人生最高の日
10.
体育マットの上に座り込んだまま、動けない。
学園あるある黄金パターン、都合が良すぎて信じられない。こんなことが現実にあるのか。これは夢? わたしってば、絶望のあまり頭がイカれて、幻覚を見てるんだろうか。
だとしたら、夢の続きは……。
アホみたいに口を開けて、わたしは、ぼんやりと先輩の横顔を眺めている。
出し抜けに、先輩が此方を振り向いた。
その固まっていた表情が、つと緩む。
そうして、引き結ばれていた唇を解いたかと思ったら、開口一番。
「バカか、お前は!」
わたしに駆け寄り、両手首を拘束するセーターを掴んだ。
「早く取れ、こんなもん!」
いや、取りたいのは山々なんですがね。
変な結び方されてるせいか、ビクともしないんですよ。
「な、なんか……抜けなくて……」
「あぁ? クソったれ!」
先輩はセーターに口を寄せ、糸を噛み切り始めた。
何本か切ってしまうと、あとは強引に隙間を広げて、ブチブチと引っ剥がす。
繊維が引っ掛かって、やや手間取ったけれど、どうにか手首は解放された。
「あいた……」
ずっと圧迫されていたものだから、いきなり血が通って、指までじんじんする。
痛みと不快感で、いったんは収まった涙が、また滲んできた。ここへきて、ようやく助かったという実感が湧いてきたのかもしれない。くっきりと手首に付いた跡は、なにか汚い烙印のようで、先輩に見られているのが恥ずかしかった。
なんとか隠せないかな。そう思ったときだ。
「動くか? 痛むか?」
先輩の大きな掌が、手首を包んだ。
「怪我は?」
「え……っと……大丈夫。擦り傷とか、痣ぐらいだし……」
「他には? なにされた? どこまでされた?」
「あ、えと、ギリギリ……セーフ。脚とか、触られただけ」
「本当に? 嘘じゃねーな?」
「う、うん」
聞き届けて、先輩は、今一度。
深い深い溜息を吐いた。
そこで初めて気が付いた。
青ざめていた先輩の顔に、頬に、色が戻っていた。
それだけじゃない。キリッとした眉は叱られた子供よろしく下がり、鳶色の眼は潤んで、なんだか今にも……くしゃっと、崩れてしまいそうな。わたしの己惚れと希望が、そう見せたのかもしれないけれど。敢えて言わせてもらうならば、そう。
心から安堵した。
そんな顔をしていた。
「せん、ぱ……」
ほろり、涙が溢れて、頬を伝う。
痺れた手首に、熱が戻ってゆく。
部活と家事で荒れた先輩の指先は、それでも、此の世のなによりも尊い。
だって、まるで赤ん坊の頭を撫でるよう。砂で出来た花を触るように、力を加減してくれているのが、わかるんだもの。わたしが、痛くないように。
「……せんぱい、先輩!」
あぁ駄目だ。
緊張の糸も、涙腺も、くだらない見栄も、全部ブッ切れた。
わたしは、先輩にしがみついて、感情のなすがままに、ワンワン泣き出した。
「先輩! 先輩! せんぱぁい!」
「……あぁ」
「こわ、怖かった……怖かった怖かった怖かったぁああ!」
「あぁ」
そっと回された腕は、意外にも強く、わたしの背中を抱いた。
指先の繊細さとは対照的に、なんて力強い温度だろう。
同じ強さでも、さっきの男子達とは、まるで違う。
すべての哀しみから、絶望から、守られているみたい。
額を埋めた懐は、洗剤と、お香と、少しの汗と。男子独特の体臭。
先輩の匂いがする。
あぁ、先輩だ。大好きな先輩だ。
夢じゃないんだ。
助けに来てくれたんだ。わたしを。
戦ってくれた。わたしの、ために!
先輩の手が、わたしの乱れた髪を梳く。軽く肩を叩く。
ひとつひとつの仕草に、この上ない、いたわりを込めて。
本当に、今日は、なんて日だ。
最高だ。
最悪を上書きして、帳消しにして、決算は心置きなく黒字。
今日は人生最高の日だ。
もうこのまま、息が止まっても、いい。
「ったく……これだから目が離せねーんだ」
耳元で囁く吐息が、ふっと苦笑したような気がした。
あれ、でも、そういえば?
「……なん、で、来てくれたの?」
嗚咽混じりに、わたしは訊ねた。
忘れたとは言わせない。ほんの数時間前、昼休みの玉砕告白タイムを。
あれだけキッパリと振っておいて、なんで助けに来てくれたんだろう。
ていうか、どうして此処がわかったの?
「いや、ラインしても繋がらねーし。電話も出ねーし。教室にもいねーし。あちこち聞き回って探してたらさ、鍋島が見たって言うんだよ。柄悪ィ女子に囲まれて、グラウンドの隅の方に行ったとかさ。で、来てみたら鞄と眼鏡、落ちてるし」
まさかの鍋島ルート!
……って、いやいや。そうじゃなくて。
「心配……してくれたの?」
あんなフルスイングで振ったくせに。
「なんか嫌な予感がしてな。間に合って良かったぜ」
僅かに身体を離し、先輩が、わたしの顔を覗く。
と、その視線が下へ降り、また上がり、それからキョロキョロと泳いだ。
「いや、お前……」
え? なに?
