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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
22/46

月は満ちているか

14.






 リビングが、静まり返った。

 兄さんも俺も流音も、そのままの格好で固まって、耳を澄ませてる。

 一瞬、吉村氏に、からかわれてるんじゃないかと思った。

 でもそれは、本当に一瞬。そこまで親しいわけじゃないけど、たぶん彼は、気の利いた冗談なんか出来るタイプじゃない。それも、あんなに怯えていた呪詛に関して、プロの呪術師である兄さんに、いきなり電話を掛けてまで。

 なにより、兄さんの表情が、紛れもない緊急事態を告げていた。


「どういうことでしょうか?」


 あくまで落ち着いた口調で、兄さんは促す。

 吉村氏のテンパりまくった大声が、受話口から返ってくる。


『御祓いをしたくて、言われた通り神主さんを呼んで、来てもらって』

「ええ」

『私、一緒に来たんです。現場です。井戸のところです』

「はい」

『そしたら、井戸が、なくなってて……あああ信じられない!』

「なくなっていた、とは?」

『消えてるんですよ手品みたいに! スパッと! あった形跡すらなくて!』

「それは今日ですね? 何時頃のことですか?」

『さっきです。ついさっき』

「最後に井戸を御覧になったのは、いつでしょうか?」

『け、今朝です』


 兄さんの眉間に、皺が寄った。


『あの、私、呪われたんでしょうか。死にます? 死ぬ? 死んじゃう?』

「まず大丈夫でしょう。が、念のため、その神主さんに祓ってもらってください」

『えっ? あの、仇志乃先生は……?』

「申し訳ありませんが、急用が出来ました。ご依頼の件が、まだ――」


 終わっていないようですから。


 忙しくなるので、不安だろうが、しばらく掛けてこないでほしい。

 そういった旨のことを丁寧に告げて、兄さんは、電話を切った。

 その表情は、依然として硬い。

 俺は状況が飲み込めず、ただ猛烈に沸き上がる不安に、口元を押さえた。

 井戸が……消えただって?

 ど、どういうことなのさ?


「ちょっと! あれ!」


 事情を聞こうと、俺が口を開いたのと、ほとんど同時。

 流音が、素っ頓狂な声で叫んで、俺の背後を指さした。


 振り返って、流音の指先を目で追う。

 其処には、さっきまで三人で覗いていた、冷蔵庫がある。

 別段、変わったところはない。至って普通の冷蔵庫のままだ。

 ただし、張られていた紙が、変わっていた。

 厳密に言えば、張り紙の文字が。

 小さな黒い蛇みたいに、書かれた文字が分解され、線となり、ウネウネと動き、のたうつ。それらは紙の上を移動して、目的の場所へ辿り着くと、そこで留まる。線と線は融合し、文字になって、その配置が入れ替わり、几帳面に並んでゆく。

 そうして数秒の間に、張り紙の文字は、完全に新しい文章となった。




 い ど の な か に い る 




 井戸の……中に、いる?

 なにが?

 決まっている。これは言霊だ。遠隔操作で、己の書いた文字を操る術だ。

 身動きがとれないときや、秘密裏に情報を届けたいときなんかに使う、伝達方法の一種。術者の腕にもよるけど、ショートメールとか電報みたいなもので、基本的には、あまり長い文章は送れない。

 そして、差出人は――


「な、なんで!? 井戸って……もう終わったじゃん! なんでなの!?」

「落ち着きなさい、流音」

「でも、でも世音兄ちゃんが……これってヤバくない? ねぇ?」

「少し静かに。華音、読んでくおくれ」

「い、井戸の中にいるって」

「…………」


 兄さんは額に手を当て、心底しまったという顔で、苦々しく唸った。

 ……え、もしかして兄さん、困ってるの?

 仇志乃家長の兄さんが? 即答できないほどに? 言葉もないってこと?

 それって……まずくない?

 途端、凄まじい悪寒が、背中を駆け上った。


「ど、ど、どうしよう! 紫音兄さん、どうしよう?」


 眉を八の字に下げた流音が、泣き出しそうな視線を兄さんに向けた。今にも取り縋らんとする勢いだ。経験は少なくても、この子だって呪術師。事の重大さを理解してしまったんだろう。なら、当然の反応だった。

 そうでなくとも、流音は抜群に勘が良い。既に悟っているに違いなかった。

 ラインにしろ電話にしろ、世音は、返信しなかったんじゃない。

 できなかった(・・・・・・)んだ。

 状況が切迫していて手が回らないのか、呪詛的なものを含む妨害のために不可能なのか。或いは、その両方か。いずれにしても、意味することは同じ。

 井戸の呪詛に捕らえられてるってことだ。

 人に弱みを見せたり、借りを作るのを嫌う世音のこと。出られるなら、とっくに自力で脱出してるだろう。自分が優秀な呪術師なんだから。それが、形振り構わず俺達に、こんな微力な方法で、助けを求めてくるなんて。

 あの子、本気で……危ないんだ。


「華音」


 いきなり名前を呼ばれて、肩がビクッと跳ねた。

 え、俺?


