人生最悪の日
9.
引きずり込まれた倉庫の中は、思った以上に暗かった。
ただでさえ狭い室内を圧迫する用具は、整頓もされず乱雑に置き散らかされて、さながら迷路かバリケード。掃除なんてされてるわけもなく、男子達が踏み荒らす度に、大量の埃が立つ。
「もう、靴下おニューなのにぃ」
場違いに間延びした調子で言って、北野さんは、引き戸を閉めた。
そのくせに、抜け目がない。折れたポールかなにか、傍にあった棒を心張りにして、手早く密室を作ってのける。
た……助けを呼ばなきゃ。
わかってるのに。
どうしよう。
声が出ない!
「あっれー震えてんのカノジョ?」
「寒いのかな? すぐ暖まるからねぇ」
「大丈夫。センパイ達、女の子には優しいよ?」
「おとなしくしてればな」
ゲラゲラと、下品な笑い声が上がった。
跳び箱の上に陣取った北野さんが、スマホを弄りながら、口を尖らせる。
「ちょっと、早くしてよ~充電あんまない」
「わーってるって、おい」
リーダーの男子が頷くと、数人の手が、乱暴にブレザーを剥ぎ取っていった。
「やっ……」
ゴミ同然に放り出された先は、黒ずんだ体育マット。
倒れた衝撃で、古いカビの臭いが、つんと鼻を突く。
どうにか身体を反転させ、立ち上がろうとした。
でも駄目だ。
物凄い力で押し倒され、あっと言う間に組み敷かれて。
「逃げられると思ってんの?」
すり、と。大きな手が、太腿を撫でる。
全身が粟立った。
嫌。
触らないで!
「やっ……! だ!」
わたしは、必死に身を捩った。背筋を這い上がる恐怖が、理性を吹き飛ばしたのかもしれない。こんな力が、自分の何処に残っていたのか。驚くほどの勢いで、頭を振り、空を蹴り上げ、駄々っ子みたいに、もうメチャクチャに暴れた。
それなのに、なんてことだ。
わたしに覆い被さる身体は、ビクともしない。
それどころか、却って反発を楽しむように、じわじわと圧力を増してゆく。
あぁ嘘。話にならないじゃないか。
男子の腕力って、こんなに強いの?
「縛っとくか」
「そうだな」
「はーい、ちょっとバンザイしてねぇ」
為す術もなくセーターを脱がされ、そのまま手首をグルグル巻きにされる。
「やだ、いッ……、や」
痛い、やめて。離して。
叫んだつもりなのに、喉からは、ひゅうひゅうと冷たい空気が漏れるだけ。
「え、なに? 聞こえないよ? もっと大きな声で、どうぞ」
誰かが言い、ドッと笑い声が起こった。
「ひ、あっ」
両脚を開かれて、間に骨張った膝が割り込んでくる。
ブラウスが左右に破られ、幾つかボタンが弾け飛ぶ。
素肌に走る空気が、泣きたいくらい冷たくて。
無駄と知りつつ、縛られた両手をギュッと握り締める。
「いいよー叶ちゃん。ちょーセクシー」
北野さんが笑う。
叩き付けられたカメラ音とフラッシュ。死刑の宣告だった。
仰向けで見上げる男の顔は、経験のないわたしにだって、わかる。半笑いの眼にギラギラと欲望を滾らせた、発情期のオスそのものだ。吐き気がした。どんな呪詛よりも気持ち悪かった。ここまで最低で汚らわしい笑顔が、あるだろうか。
湿った荒い息が、すぐ鼻先まで迫る。
わたしは弱々しく頭を振る。精一杯の拒絶だった。
薄暗い室内で、高い小窓から差し込む西日が、異世界のように赤い。
気付けば大量の涙が、頬を伝っていた。
もう、駄目なんだ。
ごめん。
わたし、これで、おしまいだ。
レイプされて、撮影されて、晒されて、拡散されるんだ。
本当に……二度と、会えなくなっちゃうな。
カチャ、カチャ。なにか留め具の外れる音を、遠退く意識の外で聞く。
これから、今日が人生最悪の日になるらしい。
細めた眼で乱反射する光に、何故だろう。
わたしは、ぼんやりと、いつかの背中を思い出していた。
先輩、ごめんなさい……。
――瑠衣。
あれ。
先輩の声が、した?
