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呪術師とチョコレート。  作者: 雪麻呂
四人坊主は祈らない
13/46

あと3センチが

5.






 よく晴れた昼休み。わたしは、急ぎ足で屋上へ向かっていた。

 誰あろう、先輩からの呼び出しである。

 今回は仕事ではない。かといって、送り付けられたラインには、ロマンチックの欠片すら含まれていなかった。「腹が減った、食い物を寄越せ」の一文だ。お前は山賊か、とツッコんで、直ちに購買部へ走った。

 なんだか最近、こういうパターンが多い。

 ジュース買ってこいとか、ボタンが取れたから付けろとか。くだらない用事で、しょっちゅう呼び出されてる気がする。

 これって都合の良い女? ていうかパシリ? いやむしろオカン?

 腑に落ちない部分もありつつ、階段を昇る脚は、少しワクワクしていた。

 だって先輩と会うのは、あの井戸の仕事以来。

 二日振りだから。


 三階、四階、最上階。

 重い扉を押すと、吹き込んだ風で、ふわり前髪が持ち上がった。

 この屋上、本来は立入禁止なんだけど、実は、鍵が壊れてるんだよね。生徒の間では割に有名な事実で、サボリには持ってこいの穴場だったりする。先生にバレるまで、放置され続けるんだろうなぁ。

 とはいえ、この季節。それも風の強い、こんなクソ寒い日に、待ち合わせ場所として使おうなんて、選ばれた変人の発想だろう。逢い引きスポットなら、暖かくて人目に付かないところが、結構あるんだから。この学校。

 思った通り、其処には世音先輩が一人。コンクリート製のフェンスに頬杖を突いて、空を眺めているだけだった。

 他に誰もいない。

 冬の逆光に、見知った背中が、ひどく眩しかった。


「遅ぇ」

「なによ、呼び付けといて」


 振り返りもせず、先輩が舌打ちした。

 その隣に立って、ビニール袋を押し付ける。

 中身は、ピザパンとメロンパン、ホットコーヒーだ。先輩は炭酸飲料の方が好きなんだけど、今日は寒い。お腹が冷えたら困るだろうから、温かいものを選んだ。パンも一応、レンチンしてある。


「お弁当、忘れたの?」

「いや。食ったけど足りねー」

「また早弁したんでしょ」

「まぁな」


 いただきます。言って、先輩は、ピザパンに齧り付いた。

 視線で促されて、わたしは缶コーヒーのプルトップを起こす。

 溢れた湯気が、風に強く撫でられて、真横に流れた。

 一口だけ頂戴して、先輩に手渡す。


「最近、よく此処にいるね」

「あぁ」

「寒くないの?」

「その代わり貸し切りだろ」


 続け様にメロンパン。二つペロリと平らげてしまうと、先輩は、ふぅと息を吐いて、再びフェンスに頬杖を突いた。


「あれから忙しかったの?」

「あぁ」

「なんかわかった? 井戸のこと」

「いや、これといって」

「ふぅん」


 中身のない会話は、すぐに途切れて、わたし達の間には沈黙が漂う。

 グラウンドでサッカーに興じる男子の声。からかうような女子の声。間を埋めるあの喧騒も、二十分後には、チャイム一つで静まり返る。みんな今が限られた時間だと知っているから、精一杯はしゃぎ、無邪気でいようとする。

 青春とは、二度と戻らぬ青い春――か。

 そう言ったのは、誰だったっけ。


「……機嫌、悪いの?」

「なにが?」

「だって先輩、さっきから全然、喋らない」

「話すことねーもん」

「あっそう……」


 それだけで、また会話が途切れた。

 黙って空を見上げる先輩の横顔は、相も変わらずイケメンで。

 まだ途中。青年に移行しようとする少年の、脆さと青さと鋭さと。

 不安定で物憂げな色気が、風に吹かれて揺れている。

 わかんないなぁ。こんなときの先輩って、なにを考えているんだろう。たまに、こういう顔するんだよね。つい先日のパンチラ事件が、もう何年も前の出来事みたいじゃないか。

 ……まったく。

 子供っぽいかと思ったら、急に黄昏モード入っちゃうし。

 真剣かと思ったら、次の瞬間バカやって。

 男の子って、みんなこうなのかな?


