鬼門解放
20.
ぶっちゃけ、俺達は最初っから、兄さんをアテにしていた。
指示から術式、なにからなにまで全部やってもらえると思っていた。そんな主戦力の離脱は、まったくの想定外だったんだ。その上、予めの打ち合わせすら忘れてた。それぐらいには、全員が焦ってた。
だから、今から行う術は、流音の案。オリジナルということになる。ものの数十秒で、なにか策を練ったらしい。この頭の回転の速さには、いつも胃が痛くなる。なんで兄弟で、こうも出来が違うんだろうな、俺達。
「でも、どうやって?」
「鬼門解放」
事も無げな即答を聞いて、俺は盛大に咽せた。
なにしろ、渡された御神酒を口に含んだところだったから。
「おまっ……ゲホ! ゲホッ……」
「あ、ちゃんと飲んどいた方がいいよ。後が辛いから」
「……ゲホッ…………」
鬼門。
鬼のやってくる方角。
陰陽道では東北がそれに当たり、仇志乃流は、この流れを汲んでいる。ここで鬼と表現されるものは、頭に角の生えた例の怪物だけじゃない。あらゆる呪詛、邪念や穢れなど、いわゆる「良くないもの」を総称して、鬼と呼ぶんだ。
現代ほど科学の発達していない時代、人々は、病気や自然災害なんかは、そんな鬼達が運んでくると考えていた。今じゃ信じてる人も稀少だろうけど、俺達の業界じゃ、割とよくあることだ。何らかの原因で、開いた鬼門が原因ってパターン。
だから先人達は、様々な防御策を講じて、これを封じている。地蔵や石碑、祠、色、建物。風水的には、京都が有名だろうか。つまり村単位、町単位で、それぞれ対鬼門の造りがあるってわけだ。
もちろん、この街もそう。
流音は、それを無理矢理こじ開けるつもりなのか?
何故?
そんなことをしたら、付近の邪念や呪詛、穢れが一気に流れ込んでくる。
流れ込んだものは裏鬼門、つまり反対の方から抜けてゆくんだけど、その際、場には凄まじい負の引力が発生する。呪術的に、洪水みたいな状態になるんだ。それでなくとも井戸がいるってのに。これ以上、厄介を増やしてどうするんだ?
「激流の中に立つようなもんだぞ!」
「それでいいの。華音兄ちゃんなら平気でしょ?」
「俺は耐えられるだろうけど! お前、吹き飛ばされるよ!?」
「リスクヘッジ」
呪具を漁る手も止めず、流音は、ひょいと片足を上げて見せた。
雪駄の裏には、いつの間にか、梵字が描かれている。チラッと見えた足首にも、複雑な図形があった。抗力の役目をする術だろう。さっきからゴソゴソやってると思ったら、こんなことしてたのか。
「引きずり出すのは無理だよ。力負けするし、逃げられたら終了じゃん」
あくまで事務的に、でも早口で、流音が続ける。
「いい? 僕らはね、勝つ必要はない。井戸を倒すことが目的じゃないんだ。目的は世音兄ちゃん達を助けること。そこんとこ間違えないでね」
札束よろしく呪符を捌いて、流音は、鬼門の方角を見据えた。
「出てきてもらう。井戸の方からね」
…………?
わからない。流音は、なにを考えてるんだ?
「そ、そんな方法があるのかい?」
「ていうか、たぶん、それしかない。そもそも僕が戦える相手じゃないし」
「急がないと……!」
「だったら尚更。冷静に、確実にヤらなきゃ」
流音は素早く真言を唱え、呪符の束を天高く放った。
呪符は青白く光って、在るべき場所へと散ってゆく。風向きも物理法則も無視して、四方八方。樹木、フェンス、門柱と、相応の位置に張り付いてゆく。これは、制御点だ。即ち、結界を構成するための柱。
すべての呪符が、流音の意図した箇所に収まったんだろう。
程なくして、場に守護の力が満ちたのがわかった。
ちょうど学校の敷地を囲む形で……ん?
