喰われた!
12.
カタカタ、カタ、カタカタカタカタカタ…………。
数秒ほどして、静寂の闇に、奇妙な音が響き始めた。
カタカタと、硬い物が断続的に触れ合う、摩擦音。
震えているのだ、とわかる。
だけど、わたしじゃない。先輩でもない。
頭蓋骨だ。
先輩によって、仮初めの命を与えられたそれが、自らの意思で。
ひとりでに、震えていた。
カタカタ……カタカタカタ、カタ……、
ヒッと息を詰め、わたしは、先輩の後ろに隠れた。
別に危害を加えられるわけじゃない。知ってはいる。
いるんだけど、怖いもんは怖いんだよ。仕方ないじゃんよ!
…………レタ、カタカタ……カタカタ、ク、レ、
……レタ。
ク…………レタ、
ワ、レ……タ…………
乾いた振動音に、明らかな意思を持った発声が混じりだす。
小刻みに顎を動かし、剥き出しの歯をカタカタ噛み合わせて悶える様は、まるで死にかけた虫。まず万人が、生理的嫌悪を避けられないだろうキモい動きだ。
片膝を着く格好で屈み、先輩は、それと向き合った。
どこから声を出しているのかは、この際、考えたくもない。これは心霊現象だ。現代の物理法則で説明するのは不可能だし、その必要もないんだろう。目の前で、実際に起こっている。充分すぎる確証だ。
紫音さんは、眼を閉じていても、死者や呪詛を《視る》ことができる。
それと同じで、おそらく聴力を失った者でも、この声は聞こえる。そういうものなのだ。要するに、死者との意思疎通は、物質を超えた情報の遣り取りである。
なんちゃって、先輩の受け売りだけどね。
ク……タ、
クワ…………レ、
ク、ワ、レ、
『くわれた』
混線したようにブツ切りだった音が、唐突に、言語を成した。
なにしろ日本語だ。嫌でも意味が理解できてしまう。
――喰われた。
そう言ったのか。この、人間の頭蓋骨は。
ゾッと背筋が凍った。
『くわれた。くわれた。くわれた。くわれた。くわれた。くわれた』
先輩が問い掛ける。
「なにに喰われた?」
『いどにくわれた。てあしをくわれた。からだをくわれた。みんなくわれた』
「どうして喰われたんだ?」
『いけにえ。じゅじゅつ。いどのそこ。ひゃくにん。むすめ。へびになる』
「それは? どういう意味なんだ?」
『くわれた。くわれた。くわれた。くわれた。くわれた。くわれた!』
三つ目の質問は、聞き取れなかったのかもしれない。
というのも、骸骨の声が、どんどん大きくなっているのだ。それも、先輩の声を覆い隠すほどに激しく、ちょうど耳の遠い老人が「がなる」ように、容赦がない。もし唾液腺が残っていたなら、今この骨は、強か唾を飛ばしているだろう。
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
しかし、いくらなんでも、ちょっと酷すぎやしないか。
もしやと思いつつ、わたしは、よくよく目を凝らした。
「ひっ……!」
なんてことだ。
この声、一人分じゃない。
件の頭蓋骨は元より、その隣、更に隣。前も後ろも、遥か下に埋もれた骨に至るまで。幾つもの頭蓋骨が、カタカタと頬を揺らし、歯を打ち鳴らして、同じ言葉を繰り返しているではないか。
「此処から出る方法は!?」
騒々しさに掻き消され、先輩の次の質問は、ほぼ絶叫に近いものとなった。
骸骨達は、答えない。
ただ、喰われた喰われたと、壊れたように繰り返すだけだ。
……あぁ、そうなんだ。
聞こえていないわけでは、ない。
いつだったか、紫音さんに聞いたことがある。どんなに強力な呪詛を以て自白を迫られようとも、己の与り知らぬ領分は答えられぬ、と。
そう。彼等は知らないのだ。
逆に言えば、だからこそ、こんなところで骨になっているのだ。
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
『くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた! くわれた!』
いつしか、この場にあるすべての骸骨が、そろって声を張り上げていた。
高く、低く。細く堅く、重く、鋭く。どうしようもなく不安定で、けれど決して幻ではない。記憶に焼き付いた凄惨な事実を、訴えるために。
それは、張り裂けんばかりに切実でありながら、また突拍子もなく馬鹿げて聞こえた。呆れるほど無機質で、重苦の怨念で、断末魔の喘ぎかと思えば、なのに空虚な哄笑なのだ。
暗い穴の底、彼等の声が、延々と木霊していた。
耳を塞いでも、頭を振っても、此処から逃れる術はない。狂った梅雨のカエルを連想させる死の合唱は、脳に、鼓膜に、血液にまで染み込んで、全身をグルグルと巡り、精神を囓り取ってゆく。
あぁ。このままじゃ、おかしくなる。
お願い、もうやめて!
頭が割れそう!
