やっぱり最悪の日
11.
なにを言っているのか、わからないと思う。
わたしだって、なにが起こったのか、わからない。
喩えるなら、あれだ。階段を降りていて、次は床だと思ったら、まだ一段残っていた。あの感覚に似ている。不意を突かれて脳の処理が追い付かず、咄嗟に蹈鞴を踏んでしまった経験が、誰にでもあるんじゃないだろうか。
まさに、それだった。
ただ、踏み外した足の先に、着地点は、なかったけれど。
「瑠衣ッ!!」
咄嗟に足元を見る。驚く暇もなかった。
大地が、面が、何処にもない。
いくら夜とはいえ、視界に飛び込んできた空間は、あまりにも暗すぎた。
――墜ちる。
なにこれ。
え、なにこれ?
やっぱり……夢オチ?
重心を失った身体が、ぽっかり空いた暗闇へと吸い込まれる瞬間。
先輩の手が、わたしの腕を掴んだ、ような気がした。
†
長かったのか、短かったのか。
続いていた落下感が、遠くなって、近くなって、また遠くなって、もういい加減にしてくれと、意識を手放しかけた頃だ。
がっしゃん! と、なにか硬い物が砕ける音と共に、全身に衝撃が走った。
「…………ッ!」
声も出ない。背中を強か打ち付け、鈍く籠もった息が、喉から漏れる。一瞬、息が止まった。目から火が出るって言うけど、確かにバチバチっと電気っぽい刺激が爪先から脳髄まで駆け抜けた。
遅れて、痛みがやってくる。
い、痛い……!
凄い音したけど、もしかして、骨とか折れた……?
その割には、バカに柔らかい地面だ。沈み込むほどではないけれど、わたしの力を押し返すくらいの弾力はある。なんだろ、これ。土じゃなさそう。砂でもない。泥とも違う。板……ゴム?
それに此処、なんだろう。変な臭いがする。
やだ、久し振りにドブに落っこちたかしら?
それにしては、ずいぶん深い……、
「…………ってぇ……」
何処からか、先輩の声がした。
吃驚して、辺りを見回す。先輩も一緒に落ちちゃったの? 何処にいるの?
視界は一面の黒で覆われて、一寸先どころか、自分の指すら見えない。どうも、相当に暗い場所らしい。これじゃ、鼻を抓まれてもわからないだろう。
痛みを押し殺して、わたしは声を張り上げる。
「先輩! 何処!? 何処にいるの!?」
「お前の……尻の……下」
ありゃ!
返事が返ってきた方へ手を伸ばしたら、なんてことだ。
先輩ってば、わたしの下敷きになってた!
どおりで柔らかいはずだ。
「きゃーごめん!」
慌てて飛び退き、先輩を助け起こすべく、両脚を踏ん張った。
すると、がらん。
奇妙に乾いた音がして、脚が若干、沈んだ。
えっ!?
反射的に求めた次の足場で、今度は、ぺきん。小枝を踏み折る感触が。
な、なになに? この地面、いったい、なんなの?
「動くな……じっとしてろ」
先輩が、身体を起こす気配がした。
四角く切り取られた光が、パッと眼に飛び込んで来る。
なにかと訝しんだが、じき合点がいった。ごくごく見慣れた光源。スマホの画面である。頼りない明かりではあるけれど、それでも、ないよりは断然いい。これで辺りの様子を確認することができる。
スマホを手にした先輩が、すぐ隣で、尻餅を付いていた。
顔を顰めて、しきりに立てた膝をさすっている。
け、怪我したのかな?
酷い出血はないみたいだけど……。
「だ、大丈夫!? ごめん!」
「ちょっと重すぎるんじゃね?」
おい殺すぞ。
「怪我したの? 脚?」
「あー……たいしたことねーよ。重かったけど」
「まだ言うか!」
痛い痛いと、先輩は、これみよがしに脚を抱えてみせた。
うん……まぁ、悪態を吐ける元気があるなら、ひとまず大丈夫、なんだろう。
無事でよかった。
ホッと一安心。胸を撫で下ろしたら、当然の疑問が口を突いた。
「此処、何処? なにが起こったの?」
「下。見てみな」
言われて、なんの気なしに足元へと視線を落とす。
途端、自分の耳すらつんざく絶叫が、最大ボリュームで響き渡った。
だってだって、骨。
骨、骨、骨。
地面だと思っていた場所は、夥しい頭蓋骨が集まり、敷き詰められ、積み重なって、山になったものだった。いや、山というよりは海だ。わたし達は、半ば埋もれるようにして、その上にいたのだから。文字通り、足の踏み場もない。
違う。正しくは――足の踏み場が、頭蓋骨しか、ない。
「いやーっ! なにこれなにこれ!?」
避けようと脚を移動させても、無意味だった。
移動した先にも、骨。その先にも骨。軸足の下は、もちろん骨。
ど、どーなってんの!?