「なんつー格好してんだ」
言われて、愕然。わたしは己の姿を再認識した。
ブラウスのボタンは軒並み吹っ飛んで、前が全開。ブラジャー丸見え、ヘソ出しマックスの、ほぼアウトな半裸だった。しかも、暴れたために肩紐がずり落ちて、さして大きくもない胸が、ポロンとハミ乳してるじゃないか。
「きゃーーー!」
慌ててブラウスを寄せたけれど、焼け石に水にも程がある。最初っから、ずっと見られていたのだから。今更そんなことしても無駄だ。壮絶に無駄だ。おまけに、髪も乱れて、ぐっちゃぐちゃ。解けて散って、お下げですらなくなってる。
あーもう、恥ずかしい!
隠せ隠せ!
でも、どうしよう。セーターは、さっき破っちゃったし。
確か、何処かにブレザーが落ちてるはずなんだけど……!
その辺を見回して、わたしは、更に愕然とした。
わたしのブレザーは、先程の乱闘騒ぎで男衆に揉まれ、砂まみれの埃まみれ。謎の体液(血ですね、わかります)と幾つもの足跡で黒く汚れて、ガチのボロ雑巾と化していた。
「…………」
やっぱり最悪じゃねーか!
わたしは、がっくりと頭を垂れて、情けなく呻いた。
と、不意に頭上で、チッと舌打ちが聞こえて、顔を上げた。
先輩が、着ているものを脱いでいた。
「えっ!?」
驚きのあまり、自分でも知らないような声が出た。
ついでに鼻水も吹いた。
この展開って……まさかのまさか?
ちょ、ちょっと先輩。なに考えてんですか。
そりゃ、先輩だって健康な男子高校生だ。わかってるけど。
目の前に半裸の女子がいたら、そーなるかもしれないけど。
まずいって。駄目だってば。
こんなところで……。
わたしが動揺している間に、先輩はブレザーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、ブラウスを脱いでいく。露わになった筋肉は、無駄なく引き締まって、若さで瑞々しく張り詰めていた。うっすら汗で濡れて湿っているのが、なんか……エロい。
今から、あの身体に、わたし――?
ひゃあああ!
いやでも、こんなところで、嫌だなぁ。初めてだし。
どうせなら、お布団がいいんだけど。邪魔なゴミ共も転がってるし。アレも持ってないし。汗たくさん掻いちゃったから、臭いが気になるし。あーしまった、またパンツがラリックマだった。こんなことなら、フリフリレースの勝負下着を……。
「ほら、これ着てろ」
バサッと、膝に先輩のブレザーが落ちてきた。
続いてセーター、ブラウス。
…………。
は?
「んな格好で外歩けねーだろ。俺の貸してやるから、着てろ」
言って、先輩は、倒れている男子の中から、体格が同じくらいの奴を選別。
いそいそと追い剥ぎに取り掛かった。
なるほど。それで脱いだんですね。
どうも……ご親切に。
ご親切にィイイイイイ!
ちくしょーまただよ! 変な妄想して一人で思いっ切りドキドキしてたよ! 夢見たよ! ときめいたよ! しなくていい覚悟したよ! ちくしょーめ!
もーやだ。バカだわたし。穴を掘って埋まりたい。十年くらい埋まりたい。恥の上塗りって、こういうのを言うんだ。バカじゃん。マジのバカじゃん。なんか今日こんなんばっかりじゃないか? バカか? バカキャラなのか?
はぁはぁ、くそったれが。
だけど……まぁ、これはこれで有り難い、か。
わたしは、まだ先輩の温もりが残るブラウスに、袖を通した。
「ぶかぶか」
「贅沢言うな」
怒るかと思ったら、先輩は、片方の眼を細めて薄く笑っただけ。
三度ドキンとしてしまった。
懲りないなぁ。わたしも。
ん? よく考えたら、これ彼シャツってやつか?
……ひゃあ!
「くっそ、ブレザーだけ合わねーな」
「あ、いいよ。わたし、ブラウスとセーターで充分」
わたしが返したブレザーを羽織って、先輩は、大きく肩を回した。
その下には、ちゃっかり誰かから剥ぎ取ったブラウスを着込んでいる。代わりにその誰かが半裸状態なわけだが、それは我々の知ったことではない。風邪でも引いて、ケツに座薬を突っ込まれればいいと思う。でっかいのを。
「んじゃ、さっさと帰るぜ。うち来るだろ?」
先輩が、わたしの手を取った。
助け起こしてくれるつもりなのだ。
おいおい、さっきからどうした。
普段、こんな気遣い、絶対しないくせに。
やっぱ、あられもない姿を見られたから?
先輩は先輩で一応、気まずいのかな?
うーん、だとしたら、却って恥ずかしいなぁ。
まごまごしているわたしに、先輩の首が、ふと傾ぐ。
瞬間、わたしは笑顔を作って、その手を断っていた。照れ隠しだったんだろう。人間とは難儀な生き物で、常日頃から熱望しているシチュエーションでさえ、いざ臨んでみると、咄嗟に遠慮してしまうものらしい。
「大丈夫。立てるから。でも……」
でも、ありがとう。
先輩は、キョトンと、瞬きを数度。
けれどすぐに、見惚れるほどイケメンな笑顔をわたしに返して、そっかと一言。労うように、トン、と背中を押してくれた。
――ありがとう。
後で、お礼、しなくっちゃね。
ブッ壊れた扉の隙間、吹き込む風が冷たい。外はとっぷり陽が暮れて、それでも不思議に、胸の奥は暖かかった。照れ臭さに染まる頬。解けた髪で隠しても、緩む口元から鼻歌でも零れそうだ。
入ったときとは正反対の清々しい気分で、わたしは、倉庫を出る。
地面がなかった。