呪詛調伏 奉る
3.
プレハブから少し斜面を登ったところに、その井戸はあった。
現場の、いちばん奥まった場所。樹木の残骸が散乱するガタガタの地面に、暗い空間が、ぽっかり円く口を開けている。これが正円ではなく、微妙に平たく潰れた形なのだ。変わったデザインだな、と思った。
思っていたより大きい。直径二メートルはあるだろうか。
蓋はなかった。それどころか、上部は景気良く破壊されて、石材の切断面が、歪に砂を被っている有様である。ご愁傷様だ。あらかた、こんなものが埋まっているとは知らず、重機でブッ飛ばしてしまったんだろう。
吹き抜ける風が反響するのか、おぉん、おん、という唸り声のような音を不気味に吐き出し続けている。
既に簡易の護摩壇が築かれ、格子に組んだヌルデの内側では、煌々と炎が踊っていた。
それを囲むように六本の棒が立てられ、ロープ状の紐が渡されている(しけつ、というらしい)。礼盤はなく、脇机の上に、無地の和紙片が三枚。それから、硯と筆と墨、加持水の入った大杯。反対側には、磬台も設置済みだ。
「なんか……臭いませんか?」
吉村氏が、ハンカチで首筋を拭った。凄い汗だ。
此処は三月の山奥なのだが。
「それは、ドブが発酵したような?」
「あ、はい……なんていうか、土が腐ったみたいな……」
「呪詛の臭いです」
事も無げに紫音さんが答えると、吉村氏はサッと表情を強ばらせた。
ついさっきまで、欠片も信じていなかった呪詛の存在。それを己の嗅覚が確かに感じ取っている事実に驚き、また恐怖を抱いたのだろう。
止まらない脂汗も、きっとそのせいだ。頭では否定しながら、彼の嗅覚は、身体は、この場の異質な空気に対して、強い拒絶反応を起こしている。
素人のわたしにも、いや、同じ素人だからこそ、わかる。さぞかし生きた心地がしないだろう。不運な初体験、重ねてご愁傷様である。
そう言うわたしも、ずっと制服の袖で鼻を押さえている。何度か嗅いだ経験があるとはいえ、この臭いは強烈だ。どうも慣れない。
「でも、でも、昨日までは別に……」
「私もそう伺っておりました。けれど、事情が変わったようです」
明らかに狼狽する吉村氏に頭を振り、紫音さんは、眉を寄せた。
「どういうことだ? 兄貴?」
「だから、緊急事態なのだよ」
実は紫音さん、今日は、単に下見のつもりで此処を訪れたのだそうだ。
呪詛の業界に於いて、井戸は厄介である。そもそもが、此世と彼世を繋ぐ通路とされる設備であって、生活水の確保以外に、呪詛的な意味合いも強いのだ。それに水なんて溜めるものだから、余計に不浄が寄ってくる。
で、いざ紫音さんが井戸に臨んでみると、これがひどく臭った。
その時点で、臭いの話は聞いていなかった。如何に素人とはいえ、ここまで嗅覚に訴えかけてくる呪詛に、作業員達が気付かないはずはない。
ということは、この呪詛は、今日になって突然、呪力を増したことになる。
中に潜んでいるであろう呪詛の親玉は、思ったより手強く、狡猾なのでは。
そう考えた紫音さんは、事態が切迫していることを危惧した。
「時間を掛けて散らそうと思っていたのだけれど……そうも言っていられないね。こうしている間にも、どんどん漏れてきている。本体は底の方に溜まっていたのではないかな。雪解けに菜花が顔を出すように、今頃になって昇ってきたのだよ」
先輩は、納得したのか、腕を組んで頷いた。
「あー、なるほど。今までのは斥候みたいなもんか」
「力尽くで《調伏》するには、お前の能力が最も効率的だからね」
「了解。任せとけ」
親指の先で自分の胸元を突き、先輩は唇の端を持ち上げた。
ふと、その視線が、流音君へと向けられる。
「……んで、それだと流音がいるのは、どーいうわけ?」
「えへへ。だって紫音兄さんの介助がいるじゃん?」
紫音さんの腕に抱き付き、流音君は、悪びれもせず笑う。
「華音でいいだろが。どうせ運転手なんだから」
「それがさ、今日の数学、予習してなくって」
「サボリの口実かよ……ったく。どーりで朝ノンビリしてると思ったぜ」
「そんなん言うけどさ~、護摩壇と結界作ったの、僕だもんね?」
流音君は、上目遣いで紫音さんを見上げた。
「ね? 紫音兄さん?」
「そうだね。偉いよ流音。良く出来たね。よしよしよしよし」
「えへへへへ」