パン、と、先輩が掌を打った。
骸骨達の大合唱は、ピタリと止まった。
……もう誰一人として、喋らない。
斯くして数秒の残響が過ぎれば、闇の底には、再び静寂が満ちたのだった。
しんと静まり返った場に、重く先輩の溜息が流れた。
わたしは、身体を丸め、自分の肩を抱いたまま、恐怖で硬直していた。さっきの骸骨じゃないが、ガチガチと歯が鳴るのを止められない。頭の中、喰われた喰われたという声が、未だやかましく暴れ回っている。
「参ったぜ……」
先輩が、苦い顔で呟いた。
「野郎、一杯食わせやがった」
わたし達は二人、図らずも同じタイミングで天を仰ぐ。
何処までも続く闇は、一粒の光さえ宿さず、それは逆に深淵を覗くよう。
「これは、井戸だ」
ぴちゃん、と。
胸に冷たい雫が滲んだ。
「ただの穴じゃねー。石田山の、あの井戸なんだ」
ほんの数日前の出来事だった。
先輩達と一緒に、調伏したはずの井戸。
思い出すのもおぞましい、あの呪詛の井戸だ。
あのときは、中がどうなってるのかなんて、知る由もなかったけれど。
此処が……?
そんなバカな!
「な、なんで? どうして? わたし達、学校にいるのよ?」
「井戸の方から来やがった。どうやら動けるらしいな」
「なに言ってんの!? 井戸よ!? ありえないでしょ!?」
「ありえるんだ、それが」
眉間に皺を立て、先輩は、すんと鼻を鳴らした。
「臭わねーか?」
「え?」
「最初っから、ずっと気になってたんだ。この臭い」
ハッとした。
そういえば、変な臭いがすると思ってた。
てっきり、ドブかなにかだと認識していたけれど……。
「呪詛の臭いってのは、それぞれ違う。指紋みてーなもんだ。兄貴は全部憶えてるらしいが……どんなに似てても、絶対に違うってよ。同じ臭いは一つもない」
土が腐ったような――吉村氏は、そう表現していたっけ。
そのとおりだった。
あぁ、どうして気付かなかったんだろう。
あのとき嗅いだ。
山の中、工事現場の古井戸で嗅いだ。
「頭蓋骨等、言ってたろ。井戸に喰われたって。偶然とは思えねー。確定だ」
氷の手が、ギュッと心臓を掴んだような気がした。
あのときの、全身顔だらけの泥人形が一瞬、頭を過ぎる。
次に、その中に混じって途方に暮れている自分の顔が、思い浮かんだ。
わたしは、おずおずと、足元の骸骨達をみつめる。物言わぬ骨に戻った彼等は、黙して尚、事の顛末を物語っていた。井戸に食われた者が、どうなるのか。其処に在るという事実が、言葉よりも遥かに重く、非情な現実ではないか。
「どうして……調伏したはずなのに……?」
「あぁ。こんなの俺も初めてだぜ。こないだのは、トカゲの尻尾ってとこか」
「だからって、なんで来るの!? なにしに来たのよ!?」
「お前、御守りどうした?」
訊き返されて、はたと胸に手をやる。
――ああああああ!
「自分が《引き寄せる》体質だってこと、忘れたのか?」
「…………」
ぐうの音も出ない。
そうだよ、わたし呪詛ホイホイだったんだよ。
たぶん、この間の調伏作業で、縁が出来てしまったんだろう。先輩や紫音さんが呪詛の臭いを憶えているのと同じで、向こうも、わたしの匂いを憶えていたんだ。御守りを手放したことで、それが寄ってきて……あのタイミングで喰われた。
最悪だ。
先輩に逢うまで、この叶瑠衣。ちょっとした不運は日常茶飯事だったけれど。
こんなに最悪なのは、久し振りだ。
じゃあ、なに? この井戸は、わたしを狙ってるってこと?
お腹が空いてるの? わたしを食べるつもり?
わたしを食べて、溶かして、骨にして、それから……
ガクガクと、膝が震え始めた。
それまで漠然とした不安だったものが、明瞭な危機へと、姿を変えてゆく。
跳ね上がる心拍数は最早、恐怖と同義だ。頭から血の気が引くのと反比例して、ぐんぐん膨張、上昇し、一気に限界点を突破して、理性の殻を突き破る。
なにを考えていたのか、自分でも、わからない。
次の瞬間、わたしは先輩の腕を掴んで、責めるような口調で叫んでいた。
「調伏してよ! 早く!」
「できるんなら、とっくにやってるぜ。外がどうなってんのか、わかんねーだろ。土か水にでも囲まれてたら終わりじゃねーか。窒息すんぞバカ」
「ど、どっかに隠し通路でもあるんじゃ……」
「ゲーム脳乙。ねーよ」
「これ、この壁、登れないかな?」
「お前それマジで言ってる? イモリやトカゲじゃねーんだぞ」
「じゃあ、どうするのよっ!!」
頭では、理解しているのだ。
先輩は、なんにも悪くない。当たり散らしたって、仕方ない。
だけど心が、身体が、恐怖に乗っ取られて、言うことを聞かない。
「それを考えるんだろうが。落ち着けって」
「なんでこうなるのよ!? こんなとこ大嫌い! 早く出たい! 出してよ!」
「だから、原因より対処だ。わっかんねー奴だな」
舌打ちして、先輩が、わたしの腕を掴む。
なんだか無性に腹が立って、それを乱暴に振り解いた。
なんなの、この人。
わたしは、こんなに怖いのに。怖くて怖くて、死にそうなのに。
どうして冷静でいられるわけ?
