あと3センチが
5.
よく晴れた昼休み。わたしは、急ぎ足で屋上へ向かっていた。
誰あろう、先輩からの呼び出しである。
今回は仕事ではない。かといって、送り付けられたラインには、ロマンチックの欠片すら含まれていなかった。「腹が減った、食い物を寄越せ」の一文だ。お前は山賊か、とツッコんで、直ちに購買部へ走った。
なんだか最近、こういうパターンが多い。
ジュース買ってこいとか、ボタンが取れたから付けろとか。くだらない用事で、しょっちゅう呼び出されてる気がする。
これって都合の良い女? ていうかパシリ? いやむしろオカン?
腑に落ちない部分もありつつ、階段を昇る脚は、少しワクワクしていた。
だって先輩と会うのは、あの井戸の仕事以来。
二日振りだから。
三階、四階、最上階。
重い扉を押すと、吹き込んだ風で、ふわり前髪が持ち上がった。
この屋上、本来は立入禁止なんだけど、実は、鍵が壊れてるんだよね。生徒の間では割に有名な事実で、サボリには持ってこいの穴場だったりする。先生にバレるまで、放置され続けるんだろうなぁ。
とはいえ、この季節。それも風の強い、こんなクソ寒い日に、待ち合わせ場所として使おうなんて、選ばれた変人の発想だろう。逢い引きスポットなら、暖かくて人目に付かないところが、結構あるんだから。この学校。
思った通り、其処には世音先輩が一人。コンクリート製のフェンスに頬杖を突いて、空を眺めているだけだった。
他に誰もいない。
冬の逆光に、見知った背中が、ひどく眩しかった。
「遅ぇ」
「なによ、呼び付けといて」
振り返りもせず、先輩が舌打ちした。
その隣に立って、ビニール袋を押し付ける。
中身は、ピザパンとメロンパン、ホットコーヒーだ。先輩は炭酸飲料の方が好きなんだけど、今日は寒い。お腹が冷えたら困るだろうから、温かいものを選んだ。パンも一応、レンチンしてある。
「お弁当、忘れたの?」
「いや。食ったけど足りねー」
「また早弁したんでしょ」
「まぁな」
いただきます。言って、先輩は、ピザパンに齧り付いた。
視線で促されて、わたしは缶コーヒーのプルトップを起こす。
溢れた湯気が、風に強く撫でられて、真横に流れた。
一口だけ頂戴して、先輩に手渡す。
「最近、よく此処にいるね」
「あぁ」
「寒くないの?」
「その代わり貸し切りだろ」
続け様にメロンパン。二つペロリと平らげてしまうと、先輩は、ふぅと息を吐いて、再びフェンスに頬杖を突いた。
「あれから忙しかったの?」
「あぁ」
「なんかわかった? 井戸のこと」
「いや、これといって」
「ふぅん」
中身のない会話は、すぐに途切れて、わたし達の間には沈黙が漂う。
グラウンドでサッカーに興じる男子の声。からかうような女子の声。間を埋めるあの喧騒も、二十分後には、チャイム一つで静まり返る。みんな今が限られた時間だと知っているから、精一杯はしゃぎ、無邪気でいようとする。
青春とは、二度と戻らぬ青い春――か。
そう言ったのは、誰だったっけ。
「……機嫌、悪いの?」
「なにが?」
「だって先輩、さっきから全然、喋らない」
「話すことねーもん」
「あっそう……」
それだけで、また会話が途切れた。
黙って空を見上げる先輩の横顔は、相も変わらずイケメンで。
まだ途中。青年に移行しようとする少年の、脆さと青さと鋭さと。
不安定で物憂げな色気が、風に吹かれて揺れている。
わかんないなぁ。こんなときの先輩って、なにを考えているんだろう。たまに、こういう顔するんだよね。つい先日のパンチラ事件が、もう何年も前の出来事みたいじゃないか。
……まったく。
子供っぽいかと思ったら、急に黄昏モード入っちゃうし。
真剣かと思ったら、次の瞬間バカやって。
男の子って、みんなこうなのかな?