「施術も頑張ろうね。お前も憶えてゆかねばならないことだよ」
「うん、わかった!」
紫音さんに頭を撫でられて、流音君は透明な尻尾を振る。
俺も手伝ったんだけどな、と華音さんの小さな呟きが聞こえた。
ところで、その護摩壇なんですけどね。
基本的には、テレビや漫画で見るようなアレをイメージしてもらって差し支えない。こう、キャンプファイヤーみたいに木材で枠が組んであって、中で火が燃えて……っていう、怪しげなアレだ。
仇志乃流は一味違う。
井戸を挟んで向こう側、本来ならば不動明王か愛染明王といった本尊が鎮座すべき場所には、巨大な藁人形さんが、大の字で板に打ち付けられているのである。
これが結構デカい。小学生くらいのサイズで、胸元に梵字が描かれ、たっぷりと中身の詰まった身体は、魚のように膨らんでいる。その内容物の詳細は、聞かない方が賢明だろう。わたしも以前、流音君に訊ねて後悔した。
「えっと……じゃ、じゃあ、そろそろ……」
吉村氏が、揉み手で一歩進み出た。
今の話を聞いて、完全にビビったな。このオッサン。
「下がっていて頂いて結構ですよ。少々、強引な方法を取りますので」
「は、はい! お願いします、仇志乃先生!」
先生!?
紫音さんの言葉を受けて、吉村氏が、ダッシュで後退していく。
「んじゃ、やるか」
先輩が、目で合図を送ってきた。
わたしは頷き、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「瑠衣君。出来れば、井戸よりも地形を重点的に描いておくれ」
「あ、はい。わかりました」
紫音さんの要望通り、全体の収まりを考えて、構図を決め、レベルを取る。
ロケーションを確保して、準備は完了。
法廷画家、という職業がある。
裁判に於いて、その法廷をスケッチし、視覚情報として有効な記録を残す。そういう職業だ。ニュースなどで、参考資料として度々、目にする。シンプルなのに妙に生々しい、被告人の似顔絵みたいなやつである。
裁判中の法廷を写真撮影することは禁止されているので(絵が良くて写真が駄目な理由は知らない)、傍聴者以外の人が中の様子を知るために、彼等は必要不可欠な存在となる。意外に食いっぱぐれのない、安定職なのではなかろうか。
わたしの仕事は、彼等と同じ。
呪詛の現場をスケッチし、絵として記録に残すこと。
自分で言うのもなんだが、わたしは、そこそこ絵が描ける。
特に、こういった日常風景の一部を切り取る写生が好きだ。腕前は、たぶん中の上くらい。しょっぱいコンクールで入賞したこともある。いつか、本格的に勉強したいな。他には、なにもできないんだから。
それはさておき、先輩的に許容範囲の画力は一応、あるっぽい。仕事の際は彼に同行し、せっせと現場の絵を描く。要は記録係で、それが助手たるわたしのメイン業務というわけだ。
まぁ、他にも雑用とか、下手したら囮とかやることもあるけどさ(ひぃ)。
施術中の写真撮影に関しては、裁判と同じく、固く御遠慮頂いている。
何故なら、呪詛の現場では、写真なんて上手く撮れることの方が少ない。
ターゲットと先輩達の呪力の影響で、被写体のみならず、地形までが歪んでいたり、レンズに黒い髪が巻き付いていたり、オーブが飛び回っていたりと、ほぼ心霊写真のオンパレード。画的には美味しいが、まるで資料の体を成さない。
これが何故か、絵ならば、そういった現象は起こらないのだ。
法廷画家ではないが、それなりに需要のある役割なのかもしれない。
それに、あと一つ。
写真では不足な理由がある。
紫音さんだ。
先輩が代行する頻度が高いとはいえ、仇志乃家の当代は、長男の紫音さん。
当然、彼は依頼を請け負う責任者として、詳細――施術や現場の状態――を把握しておかねばならない。中でも地形は、呪詛の種類や強弱を判断する材料として、重要な情報だ。
しかしこれが、口頭では、なかなかに伝わりづらい。
よって一目瞭然、という資料が必要となるわけだが、このとき写真は、まったく役に立たないのだ。
悲しいことに、紫音さんは、目が見えないから。
そこで、わたしのスケッチの出番である。
これは後で、線画に沿って針で穴を空けて、点字ならぬ点画に加工する。
紫音さんが、その指先で、掌で、見られるように。
でもこれって、先輩じゃなくて、紫音さんのため、だよね?
