仇志乃紫音は容赦ない
15.
「私の弟と友人に手を出すとは……良い度胸なのだよ……」
ぎりっ。
不穏な音がして、俺は、助手席へ視線を流した。
深く俯いた兄さんの横顔。全貌を知る勇気は、俺にはない。
でも、たぶん、それでよかった。
いつも穏やかな唇は、確かな激怒の形に引き絞られて歪み、そこに宛がわれた拳が、ぎりぎりと悲鳴を上げている。続く甲、手首。決して無頼ではないはずの、袂から伸びる白い腕にまで、血管の筋が厳つく膨らんでいて。
きっと、地獄の鬼も裸足で逃げ出すような形相に、違いなかった。
ぞく、と背筋に悪寒が走る。
兄さんの身体が、凄まじい憎悪の気を発しているのが、わかった。
この車内に部外者がいたら、三、四人は軽く呪い殺せるだろうってくらいの。
「にいさ……」
変な義務感で口を開いて、どう声を掛けたものかわからず、唾を飲んだ。
どうしよう。どうすればいいの?
俺、混乱してる? してるよな? してる。うんしてる。
あぁ、頭グルグルする。世音と瑠衣ちゃんのこと心配だし、兄さんキレてるし、流音は喋らないし。胃が痛い。誰か助けて。気持ち悪いよ。なんでこうなっちゃうんだろう。俺、俺もう嫌だ。手が震える。前がよく見えない。吐きそう。
逃げ出したい。
でも何処へ――
「大丈夫だよね!」
後部座席からの大声で、ハッとした。
「紫音兄さんがいるもん! 井戸なんか瞬殺! ヨユーに決まってんじゃん!」
思わず振り返り、慌てて視線を戻す。
一瞬だけ見えた流音は、相変わらず半泣きで、幼い顔を強ばらせていた。
けれどもその眼は、しっかりと前を見据え、懸命に涙を堪えている。
健気に拳を握り締め、きっと、押し潰されそうなほどの不安と、戦いながら。
「世音兄ちゃん、しぶといもん。殺しても死なないもん! 絶対!」
だから、
「……あぁ」
俺は頷いた。
「大丈夫さ!」
……流音の言う通りだ。
あの世音が、そう簡単にやられるもんか。
バグるのもヘコむのも、全部終わった後でいい。
なにもかも無事に解決したら、何ヶ月でも引き籠もってやろうじゃないか。
今は……今だけは、しっかりしなくちゃ。
奮い立て、俺の魂。
「ありがとう、流音」
「いーってこと! それより華音兄ちゃん、この道ってさ、僕知ってるよ」
今の弾みで、いくらか平常心を取り戻したらしい。
流音は、窓から外を見回し、身を乗り出してきた。
俺達の車は、いつしか住宅街を抜け、何度か道を曲がって、街の中心部、大通りの中程まで来ていた。どういうわけだか、やたら渋滞していて、行き交う人々の脚まで速い。変に忙しなく感じるのは、俺が焦っているからなのか。
「家を出てから此処まで、ずっとおんなじだ。間違いないと思う」
「同じって?」
「部活の練習試合のときに、世音兄ちゃんと……一緒に歩いた」
「それは本当かね、流音?」
「うん!」
兄さんの問いに、流音は、力強く答える。
「通学路だよ、これ。あの鶴、たぶん、世音兄ちゃんの高校に向かってる」
そうか、学校か。
車でなら、此処から五分ほどで着く。
渋滞を計算に入れても、遅れて十分前後ってとこだ。
俄然、勇気が湧いてきた。もう少しなんだ。
待ってて、世音。瑠衣ちゃん!
信号が青になるのと同時に、俺は、強くアクセルを踏んだ。
「うわっ」
――のは、良かったんだけど。
交差点を曲がった途端、テイルランプに視界を塞がれて、急ブレーキ。
三人そろって、がくんと前に、つんのめった。
シートベルトをしていなかった流音が、勢いで、座席に額をぶつける。
「痛ぁい! なんなの、華音兄ちゃん!」
「……あれ」
俺は、フロントガラス越しに、前方を指さした。
此方側の走行車線を埋め尽くすのは、ぎっちり並んだ車の列だ。車窓を開けて首を巡らせると、先頭は、一つ先の交差点みたいだった。三百メートルは続いてる。先頭と思しき場所に、赤いパトランプがチラチラ点滅するのが見えた。
警察までいるのか。
「け、検問……?」
こんなときに?
