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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
23/46

仇志乃紫音は容赦ない

15.






「私の弟と友人に手を出すとは……良い度胸なのだよ……」


 ぎりっ。

 不穏な音がして、俺は、助手席へ視線を流した。

 深く俯いた兄さんの横顔。全貌を知る勇気は、俺にはない。

 でも、たぶん、それでよかった。

 いつも穏やかな唇は、確かな激怒の形に引き絞られて歪み、そこに宛がわれた拳が、ぎりぎりと悲鳴を上げている。続く甲、手首。決して無頼ではないはずの、袂から伸びる白い腕にまで、血管の筋が厳つく膨らんでいて。

 きっと、地獄の鬼も裸足で逃げ出すような形相に、違いなかった。


 ぞく、と背筋に悪寒が走る。

 兄さんの身体が、凄まじい憎悪の気を発しているのが、わかった。

 この車内に部外者がいたら、三、四人は軽く呪い殺せるだろうってくらいの。


「にいさ……」


 変な義務感で口を開いて、どう声を掛けたものかわからず、唾を飲んだ。

 どうしよう。どうすればいいの?

 俺、混乱してる? してるよな? してる。うんしてる。

 あぁ、頭グルグルする。世音と瑠衣ちゃんのこと心配だし、兄さんキレてるし、流音は喋らないし。胃が痛い。誰か助けて。気持ち悪いよ。なんでこうなっちゃうんだろう。俺、俺もう嫌だ。手が震える。前がよく見えない。吐きそう。

 逃げ出したい。

 でも何処へ――




「大丈夫だよね!」




 後部座席からの大声で、ハッとした。


「紫音兄さんがいるもん! 井戸なんか瞬殺! ヨユーに決まってんじゃん!」


 思わず振り返り、慌てて視線を戻す。

 一瞬だけ見えた流音は、相変わらず半泣きで、幼い顔を強ばらせていた。

 けれどもその眼は、しっかりと前を見据え、懸命に涙を堪えている。

 健気に拳を握り締め、きっと、押し潰されそうなほどの不安と、戦いながら。


「世音兄ちゃん、しぶといもん。殺しても死なないもん! 絶対!」


 だから、


「……あぁ」


 俺は頷いた。


「大丈夫さ!」


 ……流音の言う通りだ。

 あの世音が、そう簡単にやられるもんか。

 バグるのもヘコむのも、全部終わった後でいい。

 なにもかも無事に解決したら、何ヶ月でも引き籠もってやろうじゃないか。

 今は……今だけは、しっかりしなくちゃ。

 奮い立て、俺の魂。


「ありがとう、流音」

「いーってこと! それより華音兄ちゃん、この道ってさ、僕知ってるよ」


 今の弾みで、いくらか平常心を取り戻したらしい。

 流音は、窓から外を見回し、身を乗り出してきた。

 俺達の車は、いつしか住宅街を抜け、何度か道を曲がって、街の中心部、大通りの中程まで来ていた。どういうわけだか、やたら渋滞していて、行き交う人々の脚まで速い。変に忙しなく感じるのは、俺が焦っているからなのか。


「家を出てから此処まで、ずっとおんなじだ。間違いないと思う」

「同じって?」

「部活の練習試合のときに、世音兄ちゃんと……一緒に歩いた」

「それは本当かね、流音?」

「うん!」


 兄さんの問いに、流音は、力強く答える。


「通学路だよ、これ。あの鶴、たぶん、世音兄ちゃんの高校に向かってる」


 そうか、学校か。

 車でなら、此処から五分ほどで着く。

 渋滞を計算に入れても、遅れて十分前後ってとこだ。

 俄然、勇気が湧いてきた。もう少しなんだ。

 待ってて、世音。瑠衣ちゃん!

 信号が青になるのと同時に、俺は、強くアクセルを踏んだ。


「うわっ」


 ――のは、良かったんだけど。

 交差点を曲がった途端、テイルランプに視界を塞がれて、急ブレーキ。

 三人そろって、がくんと前に、つんのめった。

 シートベルトをしていなかった流音が、勢いで、座席に額をぶつける。


「痛ぁい! なんなの、華音兄ちゃん!」

「……あれ」


 俺は、フロントガラス越しに、前方を指さした。

 此方側の走行車線を埋め尽くすのは、ぎっちり並んだ車の列だ。車窓を開けて首を巡らせると、先頭は、一つ先の交差点みたいだった。三百メートルは続いてる。先頭と思しき場所に、赤いパトランプがチラチラ点滅するのが見えた。

 警察までいるのか。


「け、検問……?」


 こんなときに?

