月は満ちているか
14.
リビングが、静まり返った。
兄さんも俺も流音も、そのままの格好で固まって、耳を澄ませてる。
一瞬、吉村氏に、からかわれてるんじゃないかと思った。
でもそれは、本当に一瞬。そこまで親しいわけじゃないけど、たぶん彼は、気の利いた冗談なんか出来るタイプじゃない。それも、あんなに怯えていた呪詛に関して、プロの呪術師である兄さんに、いきなり電話を掛けてまで。
なにより、兄さんの表情が、紛れもない緊急事態を告げていた。
「どういうことでしょうか?」
あくまで落ち着いた口調で、兄さんは促す。
吉村氏のテンパりまくった大声が、受話口から返ってくる。
『御祓いをしたくて、言われた通り神主さんを呼んで、来てもらって』
「ええ」
『私、一緒に来たんです。現場です。井戸のところです』
「はい」
『そしたら、井戸が、なくなってて……あああ信じられない!』
「なくなっていた、とは?」
『消えてるんですよ手品みたいに! スパッと! あった形跡すらなくて!』
「それは今日ですね? 何時頃のことですか?」
『さっきです。ついさっき』
「最後に井戸を御覧になったのは、いつでしょうか?」
『け、今朝です』
兄さんの眉間に、皺が寄った。
『あの、私、呪われたんでしょうか。死にます? 死ぬ? 死んじゃう?』
「まず大丈夫でしょう。が、念のため、その神主さんに祓ってもらってください」
『えっ? あの、仇志乃先生は……?』
「申し訳ありませんが、急用が出来ました。ご依頼の件が、まだ――」
終わっていないようですから。
忙しくなるので、不安だろうが、しばらく掛けてこないでほしい。
そういった旨のことを丁寧に告げて、兄さんは、電話を切った。
その表情は、依然として硬い。
俺は状況が飲み込めず、ただ猛烈に沸き上がる不安に、口元を押さえた。
井戸が……消えただって?
ど、どういうことなのさ?
「ちょっと! あれ!」
事情を聞こうと、俺が口を開いたのと、ほとんど同時。
流音が、素っ頓狂な声で叫んで、俺の背後を指さした。
振り返って、流音の指先を目で追う。
其処には、さっきまで三人で覗いていた、冷蔵庫がある。
別段、変わったところはない。至って普通の冷蔵庫のままだ。
ただし、張られていた紙が、変わっていた。
厳密に言えば、張り紙の文字が。
小さな黒い蛇みたいに、書かれた文字が分解され、線となり、ウネウネと動き、のたうつ。それらは紙の上を移動して、目的の場所へ辿り着くと、そこで留まる。線と線は融合し、文字になって、その配置が入れ替わり、几帳面に並んでゆく。
そうして数秒の間に、張り紙の文字は、完全に新しい文章となった。
い ど の な か に い る
井戸の……中に、いる?
なにが?
決まっている。これは言霊だ。遠隔操作で、己の書いた文字を操る術だ。
身動きがとれないときや、秘密裏に情報を届けたいときなんかに使う、伝達方法の一種。術者の腕にもよるけど、ショートメールとか電報みたいなもので、基本的には、あまり長い文章は送れない。
そして、差出人は――
「な、なんで!? 井戸って……もう終わったじゃん! なんでなの!?」
「落ち着きなさい、流音」
「でも、でも世音兄ちゃんが……これってヤバくない? ねぇ?」
「少し静かに。華音、読んでくおくれ」
「い、井戸の中にいるって」
「…………」
兄さんは額に手を当て、心底しまったという顔で、苦々しく唸った。
……え、もしかして兄さん、困ってるの?
仇志乃家長の兄さんが? 即答できないほどに? 言葉もないってこと?
それって……まずくない?
途端、凄まじい悪寒が、背中を駆け上った。
「ど、ど、どうしよう! 紫音兄さん、どうしよう?」
眉を八の字に下げた流音が、泣き出しそうな視線を兄さんに向けた。今にも取り縋らんとする勢いだ。経験は少なくても、この子だって呪術師。事の重大さを理解してしまったんだろう。なら、当然の反応だった。
そうでなくとも、流音は抜群に勘が良い。既に悟っているに違いなかった。
ラインにしろ電話にしろ、世音は、返信しなかったんじゃない。
できなかったんだ。
状況が切迫していて手が回らないのか、呪詛的なものを含む妨害のために不可能なのか。或いは、その両方か。いずれにしても、意味することは同じ。
井戸の呪詛に捕らえられてるってことだ。
人に弱みを見せたり、借りを作るのを嫌う世音のこと。出られるなら、とっくに自力で脱出してるだろう。自分が優秀な呪術師なんだから。それが、形振り構わず俺達に、こんな微力な方法で、助けを求めてくるなんて。
あの子、本気で……危ないんだ。
「華音」
いきなり名前を呼ばれて、肩がビクッと跳ねた。
え、俺?