くそっ!
拳で殴り付けるように、クラクションを鳴らした。
生まれて初めて、鳴らした。
前の運転手が、振り向いて、何事か怒鳴っている。
知るもんか。こっちは弟の命が懸かってるんだ。構わず鳴らしまくっていると、誰かが呼んだのかもしれない。数人いる警官のうち、一人が走り寄ってきた。
「ちょっとお兄さん、静かにしてもらえる? まだ時間掛かるから」
「急いでるんです! 通してもらえませんか!?」
「いや、みんな急いでるんだよね。この国じゃさぁ」
慣れているのか、中年の警官は、はははと愛想笑いで応じた。
人の良さそうな風体をしているのが、今は、むしろ癇に障る。
「この先ね、なんか水道管だかガス管だかが、破裂したみたいでね。道路に何カ所か亀裂入っちゃって、あっちこっち割れてんの。一応付近の住民も避難してるし、車も通行規制中なんだわ。そういうわけなんで悪いねぇ」
通行規制だって?
よりによって、今? 此処を?
そんな!
「と、鳥部高校へは行けますか?」
「あー、ダメダメ。あそこ避難指定区域。一般人は立ち入り禁止だよ」
「なんとか通してください! 弟が死にそうなんです!」
「あーなるほどね……そういう設定なんだ……」
警官は、車内の俺達を睨め回して、なんともいえない苦笑を浮かべた。
「でもそれなら、お医者さんの方がいいんじゃないの。お坊さんてのはね、死んでから来てもらうもんだよ普通は。それとも、アイドルのコンサート?」
「いいから通してよ! わからずや!」
「ん、後ろの君は小学生? いけないなぁ、夜遊びは」
「そうじゃないったら!」
駄目だ。まるっきり相手にしてくれない。
俺達の格好から、どうも、コスプレイベントかなにかと勘違いしてるらしい。
わかってるさ。無茶を言っているのは、俺達だよ。この警官だって、ただ仕事をしているだけ。悪気なんてない。こっちが非常識なのは、百も承知だ。
だけど、こんなことしてる場合じゃないのに!
歯噛みして、俺は警官を睨み付ける。
彼は、動じなかった。
「悪いこと言わないから、また今度にしなさいね。とりあえず今日は……」
「おまわりさん」
呼ばれて、警官は、助手席へと目を遣った。
そこで彼は、初めて兄さんの事情に気付いたらしい。つまり、閉じられたままの眼と白杖に。いくらか驚いた様子で瞬きし、咳払いを一つ、態度を改める。
「あ、はい。なんですか?」
「おまわりさん。お話が。ちょっと此方へ」
「えっと……それはどういう」
「お願いします」
職務上、断ることもできないんだろう。
訝しみつつも、警官は、助手席側に回った。
……まさか、兄さん。
やるつもりか。
良心が痛んだけれど、この際、仕方がない。
兄さんの意図を察して、俺は、助手席の窓を下ろした。
「なんでしょう」
「お耳を」
「?」
警官が、兄さんの口元へ耳を近付ける。
次の瞬間。
――《 黙 れ 》
ゾッとするほど重い低音で、兄さんが、囁いた。
「…………」
警官の手から、赤色灯が落ちて、からんと音を立てる。
「ガタガタうるさいのだよ、此方が急いでいるときに」
「…………」
舌打ちして、兄さんは、シートベルトに手を掛ける。
警官は、それを止めようともせず、ただ黙って、その場に棒立ちとなっていた。
だらんと両腕を垂れ、肩からは完全に力が抜けて、先刻までの愛想は消滅。能面を思わせる無表情で、ぼんやりと、空気を眺めている。黒かった瞳は、赤黒く変色して濁り、まるで薬でもキメたゾンビだ。
