君の声を聞かせて
18.
「驚いた。書物でしか読んだことなかった、身代わり巫女だ。本来、誰かに向けられる悪意を己の身体に取り込んで《昇華》する存在。マジでいたんだって、頭ブン殴られた気分だったぜ。創作だとばっかり思ってたのに、実在すんのかよって」
頭の上、乗せられた感触が、心なしか重い。
いつしか闇までが増し、淀んだ空気が渦巻いて、わたし達を縛り上げているみたいだった。知らぬ間に握り合っていた二人の手は、汗ばんで、そのくせに、ひどく冷たい。
話の途中から、わたしは、落ち着かなかった。
結局、所々で口を挟んでしまったことは反省している。気の利いた慰めの言葉も浮かばない、頭の悪さも嫌になる。だけど、そんなんじゃない。なんだか……。
「……あれから《声》は聞こえない」
ぎゅっと、掌に力が込められる。
「なんでかな。なにしてもダメだったのに。あの日から、嘘みたいに消えた」
おそらく、わたしの体質のせいだろうけれど。
付け加えて、先輩は、感慨深げに溜息を吐いた。
「俺も含めて、お前は、どれだけの人間を救ってきたんだろうな。それも、見返り一つ要求しない。黙って、ひたすら。毎日毎日。感謝すらされねーってのに」
結果論だよ。
わたしだって、夢にも思わなかった。自分が、そんなことしてるなんて。
先輩に指摘されて、初めて知ったんだから。
「パネェわ。まるっきり地蔵菩薩じゃん。赤の他人の身代わりとかさ」
いやいや、そんな御立派なもんじゃない。
もし選べるなら、こんな体質は絶対に引き受けなかっただろう。
「それも、普通の女子高生だっつんだから。凄ェよな」
「……やりたくてやってるんじゃないよ」
「昔だったら、生き仏様とかって祀られてるんじゃねーの」
「わたしの意思じゃない!」
ざわめく違和感に、思わず声を荒げてしまった。
なんか変。変だよ。
どうしたの? わたし……褒められてるのに、嬉しくない。
先輩が褒めてくれてるのに、全然、耳に入らない。
ハラハラする。ソワソワする。チクチクする。
怖い。
だって、先輩の声。口調。呼吸。
あまりにも弱々しくて、今にも消えてしまいそう。
怖いよ、先輩。
どうしてこんなときに、そんな話をするの?
「そこは関係ねーんだ。嬉しかったんだよ、俺」
今の弾みで体勢が変わり、わたしの頭が、先輩の腕から外れた。
「この世界に、お前みたいな奴がいたこと。溢れる呪詛があれば、それを浄化する役目が存在すること。ちゃんとバランスが取れてた。表裏一体なんだ」
緩慢な動作で、先輩は、前傾姿勢となった上半身を起こす。
それでも、頭は項垂れたままだ。
「悪意だけじゃない。善悪ひっくるめて生身の人間だもんな。失うだけじゃない。新しく生まれるものもあるんだ。親父が消えたあの日以来、俺はようやく、そんな当たり前の真実に辿り着いた。もう大丈夫。心から、そう思えて……」
絶対におかしい。
ただならぬ気配に、わたしはスマホを奪い取って、電源を入れた。
すかさず先輩の顔を覗き込む。
「――――!」
落ち窪んだ目元。
痩けた頬。
げっそり削げた顎の肉。
艶のない髪。ボロボロの唇。乾いた皮膚はカサカサにひび割れ、壊れた肌理が、まるで蛇の鱗のよう。ブカブカになった制服の袖からは、枯木を思わせる細い手が覗き、爪までが欠けて、紫色に変色している。
別人と見間違えるほどに、変わり果てた姿が、そこにあった。
それだけじゃない。
先輩の左脚、足首から太腿にかけて、何本もの黒い縄が巻き付いている。
直径は三センチほど、長さは、よくわからない。なにしろ十本や二十本の騒ぎではないのだ。規則性こそ無視されているが、縄の上に縄が重なり、連なって、所謂ぐるぐる巻きの状態。ズボンの端も見えない。
「……思ったより吸われるな。さっさと仕掛けといて正解だったぜ」
くすんだ瞳が、薄く笑う。
「なに……なにこれ……」
「気にすんな。お前のことは感知してねーはずだ」
「ど、どういうこと……?」
「…………」
ハッとして、わたしは、先輩の左腕を取った。
もしかしてもしかしてもしかしたら。
乱暴に袖を捲り上げ、手首の内側を見る。
果たして――あった。
御守りに刻まれていたものと同じ梵字が!
「言ったじゃんよ? 俺が御守りだって」
この人ってば……!
いつの間に、こんなことしてたの?
なんで。なんで、気付かなかったの?
