お腹が空いたのだよ
13.
「チョコレート……ケーキ……シュークリーム」
「マシュマロでしょ、プリンでしょ、マカロン」
「柏餅はあるかね?」
「ないよ、兄さん」
「……柏餅はあるかね?」
「ないよ。なんで二回訊くの」
「では、柏餅はあるかね?」
「ないったら! ボケちゃったの!?」
「だって好物なのだよ」
「それ兄さんが食べたいだけでしょ!?」
男三人、トーテムポールで冷蔵庫を覗き込む図は、真ん中の俺自身、異常な光景だと思う。きっと俺達は今、余所様が見れば、絶対に近付きたくない系のオーラを放っている。はっきり言ってキモい。ていうか怖い。うん、認めるよ。
だけど実際、これは異常。
下段、中段、上段。フル活用された冷蔵庫の中身、全部スイーツなんだから。
ケーキにチョコ、マシュマロ。その他いろいろ。兄さんは不本意をあからさまにしてるけど、ラインナップは、いかにも女の子が喜びそうなカラフルで可愛らしいデザインの洋菓子ばかり。漂う香りは、既に虫歯になりそうなくらい甘い。
それが、男所帯の冷蔵庫を占拠しているという、異常事態。
しかも全部、世音の手作りっていうね。
「ちょっと味見」
ちゃっかり伸びた流音の手を、俺は軽く叩いた。
「なにすんの! 華音兄ちゃん!」
「駄目。みんなそろってからじゃなきゃ。またブン殴られるよ」
「あ~こないだの? ほんっと野蛮だよね、あのクソ兄貴。すぐ叩くし」
「名前書いてあるポテチまで食べる流音も、どうなのさ」
とは言ったものの、正直、兄さんの方が心配なんだよね。
二人を下がらせて、俺は、冷蔵庫を閉めた。
扉には、世音の筆跡で、大きな張り紙がある。
「食ったら殺す」
ご丁寧にも、半紙に墨汁。下手したら、なにかの呪詛かもしれない。
実にシンプルな文面だけれど、俺と流音に警告するには、これで充分だ。
なんたって、徹夜で腕に縒りを掛けたプレゼントだものね。彼女に披露する前に野郎に食べられちゃ、世音じゃなくてもキレるってもんさ。俺なら、一週間は引き籠もる。それで一年くらい引きずるんだろうな。
「とにかく駄目。パーティーなんだから、主役がいなきゃ」
強く念を押すと、さすがに流音も諦めたみたいだった。
「無駄に達筆なのがムカつくよね~」
捨て台詞と共に写メを撮り、せいぜいソファに身体を投げ出していた。
これは、あとでネタにして、からかう算段だな。
まったく、抜け目ないんだから。素直に応援してあげればいいのに。
俺は、壁のカレンダーに目を遣った。
今日の日付に赤い丸。
世音から「ロマンチックな演出を教えろ」と言われたときは、何事かと仰天したものだけど。意外だよね。なかなか味なこと企画するじゃないか。
「そういえば流音、お前は? お返し済ませたのかい?」
「うんバッチリ。ちゃんと呪っといた」
「へぇ、のろ……え?」
「ケツに五寸釘……ククク……」
な、なに? そのドス黒い笑顔? ケツがどうしたっていうの?