「な、なに?」
「月を見ておくれ」
「……え?」
「どうなっているのか、教えてほしい」
「な、なんで? どうって? どういうこと?」
「うっかりしていたけれど……私の記憶が正しいならば、今夜は」
そこまで言われて、ハッとした。
俺は、窓際に駆け寄り、カーテンを開けて、夜空を見上げる。
三月の空気を纏った闇は、遠く薄雲の彼方にあって、尚暗い。そこに、ぽっかり空いた円がひとつ、眩しく光を放っている。あぁ、こんなに高く昇っていたのか。いつもなら美しいと嘆息するはずの、白い衛星。
けれど今宵のそれは、なんて邪悪で、禍々しくて、無粋なんだろう。
「――満月……」
†
大急ぎで荷物を纏め、僧衣に着替えて、俺達は車に乗り込む。
助手席には、兄さんが座った。後部座席に流音。その隣には、大きめの鞄。中には、兄さんの指示した呪具が詰め込まれている。あと、世音の木刀も。
準備をしながら、俺は流音に経緯を説明した。呪詛帳の記述、シゲロー爺ちゃんの話、それらから推測できる可能性。なんで早く教えてくれないの、と逆ギレする流音を宥めるのに、骨が折れた。まったく、訊きもしなかったくせに。
「華音、窓を開けておくれ」
言われて、俺は助手席の車窓を下げる。
兄さんの掌には、紙細工の鳥が乗っていた。
これは、兄さんが例の張り紙で折ったもので、呪詛返しの一種だ。言霊を発した術者、つまり今回の場合は世音の元まで、俺達を導いてくれる。兄さんは《鶴》とか呼んでたっけ。
「さぁ。お行き」
兄さんが息を吹きかけると、鶴は、ふわり。その掌から飛び立った。
白い翼は、自らの意思を持ったかの如く羽ばたき、まっすぐに夜空へと舞い上がる。そのまま十メートルくらいの高さまで上昇し、一旦停止したかと思うと、何度か首を巡らせ、やがて北の方へと動き出した。
「あれを追うのだよ、華音」
「わかった」
俺は、強くアクセルを踏んだ。
フロントガラス越しに飛んでゆく鶴は、闇の中で真っ白に輝いて、まるで一筋の流れ星だ。どうしても注意が上を向いてしまう。とはいえ、気は焦る。実際、安全運転を心懸けている余裕なんて、なかった。
「流音、ちょっと周り見てて。人がいたら危ないから」
「…………」
「流音!」
「……へっ? あ、う、うん」
辛うじて頷いた流音だったが、バックミラーに映る顔色は、良くない。
両手をギュッと握って膝の上に置いたまま、何処を見るでもなく視線を彷徨わせて、ソワソワ肩を揺らしている。かと思えば、乱れてもいない髪の毛を弄ったり、口を開けてボンヤリしたり。どうにも挙動が安定しない。
……怖いんだ。
そうだよね。
弟組の下二人、悪さするときは、いつだって一緒でさ。兄さんに両成敗されても懲りなくてさ。毎日、飽きもせず喧嘩ばっかり。お菓子は取り合うし、家事は押し付け合うし、お風呂の順番は守らないし、チャンネル権は力尽くの争奪戦。
そのくせに、すぐ仲直りしてさ。
バカな話で盛り上がってさ。
唯一の弟だからって、世音も、あれで気に掛けててさ。剣道の試合前になると、頼まれてもないのに、張り切って稽古なんか付けちゃって。負けて膨れて返ってきた流音を、目一杯の好物で迎えておいて、バーカとか言って笑うんだ。
平気なわけ、ないじゃないか。
そんな大好きな兄ちゃんが、とんでもない危機に晒されてるんだから。
こんなこと……たぶん、初めての経験なんだから。
あぁ、俺だって、流音のこと言えないや。
胃がグルグルして、気持ち悪い。息は荒くて苦しいのに、指先は冷たくて、少し痺れていて。どれだけ深呼吸しても、酸素が行き渡ってないみたい。貧血にも似た体温の失墜感。頭がソワソワして、グラグラする。吐きそうだ。
神経症っていうんだっけ。
俺、駄目なんだ。怖いときや不安なとき、こうなっちゃうんだよ。
白状すると、さっき家を出る前、思いっ切りトイレにぶちまけてきた。
だけど、無理。
最悪の結末ばかりが、胸の中で暴れて。
だって、だって、世音だけじゃない。
瑠衣ちゃんにまで連絡が付かないんだよ。
これ以上、悪いことを考えたら駄目だ。わかっているのに、止まらない。
井戸。生贄。蛇。満月。十六歳の少女。
不吉に散らばった単語が、彼女の笑顔を塗り潰してゆく――。
「……訊いてもいいかい?」
前を向いたまま、隣の兄さんに、声を掛けた。
黙っていたら、おかしくなりそうだった。
それに俺は、まだ状況を完全に把握してはいない。
井戸の呪詛は、あのとき調伏したはずじゃないのか?