仕方がないから、わたしも空を見ている。
澄みきって、何処までも青く抜けた冬空だった。
風が強い。
わたしの三つ編みと、先輩の襟足が、仲良くバタバタ暴れてる。
なにをするでも、話すでもない。並んで、ただ立っているだけ。
ダラダラと無為に流れてゆく昼休みは、けれど、微塵の退屈もなくて。
いつからだろう。こんな時間を、気まずいと感じなくなったのは。
ほんの一年前、わたしが見上げていた空は、ひとりぼっちだった。
地味でダサくて、鈍臭くて、引っ込み思案で、なにをやっても駄目で。
両親にすら相手にされなくなったのは、必然だったんだろうか。
あの頃、空は、ひたすらに遠かった。
今は、当たり前に、先輩が隣にいて。
そんな非日常が、わたしの日常。
わかってる。
上出来だ。
わたしみたいな女の子には。
もう充分。万々歳。これ以上は、高望み。自惚れなんだ。
だけど、先輩の横顔が、あんまり切ないから。
ふらっと、あの空を飛んでいってしまいそうだから。
もっと近付きたくなる。
ちょっとだけ。あとちょっとだけ。
三センチでいい。
近くに。
傍に――、
「瑠衣」
「うわぁ!」
寄ろうとして、こっそり身体を傾けた瞬間、先輩が此方を向いた。
「好きな奴、いる?」
†
出し抜けに訊かれて、一瞬、頭が真っ白になった。
「はぁああ!? な、なな、なによなによ、いきなり!」
「いんの? いねーの? どっち?」
「そ、そそそ、そりゃあ……」
「どっちよ?」
「え、あの、そのえっと、い、いいい」
――いる。
観念するよりも先に、本音が口を突いた。
よほど気が動転していたらしい。驚愕のベストタイミングに、取り繕うことすら出来なかった。それでなくとも、わたしは要領が悪い。嘘を吐いたところで、簡単に見抜かれていたかもしれなかった。
へぇ、と先輩は片方の眉を上げた。
「それって兄貴?」
「ううん……違う」
「じゃあ華音?」
「……違う」
「まさか流音か? アイツはやめとけ。一円残らず搾り取られるぜ」
「うん知ってる」
如何にも仇志乃兄弟は、全員イケメンですけどね。
どうして、そういう囲い方してくるかなぁ。
まんま消去法じゃん。三男しか残らないじゃん。
普段は恋バナなんて、まるっきり興味ないくせに。
なんで今日は、そんなに食い付くのよ。
先輩は、ふーんと鼻を鳴らし、指先で前髪を弄った。
「んじゃ結局、誰よ?」
「え、それは……その、あれ、ええと……」
「どんな奴?」
「だから、それは……」
目の前にいるんだよ! こんな奴だよ!
心の絶叫は、けれど悲しいかな、どうしても意味のある音にならない。胸の奥で熱く疼く、そのたった一言が、ひゅうひゅうと喉の奥を行きつ戻りつ。戸惑って、怯えて、震えて、出てこない。
しどろもどろに言葉を濁すわたしに、いい加減、焦れたんだろう。
先輩は、質問を変えた。
「じゃあさ。お前、なんでそいつが好きなんだ?」
なんでって……。
しばしの思案の後、わたしは、意を決して口を開いた。
「…………せ」
「せ?」
「背中……」
俯いて、ようやくそれだけ絞り出す。
はぁ? 素っ頓狂な先輩の溜息が、返ってきた。
「意味わかんねーんだけど?」
「しょうがないでしょ! 初対面で見たのが、後ろ姿だったんだから!」
しょうがないでしょ。
先輩が、少女漫画みたいなことするから。
あれは反則だ。どう考えたって、格好良すぎた。
今でも、はっきり憶えてる。
陽射しを照り返して、真っ白に輝いたブラウス。
あのとき、確かに時間が止まった。
わたしを守ってくれたのだと、気付くよりも先に。
その背中に、見惚れた。
男の子の背中って、こんなに広いんだ。
初めて知った、夏の日――
「あーつまり一目惚れか」
「うん」
「そんなに好きなのか?」
「……うん」
「だったら告っちまえよ」
「う……はぁ!?」
無責任なこと言わないで。
反射的に食って掛かろうとしたわたしは、けれど口を半開きにしたまま、瞠目して固まるハメになった。
フェンスから上体を起こして、先輩が、此方を向いていた。
その表情には、皮肉も、嘲笑も、揶揄もない。
口元を引き結び、僅かに潤んだ目元を細めて、わたしをみつめている。
ちょっと、嘘でしょ。