いや。
二カ所。
東北と南西の方角が。
鬼門と裏鬼門が開いている。
「流音、裏が」
「わざと。閉じ込めてどーすんのさ、バカなの? それより、これ撒いて」
ポンと投げて寄越されたのは、巾着に入った米粒だった。一合分くらいか。
邪念を呼ぶための餌だ。
もしかして……鬼門解放は、ただのプロセスなのか?
邪念を呼び込むことにこそ、意味があるのか? そのために裏鬼門を開けてあるのか? だけど、逃がすつもりなら、どうして誘ったりするんだ? 流し素麺でもあるまいし、通り抜けるだけの邪念になんの利益が……
……流れ。
ハッとして、俺は巾着袋を握り締めた。
待てよ。流音の考えてることって。
「あとこれ」
米を撒き終わると、今度は紅入貝とペットボトルが飛んできた。
「先に渡しとく。今から僕、手汚れちゃうから」
ペットボトルの中身は、加持水か。
だとすれば、俺の推測が正しければ、こっちは。
「始まったら飲んで。華音兄ちゃんなら、命に別状ないって」
たぶんね。
付け加えて、流音は、ようやく探っていた鞄から目を離した。
「なに、この貝?」
「邪香が入ってる」
……やっぱりだ。
これは、呪詛を寄せ、誘う匂いを持つ物質を粉状に挽いたもの。
一般的には、香として焚いて、呪詛を誘き寄せるのに使う。猫に対するマタタビみたいなもので、奴等はこの匂いが気になって仕方ないらしい。でも、それだけ。退ける効果は一切ないから、単なる呪詛ホイホイに過ぎない。
繰り返すけど、香だ。例外にしたって、せいぜい身体にまぶす程度。飲んだなんて馬鹿げた事案は、聞いたこともない。
「よっし」
すべての準備が整ったらしい。
流音は、ふぅと息を吐いて立ち上がった。
「華音兄ちゃん、寝てるときに髪を引っ張られたら、どうする?」
「上を……見るかな」
「そこに、すっごく気になるものがあったら?」
「確かめようとするだろうね」
そうか、わかってきたぞ。
流音の作戦は、要するに、釣りだ。
先述の通り、開いた鬼門からは、大量の邪念や呪詛、穢れが流れ込んでくる。
流れ込んだそれらは、裏鬼門へ抜けるわけだけど、その勢いときたら、滝を横にしたようなもの。凄まじい激流になる。それも結界を張ってあるため、無駄なく、効率的に一直線だ。考えられる限り、最大の瞬発力を得られるだろう。
そして呪詛や邪念、穢れというものには、ある種の引力がある。
合体するにしろ反発するにしろ、そんなものが頭の上で流れた日には、誰だってまず飛び起きる。刺激された井戸は、必ず上部に注意を払うんだ。
其処に、邪香。誘引物質の塊と化した俺がいれば。
相手も年季の入った呪詛だ。警戒して、地上までは出てこないかもしれない。
それでも、ある程度は昇ってくる。
習性として、昇らざるを得ない。
「それで、これ」
振り返った流音の手には、三メートルくらいの黒い紐があった。
「貫紐」
うん、知ってる。
貫紐っていうのは、憎い相手の敷地内なんかに埋めて使う。一種の地雷だ。
髪紐とも神紐とも呼ばれ、諸説ある。というのもこれ、本物の紐じゃない。紐状に固く編んだ《髪の毛》なんだ。それも、恨みを抱いて死んだ女性の遺髪が、最も効果が高いという。出所が気になるけど、そこはスルーした方が賢明か。
敵と判断された者が踏む、或いは触れると、たちまち襲い掛かって皮膚を破り、体内に侵入。肉と精神を食らいながら這い上がり、脳に達するまで進むのをやめない呪具だ。