「な、なに?」

「月を見ておくれ」

「……え?」

「どうなっているのか、教えてほしい」

「な、なんで? どうって? どういうこと?」

「うっかりしていたけれど……私の記憶が正しいならば、今夜は」


 そこまで言われて、ハッとした。

 俺は、窓際に駆け寄り、カーテンを開けて、夜空を見上げる。

 三月の空気を纏った闇は、遠く薄雲の彼方にあって、尚暗い。そこに、ぽっかり空いた円がひとつ、眩しく光を放っている。あぁ、こんなに高く昇っていたのか。いつもなら美しいと嘆息するはずの、白い衛星。

 けれど今宵のそれは、なんて邪悪で、禍々しくて、無粋なんだろう。


「――満月……」





                  †





 大急ぎで荷物を纏め、僧衣に着替えて、俺達は車に乗り込む。

 助手席には、兄さんが座った。後部座席に流音。その隣には、大きめの鞄。中には、兄さんの指示した呪具が詰め込まれている。あと、世音の木刀も。

 準備をしながら、俺は流音に経緯を説明した。呪詛帳の記述、シゲロー爺ちゃんの話、それらから推測できる可能性。なんで早く教えてくれないの、と逆ギレする流音を宥めるのに、骨が折れた。まったく、訊きもしなかったくせに。


「華音、窓を開けておくれ」


 言われて、俺は助手席の車窓を下げる。

 兄さんの掌には、紙細工の鳥が乗っていた。

 これは、兄さんが例の張り紙で折ったもので、呪詛返しの一種だ。言霊を発した術者、つまり今回の場合は世音の元まで、俺達を導いてくれる。兄さんは《鶴》とか呼んでたっけ。


「さぁ。お行き」


 兄さんが息を吹きかけると、鶴は、ふわり。その掌から飛び立った。

 白い翼は、自らの意思を持ったかの如く羽ばたき、まっすぐに夜空へと舞い上がる。そのまま十メートルくらいの高さまで上昇し、一旦停止したかと思うと、何度か首を巡らせ、やがて北の方へと動き出した。


「あれを追うのだよ、華音」

「わかった」


 俺は、強くアクセルを踏んだ。

 フロントガラス越しに飛んでゆく鶴は、闇の中で真っ白に輝いて、まるで一筋の流れ星だ。どうしても注意が上を向いてしまう。とはいえ、気は焦る。実際、安全運転を心懸けている余裕なんて、なかった。


「流音、ちょっと周り見てて。人がいたら危ないから」

「…………」

「流音!」

「……へっ? あ、う、うん」


 辛うじて頷いた流音だったが、バックミラーに映る顔色は、良くない。

 両手をギュッと握って膝の上に置いたまま、何処を見るでもなく視線を彷徨わせて、ソワソワ肩を揺らしている。かと思えば、乱れてもいない髪の毛を弄ったり、口を開けてボンヤリしたり。どうにも挙動が安定しない。

 ……怖いんだ。

 そうだよね。


 弟組の下二人、悪さするときは、いつだって一緒でさ。兄さんに両成敗されても懲りなくてさ。毎日、飽きもせず喧嘩ばっかり。お菓子は取り合うし、家事は押し付け合うし、お風呂の順番は守らないし、チャンネル権は力尽くの争奪戦。

 そのくせに、すぐ仲直りしてさ。

 バカな話で盛り上がってさ。

 唯一の弟だからって、世音も、あれで気に掛けててさ。剣道の試合前になると、頼まれてもないのに、張り切って稽古なんか付けちゃって。負けて膨れて返ってきた流音を、目一杯の好物で迎えておいて、バーカとか言って笑うんだ。


 平気なわけ、ないじゃないか。

 そんな大好きな兄ちゃんが、とんでもない危機に晒されてるんだから。

 こんなこと……たぶん、初めての経験なんだから。

 あぁ、俺だって、流音のこと言えないや。

 胃がグルグルして、気持ち悪い。息は荒くて苦しいのに、指先は冷たくて、少し痺れていて。どれだけ深呼吸しても、酸素が行き渡ってないみたい。貧血にも似た体温の失墜感。頭がソワソワして、グラグラする。吐きそうだ。

 神経症っていうんだっけ。

 俺、駄目なんだ。怖いときや不安なとき、こうなっちゃうんだよ。

 白状すると、さっき家を出る前、思いっ切りトイレにぶちまけてきた。

 だけど、無理。

 最悪の結末ばかりが、胸の中で暴れて。


 だって、だって、世音だけじゃない。

 瑠衣ちゃんにまで連絡が付かないんだよ。


 これ以上、悪いことを考えたら駄目だ。わかっているのに、止まらない。

 井戸。生贄。蛇。満月。十六歳の少女。

 不吉に散らばった単語が、彼女の笑顔を塗り潰してゆく――。


「……訊いてもいいかい?」


 前を向いたまま、隣の兄さんに、声を掛けた。

 黙っていたら、おかしくなりそうだった。

 それに俺は、まだ状況を完全に把握してはいない。

 井戸の呪詛は、あのとき調伏したはずじゃないのか?


