ハーメルンの異説
こども心を探すようになった出来事についてお話したいと思います。
わたしがハーメルンの異説と呼んでいる、ちょっとした事件です。
ちょうど今ぐらいでした。淡い色をした青空が広がる時期のことです。
わたしは、時計塔を眺めることが好きでした。ちょうど南向きの、二階にある部屋に住んでいるものですから、時計塔が良く見えるのです。
ちょっとした息抜きでした。歴史を感じさせる、古ぼけた塔の雰囲気は街と調和が取れていて、見ているだけで心に平穏が戻るのです。わたしはそうしながら行き交う人々の、踊るような滑るような様子を傍目にお茶の時間を楽しむのです。
息抜きの時間は定かではありません。だいたいは仕事が行き詰まったときに行うので、日によってまちまちでした。
ある日のことでした。
やはり、わたしは息抜きの準備をしていました。自室の片隅ではちょうど、やかんからもくもくと白い湯気が上がっていました。紅茶の準備を、とは言ってもお客さんに出すわけではないのですから、作法なんてものはありません。わたしはポットに茶葉を入れると、あとはもう、程よい琥珀色になるまで、ポットのお湯をぼんやりと見つめるばかりでした。
開けっ放しの窓から、音楽が飛び込んできました。
この街で、演奏を耳にするのは別段変わったことではありません。街の至るところでは演奏が行われていますし、時計塔の立つ広場は特に巧者が近隣の国から集ってきます。わたしの仕事を考えると、音楽が街の興業になっているのもわかると思います。
そうであるにも関わらず、その音楽が印象強く残っている理由は、今まで聴いたものとは少し違っていたからです。懐かしさを感じさせる曲はいくらか知っています。が、そのとき耳にしたそれは不思議なくらい、懐かしさで持って胸を掻きむしるのです。 時折、意図のわからない音も演奏に混じっていました。それは不規則でした。
わたしは、演奏を間違えたのだろうと思っていました。巧みな演奏ではありましたが、とても複雑な旋律でもありました。多少の失敗は仕方のないことだと感じたのです。
けれども、ポットから茶葉を取り出した後、わたしの感想は一転します。危うくカップを落とすところでした。
わたしは曲に聞き惚れたのです。
曲の全体像がわかったと言えば良いのでしょうか。紅茶と同じです。琥珀色に色づくまでに時間がかかるのです。わたしは自分の下した評価の性急さを恥さえしました。
街の雰囲気に溶け込んだ、調和のある演奏でした。不規則な音は生活に潜むアクセントでした。
若さを持て余しているのではない、ということが肝でした。
若かさを持て余し、情熱を注ぎ込んだ演奏は刹那的なものを感じさせます。その巧みさ、美しさは失われていくものへの、一時の憧れに似ています。
もちろん、そのような音楽も良いとわたしは考えます。それにはそれの良さがあるのです。自己弁護を許していただけるのなら、わたしにとっての音楽だって、今でもまだまだ自己主張なのだと告白したいと思います。何せ、わたしの生活自体、部屋の隅に毛玉が転がっているのは序の口であるくらいには退廃的なのですから。
さて、わたしは窓に近寄ると、演奏者を探そうとしました。それほど遠くではない、と感じたのです。
そうすると、わたしの部屋の真下に、件の演奏者を見つけました。
顔は見えません。赤いヘアバンドの、金髪の女の子のようでした。
ハーモニカでした。
そのことにまた、わたしは驚きを覚えました。
わたしは窓辺に椅子を寄せることにしました。女の子の演奏に浸りたかったのです。わたしはわたしよりも若そうな女の子に称賛を覚え、そうして、時計塔の広場で充分に演奏できると思いました。わたしには、女の子がどれほどの努力を積み重ねたのか思い及ぶことはできません。
その耳を澄ませていた音楽も、いつの間にか終わっていました。
女の子の姿はありませんでした。
充分な休憩時間を過ごしたわたしは、仕事机へと向き合い直りました。
ささやかな残念さを感じながら。
そのときの心残りはしかし、翌日以降には歓喜へと変貌しました。
というのも、女の子はいつも、わたしの部屋の真下で演奏をしに来るようになったからです。絶対にそうだとは言えません。他の場所で演奏をしていないとは限らないのです。演奏が始まる時間がまちまちでしたし、天候のときにはさすがに演奏が聞こえてくることはありませんでした。
女の子の演奏を、迷惑だなんて思いはしませんでした。なぜなら、わたしはいつしかその音楽へ耳を澄ますことが日課となっていったからです。
わたしは女の子の密かな信奉者でした。
ですから、本人の素性を知ろうとも、一目会いに行くこともしませんでした。たまたま出くわすなんてことはなかったのです。その当時のちょっとした縁をわざわざ変えたいと考えませんでしたし。一日中部屋に引き篭もって作曲をしているのは、昔ほどではないとはいえ、変わりませんので。
しかしながら、不意にわたしの前に現れた女の子はまた、不意に姿を消す可能性がありました。
不思議に思うこともありました。
通りを歩く人々は、誰も女の子の演奏に振り返らないのです。音楽に肥えた街の住人なら、飛びつきそうであるにもかかわらず、です。
それらの疑問をぐるぐると募らせ、あるとき意を決したわたしは、女の子に話しかけたのです。
「旅の方ですか?」
驚いたことに、女の子の足元では人形が踊っているのに気付きました。女の子は女の子で、不意に話しかけられたことに驚いたようでした。青く、澄んだ目をしばたたかせました。
女の子が演奏を止めると、「そうね。少し前にこの街に着たの」
スカートをとても上品に払いました。