先輩にとって、わたしなんて、それぐらいちっぽけな存在ってこと?
どうでもいいってこと?
ほら、そんな顔して。普段と変わらない、涼しいイケメンさんだ。
こっちは、涙と鼻水でグチャグチャよ。
対照的ってやつじゃないか。思いっ切りズレてんじゃないか。
こんなときに……だからこそ、なのか。
二人の間にある温度差が、やたらと悲しかった。
「泣くなって、おい。水分がもったいねーだろ」
「なんでそんな言い方しかできないの!? 信じられないっ!」
「お前が泣くからだろ」
「泣くに決まってんでしょ、怖いんだから! いじわる! バカ!」
「大丈夫だって。な?」
「なにが大丈夫なのよ!? わたし、もう御守りもないのに!?」
「だから」
やや強引に、先輩が、わたしの両肩を引き寄せた。
反射的に払い除けようとして、持ち上げた手が止まる。
「俺が御守りだ」
偽りのない誠実な面持ちが、痛いほどまっすぐ、わたしをみつめていた。
射貫かれたように、その眼に釘付けとなる。どこまでも澄んで、誰よりも強い。綺麗な、雄々しい眼だった。みつめ返すわたしの、怯えも、恐怖も、無責任な癇癪も。全部包み込んで、吸い取ってしまう、くらい。
「俺に任せろ。なんとかしてやる。だから泣くな」
いつもより、少し低い先輩の声。
噛んで含めるみたいに、じわり耳に沁みる。
昂ぶった刺々しい感情が、静かに引いてゆくのが、わかる。
――先輩が、此処に、いる。
いるんだ。
ひとりじゃない。
あぁ。なら、大丈夫じゃないか。
いつだって、そうだったもの。
どんなピンチだって、先輩が、救ってくれたじゃないか。
こんなふうに、なんでもないような顔をして――。
わたしは頷き、涙を拭った。
そうだ。泣いてる場合じゃないぞ。
まだ生きてる。なら、ちょっとでも、助かる確率を上げるんだ。
しっかり先輩を手伝うんだ。
わたしだって、呪術師の助手なんだもの。
「ご、ごめん、なさい……」
「よーし、オッケーだ。もう泣くなよ?」
「うん」
ぽん、と頭に手が乗せられる。
あんまり優しい感触で、せっかく止まった涙が、また溢れそうになった。
ごめん、先輩。
八つ当たりして、ごめんね。
「じゃあ、コレちょっと持っててくれ」
スマホをわたしに押し付け、先輩は、懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは、例の筆ペンと、小さく畳んだ和紙。
「どうするの?」
「兄貴ほどじゃねーが、俺だって言霊は修行した」
自分の膝を机にして、先輩は、和紙に筆ペンを走らせた。
書き終わると、ポケットからジッポを出して、火を着ける。
え、ジッポなんか持ち歩いてるのか。この不良め。
わたしのジト眼に気付いて、先輩は早口で、聞いてもいない説明を始める。
「ちげーよ、これは呪詛用。もう吸ってねーよ」
「前は吸ってたの!? その歳で!?」
「兄貴にバレて、ブッ飛ばされた。十年早ぇってな」
おどけた体で苦笑してみせる先輩に、わたしの頬も若干、緩んだ。
我ながら、現金なものだ。もうすっかり、いつもの調子で、何事か軽口で応じようと、覗き込んだ、そのとき。
先輩の横顔が、ふと翳った。
眼や鼻の下。頬。唇。光の加減だろうか。ずいぶん、濃く影が出ている。元から彫りの深い顔立ちだけれど、それにしたって、なんだか……妙に骨張っている、というか。乾燥しているというか。げっそりして、覇気がない。
いやに、やつれている。
ような気がした。
「……先輩?」
「ん?」
「顔色、悪くない?」
「あぁー……かもな。昨日、寝てねーんだわ」
語尾は、大欠伸に取って代わった。
疲れてるんだろうな。そりゃそうだ。
本当に、もう、あんまり迷惑かけないようにしなきゃ。
先輩の掌から零れ出す煙は、ゆらゆらと井戸の中を彷徨い、螺旋を描きながら、上空へと昇ってゆく。独特の匂いが、呪詛の臭気を少しだけ和らげた。息苦しさは感じない。不幸中の幸いか、空気の心配はしなくて済みそうだ。
これは、紙を媒体にして言葉を送る言霊術の一種らしい。
要するに、郵便屋さん不在の電報だ。
「頼むぜ……」
煙を見送る先輩が、深く息を吐いて、手を合わせる。
倣って、わたしも合掌した。
同じ動作でも、意味は、だいぶ違う。
先輩は術式のため。
わたしは、ありとあらゆる神仏に、片っ端から祈るため。
あぁ、神様仏様。どうかお願いします。
わたし達に、希望の光を。