この黒い縄は、呪詛だ。
本来、わたしを狙っているはずの、井戸の呪詛。きっと、あれに巻き付かれると生命力が吸われるんだ。そうじゃなきゃ、こんなにも短時間に、あんなにも先輩がやつれるわけがない。
つまり、先輩は、わたしの代わりに。
ぷつん。なにかの切れる音が聞こえて、頭の中が真っ白になる。
次の瞬間、わたしは衝動に任せて、先輩の胸倉を掴んでいた。
「バカなの!? なに考えてんのよ!? ありえないでしょ!?」
「俺の方が頑丈だ。呪力がある分、時間も稼げる。論理的だろ」
「どこがよ!? こんな……こんなになっちゃって!」
「それな。割とガチでヤバイわ。なんとかしようと思ったんだけどさ……」
この有様。
はは、と自嘲気味に笑い、先輩は、視線を巡らせた。
「心配いらない。兄貴達は来てくれる。絶対、お前を助けてくれる」
「わたしは、あんたを心配してんの!」
「俺はお前が心配だから言ってる」
「それにしたって優先順位ってもんがあるでしょ! まず自分でしょ!」
「すまん。悪かった」
「謝ってなんかほしくない!」
あぁ、あぁ。
なんてこと。
初めから。
この人、初めっから、わたしの身代わりになるつもりだったんだ。
井戸に落ちたって知ったときには、もう。
バカなの? バカなの? バカなの?
せっかちにも程があるでしょ?
文字通り御守りになっちゃって、どうすんの?
なんで、いつもいつも勝手に自己完結しちゃうのよ?
わたしだけ助かったって、意味ないでしょ!
「とにかく、これ取らなきゃ!」
わたしは、先輩の脚に巻き付く縄に手を伸ばした。
「バカ、触んな!」
先輩の制止は僅かに遅く、わたしの手は、縄の一本を掴んでいた。
ぬるり。
予想外の手応えに、驚いて短く悲鳴を上げた。
奇妙な弾力があった。つるっとして、それでいてザラザラして、冷凍魚を撫でたような悪寒が、ぞわり背筋を走る。しかも滑っている。喩えるなら堅いナメクジ、或いはウナギか。妙に生々しい反発が、わたしの掌を押し返してきたのだ。
なにこれ。
正直、気持ち悪かった。とてもじゃないが、好んで触りたいブツじゃない。だけど、そんなことで怯んでいられなかった。これが先輩の命を吸ってるんだ。さっさと除去しないと。
構わず、引き抜いた。
「よせ!」
すかさず先輩が、わたしの手を叩いた。
指が滑り、ぽとりと縄が、頭蓋骨の上に落ちた。
「ひっ……!」
それを見て、わたしは、今度こそ鳥肌が立った。
縄が、ひとりでに動いている。
知っている動作だった。うねうねと長い身体をくの字に折り曲げ、蛇行しながら前方へ這う。かと思うと、急に止まって鎌首を擡げ、なにかを探るように長い舌をチロチロと出して、再び這い始める。つまり、頭と尾の区別があるのだ。
それは、素早く先輩の影に潜り込んで、消えていった。
「……これ」
違う。
これは、縄なんかじゃない。
蛇だ。
真っ黒な蛇だ……。
「……やめとけ。下手に素人が触るもんじゃねー」
先輩は、ゆっくり首を横に振る。
無駄、という意味なのか。理解して、ぎり、と唇を噛んだ。
よく見れば、先輩の脚に群がる蛇達は、各々、ずるずると好き勝手な方向へ移動していた。一匹一匹が、意思を持って行動するようだ。その図体は、泥沼に巣くうヒルに似て、醜悪で不快。嫌悪感を催さずにはいられない。
なんて禍々しい、悪魔の触手。
普段のわたしなら、ここで真っ先に抱く感情は、恐怖だったろう。
けれど何故か、このときわたしの全身を駆け巡ったのは、怒り。
先輩を苦しめる呪詛に対する、そこはかとない怒りだった。
こいつら、先輩を取り殺してしまうつもりなのか。
井戸の呪詛だかなんだか知らないが、誰に断って、そんなこと。
――させるか。
ふざけんな!
「だったら、尚更なんとかしなきゃ!」
「お、おい!」
わたしは、蛇を取り除きに掛かった。
まず手近な一匹を掴んで、放る。その隣の奴を掴んで、また放る。ガッチリ強く絡んでいて、なかなか指が掛からない。その上に滑る。指先に力を入れ、捻り込むようにして奥まで突き立てる。なんとか三匹目を掴んで、放る。
蛇? 大嫌いですけど、それがなにか?
こんなもんにビビってる場合じゃないのよ。先輩が大変なのよ。
好き勝手やりやがって、お前ら、憶えとけよ。
あとで一匹残らず、細切れにしてやる!
「やめろ、瑠衣!」
「やだ!」
「無理だって、おい、離れろ」
「じっとしてて!」
「もういいって、いいから」
「よくないでしょ!」
「瑠衣」
諭すような口調で強く言い、先輩は、わたしの手首を握った。
悪いけど、今回だけは譲るわけにはいかない。
キッと睨み返す。
目が合うと先輩は、ちょっと意外そうに、キョトンとした顔で瞬いた。
それから困ったように眉を寄せ、視線を外し、仕方ないなという苦笑を経て、
「……いいんだ」
泣き出しそうな笑顔で、そう呟いた。
呟いて、まっすぐに、わたしをみつめた。
「瑠衣」
乾いた唇が、わたしの名前を紡ぐ。
なによ。
なによ、その声。
どうしてそんなに、小さいの。
どうして、そんな虚ろな眼をするの。
その笑顔。
なんでそんなに……儚いの?
