命と魂の淀み。
彼女が残した言葉は、何を伝えたかったのか…
「おはよう。よく眠れたみたいね。」
「寝ちゃってましたか…」
さとりが、用意していた紅茶の香りで目を覚ました俺は、すぐに異常を感じた。
…胸が、重い。何かが俺を蝕んでいる?
「さて、苦しいのでしょう?
今から楽にしてあげる。」
彼女は言う。
笑顔で俺に手を差し出す。…何故、こんなにも目元が熱いのだろう。
ただ手を差し出されただけなのに…
「これから私が貴方に見せるものは、今貴方を苦しめている貴方自身の忘れた記憶。いい?貴方が知らない、または認識していない記憶を私は見せて、知らせる。認識させるだけ。
その後のことは、私にはどうしようもないわ。」
それでも、やらなければならない。
選択権はない。
もし拒めば、俺は消滅するらしく本当の死を味わうのだ。
「わかった。」
俺が一言さとりに言うと…気のせいかもしれないが、少しだけ戸惑うような顔をしていた。
すぐにさとりは口を開く。
「じゃあ始めるわ。私の目を見て。その後、ゆっくり目を閉じて…」
さとりの指示通り、彼女の目を見てゆっくりと目を閉じた次の瞬間、俺の前に二人の大人が扉越しに現れた。
一人は女性、もう一人は男性。夫婦であることがわかるが何か様子がおかしい。会話を聞いてみると…
「…あの子おかしいわ。」
彼女は震えながらに言った。腕には痛々しく包帯が巻かれ、あちらこちらに切り傷があるのがわかる。
「…大丈夫だよ。
今は幼いから、感情の制御が利かないだけだ。きっと…
だから、おかしいなんて…」
苦い顔をして彼は言う。
その目は深い闇に囚われているようだった。
「軽々しく言わないで!!
あなたはあの子に殺されそうになったことがないから、わからないのよ。」
そう言って女性は泣き崩れた。
我が子であるにも関わらず殺されるかもしれない恐怖を感じる理性と、それこそ我が子であるからこそ見捨てるわけにはいかないという母性本能が葛藤しているのだろう。
今思えば幼いからこそ、上手く言葉に出来なかったが、俺はこの頃、殺人衝動に駆られていたことを憶えている。
鋸の尖った刃を見れば、皮膚を粗く削り切り。そこから滲み出る紅い血液を想像し。
金槌を見れば、骨を砕きあまりの痛みに蹲る人。
カッター等の刃物を見れば、上手く切れず、痛みに涙を流す者。
全て、この時の感情も痛みも知っているし、憶えている…。
そして彼らが当然のことを言っていることも…。
「ねぇ、やっぱり施設に預けましょう?
私には、もう無理だわ…」
更に傷が増えた女性は言う。
それに対して男性は、深い溜め息をついて言った。
「…そう、だな。」
ある日の会話。この日を境に、俺は壊れた。
…知っている。全て、嫌な現実を避けるために"俺"は消えた。
誰にも理解されず、自分でも理解できず…
次々に埋もれていった俺。常に独りぼっちで、孤独。誰もが俺を遠ざけ、憑き物だと忌み嫌われ、石を投げられたこともあった。
辛くて、苦しくて、悲しく寂しく。
いつしか、精神は破壊され気がふれていた。
泣くはずなのに笑っていたり、人が話しかけてくれただけで泣いたり…
意味も無くただ人を抱きしめ、気紛れで人や物を殴り…
崩壊は止まらなかった。
泣き、叫び、怒り、怯える。これらの音や表情は、"俺"を壊すことを助長させた。
どうして俺はこんなにも脆いのだろう…
次は誰を殺す?
涌き出る心の声は常に命を削ることばかり。
俺など消えればいい…
消して、新しい自分を創ろう。
そうすれば…
「プツリ」と、頭の中で何かが切れた。
こんなにも禍々しい負の力は初めてかもしれない。
彼の魂を浄化しようと、彼自身に穢れの記憶を見せているが、まさかこんなにも淀んでいるなんて…
何とかしなくては…
そう思った時、彼女は突然…そう。突然現れた。
「これほど大きな力を感知しておきながら、放っておくのは管理者らしかぬ行動ですもの。
私直々に動きますわ。」
胡散臭い笑みを浮かべ彼女は言う。そして更に言葉を加えた。
「それよりも彼…いえ、彼女このままじゃもたないわよ?」
言われずとも、そんなことは知っている。つい先程から、自らの軽率な考えと行動に怒りを覚えているのだから。
けれど…まさか読めなくなるだなんて誰が思っただろう。
力が通じず、私は彼を救うどころか、逆に苦しめてしまっている。
今の彼は恐らく、辛うじて自我を保てている状態。そう長くは…
見つからない解決策…
それを知ってか知らずか、彼女は言う。
「…私と取引する気はない?
私が彼女を助ける条件として、少し彼女自身を貸してほしいのだけど…
そうね、だいたい半年くらいかしらね。」
「…彼を助けてくれるのは嬉しいわ。むしろ、私からお願いしたい。けど、その条件では彼の意思を無視しているんじゃない?」
「流石に本人の意思は尊重するわ。」
それで、どうする?
彼女の問いに、私の答えは決まっていた。
私は彼女に彼を委せることに。その答えを聞いた彼女は、笑みを浮かべながらすぐさま、手に持っていた扇子で空間に裂目を作り、そこに入っていった。
私には、悔しいけれど何もできることがない…。
今は、千歳と彼女が無事に帰還することをただ願うしかないのだ。
…不謹慎ではあるが、私は千歳の心の声が読めなかったことに対し、自分の無力さへの怒り以上に読めないことへの喜びと期待を感じていた。