「結局どういうことなのさ?」
少しの間を置いて、兄さんは、結んだ唇を開いた。
「騙されたのだよ」
御隠居の話を憶えているね?
問われて、俺は、あぁと答えた。忘れるはずもない。
たぶん、あれは石田の過去で間違いないだろう。井戸と共に消えた男は、荒御霊として怖れられ、彼を鎮めるために、大勢の女の子が生贄にされた。それが、山神信仰の元祖になったって。嫌な話だった。
「数日前、我々が調伏した泥人形は、その娘達だよ。けれど《眠り蛇》ではない。確かに強力な呪詛ではあったがね。あれは捕らわれているだけの、餌に過ぎぬ」
即ち、囮だ。
兄さんは、忌々しげな表情で、吐き捨てた。
「トカゲの尻尾……いや、ナマコの腸と言うべきか。本物の眠り蛇は、我々の存在に気付いて、咄嗟に一芝居打ったのだよ。腹中の彼女達を数人ばかり差し出して、敢えて調伏させ、その間、己は完全に気配を絶つ。私達が立ち去るまでね」
そんな。
あまりの単純なトリックに、俺は、思わず声を荒げた。
「死んだフリってこと!?」
「そうだよ。それに私達は、まんまと引っ掛かったというわけだ」
「じゃあ、眠り蛇って……まさか」
ふぅ、と。
深く息を吐いて、兄さんは頷いた。
「あの古井戸こそが、呪詛の本体。我々の討つべき眠り蛇だったのだよ」
「…………!」
視界の端で、鶴が、西へ急旋回する。
慌てて丁字路を右に曲がる。
ウインカーを出す暇もなかった。後ろから激しいクラクションを食らう。
危ない。うっかりハンドルを切り損ねるところだった。
「あの井戸は、単なる呪詛の器ではなく、呪詛そのもの。己の意思を持ち、自力で地中を移動するのだよ。無論、なんからの制限はあるのだろうね。たとえば、月の満ち欠けであるとか、温度や湿度の条件が関係しているのやもしれぬ」
想像すると、シュール極まりない絵面だった。
ふっと古い記憶が、蘇る。
なんだっけ。凄く有名なゲーム。冒険者が砂漠を渡ろうとして、巨大な蛇に似たモンスターに邪魔されるんだ。サンドウォーム。確か、そんな名前だった。反撃が厄介で、なかなか倒せなくて、結局は兄さんに泣き付いたんだっけ。
まるっきり、あれじゃないか。
ここまできて、頭の悪い俺にも、ようやく見当が付いた。
今回の一件、どおりで、やたらと蛇が絡んでくるはずだ。
あれは、井戸なんかじゃない。わかってみれば、一目瞭然。
大きく口を開けた、巨大な《蛇》だったってわけだ……。
「目的は知れぬが、あの井戸は、生贄を求め続けてきた。また、それは十六歳までの処女でなくてはならない。建設会社の作業員達は、不幸には見舞われたけれど、喰われた者は、誰一人としていなかった。彼等は全員、男性だったのだから」
兄さんの声が、徐々に憂いを帯びてゆく。
言わんとしていることが、予想できてしまう。
ロジックの往き着く先は、つまり、そういうことなのか。
「私はね……御隠居の話を聞いて、ずっと考えていたのだよ。雨乞いの男は、井戸と共に消えたのではなく――井戸と同化してしまったのではないか。もしくは井戸そのものと成って、何処かへ逃げていったのではないか、とね」
あぁ。あぁ。けどマジに最悪。勘弁してよ。
なんだって俺、こう、嫌な予感ばっかり当たるんだろうか。
「そうして、長い年月を微睡みつつ過ごし、ほぼ十年に一度の周期。満月の夜に、夢の底から這い出しては、少女を食らう。繰り返しているのだよ、何度も何度も」
そして今度は、あの子を狙った。
間違いない。
世音は、井戸に狙われた瑠衣ちゃんを助けようとして、一緒に呑まれたんだ。
そして今も、彼女を守ろうと、傍にいる。
「おそらく、狙われたのは、瑠衣君の方だね」
俯く兄さんの向こう、東の夜空で、巨大な満月が白く嘲笑う。
――そして今夜も。