なにそのマジ顔。
てっきり意地悪くニヤニヤ笑ってるんだとばかり思ってたのに。
どうして。
……なんて真摯な顔してるのよ。
「瑠衣」
呼ばれて、向かい合えば、三十センチの身長差。
ごうごうと吹く風が、至近距離で、二人の髪を翻弄する。無言の数秒は、きっと圧力ではなかった。茶化すこともしない。急かすこともしない。あのせっかちが、先輩が、わたしの反応を待っている。
そして、あぁ。わたしは。
まっすぐな視線に射貫かれて、為す術もなく思い知るのだ。
この人が好きだ。
その整った顔立ちではなく。
広くて、逞しくて、最高に格好いい背中。
まだ出逢ってすらいなかった、わたしを庇って。
なんの躊躇いもなく、自らを盾とした、先輩の背中に。
わたしは、どうしようもなく、恋をした。
思えば、出逢ったあの瞬間、カウントダウンは始まっていた。
直立不動。
両手でスカートを握り締めて、深く息を吸った。
――たぶん、今が、ゼロ。
「……わた、し、彼の背中が、す、す、好き、なの」
吐き出す勢いに、言葉を乗せる。
それだけのことが、なんという重労働か。
耳の奥が、ズキズキと鳴いていた。かじかんだ指先は、無意識のうちに太腿へ爪を立てる。胸が痛い。心臓が破裂しそうだ。頭もクラクラしてきた。このまま気を失ってしまえたら、どんなに、どんなに楽だろう。
「出逢ったときから、ずっと、わたしの前に、いてくれて。どんなに怖くっても、泣きそう、でも、その背中が見えてると、安心、するの」
でも、駄目。
気絶回避なんて、卑怯だ。
「暗闇の中の、光、みたいで」
演出過剰な風が、二人の間を吹き抜けた。
どこまでロマンチックに縁がないんだろう、わたしは。
これじゃ、告白どころか、ガンマンの決闘だよ。
「大好き、なの」
ともすれば、掻き消されそうになる声を一層、張り上げて。
わたしは、先輩を、先輩だけを見据える。
「だから、できれば……できれば、ね」
もう一度、息を吸う。大きく吸う。
焦るな。ゆっくりでいい。
「こ、こ、これからも、その背中、見ていたい」
勇気を出せ。頑張れ。
さぁ!
「できれば、いちばん、近くで……!」
情けなく裏返った声だった。
だけど、これが、わたしの最大出力だ。
どうか届いて。
一世一代。渾身の言霊!
十秒か。二十秒か。
実際、たいした間隔じゃなかっただろう。
「――俺は嫌だな、そういうの」
先輩が、ボソッと呟いた。
「ジッと背中見られてるだけとか、マジで勘弁。ねーわ」
冷静な声は、わたしの鼓膜を素通りし、身体中を駆け巡る。
遅れて、脳内に紡がれた真実に、愕然とするよりも早く。
成された意味を拒絶しようと、乾いた唇が、わなないた。
「俺は、」
そのとき、バンと大きな音を立て、後ろで扉が開いた。
「仇志乃! 此処かー?」
勢い良く飛び込んできた男子生徒が、うわっと叫んで、飛び上がる。
あ、三年生。剣道部の人だったっけ……?
「……と、と。お邪魔だった……か?」
「鍋島? なんだよ」
「なんだよじゃねーよ。今度の団体戦。昼休みにミーティングっつったろ」
「悪ぃ、忘れてた」
「今……は、駄目だよな?」
「いや。いいぜ、別に」
軽く頭を振り、先輩は、あっさりと踵を返した。
ふわり流れる茶髪。外れてゆく視線。動き出す脚。
あれ、なんでだろう。
どうしてスローモーションなの、先輩。
ねぇ先輩。
何処、行くの。
「マジで良かった? 俺、なんか悪役してね?」
「いいって。たいした用じゃねーし」
「……ん、そう……?」
鍋島とかいう人が、決まり悪そうに、此方を見て、会釈した。
先輩は、わたしに一瞥だけくれて、歩き始める。
遠ざかってゆく。
先輩の背中が。
どんどん、遠くなって、霞んで、小さく縮んで。
見えなくなる。
「やっぱ仇志乃が先鋒でさ、ソッコー相手の士気を挫くっつーか……」
「また俺に全部やらせる気かよ。たまには次鋒も働けっての」
下る階段の方から、どうでもいい内容が、やたら鮮明に聞こえる。
けれど、それも、あっと言う間のこと。
じきに世界から音が消え、光が奪われ、足場すらも、ガラガラ崩れて。
わたしは、フェンスに指を立てたまま、冷たいコンクリートに膝を折った。