 仕方がないから、わたしも空を見ている。

 澄みきって、何処までも青く抜けた冬空だった。

 風が強い。

 わたしの三つ編みと、先輩の襟足が、仲良くバタバタ暴れてる。

 なにをするでも、話すでもない。並んで、ただ立っているだけ。

 ダラダラと無為に流れてゆく昼休みは、けれど、微塵の退屈もなくて。

 いつからだろう。こんな時間を、気まずいと感じなくなったのは。


 ほんの一年前、わたしが見上げていた空は、ひとりぼっちだった。

 地味でダサくて、鈍臭くて、引っ込み思案で、なにをやっても駄目で。

 両親にすら相手にされなくなったのは、必然だったんだろうか。

 あの頃、空は、ひたすらに遠かった。


 今は、当たり前に、先輩が隣にいて。

 そんな非日常が、わたしの日常。


 わかってる。

 上出来だ。

 わたしみたいな女の子には。

 もう充分。万々歳。これ以上は、高望み。自惚れなんだ。

 だけど、先輩の横顔が、あんまり切ないから。

 ふらっと、あの空を飛んでいってしまいそうだから。

 もっと近付きたくなる。

 ちょっとだけ。あとちょっとだけ。

 三センチでいい。

 近くに。

 傍に――、


「瑠衣」

「うわぁ!」


 寄ろうとして、こっそり身体を傾けた瞬間、先輩が此方を向いた。


「好きな奴、いる?」





                  †





 出し抜けに訊かれて、一瞬、頭が真っ白になった。


「はぁああ!? な、なな、なによなによ、いきなり!」

「いんの? いねーの? どっち?」

「そ、そそそ、そりゃあ……」

「どっちよ?」

「え、あの、そのえっと、い、いいい」


 ――いる。


 観念するよりも先に、本音が口を突いた。

 よほど気が動転していたらしい。驚愕のベストタイミングに、取り繕うことすら出来なかった。それでなくとも、わたしは要領が悪い。嘘を吐いたところで、簡単に見抜かれていたかもしれなかった。


 へぇ、と先輩は片方の眉を上げた。


「それって兄貴?」

「ううん……違う」

「じゃあ華音?」

「……違う」

「まさか流音か? アイツはやめとけ。一円残らず搾り取られるぜ」

「うん知ってる」


 如何にも仇志乃兄弟は、全員イケメンですけどね。

 どうして、そういう囲い方してくるかなぁ。

 まんま消去法じゃん。三男しか残らないじゃん。

 普段は恋バナなんて、まるっきり興味ないくせに。

 なんで今日は、そんなに食い付くのよ。


 先輩は、ふーんと鼻を鳴らし、指先で前髪を弄った。


「んじゃ結局、誰よ?」

「え、それは……その、あれ、ええと……」

「どんな奴?」

「だから、それは……」


 目の前にいるんだよ! こんな奴だよ!

 心の絶叫は、けれど悲しいかな、どうしても意味のある音にならない。胸の奥で熱く疼く、そのたった一言が、ひゅうひゅうと喉の奥を行きつ戻りつ。戸惑って、怯えて、震えて、出てこない。

 しどろもどろに言葉を濁すわたしに、いい加減、焦れたんだろう。

 先輩は、質問を変えた。


「じゃあさ。お前、なんでそいつが好きなんだ?」


 なんでって……。

 しばしの思案の後、わたしは、意を決して口を開いた。


「…………せ」

「せ?」

「背中……」


 俯いて、ようやくそれだけ絞り出す。

 はぁ? 素っ頓狂な先輩の溜息が、返ってきた。


「意味わかんねーんだけど?」

「しょうがないでしょ! 初対面で見たのが、後ろ姿だったんだから!」


 しょうがないでしょ。

 先輩が、少女漫画みたいなことするから。

 あれは反則だ。どう考えたって、格好良すぎた。






 今でも、はっきり憶えてる。

 陽射しを照り返して、真っ白に輝いたブラウス。

 あのとき、確かに時間が止まった。

 わたしを守ってくれたのだと、気付くよりも先に。

 その背中に、見惚れた。

 男の子の背中って、こんなに広いんだ。

 初めて知った、夏の日――






「あーつまり一目惚れか」

「うん」

「そんなに好きなのか?」

「……うん」

「だったら告っちまえよ」

「う……はぁ!?」


 無責任なこと言わないで。

 反射的に食って掛かろうとしたわたしは、けれど口を半開きにしたまま、瞠目して固まるハメになった。

 フェンスから上体を起こして、先輩が、此方を向いていた。

 その表情には、皮肉も、嘲笑も、揶揄もない。

 口元を引き結び、僅かに潤んだ目元を細めて、わたしをみつめている。

 ちょっと、嘘でしょ。

 なにそのマジ顔。

 てっきり意地悪くニヤニヤ笑ってるんだとばかり思ってたのに。

 どうして。

 ……なんて真摯な顔してるのよ。


「瑠衣」


 呼ばれて、向かい合えば、三十センチの身長差。

 ごうごうと吹く風が、至近距離で、二人の髪を翻弄する。無言の数秒は、きっと圧力ではなかった。茶化すこともしない。急かすこともしない。あのせっかちが、先輩が、わたしの反応を待っている。