 くそっ!

 拳で殴り付けるように、クラクションを鳴らした。

 生まれて初めて、鳴らした。

 前の運転手が、振り向いて、何事か怒鳴っている。

 知るもんか。こっちは弟の命が懸かってるんだ。構わず鳴らしまくっていると、誰かが呼んだのかもしれない。数人いる警官のうち、一人が走り寄ってきた。


「ちょっとお兄さん、静かにしてもらえる? まだ時間掛かるから」

「急いでるんです! 通してもらえませんか!?」

「いや、みんな急いでるんだよね。この国じゃさぁ」


 慣れているのか、中年の警官は、はははと愛想笑いで応じた。

 人の良さそうな風体をしているのが、今は、むしろ癇に障る。


「この先ね、なんか水道管だかガス管だかが、破裂したみたいでね。道路に何カ所か亀裂入っちゃって、あっちこっち割れてんの。一応付近の住民も避難してるし、車も通行規制中なんだわ。そういうわけなんで悪いねぇ」


 通行規制だって?

 よりによって、今? 此処を?

 そんな!


「と、鳥部高校へは行けますか?」

「あー、ダメダメ。あそこ避難指定区域。一般人は立ち入り禁止だよ」

「なんとか通してください! 弟が死にそうなんです!」

「あーなるほどね……そういう設定なんだ……」


 警官は、車内の俺達を睨め回して、なんともいえない苦笑を浮かべた。


「でもそれなら、お医者さんの方がいいんじゃないの。お坊さんてのはね、死んでから来てもらうもんだよ普通は。それとも、アイドルのコンサート?」

「いいから通してよ! わからずや!」

「ん、後ろの君は小学生? いけないなぁ、夜遊びは」

「そうじゃないったら!」


 駄目だ。まるっきり相手にしてくれない。

 俺達の格好から、どうも、コスプレイベントかなにかと勘違いしてるらしい。

 わかってるさ。無茶を言っているのは、俺達だよ。この警官だって、ただ仕事をしているだけ。悪気なんてない。こっちが非常識なのは、百も承知だ。

 だけど、こんなことしてる場合じゃないのに!

 歯噛みして、俺は警官を睨み付ける。

 彼は、動じなかった。


「悪いこと言わないから、また今度にしなさいね。とりあえず今日は……」

「おまわりさん」


 呼ばれて、警官は、助手席へと目を遣った。

 そこで彼は、初めて兄さんの事情に気付いたらしい。つまり、閉じられたままの眼と白杖に。いくらか驚いた様子で瞬きし、咳払いを一つ、態度を改める。


「あ、はい。なんですか?」

「おまわりさん。お話が。ちょっと此方へ」

「えっと……それはどういう」

「お願いします」


 職務上、断ることもできないんだろう。

 訝しみつつも、警官は、助手席側に回った。

 ……まさか、兄さん。

 やるつもりか。

 良心が痛んだけれど、この際、仕方がない。

 兄さんの意図を察して、俺は、助手席の窓を下ろした。


「なんでしょう」

「お耳を」

「?」


 警官が、兄さんの口元へ耳を近付ける。

 次の瞬間。




 ――《 黙 れ 》




 ゾッとするほど重い低音で、兄さんが、囁いた。


「…………」


 警官の手から、赤色灯が落ちて、からんと音を立てる。


「ガタガタうるさいのだよ、此方が急いでいるときに」

「…………」


 舌打ちして、兄さんは、シートベルトに手を掛ける。

 警官は、それを止めようともせず、ただ黙って、その場に棒立ちとなっていた。

 だらんと両腕を垂れ、肩からは完全に力が抜けて、先刻までの愛想は消滅。能面を思わせる無表情で、ぼんやりと、空気を眺めている。黒かった瞳は、赤黒く変色して濁り、まるで薬でもキメたゾンビだ。