「結局どういうことなのさ?」


 少しの間を置いて、兄さんは、結んだ唇を開いた。


「騙されたのだよ」









 御隠居の話を憶えているね?

 問われて、俺は、あぁと答えた。忘れるはずもない。

 たぶん、あれは石田の過去で間違いないだろう。井戸と共に消えた男は、荒御霊として怖れられ、彼を鎮めるために、大勢の女の子が生贄にされた。それが、山神信仰の元祖になったって。嫌な話だった。


「数日前、我々が調伏した泥人形は、その娘達だよ。けれど《眠り蛇》ではない。確かに強力な呪詛ではあったがね。あれは捕らわれているだけの、餌に過ぎぬ」


 即ち、囮だ。

 兄さんは、忌々しげな表情で、吐き捨てた。


「トカゲの尻尾……いや、ナマコの腸と言うべきか。本物の眠り蛇は、我々の存在に気付いて、咄嗟に一芝居打ったのだよ。腹中の彼女達を数人ばかり差し出して、敢えて調伏させ、その間、己は完全に気配を絶つ。私達が立ち去るまでね」


 そんな。

 あまりの単純なトリックに、俺は、思わず声を荒げた。


「死んだフリってこと!?」

「そうだよ。それに私達は、まんまと引っ掛かったというわけだ」

「じゃあ、眠り蛇って……まさか」


 ふぅ、と。

 深く息を吐いて、兄さんは頷いた。


「あの古井戸こそが、呪詛の本体。我々の討つべき眠り蛇だったのだよ」

「…………!」


 視界の端で、鶴が、西へ急旋回する。

 慌てて丁字路を右に曲がる。

 ウインカーを出す暇もなかった。後ろから激しいクラクションを食らう。

 危ない。うっかりハンドルを切り損ねるところだった。


「あの井戸は、単なる呪詛の器ではなく、呪詛そのもの。己の意思を持ち、自力で地中を移動するのだよ。無論、なんからの制限はあるのだろうね。たとえば、月の満ち欠けであるとか、温度や湿度の条件が関係しているのやもしれぬ」


 想像すると、シュール極まりない絵面だった。

 ふっと古い記憶が、蘇る。

 なんだっけ。凄く有名なゲーム。冒険者が砂漠を渡ろうとして、巨大な蛇に似たモンスターに邪魔されるんだ。サンドウォーム。確か、そんな名前だった。反撃が厄介で、なかなか倒せなくて、結局は兄さんに泣き付いたんだっけ。

 まるっきり、あれじゃないか。

 ここまできて、頭の悪い俺にも、ようやく見当が付いた。

 今回の一件、どおりで、やたらと蛇が絡んでくるはずだ。

 あれは、井戸なんかじゃない。わかってみれば、一目瞭然。

 大きく口を開けた、巨大な《蛇》だったってわけだ……。


「目的は知れぬが、あの井戸は、生贄を求め続けてきた。また、それは十六歳までの処女でなくてはならない。建設会社の作業員達は、不幸には見舞われたけれど、喰われた者は、誰一人としていなかった。彼等は全員、男性だったのだから」


 兄さんの声が、徐々に憂いを帯びてゆく。

 言わんとしていることが、予想できてしまう。

 ロジックの往き着く先は、つまり、そういうことなのか。


「私はね……御隠居の話を聞いて、ずっと考えていたのだよ。雨乞いの男は、井戸と共に消えたのではなく――井戸と同化してしまったのではないか。もしくは井戸そのものと成って、何処かへ逃げていったのではないか、とね」


 あぁ。あぁ。けどマジに最悪。勘弁してよ。

 なんだって俺、こう、嫌な予感ばっかり当たるんだろうか。


「そうして、長い年月を微睡みつつ過ごし、ほぼ十年に一度の周期。満月の夜に、夢の底から這い出しては、少女を食らう。繰り返しているのだよ、何度も何度も」


 そして今度は、あの子を狙った。

 間違いない。

 世音は、井戸に狙われた瑠衣ちゃんを助けようとして、一緒に呑まれたんだ。

 そして今も、彼女を守ろうと、傍にいる。


「おそらく、狙われたのは、瑠衣君の方だね」


 俯く兄さんの向こう、東の夜空で、巨大な満月が白く嘲笑う。


 ――そして今夜も。







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