「また旅に出られるのですか?」
わたしの質問があまりに突拍子もなかったのでしょう。女の子が怪訝そうな顔をしていました。良くない意味で取られてしまったかもしれません。
「すみません。わたし、この上に住んでいるんですけど」開けたままの窓を指しながら、わたしは弁明します。「いつも聞かせてもらっているんです。聴けなくなると寂しくなってしまうと思いまして」
ああ、と女の子は納得したように呟きました。そして、即座に申し訳なさそうな表情を浮かべました。「ごめんなさい。そろそろ旅に出るつもりだったの」
「とんでもないです」わたしは女の子の綺麗な顔を歪めてしまったことに得も知れぬ感情を抱くのでした。「少しでも、お話しできて良かったと思っています」
良い紅茶を飲んだとき、良い演奏を聞いたときに似ていました。女の子の顔に明るさが戻るのを見て、わたしは胸の中の、鉛のような何かがどこか遠くへと流れていくのを感じたのでした。
「私もそう思うわ」やがて女の子が小さく笑いました。「私の演奏が聞こえる人がいるなんて思ってなかったもの」
わたしがそのとき、どのような反応をしたのかはわかりません。ただ、余程間の抜けた顔をしたのでしょう。
「ごめんなさい。意味がわからないわね」口元に手を当て、女の子が笑っていました。「童心を忘れた人には聞こえないのよ」
わたしはそういうものなのか、と納得しました。
「あなた、凄いわね」女の子が青い瞳を丸めました。
「そうでしょうか」わたしには何が凄いのかわかりませんでした。
「そうよ。だからこそ聞こえたの」女の子が人差し指をぴんと伸ばしていました。「周りの人は聞こえていないみたいでしょう?」
わたしは知れず頷いていました。「不思議でした。あんなにいい演奏なのに誰も注意を払いませんし。人形さんたちが踊っているのに足を止めてもいいんじゃないかと思うんです」
最後に、わたしが人形さんたちに気付いたのは今日ですけど、と付け加えました。ただ、一見するだけで衝撃を受けたのは間違いありません。小人と見間違えるほど、滑らかに踊っていたのですから。
しばしの沈黙の後、女の子が小さく息を吐き出すのでした。
「誰も彼も、目の前のことに囚われているの。周りの小さな出来事に気を向ける時間がないのよ」
「そうやって忘れてしまうんですね。こども心を」
女の子が頷きました。
「こどもの頃と、今と、未来は地続きなのよ……大切なものから目を離してはダメってことに似ているかしら? そうでなければ見えていたものも見えなくなってしまうもの」
そうして、女の子の顔が悪戯っぽくなりました。
わたしは女の子に呑まれていました。不思議な話を、不思議な曲と人形を連れてするのですから、無理もなかったのかもしれません。
「たとえば、そうね」そうして、不意に、わたしの背後を指差したのです。「ほら、あれを見て」
時計塔の方角だったと思います。断言できないのは、彼女が本当は何を指したのかが今でもわたしにはわからないからです。
わたしが視線を釣られたことは確かです。疎らな人通りと密集した古い家々の向こう、燃えるような雲に向かって時計塔が突き出ているのが見えました。それ以外は何もありません。閑古鳥が鳴いていました。
ただそれだけでした。
何もないですよ、とわたしは女の子に言おうとしました。
それは。叶いませんでした。
女の子の姿がなくなっていたのです。
足元で踊っていた人形たちも消えていました。
近くに行方をくらませるのに都合の良い路地なんてありませんし、隠れる場所もありませんでした。わたしが目を離した一瞬のうちに、彼女たちはどこかへ消え失せてしまったのです。
やがて時計塔から夕暮れを告げる鐘が耳に入りました。
やけに大きな、耳に残る、厳かな感じのする音でした。
余韻なんてありません。ぶつ切りの鐘の音で奇妙でした。あれだけ大きく聞こえたなら、音が反響しても良いと思うのです。風に流れたとも考えたのですが、あんな出来事はあれが最初で最後でした。
びっくりしたのは、通りを歩く人の何人かがぎょっとしたようにわたしを見ていることでした。彼らにとって何らかの驚くことがあったのかもしれません。わたしには彼らの事情を訊くことができませんでした。と言うのも、彼らは自失から立ち直ると、すぐさま自身の目的地へと足早に去っていったのですから。
わたしは、時々、思うのです。
本当は女の子の音色に合わせて踊っていたのは、道行く人たちなのではないでしょうか。女の子の連れた人形たちのように、無言で、誰にも注目されることなく踊り続けているのです。当時のわたしはそれを一人、輪から外れ、二階から眺めていたのです。だから、渦中の彼らは演奏に気づかず、わたしは気づけたのではないでしょうか。
何だかハーメルンの笛吹きみたいですね。
あれ以降、わたしは女の子に会うことはありませんでした。あれこれ探して、もみたのですけれど、二度と。結局、女の子が何者だったのかなんて、今となっては知る由もありません。女の子の演奏を再現しようと試みたこともあったのですけれど、記憶が混濁してしまって、その細部を思い出すことはできません。不思議に、懐かしい感じと強い印象を受けたことだけは覚えているとは思うのですが。
そして、今のわたしは女の子の演奏を思い返そうとするたびに、当時のわたしがすんなりと受け入れたはずの踊る人形たちについて驚愕を覚えてしまうのです。ひょっとすると女の子を見失って以降に、わたしもこども心を失くしてしまったのかもしれません。
そうすると、わたしはどこかに忘れてきたこども心を求め、今でも時々街中を歩き回るのです。