 かかった。

 兄さんの言霊に。


 こうなれば、もう警官に、己の意思はない。

 兄さんの思うままに動くだけの操り人形、ほとんど生きた死体だ。その証拠に、ほら。彼は一言も発しない。黙れ、と。さっき兄さんがそう言ったから。

 言霊を扱う呪術師は何人かいるけれど、うちの兄さんのは別格なんだ。普通は、ここまで完璧、且つ即座に対象を制御することはできない。世音も流音も、この術だけは拒めない。知ってる限りじゃ、無効化できるのは俺だけだ。

 ましてや一般人。どうして逆らえるだろうか。


「華音。どうやら歩かねばならない。介助してもらえるかね?」

「あ、うん」

「流音、荷物を頼むよ」

「わかった!」


 俺達は、大急ぎで車を降りた。


「返答を許す。お前は、私の言葉に逆らえない。いいね?」

「ハイ」

「では、私達を鳥部高校まで誘導したまえ」

「ハイ」


 表情を失った警官が、並んだ車の間を縫って、歩き始める。

 気の毒ではあるけれど、今は彼を使うしかない。俺は、兄さんの手を取り、警官を追った。後ろに、リュックと木刀を担いだ流音が続く。周りのドライバー達が、不服げな視線を投げてきた。でも警官が一緒だ。咎められることはない。

 しかし兄さん、ほんと万人に容赦ないな。


「辺りの様子はどうかね?」

「車は詰まってるけど、人はいない。警察が検問張ってるのは反対側だよ」

「障害物は?」

「まっすぐ見える範囲には、特にないよ。電柱くらいかな」

「ならば走ろう、華音」

「え? でも大丈夫なの?」

「転ぶくらいならば、どうということはない。急がねば」

「……わかった」


 急げ。兄さんが言うと、警官は足を速めた。

 俺は兄さんの手を強く握る。

 そのときだった。

 足元で、奇妙な音がした。


 喩えるなら、とても重い物を持ち上げて、耐えきれずに落としたような。

 それとも象かなにか、巨大な生物の足音のような。

 腹に響く衝撃音が、規則的な感覚で、足の裏を叩いている。

 なんだ、これ?


 ド……ド……ド……ド……ド……ド、ド、


 兄さんの動きも止まった。

 俺だけに聞こえてるんじゃないんだ。


 ド、ド、ド、ドド、ドドドド、

 ドドドドドドド、ドドドドドドドドドスンドスン


 太鼓? 花火? 雷鳴? 地震?

 いや――


 違う!


「兄さんッ!!」


 正直、直感なんて大層なものじゃなかった。

 だけどこのとき、俺を動かしたのは、紛れもない危機感だったと思う。

 俺は、渾身の力で、兄さんを突き飛ばしていた。

 同時に、足元が一直線に裂けた。


 ピシ、ピシリ。

 アスファルトに亀裂が広がる。

 かと思うと、べきん。発泡スチロールみたいに割れて。

 ある箇所は隆起し、ある箇所は陥没し、上下に食い違って、ずれてゆく。

 足元が、目の前が、光景が、奇妙に歪んでゆく。

 差し延べられた手。宙に躍る黒髪。遠ざかってゆく。

 なんだか名前を呼ばれたような気もするけれど、俺には、聞こえなかった。

 今、俺達に起こっていることが、あんまり意味不明すぎて。

 すべてがスローモーションで広がって、割れて、歪んで、それから――


 物凄い轟音と衝撃。





                  †





「…………」


 地面に膝を着いたまま、俺は、放心していた。

 なにこれ。

 いや、なに?


 ぼんやり虚ろな視線の先、兄さんが、地面に突っ伏して手を彷徨わせている。

 杖を探しているんだ。

 あぁ、今ので…………、

 ……いけない!


