ落ちた。

 急に静かになったと思ったら、立ったまま気絶してたのか。

 まったく……参ったよ。

 今度の誕生日は、奮発してやろう。


「うむ。華音も流音も、よく頑張ったね。ご苦労」


 流音を抱き留めたまま、兄さんは、屈んで地面に片手を突く。説明不要。この場に混在する呪力の状態から、なにが起こったのか察したんだ。だとしたら、兄さんが次に取る行動は、ひとつだけ。


「これだけ昇っていれば聞こえる(・・・・)だろう」


 ごう、と一陣吹き抜けて、兄さんの黒髪が、風に踊った。

 悠然と佇む長身から、絶大な呪力が溢れ出す。

 俯く横顔は相変わらず端正で、口調は冷静そのものだ。

 けれど、発散された呪力は、俺が知ってる中で、最もドス黒い。そこはかとない憎悪と憤怒に色濃く染まった《呪詛》だった。こんなに怒ってる兄さん、何年振りに目にするだろう。気圧されて、俺はゴクッと唾を飲んだ。

 やっぱりこの人は、誰よりも怖くて、尊大で、頼もしくて。

 オーライ。覚悟しなよ、井戸。

 うちの兄さんは容赦ないぞ。


「よくもこれだけ。好き勝手してくれたものだ」


 吐き捨てて、更に増大した呪力が、すべて地下へと向けられた。

 此処へ来るまでに、入念に練り上げてあったんだろう。

 あとは、たった一言。

 それだけ発すればいい。


「私の可愛い弟と大切な友人を――返してもらおう!」


 《 解 き 放 て 》


 兄さんが言うや否や、地面にピシリと亀裂が走った。

 べき、ばき。轟音が唸ったかと思うと、見る間に地面が割れ、その段差を広げてゆく。チョコレートを折るみたいに簡単に、俺の足下がガラガラと持ち上がる。束の間の浮遊感に、ふわり胃が宙ぶらりん。本能的に、後退る。

 間一髪。怒濤の勢いで、地中から柱が飛び出した。

 土や石の破片、舞い上がる砂が、鼻の先数センチのところを掠める。聞いたこともないような大音響に、耳の奥が痺れた。そんな力で引っ張られた日には、如何に貫紐だって、ひとたまりもない。ぷつんと千切れて、俺はまた尻餅を着いた。

 翳した手で庇いつつ、うっすら片眼を開ける。

 下半身というのか後半身というのか。爬虫類には詳しくないんだけど、とにかく身体の半分から後ろは、未だ土中にあって、耳障りな抵抗のノイズをゴゴゴと軋ませていた。さっき柱と見えたのは、その非常識な巨大さ故にだ。

 でも、曝け出された上半身は、此処で会ったが百年目。

 直径二メートルはあろうかという、石造りの井戸に違いなかった。


「!」


 次の瞬間、井戸が頭を振るようにうねり、上部に開いた口から、ゴエッとなにかを吐き出した。黒い粘液に塗れた二つの人影が、抱き合ったままスローモーションで地面に転がる。俺の懐で《鶴》が仄かに熱を持つ。

 月光に照らされた二人は、確かに、見覚えのある制服を着ていた。

 世音!

 瑠衣ちゃん!

 最早、声を掛ける体力は残っていなかった。指先から、爪先から、冷たい痺れが神経を麻痺させてゆく。思えば、この数時間で幾度、この感覚を味わっただろう。目の前がぼやけて、白くなって、黒くなって、闇の底へ落ちてゆく思考。

 けど、今度のそれは、決して絶望じゃない。


 ……良かった。

 間に合っ…………、


 ぐらり、と後頭部がくずおれる。

 斯くして俺は、心底ホッとして満面の笑み。

 喜んで意識を手放したのさ。










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