いや、訊かない方がいい気がする……。
「しかし遅いね」
ダイニングテーブルに頬杖を突いた兄さんが、ふと零した。
「今、何時だね?」
言われて、時計を見る。
午後八時半。
「連絡したのかい?」
「何回かしたよ~返事ないけど」
「既読?」
「ううん、読んでないみたい」
スマホを弄りながら、流音が頬を膨らませる。
確認すらしてないのか。
おかしいな。
補習でも受けてるのかな。部活が長引いてるとか。また生活指導? それとも、急な用事が出来た? にしたって、ラインの一本も入れないなんて、らしくない。世音は、あれで、そういうとこはキッチリしてるんだ。
まさか、フラれちゃったんじゃあ……。
ううん。
ひょっとしたら。
もっともっと悪いことが起こって――
いやいやいや。
すぐさま頭を振って、脳裏を掠めた不安を追い払う。
癖なのかな。なにかあると、どうも良くない方へ想像が広がってしまう。こんな日に、滅多なこと考えるもんじゃないのに。我ながら、卑屈な性分だ。最悪の事態まで想定して対策しておかないと、落ち着かないなんて。
昼間、シゲロー爺ちゃんから、あんな話を聞いたせいだろうか。
ほとんど怪談だったよね、あれ。
俺は、兄さんの向かいに座って、傍にあったファックス用紙を手に取った。
どのみち、あとで世音にも話さなくちゃいけないんだ。
時間潰しに、復習しておくのもいいだろう。
シゲロー爺ちゃんを家まで送っていったのが、五時くらい。
車内の緊張から解き放たれた俺は、胃を擦りながら帰宅。六時過ぎだった。そこにタイミング良く、吉村氏からのファックスが届いたんだ。兄さんが頼んでたっていう、あれだね。
どんな専門用語だらけのお役所仕様かと思ったら、普通に砕けた文章で、淡々と事実を記した日記のような体裁だった。わかりやすくて助かる。彼、仕事の出来る人みたいだ。
内容はというと、この街の、井戸に関連した工事の記録。中でも、本来なら一笑に付されるだろう噂、都市伝説、怪談の付随するようなキワモノばかり、まとめてピックアップされている。言わば、街のオカルト工事録ってとこか。
知っている話も、知らない話もあった。
とりわけ、俺達が注目したのは、以下の話だ。
1971年。
高度経済成長期。日本中で高速道路が開通し、この街みたいな地方都市が、次々と開発されていった時代。各地の森林は切り開かれ、山は崩され、増え続ける人口の住居を確保すべく、あちこちで団地やマンションが乱立した。そんな頃だ。
当然、この街でも大規模な開発が進んでいたんだけれど、道路の整備をしていたある業者が、とある外れの集落で、古井戸を掘り当ててしまった。ちょうど、今回の吉村氏みたいにね。
で、当時の彼等も、どうしたものかと思案していたわけだ。
すると、話を聞き付けたのか、近隣のお年寄り達が、どんどん集まってきた。
これがどうやら、見物でも、騒音への抗議でも、開発反対運動でもない。
彼等は皆、口をそろえて、こう言うんだ。
「眠り蛇を起こしてはならない」
彼等が語るに、井戸を粗末に扱うことは、大変な罰当たりであるという。
何故なら、井戸の底には、蛇の神様が眠っていらっしゃる。
それは長い眠りに就いており、忘れず祀っておけば、なんということもなく安泰だ。これといった祟りは、もたらさない。たまに《寝返り》を打つ程度で、それも若い生娘を一人、持っていくぐらいだ(いや、大事件じゃないの?)。
粗末に扱いさえしなければ、お怒りを買うことはないのだ。
ただし、決して、起こしてはならない。
その蛇神様は、手の付けられない邪神なのだから。
一度目を醒ませば、毒を吐き、嵐を呼んで暴れ回り、七日七夜のうちに街を滅ぼしてしまうという。故に、起こしてはならない。無礼はならない。粗末に扱ってはならない。さもないと、とんでもない災いが降り掛かる――と。
幾分モメた末、神社に御祓いを頼んで、井戸を埋めたらしい。
そのときは、それで何事もなく騒動は終わり、現在に至るまで、異変は報告されていない。尤も、当時を知るお年寄りが軒並み鬼籍に入り、そんな伝承も途絶えてしまった、という事情も、少なからずあるだろうけれども。