罹った。
兄さんの言霊に。
こうなれば、もう警官に、己の意思はない。
兄さんの思うままに動くだけの操り人形、ほとんど生きた死体だ。その証拠に、ほら。彼は一言も発しない。黙れ、と。さっき兄さんがそう言ったから。
言霊を扱う呪術師は何人かいるけれど、うちの兄さんのは別格なんだ。普通は、ここまで完璧、且つ即座に対象を制御することはできない。世音も流音も、この術だけは拒めない。知ってる限りじゃ、無効化できるのは俺だけだ。
ましてや一般人。どうして逆らえるだろうか。
「華音。どうやら歩かねばならない。介助してもらえるかね?」
「あ、うん」
「流音、荷物を頼むよ」
「わかった!」
俺達は、大急ぎで車を降りた。
「返答を許す。お前は、私の言葉に逆らえない。いいね?」
「ハイ」
「では、私達を鳥部高校まで誘導したまえ」
「ハイ」
表情を失った警官が、並んだ車の間を縫って、歩き始める。
気の毒ではあるけれど、今は彼を使うしかない。俺は、兄さんの手を取り、警官を追った。後ろに、リュックと木刀を担いだ流音が続く。周りのドライバー達が、不服げな視線を投げてきた。でも警官が一緒だ。咎められることはない。
しかし兄さん、ほんと万人に容赦ないな。
「辺りの様子はどうかね?」
「車は詰まってるけど、人はいない。警察が検問張ってるのは反対側だよ」
「障害物は?」
「まっすぐ見える範囲には、特にないよ。電柱くらいかな」
「ならば走ろう、華音」
「え? でも大丈夫なの?」
「転ぶくらいならば、どうということはない。急がねば」
「……わかった」
急げ。兄さんが言うと、警官は足を速めた。
俺は兄さんの手を強く握る。
そのときだった。
足元で、奇妙な音がした。
喩えるなら、とても重い物を持ち上げて、耐えきれずに落としたような。
それとも象かなにか、巨大な生物の足音のような。
腹に響く衝撃音が、規則的な感覚で、足の裏を叩いている。
なんだ、これ?
ド……ド……ド……ド……ド……ド、ド、
兄さんの動きも止まった。
俺だけに聞こえてるんじゃないんだ。
ド、ド、ド、ドド、ドドドド、
ドドドドドドド、ドドドドドドドドドスンドスン
太鼓? 花火? 雷鳴? 地震?
いや――
違う!
「兄さんッ!!」
正直、直感なんて大層なものじゃなかった。
だけどこのとき、俺を動かしたのは、紛れもない危機感だったと思う。
俺は、渾身の力で、兄さんを突き飛ばしていた。
同時に、足元が一直線に裂けた。
ピシ、ピシリ。
アスファルトに亀裂が広がる。
かと思うと、べきん。発泡スチロールみたいに割れて。
ある箇所は隆起し、ある箇所は陥没し、上下に食い違って、ずれてゆく。
足元が、目の前が、光景が、奇妙に歪んでゆく。
差し延べられた手。宙に躍る黒髪。遠ざかってゆく。
なんだか名前を呼ばれたような気もするけれど、俺には、聞こえなかった。
今、俺達に起こっていることが、あんまり意味不明すぎて。
すべてがスローモーションで広がって、割れて、歪んで、それから――
物凄い轟音と衝撃。
†
「…………」
地面に膝を着いたまま、俺は、放心していた。
なにこれ。
いや、なに?
ぼんやり虚ろな視線の先、兄さんが、地面に突っ伏して手を彷徨わせている。
杖を探しているんだ。
あぁ、今ので…………、
……いけない!