ううん、気のせいだよね。幻聴ってやつだ。
だいたい都合が良すぎるだろう。此処でヒーロー登場って。
瑠衣。瑠衣。
なんか懐かしいなぁ。先輩の声。
近付いてくる。ような気がする。
もう、どうしたの? そんなに慌てて。
走ってるの? また遅刻?
ずいぶん息が、
……瑠衣!
「おい何処だ!? 瑠衣! 瑠衣!」
――え?
「瑠衣!!」
†
がたん、がん!
突然響いた大きな音に、わたしは、驚いて眼を開けた。
外だ。なんか騒がしいぞ。数人の女子達が、きゃあきゃあ喚いてる。あれって、北野さんの取り巻き。倉庫を見張ってたはずなんだけど、なにかあったの?
うるせえ、と誰かに一喝されて、彼女達は静まり返った。
その声……!
「瑠衣! 此処か!? 此処にいるのか!?」
再び、激しく扉が叩かれた。
ギシッと、心張り棒が軋む。
開けようとしてるんだ。
「ちょっ、誰だよ!? こんなときに!」
「先公か!?」
「いや、あの声って確か……」
「タバコ隠せ早く!」
「ちげーよ、コイツ隠すんだよ!」
「北野、そこどけ! 跳び箱、使うから!」
予想外の乱入者に、男子達は大慌て。狭い室内に散って、バタバタと籠城工作を始める。周りの体育用具で、本物のバリケードを作るつもりなのだ。いや、そんなことしたって、逃げられないんじゃ意味ないだろ。密室なんだからジリ貧だろ。
現に、その間にも、扉を叩く音は続いている。
あぁ違うな。叩くなんて生易しいもんじゃない。
蹴ってるぞ、あれは。
ガンガン、ガン、ガン、ガン、バンバン、ガン、
ガン、ガン、
ばきん!
一際派手な音を立て、何度目かの蹴りで、扉が外れた。
からん。ひしゃげたポールが、コンクリートの床を滑る。
俄に射した明るさに、わたしは思わず眼を細める。
ううん、どのみち眼鏡がないから、よく見えなかったのかもしれない。
それでも、そこにあった光景は。
わたしの瞼に、峻烈に焼き付いた。
狭い視界の先、西日を浴びて舞う埃が、やけにキラキラ、輝いて。
夕陽を背負った長身が、巻き上がる砂塵の向こう。
彼が――肩で大きく息を吐いていたのだから。
「仇志乃……君」
出入り口のすぐ傍に立っていた北野さんが、呆けた顔で呟いた。
先輩の眼だけが動いて、彼女を捉える。
それで事態を飲み込んだらしい。北野さんは、ハッと表情を作った。
「あ、あ、あのね、仇志乃君。これはね、違うの」
「よこせ」
「え?」
ずい、と。
乱れた呼吸を整えようともせず、先輩は、北野さんに手を突き出した。
ただそれだけの動作なのに、なんという威圧感。
いっそ真摯なほどに凍り付いた無表情が、逆に不穏すぎる。
「スマホ。よこせ」
「これはね、ち、ちょっと遊んでただけで」
「よこせ」
「ほんと、あたし達、友達」
「さっさとしろ!」
先輩は、北野さんの手から、強引にスマホを奪い取った。
チラッと画面を見た顔が、みるみる青ざめて、強ばる。
「……どっか行け」
「あの、仇志乃、君」
「消えろっつんだ! 女でもブッ殺すぞ!」
決して脅しではない迫力で怒鳴り付けられ、今度は北野さんがフリーズした。
二秒か三秒か。しばし口を結んだまま硬直していた彼女だったが、じき己の無力を悟ったのだろう。眼に涙を溜めて、走り去っていった。
忌々しげにスマホをポケットへと突っ込み、先輩は、室内を睨め回す。