「動くなっつってんだろ!」
先輩に怒鳴られ、ビクッと身体が固まる。
からん、と頭蓋骨の一つが、崩れ落ちる音がした。
先輩が、ゆっくりスマホの明かりを巡らせた。
それに合わせて、辺りを見回す。直径二メートルくらいだろうか。円柱状になった壁が、途方もない高さで、わたし達を取り囲んでいた。四方八方、ぴっちり隙間は見当たらず、窮屈で、狭苦しいったらない。物凄い圧迫感だ。
素材は、正直よくわからなかった。コンクリート……ではないようだ。石?
ダメ押しに、上空を振り仰いでも、出入口らしきものは見当たらない。
ラップの芯に閉じ込められたみたいだった。
これって……。
「穴だ」
呟こうとして、先輩に先を越された。
「俺は後ろから見てたんだ。あのとき、いきなりお前の足元に穴が空いて――」
……そんな。
薄々、勘付いていたとはいえ、ショックだった。
夢じゃなかったんだ。
ってことは、わたし達、物凄く深い穴に落ちたってこと?
此処は、穴の底?
「かなり深いぜ。無闇に動くな。骨の下がどうなってるか、わかんねーぞ」
「で、でも、なんで? いきなり地面に穴が空くの?」
だって、倉庫に入る前は、普通の地面だったのよ?
わたしが連れ込まれて、先輩に助けられるまで、ほんの十分程度。その僅かな間に、いったい誰が、こんなアホみたいに深い落とし穴を掘ったっていうの? なにがどうなったら、こんなことになるの?
「シンクホールって知ってるか?」
先輩が、スマホを耳に当てながら訊ねる。
わたしは、首を横に振った。
「なんかの原因で地下が空洞化して、いきなりボコッと穴が空くんだと」
「それ不運すぎない!? いくらわたしでも、初めてよ!?」
「いや。むしろ出来すぎ……くそっ、繋がんねーか」
「は、早く早く! 警察呼んで! 違う、救急車? 消防? 自衛隊?」
「駄目だ」
「なんで!? こんなときに意地悪しないでよ!」
「電波、届かねー」
…………。
う、嘘でしょ?
先輩からスマホを掻っ払って、覗き込む。
ネットやメールも試したんだろう。画面には「ネットワークに接続できません」と、無慈悲なエラー告知があるのみだった。
できませんじゃねーよ、しろよ! 根性なしスマホが! 叩き割るぞ!
してください、お願いです頼むから!
宥めても賺しても、相手は機械。悲しいかな、人間の都合なぞガン無視だ。貴重な光源であるからして、本当に叩き割るわけにもいかない。わたしは、ただの光る電話帳と成り果てた文明の利器を手に、途方に暮れる他なかった。
先輩はといえば、ポケットから、もう一つスマホを取り出して、操作していた。
あれは、北野さんから取り上げたやつだ。
どうか繋がってくれ。
わたしのスマホは、鞄に入れっぱなし。此処に鞄がないなら、お手上げだ。
「……駄目だな」
必死の祈りも虚しく、先輩がチッと舌打ちする。
同時に、空間が少しだけ、暗くなった。
「充電切れてやんの」
「クソが!」
どうすんのよこれ、詰みじゃないか。
わたしは半泣き、パニック状態でオロオロするばかりだ。
対照的に、先輩の方は、落ち着いたものだった。てんで取り乱すふうでもなく、腕を組み、口元に手を当て、なにか考えているようだ。
こんなときに、よく冷静でいられるな。
「ね、ねぇ。どうしよう!」
「それを考えてんだ」
「でも、でも、このままじゃ、わたし達……」
「落ち着けって。ま、事情は先客に訊いてみようぜ」
どういうつもりか、先輩は、ブレザーの内ポケットから、筆ペンを取り出した。
この筆ペン、ただの筆記用具ではない。携帯しやすいよう加工してあるだけで、軸は霊木。インクは、特殊な墨と先輩の唾液を混ぜたもの。つまり、一種の呪具である。いざというときのため、常に持ち歩いているらしい。
え、ちょっと待って。
それを使うってことは……先客って、まさか。
嫌な予感がして、目線を落とした。
言うまでもなく、其処に《居る》のは、頭蓋骨さん達だけだ。
果たして先輩は、頭蓋骨を一つ手に取ると、その額に、文字を書いてゆく。
残念なことに、肉ではない。詳しくは知らないが、なにかの梵字だったはずだ。ええと確か、これって使役だか命令だかを実行する作法で、死者自身から、無念を聞き出すための術じゃなかったっけ。
……って、やっぱり!
この後に及んでホラー展開かよ!?
「オン・アロリキヤ・ソワカ・オン・アロリキヤ・ソワカ……」
速攻ビビリモードに突入するわたしの隣で、先輩が、すらすらと真言を唱える。つい前回までの、胸キュン青春ドラマは何処へやら。今や状況は完全にB級ホラー映画と化し、残すはヒロインの絶叫を待つのみとなった。
なんてこった。よもや、こんな意味でドキドキするハメになろうとは。
「仇志乃世音の名に於いて命ずる。汝、語るべし」
やがて厳かな文言が術式を結ぶと、闇の底には、再び静寂が漂った。