言うまでもなく、それは激痛と恐怖を伴うもので、引っ張ったぐらいじゃ絶対に抜けない仕組みになっている。カンディルとかいう魚、あれにそっくりな性質だ。考えた奴は、べらぼうに性格が悪いと思う。マジで。
この貫紐に侵されると、素人は、まず助からない。踏めば足を、触れれば手を。諦めて捨てることが、控えめに言って最善になる。頭まで行ったら、それは人間としての死を意味する。
なんたって、死んだ方がマシってくらいの激痛と恐怖が、一生続くんだから。
「それが釣り糸ってわけか」
「まぁ僕が呪力で操るけど、本来、勝手に動くものだし。うっかり華音兄ちゃんの方に行っちゃったらゴメンね。ていうか、たぶん行くけど。我慢して」
「……腕と足と、どっち?」
「大丈夫。華音兄ちゃん、呪詛耐性だけはアホみたいに強いじゃん」
おそらく、体内深くまで侵入する前に、溶けてなくなってしまうだろう。
手持ちの中では、これを使うしかないから。とは流音の談。
「正直、僕の力だけじゃ足りないんだ。他の引力も借りないと」
「そのための鬼門開放か」
「うん。でもそうなると、邪香が散っちゃうでしょ」
「だから俺が地蔵になる?」
「そゆこと」
なるほど。
一分足らずの、ほんの僅かな時間で、よくこれだけ考え付いたもんだ。
俺は素直に感心し、同時に弟の交友関係に、一抹の不安を覚えた。
この子、本当は友達いないんじゃないだろうか。
「でも貫紐って、そんなに強度はないだろう? 大丈夫かな?」
「誰の髪だと思ってんの?」
言われて、まじまじと貫紐をみつめた。
長く美しい黒髪だった。手入れは隅々まで行き届いて、枝毛縮毛の一本もない。黒い絹糸を真珠の水で梳いたようだ。月光を照り返す艶は、清楚でありながら何処か妖しく輝いて、悪女のウインクと聖女の微笑の両方を連想させる。
あれ、どっかで見たような……。
というか、しょっちゅう見てるような……。
ま、まさか。
「食い付いたら、しゃぶり尽くすまで離れないよ? あの性格だもんね」
ゾッとして、思わず喉を鳴らした。
に、兄さんの髪……!
「なに、ビビってんの? 大丈夫とか大見得切ったくせに?」
唇を尖らせ、流音は上目遣いに俺を睨んだ。
「……ううん」
応じる俺の声は、震えていたかもしれない。
実は、ちょっとビビってた。
囮の俺は当然として、流音だって、無事に済む保証はないんだ。鬼門解放は大技で、修行を積んだ呪術師でも下手を踏むことがあると聞く。まだ中学生の流音が、成功させられるだろうか。心配だ。なにより兄さんの貫紐が怖い。
兄さんの貫紐が、怖い(大事なことなので二回言いました)。
だけどさ、違うんだ。
嬉しい。
だって役に立てる。
流音は、こんなときにまで空気を優先するような間抜けじゃない。生粋の軍師、リアリストだ。此処に在る限られた道具、人材。成功率、リスク、所要時間まで、すべて加味した上で、これが最善と判断した。適材適所を前提に。
その中に、当たり前みたいに俺を含んで。
今度は傍観者じゃない。要素の一つに、戦力になれる。
不謹慎だけどさ。
それが、嬉しいんだ。
流音……口では役立たずなんて言って。
ちゃんと俺のこと、信じて……。
「急ごう。痛いのなら慣れてる。遠慮なくやってくれ」
「……華音兄ちゃん、ドMだったの?」
「そうかも」
白く輝く月の下、あどけない猫眼が、一瞬キョトンと瞬く。
けれどそれは、じき呆れたような笑みに変わって、流音は、唇の端を不敵に持ち上げたんだ。
「おーらい」