わたしを雇う利益が、いったい先輩にあるんだろうか。
本人に疑問をぶつけたところ、俺の勉強のためだ、と言い張られてしまった。
先輩は、紫音さんから呪詛のノウハウを仕込まれたらしい。言わば師であり、師の意見を聞くには、資料が必要である。だから結局、自分の利益だ、と。こういう理屈なのだが。
ぶっちゃけ、ただの兄弟愛なんじゃないかしらん。
「こっちこっち、紫音兄さん……そう、この辺」
流音君が紫音さんを誘導し、礼盤の位置に立たせる。
先輩は脇机に、流音君は磬台に、それぞれスタンバイ。
ちょうど、三人が横一列に並ぶ配置となる。
「では始めるよ、お前達」
紫音さんが厳かに宣言し、みんなの顔が、引き締まった。
†
加持水を一口飲み、紫音さんが、手で印を結ぶ。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ……」
杯を渡され、それを先輩が口にする。
「……マカロシャダ・ソワタヤ」
杯は流音君に回り、彼が加持水を飲み干す。
「ウンタラタ・カンマン」
紫音さんから始まった真言は、流音君で完成し、そこから後は、三人での合唱になった。
紫音さんの低音。先輩の中音。流音君の高音。それぞれの声に特徴があって、誰かが掻き消されるなんてことはない。こんな時だが、みんなイケボなので、聞いていると、なんだか有り難い気分になってくる。御褒美的な意味で。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ」
唾液を吸わせるため、先輩が、筆を口に含む。
それを硯に浸し、和紙片に墨を乗せてゆく。
デザインは目的によって変わるが、先輩は、こうして呪符を作る。経文を基本に梵字や図形、数などが組み合わさった複雑な構成で、これを憶えるだけでも三年は掛かったのだと、いつか愚痴っていた。
あれは呪詛調伏用だろう。
流音君が、磬を鳴らした。
まず一枚目。呪符がくべられて、身動ぎするように炎がうねった。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン。ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ」
続けて、先輩は、二枚目の呪符制作に取り掛かる。
炎に照らされた横顔は、真剣そのもの。陰影のために深い彫りが一層、強調されて、わたしは今更ながら、先輩の整った容貌を再認識する。
本当に、こうして見ると、惚れ惚れするような美少年なんだから。
二枚目の呪符。
おぉん、と井戸が喘いだ。
強い風が吹いた。
大胆にスカートが捲れたが、そんなことを気にしている場合ではない。わたしは必死で、鉛筆を走らせる。おおかた地形は完成だ。井戸のサイズと輪郭を掴むのに少々、もたついていた。楕円は難しいのよ。
脚は、とっくに震えている。すん、と洟を啜ると、くっさい臭いが肺に滲みた。
ふと、背中を押さえる優しい感触に気付いた。
華音さんだった。
いつの間にか彼が隣にいて、後ろから腕を回してくれていたのだ。
大丈夫。俺が支えるから。
彼の笑顔が、そう言っていた。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
磬が鳴る。
そして、三枚目。
先輩が呪符を加えた途端、炎は一気に膨張し、バチンと音を立てて、爆ぜた。
俄に黒い霧が立ち籠めたかと思うと、それはたちまち暴風となり、ごうごうと渦を巻いた。先輩の茶髪が逆立ち、流音君の癖毛が弄ばれ、紫音さんの長い黒髪が、生き物のように踊る。遠くの山並みまでが、身を寄せ合って震えている。
なんだか、空模様までが、おかしい。
おぉん……おん…………
井戸が苦しげに嗚咽を上げた。
ひぃ、と後方で情けない悲鳴も上がる。吉村氏に違いない。
構ってはあげたいのだけれど、わたしもココが肝心なところだ。文字通り、手が離せない。けれど、少なからぬ同情の念は抱いた。
わたしだって、初めの頃は キャーキャー泣き叫んでばかりだった。いくら大の男だとて、怖いものは怖いだろう。これは、紛う事なき心霊現象。リアルタイムで進行中の呪詛なのだから。
おぉおおおおん、おおおおおお、
遂に、井戸が……叫んだ。
蛇が頭をもたげるようだった。
ゆっくりと、井戸の中から、ドス黒い塊が姿を現した。
煙とか影とか、そんな可愛いものじゃない。ドロドロして、ヌルヌルして、軟体動物を思わせる動きは、まるで生きた泥人形。なにかの悪ふざけで、頭からチョコレートを被ったチンパンジーみたいだ。
辛うじて人とわかる形をしてはいるが、表皮は黒く波打ち、溶け崩れて、今にも肉が零れ落ちそう。
とても尋常な生物には見えない。
……これが、井戸に巣くう呪詛の正体…………?