 そして、あぁ。わたしは。

 まっすぐな視線に射貫かれて、為す術もなく思い知るのだ。


 この人が好きだ。

 その整った顔立ちではなく。

 広くて、逞しくて、最高に格好いい背中。

 まだ出逢ってすらいなかった、わたしを庇って。

 なんの躊躇いもなく、自らを盾とした、先輩の背中に。

 わたしは、どうしようもなく、恋をした。

 思えば、出逢ったあの瞬間、カウントダウンは始まっていた。


 直立不動。

 両手でスカートを握り締めて、深く息を吸った。

 ――たぶん、今が、ゼロ。




「……わた、し、彼の背中が、す、す、好き、なの」




 吐き出す勢いに、言葉を乗せる。

 それだけのことが、なんという重労働か。

 耳の奥が、ズキズキと鳴いていた。かじかんだ指先は、無意識のうちに太腿へ爪を立てる。胸が痛い。心臓が破裂しそうだ。頭もクラクラしてきた。このまま気を失ってしまえたら、どんなに、どんなに楽だろう。


「出逢ったときから、ずっと、わたしの前に、いてくれて。どんなに怖くっても、泣きそう、でも、その背中が見えてると、安心、するの」


 でも、駄目。

 気絶回避なんて、卑怯だ。


「暗闇の中の、光、みたいで」


 演出過剰な風が、二人の間を吹き抜けた。

 どこまでロマンチックに縁がないんだろう、わたしは。

 これじゃ、告白どころか、ガンマンの決闘だよ。


「大好き、なの」


 ともすれば、掻き消されそうになる声を一層、張り上げて。

 わたしは、先輩を、先輩だけを見据える。


「だから、できれば……できれば、ね」


 もう一度、息を吸う。大きく吸う。

 焦るな。ゆっくりでいい。


「こ、こ、これからも、その背中、見ていたい」


 勇気を出せ。頑張れ。

 さぁ!


「できれば、いちばん、近くで……!」


 情けなく裏返った声だった。

 だけど、これが、わたしの最大出力だ。

 どうか届いて。

 一世一代。渾身の言霊!










 十秒か。二十秒か。

 実際、たいした間隔じゃなかっただろう。


「――俺は嫌だな、そういうの」


 先輩が、ボソッと呟いた。


「ジッと背中見られてるだけとか、マジで勘弁。ねーわ」


 冷静な声は、わたしの鼓膜を素通りし、身体中を駆け巡る。

 遅れて、脳内に紡がれた真実に、愕然とするよりも早く。

 成された意味を拒絶しようと、乾いた唇が、わなないた。


「俺は、」


 そのとき、バンと大きな音を立て、後ろで扉が開いた。


「仇志乃! 此処かー?」


 勢い良く飛び込んできた男子生徒が、うわっと叫んで、飛び上がる。

 あ、三年生。剣道部の人だったっけ……?


「……と、と。お邪魔だった……か?」

「鍋島? なんだよ」

「なんだよじゃねーよ。今度の団体戦。昼休みにミーティングっつったろ」

「悪ぃ、忘れてた」

「今……は、駄目だよな?」

「いや。いいぜ、別に」


 軽く頭を振り、先輩は、あっさりと踵を返した。

 ふわり流れる茶髪。外れてゆく視線。動き出す脚。

 あれ、なんでだろう。

 どうしてスローモーションなの、先輩。

 ねぇ先輩。

 何処、行くの。


「マジで良かった? 俺、なんか悪役してね?」

「いいって。たいした用じゃねーし」

「……ん、そう……?」


 鍋島とかいう人が、決まり悪そうに、此方を見て、会釈した。

 先輩は、わたしに一瞥だけくれて、歩き始める。


 遠ざかってゆく。

 先輩の背中が。

 どんどん、遠くなって、霞んで、小さく縮んで。

 見えなくなる。


「やっぱ仇志乃が先鋒でさ、ソッコー相手の士気を挫くっつーか……」

「また俺に全部やらせる気かよ。たまには次鋒も働けっての」


 下る階段の方から、どうでもいい内容が、やたら鮮明に聞こえる。

 けれど、それも、あっと言う間のこと。

 じきに世界から音が消え、光が奪われ、足場すらも、ガラガラ崩れて。

 わたしは、フェンスに指を立てたまま、冷たいコンクリートに膝を折った。






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