「駄目ッ! 兄さん! 動かないで!!」
俺が叫ぶと、兄さんの動きが、ピタリと止まった。
「動いちゃ駄目! そのままじっとして! 穴が――」
信じられない。
穴だ。
地面に、大きな穴が空いていた。
直径五メートル、深さ七メートルくらいだろうか。理不尽に破れたアスファルトの下、まるで爆弾でも落ちたかのような空間が、ぽっかり口を開けている。水道管が走っていたらしい。巻き込まれた車は半分、水没してしまっていた。
其処は、ちょうどさっきまで、俺達が立っていた場所だった。
未だ現実を把握しきれない脳裏に、ふと、あるニュース映像が過ぎる。
これ、見たことあるぞ。
一ヶ月ほど前に、どっかの駅前が、いきなり陥没して穴が空いたとか。
そういや、ガス管だか水道管だかの破裂がどうのって、言ってた?
え、あれか? あれなのか? 此処でか?
今?
きゃあ、と誰かの悲鳴が上がった。
立て続けに、クラクションが飛び交う。
数人が車から降りて、警察のところへ走っていった。
逆方向へ走る人達もいた。
それを見て、とにかく逃げなくては、と悟ったらしい。
我も我もと車から人々が溢れ出してくる。
緊急サイレンが鳴り響く。
あれよという間に、場は阿鼻叫喚のパニックに陥った。
逃げる人、警察に食って掛かる人、電話する人、何故か写メを撮る人。
もうメチャクチャだ。
穴は、道路を横断する格好で空いており、それによって人々の進行方向が区切られていた。兄さんの杖も、きっと落ちてしまったんだろう。両側のビルは辛うじて倒壊を免れたようだったけれど、斜めに傾いて、今にも崩れそうだ。
件の警官は、既に正気を取り戻し、兄さんを助け起こそうと泡食っていた。
術を解いたのか。
「どうなっているのだね!?」
「道路に穴が空いた! そっちとこっちで、完全に分断されてる!」
言って、袂を引く手に気付いた。
明順応した猫みたいに、ギュッと瞳を絞った流音が、固まっている。
そうだ、この子は?
ザッと確認したら、どこも怪我はしていなかった。驚いただけ、みたいだ。
あぁよかった。
「兄ちゃ……華音兄ちゃん……これなに? なに? なに?」
「大丈夫。動いちゃ駄目だよ」
俺と会話したことで我に返ったのか、流音は、辺りを見回した。
兄さんの姿を認めて、大慌てで声を掛ける。
「紫音兄さん! 大丈夫!?」
「お前達は!?」
「俺と流音は平気! 怪我もないから!」
「ならば、先に行きたまえ!」
俺は、答えに詰まった。
だって兄さん、目が見えないのに。
こんな状況で、こんな場所に置いていくなんて、危険すぎる。
いくら呪術師だからって、不慮の事故までは、どうしようもないんだよ?
いや、だけど、世音達にしても、一刻を争うんだ。
ど、どうしよう。どうしよう。
俺どうすれば……
「いいから。私も、あとで必ず行く。じきに行く」
「でも」
「早く!」
「だけど!」
「行きなさい!!」
流音が立ち上がり、兄さんに背を向けて駆け出した。
突然のことで、止める暇もなかった。咄嗟に手を伸ばしたけれど、届かない。俺に見えたのは、振り向く横顔。ぼんやりとした、赤黒く濁った眼だけ。
兄さんってば!
俺は、兄さんをみつめた。
対岸の兄さんは、警官に支えられて、ようやく立っていられる状態だ。長い黒髪は乱れ、僧衣は着崩れ、杖をなくし、雪駄は片方脱げてしまって、最早一人で歩くことすら、ままならず。見るも哀れ、被災した社会的弱者に他ならない。
それでも、その佇まいは、はっきりと凜々しかった。
強くて優しくて、まっすぐで、信念は、決して曲げない。
俺の、俺達の長兄だった。
……ほんと強引なんだから。
「――気を付けて!」
「お前達も」
短い別れを済ませて、俺は、流音の後を追った。
兄さんは、俺達を信じてくれたんだ。託してくれたんだ。
なら、応えてみせる。
俺だって、仇志乃の次男なんだから。
ぐずっ、と洟を啜る。
駆け出す視界はぐるぐる回って、捲れた裾に、三月の夜風が冷たかった。