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン。ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン。ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
三人の真言が、じんじんと耳に響く。
ずるり、と井戸から半身を乗り出したソレに、わたしは一瞬、手が止まった。
いや、ちょっと待て。
なんか多いぞ。
ひとつ、ふたつ、みっつ……よっつ?
あたま……、
頭が多すぎる!
腕や腹、胸、更には頭からも頭。
ソレには、大量の頭が生えていた。
異様にデカいものから、拳大のものまで、サイズは様々で纏まりがない。
だが、頭には違いなかった。
こいつ、身体中から、幾つもの頭を生やして。
――全部、こっちを見てる。
わたしは、もう逃げ出したかった。
悲鳴を噛み殺して、泣きながら、スケッチブックを抱き締めた。
華音さんの腕が背中に添えられていなければ、ブッ倒れていたかもしれない。
恐怖を誤魔化そうと、わたしは、スケッチに意識を集中させた。
鉛筆を動かす手が、じわり汗を握っている。
「さぁ、出たまえ。君の居場所は、もう此処にはないのだよ」
紫音さんが毅然と言い放つと、井戸は、黒い塊を吐き出した。
べちゃ、という聞くに堪えない音がして、ソレの全身が露わになる。
ちょっとちょっと、脚にも頭がいっぱい生えてるって!
嫌な臭いが濃くなって、悪心が喉を迫り上がった。
そのとき、流音君が、動いた。
素早く藁人形の前まで移動し、胸元から抜き出した中啓で、片手に乗せた香を、そよそよと扇ぎ始めたのだ。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ……」
風に乗って漂う香は、信じられないくらい良い匂いがする。
それに誘われたんだろうか。
おぼつかない足取りで、黒い塊が、脚を踏み出した。
ヨタヨタと微妙に揺れながら、ぬかるみの音と共に、流音君の方へ。
流音君が、招いているんだ。
「……センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
踊るような仕草で、流音君が、藁人形の口元に香を塗る。
黒い塊は、其処に鼻の部分を近付け、くんくん、と匂いを嗅いだ。
その背後に回り、流音君が、畳んだ中啓で黒い塊の肩を叩いた。
すると、どうだろう。
泥のようだった身体が一変、みるみる溶けて黒い液体となり、地面に流れ落ちる傍から霧散して、藁人形の口元から、その内部に染み込んでゆくではないか。
流音君が、肩で大きく息を吐く。
寸刻の緊張の後、藁人形が、狂ったように暴れ出した。
「入った! 入ったよ、世音兄ちゃん!」
「おう!」
先輩は、脇机から筆を取り、自分の掌に梵字を描く。
そして、その手を、なんの躊躇いもなく、護摩団の炎へと突っ込んだ。
この瞬間は、いつ見ても心臓が凍る。
呪力を纏った手が、決して炎に焼かれることはないのだと、知っていても。
あの呪詛は、己の命運を悟ったのだろうか。
自由にならない手足で藻掻き、先輩から逃れようと、滅茶苦茶に身体を捩る。
けれど、こうなったら、観念する他ない。
磔の要領で打ち付けられた五寸釘は、流音君の特別製。如何に足掻こうと、ビクともしない。却って食い込む仕組みになっているのだ。
先輩が、手を抜き出す。
その掌には、燃え盛る炎が、硬く握られていた。
「仇志乃世音の名に於いて――呪詛調伏奉り候」
“カーン”
声高に唱え、先輩は、燃える拳で藁人形をブン殴った。
藁人形は一瞬のうちに燃え上がり、おぉお、と苦しげに呻いたかと思うと。
燃え尽きて、灰も残さずに、消滅した。