「駄目ッ! 兄さん! 動かないで!!」


 俺が叫ぶと、兄さんの動きが、ピタリと止まった。


「動いちゃ駄目! そのままじっとして! 穴が――」


 信じられない。

 穴だ。

 地面に、大きな穴が空いていた。

 直径五メートル、深さ七メートルくらいだろうか。理不尽に破れたアスファルトの下、まるで爆弾でも落ちたかのような空間が、ぽっかり口を開けている。水道管が走っていたらしい。巻き込まれた車は半分、水没してしまっていた。

 其処は、ちょうどさっきまで、俺達が立っていた場所だった。

 未だ現実を把握しきれない脳裏に、ふと、あるニュース映像が過ぎる。

 これ、見たことあるぞ。

 一ヶ月ほど前に、どっかの駅前が、いきなり陥没して穴が空いたとか。

 そういや、ガス管だか水道管だかの破裂がどうのって、言ってた?

 え、あれか? あれなのか? 此処でか?

 今?


 きゃあ、と誰かの悲鳴が上がった。

 立て続けに、クラクションが飛び交う。

 数人が車から降りて、警察のところへ走っていった。

 逆方向へ走る人達もいた。

 それを見て、とにかく逃げなくては、と悟ったらしい。

 我も我もと車から人々が溢れ出してくる。

 緊急サイレンが鳴り響く。


 あれよという間に、場は阿鼻叫喚のパニックに陥った。

 逃げる人、警察に食って掛かる人、電話する人、何故か写メを撮る人。

 もうメチャクチャだ。

 穴は、道路を横断する格好で空いており、それによって人々の進行方向が区切られていた。兄さんの杖も、きっと落ちてしまったんだろう。両側のビルは辛うじて倒壊を免れたようだったけれど、斜めに傾いて、今にも崩れそうだ。

 件の警官は、既に正気を取り戻し、兄さんを助け起こそうと泡食っていた。

 術を解いたのか。


「どうなっているのだね!?」

「道路に穴が空いた! そっちとこっちで、完全に分断されてる!」


 言って、袂を引く手に気付いた。

 明順応した猫みたいに、ギュッと瞳を絞った流音が、固まっている。

 そうだ、この子は?

 ザッと確認したら、どこも怪我はしていなかった。驚いただけ、みたいだ。

 あぁよかった。


「兄ちゃ……華音兄ちゃん……これなに? なに? なに?」

「大丈夫。動いちゃ駄目だよ」


 俺と会話したことで我に返ったのか、流音は、辺りを見回した。

 兄さんの姿を認めて、大慌てで声を掛ける。


「紫音兄さん! 大丈夫!?」

「お前達は!?」

「俺と流音は平気! 怪我もないから!」

「ならば、先に行きたまえ!」


 俺は、答えに詰まった。

 だって兄さん、目が見えないのに。

 こんな状況で、こんな場所に置いていくなんて、危険すぎる。

 いくら呪術師だからって、不慮の事故までは、どうしようもないんだよ?

 いや、だけど、世音達にしても、一刻を争うんだ。

 ど、どうしよう。どうしよう。

 俺どうすれば……


「いいから。私も、あとで必ず行く。じきに行く」

「でも」

「早く!」

「だけど!」

「行きなさい!!」


 流音が立ち上がり、兄さんに背を向けて駆け出した。

 突然のことで、止める暇もなかった。咄嗟に手を伸ばしたけれど、届かない。俺に見えたのは、振り向く横顔。ぼんやりとした、赤黒く濁った眼だけ。


 兄さんってば!


 俺は、兄さんをみつめた。

 対岸の兄さんは、警官に支えられて、ようやく立っていられる状態だ。長い黒髪は乱れ、僧衣は着崩れ、杖をなくし、雪駄は片方脱げてしまって、最早一人で歩くことすら、ままならず。見るも哀れ、被災した社会的弱者に他ならない。

 それでも、その佇まいは、はっきりと凜々しかった。

 強くて優しくて、まっすぐで、信念は、決して曲げない。

 俺の、俺達の長兄だった。


 ……ほんと強引なんだから。


「――気を付けて!」

「お前達も」


 短い別れを済ませて、俺は、流音の後を追った。

 兄さんは、俺達を信じてくれたんだ。託してくれたんだ。

 なら、応えてみせる。

 俺だって、仇志乃の次男なんだから。

 ぐずっ、と洟を啜る。

 駆け出す視界はぐるぐる回って、捲れた裾に、三月の夜風が冷たかった。







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