実は、この話。うちの呪詛帳には、載っていなかった。
御祓いや地鎮祭は、基本的には神社の仕事だ。神事っていうくらいだから。彼等の方が詳しい資料を持ってるし、そういった系統の話題も豊富にある。事が呪詛に及んで初めて、仇志乃の出番ってなるわけでさ。
うちの父さん、あんまり神社と仲良くなかったから、聞き漏らしたのかもね。
ぶっちゃけ、ハブられてたんじゃないだろうか。変人だったし。
ごめん、脱線しちゃったかな。
ポイントは……そう。
蛇、だよね。
今度も出てきた。
心当たりがあったのか、兄さんは、誰かに電話を掛けて、意見を聞こうと思ったみたいだった。だけど、即身仏がどうの式神がどうのと、散々捲し立てた挙げ句に「君は本当に使えぬ男だね」なんて吐き捨てて、ガチャ切り。
どうしたのか訊ねたら、留守電に気付かなくて、ずっと一人で喋ってたって。
世音がいたら、爆笑して締め上げられるパターンだったろう。あと、人に助言を求める態度としては、ちょっと一考の余地があるんじゃないかな、兄さん。
「華音、これ華音」
不機嫌な声に、思考が現在へと引き戻された。
用紙から視線を上げれば、これまた不機嫌な美貌が、至近距離に。
ちょっ、近い近い。
「な、なに?」
「お腹が空いたのだよ」
「……冷蔵庫の中は駄目だよ」
「では、なにか作っておくれ」
「なにかって?」
「しんこ餅に小豆餡を入れ柏の葉で挟んで蒸した和菓子など、いいね」
「柏餅だよね!?」
「ならば百歩譲って、毒さえなければなんでも良いことにしよう」
「どんな大股の百歩!? グリーンジャイアント!?」
そうは言ってもなぁ。
炊飯器は空っぽ。食材はすべて、件のスイーツに居場所を明け渡して、俺達の胃に収まってしまっている。世音ってば、お菓子ばかり作るのに夢中になって、夕飯の仕込みを忘れてたんだよ。
自慢じゃないけど、俺、料理は苦手でさ。
だから、お寿司でも取ろうと思ってたんだけど、どうしよう。
こんな時間にカップ麺なんか作るのも、世音に悪い気がするし。
でもこれ、兄さん、そろそろ限界だよね?
「僕もお腹空いた~」
叫んで、流音がソファから跳ね起きた。
お、お前もかい!?
「ラーメン作って、ラーメン」
「もう三時間も、なにも食べていないのだよ。この兄は」
二人は、俺の腕を片方ずつガッツリ掴んで、左右の耳元で騒ぎ始めた。
「だ、駄目だったら……」
「じゃあコンビニ行こうよ~ひもじい~」
「ついでに柏餅を」
「だってあの子達、待ってなきゃ……」
「ツナおにぎり! からあげ! 肉まん!」
「おでん! 大根! コンニャク! たまご! 餅巾着! 柏餅!」
「やめて俺もお腹減る!」
「あぁ、もういっそコンビニを買ってきたまえ」
「何処の石油王なのさ!?」
ど、どうしよう。
二人とも、空腹のあまり理性が崩壊しつつあるぞ。
このままじゃ押しに負けちゃう。危険だ。最悪、俺が食われかねない。
ていうか、うるさいし! 痛いんだけど!
ピリリリリリリ。ピリリリリリリ。
出し抜けに響いた着信音が、兄弟間の紛争に割って入った。
二人の襲撃が、はたと止む。
テーブルの上で鳴っているのは、兄さんのガラケーだ。
やった、ラッキー!
これぞ好機。俺は素早く携帯を取って、兄さんに手渡した。
「君かね、こんなときに。遅いのだよまったく空気の読めぬ……」
水を差されたのが面白くないのか、兄さんは、苛立ちも露わに通話に応じる。
ところが次の瞬間。
その表情が、サッと曇った。
「……吉村さん?」
『仇志乃先生!』
スピーカーを切り替えたんだろう。
俺達にも、会話の内容が聞こえてきた。
兄さんは誰かと勘違いしたみたいだけど、相手は吉村氏だった。
『大変です先生! 早く! 早く来てください!』
「どうされましたか?」
『神主さんを頼んだんです! 現場まで一緒に来たんです! それが、ああ!』
「落ち着いて。なにがあったのですか」
『井戸が。井戸が』
吉村氏は、悲痛な声で言った。
『井戸が消えたんです――!』