冗談でしょ?
「お願い、しっかりして!」
わたしは、先輩に取り縋り、全力で肩を揺すった。
先輩は、されるがままにガクガクと揺れるだけ。
もう、わたしの声も聞こえていないんじゃないか。
心臓を氷の矢で射貫かれた気がした。
手足が、身体が、震え出す。
ボロボロ涙が溢れてくる。
「泣くなよ」
力なく動いた掌が、わたしの頬を包んだ。
重ねた指先に触れたのは、あぁ。骨と皮だけ。なんて冷たい。
「……思えば俺は、俺自身に呪いを掛けていたのかもしれない」
先輩は、苦しげに息を継いだ。
「もう誰も愛さないように。愛して失わないように。母さんや親父みたいに。失う悲しみを味わうくらいなら、初めから、いない方がいい。大切な人なんて。そう、思って。ガキだった、あの頃のまま――怯えて……甘えて……」
よく言う。
結局、捨てられなかったくせに。
意地悪ばっかり言いながら、ちゃんと愛してたくせに。
紫音さん、華音さん、流音君。わたしのことも。
いつだって気に懸けて、守ってきたくせに。
「でも違った。お前が教えてくれた。俺が本当に聞きたかった、声、は――」
先輩の掌が、わたしの頬を包む。
そのときだ。
強烈な腐臭が、鼻を突いた。
反射的に、下を見る。
なにか昇ってくる。直感した。
程なくして、ある頭蓋骨の空洞化した眼窩から、一匹の蛇が頭を擡げた。
それを皮切りに、静かに眠っていたはずの頭蓋骨達が、カタカタと震え始めた。見れば、彼方からも此方からも。隣り合う隙間を縫い、顎を押し広げ、足元に犇めく頭蓋骨の中から、無数の蛇が這い出してきていた。
そうして、一斉に、同じ方向へと移動を始める。
先輩を狙っているのだ。
「やめてっ!!」
咄嗟に、一匹を薙ぎ払った。
爪先に触れた一匹を蹴飛ばし、その足で別の一匹を踏み付け、文字通り手当たり次第。引っ掴んでは、放り捨てる。
けれど、そんなもので間に合うはずもない。
蛇は、後から後から湧いてきて、アリのように先輩に集る。
錯覚だろうか。蛇どもが、目の前で、ぶくぶく太ってゆく気がした。動きも活発になっている。心なしか、性質まで獰猛になっているみたいだ。
「お願い先輩! 抵抗して!」
もう返事はなかった。
「……先輩?」
うそ、でしょ?
そんな…………。
「!」
涙で滲んだ視界に、黒い物体がうねった。
一際大きな蛇が、先輩の首に巻き付こうとしていた。
「なにすんのよ!」
その長い胴体へ、思いっ切りアッパーをブチ込む。
僅かに怯んだ隙に、すかさず両手で引き剥がす。
「どけ! 寄るな! あっち行け!」
涙と鼻水で顔面崩壊しながら、先輩に群がる蛇を、千切っては投げた。
掻き分ける動作すら、もどかしい。
武器の一つも持ち合わせのない事態が、ひどく悔やまれた。こんなことなら、懐に鎌でも忍ばせておくんだった。両手両脚じゃ、全然足りない。追い付かない。蛇どもが増える速度の方が、圧倒的に早い。悪いことに、手も滑る。
ずるずる、きちきち。
聞くに堪えない嫌な音を立てながら、蛇は、先輩に群がった。尽きることも知らず、湯水の如く湧き出して、互いを押し合い、締め上げて、みるみる先輩を黒い塊に変えてゆく。
「このっ! 離れろ! 」
どれだけ取っても払っても、蛇の浸蝕は止まない。
既に先輩の下半身は、群がる蛇で真っ黒に覆われ、その色は今まさに、上半身にまで及ぼうとしていた。術者が意識を失ったため、結界が薄れたのかもしれない。なのに、わたしには目もくれない。単なる障害物としての認識しかないようだ。
先輩が、自身に身代わりの術を施してくれたおかげだ。
こんなふうになってまで、守ってくれてるんだ。
胸に込み上げる熱に、呻き声が漏れた。
あぁ、触るな。汚い身体で触るな。
「わたしの先輩に触るなッ!!」
なんとかしなきゃ。
これじゃ、全身が飲み込まれてしまうのも、時間の問題だ。
気ばかりが焦って、だけど、事態は益々、悪化していくだけ。
疲労と倦怠感、過呼吸で、意識が朦朧としてくる。
しゅるしゅる、じゅる。ぎちぎちぎち。からからからから。
蛇と骨の立てる不気味な音が、冷たい頭の片隅に響く。
「助けて……誰か……」
どうしよう。
どうしようどうしよう。このままだと、先輩が死んじゃう。
どうしよう。
誰か。誰か助けて。誰か。
紫音さん。華音さん。流音君。
「助けてぇええええ――ッ!!」