情けなく息を呑む声が、たぶん全員分、聞こえた。
「あ……仇志乃」
リーダーの男子が、引き攣った笑顔で、首を横に振る。
「違うんだよ、仇志乃」
一歩。先輩は、脚を踏み出した。
男子達が、同じ距離を遠ざかろうと、腰を引く。
でも残念。後ろ、壁だから。
ていうか違わないから。現行犯だから。
「知らなかったんだって。コイツが、お前の彼女だったとかさ」
また一歩。
先輩が、ジリジリと躙り寄ってくる。
相変わらずの無表情で、ちょっとなにを考えてるんだか、わからない。
ただスニーカーの砂粒を踏む音が、やけに鈍く、重く、空間に沁みる。
「知ってたら手ェ出すわけねーじゃん?」
狭い室内、歩数は幾らも必要ない。
もう先輩は、わたし達の二メートルほど手前まで来ていた。
「だからマジ勘弁、俺等ただ」
言い終わらないうちに、先輩の拳が、リーダーの顔面に、めり込んだ。
悲鳴を上げる暇もなかったようだ。先輩と同じくらいの体格が、いとも容易く宙を舞い、漫画みたいに吹っ飛んで、壁際の棚に激突した。積年のゴミや埃と共に、用具がガラガラ降ってくる。
棚に背を預けて尻を着いたリーダーは、がっくりと首を項垂れたまま、起き上がる気配を見せない。
「ひ、ひいっ」
途端、子分達が、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
リーダーがワンパンで沈んでしまったのだから、無理もない。
予想していたのか、或いは初めから、一匹たりとも逃すつもりはなかったのか。先輩の反応は、すこぶる早かった。
一人をブン殴り、一人を張り飛ばし、一人を蹴り上げ、一人を叩き付ける。
出口を目指す全員、もれなく捉えてキッチリ畳んでゆく様は、あれだ。さながらゲームのボーナスステージ。それも、パーフェクトでハイスコアな神プレイだ。
なにかが折れたり潰れたりする嫌な効果音が、立て続けに響いていたのも、僅か数秒のこと。
哀れ男子達は、見事なボロ雑巾となって、辺りに散乱した。
雑巾……もとい、累々たる死屍を爪先で転がしながら、先輩が、歩を進める。
依然として無表情を保ったままだったが、その眼は心なしか見開かれ、うっすらと血走って、ある一転を凝視していた。即ち、倒れたリーダーをだ。
「おいコラ」
むんずと髪を鷲掴み、項垂れたリーダーの頭を上向かせる。
うわっ、見ない方が良かった。えらいグロ画像になってる。潰れたらしい鼻が、まるでネジの飛んだ水道栓だ。もっとも、吹き出す液体は赤いけれども……。
「どこまでやった?」
地を這うが如く低い声で、先輩が凄んだ。
リーダーは、涙と鼻血を撒き散らしながら、ぶんぶん頭を振る。
「……な、にも」
「あぁ?」
「まだ、な、ん、にも……」
「嘘じゃねえだろうな?」
「あ、ああ……」
「そっか、じゃあ死ね」
えぇ!?
ツッコむ間もありゃしない。言うが早いか、先輩は、リーダーのブレザーに両手を掛け、躊躇ない動作で一息にキュッ。首に巻き付けるようにして、締め上げた。
つ、突込絞!
むしろそっちのツッコミ!?
弱々しく藻掻いていたリーダーの手が、程なくして、ぱたりと落ちる。
失神……したようだ。
ふぅ、と先輩の深い溜息が聞こえて、あとはそれっきり。
さっきまでの阿鼻叫喚が嘘だったみたいに、場が静まり返った。