碇星
優が最初に感じたのは臭いだった。青臭い若葉の臭い、それに土臭さも鼻をついた。
――ザァ、ザァ。海岸にうちつける波音にも聞こえる。しかし、潮の臭いは全くなかった。草がそよいでたてた音だろうか。
優の意識はサルベージされるかのように徐々に表面へと浮上してくる。体が動くか確かめるためにまず手を握った。土が爪の間に入り込む感触がする。握りこぶしを作ろうとしたが、途中で硬いものを掴んだような反発を感じた。
優は次に目蓋を開ける。長い間暗闇に居たのか、陽光に射すような痛みを覚える。
落ち着くまでは横になっていよう。そう考え優は意識を体に馴染ませていく。
視界に移るのは瓦礫だ。石材を使った壁、石材の床。しかし、前者、後者ともにひび割れ、崩れている。もともとは絢爛だったであろうそれらも今は見る影もない。特に床などは地面の土が広い範囲で晒されてしまっている。古代遺跡のようだった。
状況を判断している内に石像のようだった優の体は完全に意識に馴染んだようだ。優は両手で起き上がると、周囲を見渡した。
天井など、すでにない。床に落ちている瓦礫がそうなのだろうか。
数メートル先に倒れている人影を発見した。その人物は仰々しい白銀の板金鎧を着ている。しかし、板金鎧にしてはそれは実用的だとは優は想えなかった。鎧にしてもあまりにも見目麗しすぎるのだ。精巧に彫られた装飾は神話に出てきてもおかしくないほどの神々しさだ。そしてその人物の手に握られている剣。西洋刀剣に良く似ていた。似ていたという表現を使うのは、現実世界で西洋刀剣が淡く白い光を放つ事などないからだ。
何者なのだろうか、と優は畏怖を覚える。足を地面につき、立ち上がる。すると、ガチャン、という鎧がすれたような音がした。驚き、あたりを見回しても何者の姿もない。しかし、自身の体に視線を移したとき、謎は解けた。鎧は優自身が着ていたのだ。自身の鎧はあまりにもおどろおどろしかった。漆黒の鎧、それは白銀の人物とは対照的に思える。その鎧もまた精巧に装飾されており、儀礼用のようだった。しかし、目の前の人物と違いフルプレートではない。ガンとレットは手首から先はなく、また自身はヘルムもつけていない。
「まったく、一体何なんだ。悪い夢でもみているのか。」
優は思わず悪態をつく。状況がまったく理解できていなかったためであった。
優は再び周囲を見渡す。先程は気がつかなかったが、崩れかけた壁には壁画が描かれている。その壁画に優は見覚えがあった。
「これは……」優は壁画へと近づいていく「間違いない、『Ⅵ』の挿絵にでてきたメンシスの神殿の壁画か。」
優は己の思考を回転させる。自身が見た『Ⅵ』にはこの壁画は出てきたが描写では少なくともその場所は廃墟ではなかったはずだった。しかし、目の前の壁画は所々抜け落ち、あたりは廃墟だ。青々とした若葉が土からは生え、蒼穹が頭上に満遍なく広がっている。――つまり、ここはメンシスの神殿の跡地。
出た結論があまりにも馬鹿馬鹿しいので思わず優は笑いが口からこぼれた。
「くくく、なるほど。相当疲れて居眠りしているようだな、私は。」
今夢だと認識していたとしても、起きればそれを覚えている事など人間は殆どない。そんなくだらない夢の中の一つだと、優は結論づけていた。
突如、優でない何者かが金属が擦れる音を出した。
優は音のした方向へと振り向く。音は背後からだ。白銀の鎧が両手を地面につき、起き上がるところだった。
「……なるほど。」
鎧は声を発した。声は鎧に反響し、独特な響きをもっていたが、間違いなくそれは女性の声だ。
優はすばやく白銀の板金鎧に近づくと、起き上がる前にその手に握られた刃物を足で蹴り飛ばす。その衝撃で再び地面に白銀の板金鎧は這い蹲ってしまう。
蹴り飛ばした剣を優は拾い上げる。白銀の板金鎧が握っていた時は白く輝いていた刀身は、優が握った時その輝きを失う。そんなことを気にすることなく、優は再び起き上がろうと手をついている白銀の板金鎧に剣先をむけた。
「ふふ、ははは」途端、鎧は笑い出す「良いでしょう。拡散の剣は既に効力を失いました。さぁ、殺しなさい。……貴方の勝ちです。」
白銀の板金鎧が発した言葉の最後には何故か深い愛情が篭っているように優は感じた。夢の中といえど、優には女性を傷つける趣味など持ち合わせてないなかった。白銀の板金鎧に悪意がないと判断すると、その剣を横に放り投げる。
その行動に、地面に手をついたままこちらを見ていた白銀の板金鎧は動じもしなかった。まるでそうする事がわかっていたかのようだ。
「やっぱりカルレウムは優しいですね。」
聖女に諭されているような感覚を優は感じた。目の前の人物が誰か、何故か優は無意識で理解しはじめる。
「フィリウスソリス」思わず名前が優の口をついた「……よく出来た夢だ。」
夢という優の言葉をフィリウスソリスはオウムのように繰り返し口にした。しばらく彼女は手を地面についたままでいた。しかし、何か思い出したかのようにすばやく立ち上がると、目にも留まらぬ速さで優に近づいた。
優は突如の出来事に理解できないで固まってしまう。
フィリウスソリスは優の前に立つと、彼の熱を測るかのように額に手を当てた。しかし、ガントレットは外していない。鉄独特のつめたさを優は額に感じる。
数秒間、フィリウスソリスはそうしていたが、気が済んだのか、手を横に下ろした。
「力も記憶も失っているのですか?」
優自身カルレウム等という名前に聴き覚えなどない。質問の意図が全く理解できず、ただ首を傾けるのみだった。
フィリウスソリスはしばらくの間何か考えをめぐらせているのかその場に佇み地面を眺めていたが、突如顔をあげ、優の瞳を見据える。
「失礼、取り乱しました。……初めまして。私の名前は、知っていますよね。貴方はなんという名前なのでしょうか?」
瞬時、答えるべきかどうか、優は戸惑う。しかし、これが夢であるならば夢の世界を十分と楽しむべきだろうと、結論に至ると通常通り返事を返す。
「私の名前は優だ。」
優という名前をオウムのように繰り返しフィリウスソリスは口にする。しばらく繰り返し口にしたのち、大きく頷くと先程優が投げ捨てた剣の元にあるいていった。歩きながら彼女は言葉を口にする。
「この世界の事、どこまでご存知ですか?」
「どこまでか。私は幾多の世界を知っているわけじゃない。わかるのはフィリウスソリスが黒髪の美人だということだけだ。」
優は普段であるならば歯が浮くような台詞は言うたちではない。しかし、夢の中だというならば言っても罰は当たらないだろうという判断だった。
剣を拾い、腰の鞘に収めたフィリウスソリスは、くすりと微笑を漏らし、ゆっくりと優に歩み寄る。
「先程の発言、貴方はこの世界を夢だと、思っておられますね?」
優は当たり前じゃないかと笑い飛ばそうとした。が、しかし、違和感が彼の口を止める。違和感は簡単な物だ。何故夢の中の人物が暗にこれが夢ではないと伝えてくるのだろうか。一つの可能性が頭のすみをつく。しかし、優はそれを頭を振り否定した。一瞬でも本当に本の中に入り込んでしまった等と考えてしまった自分を優は笑いたくなる。
「混乱されておられるようですね。無理もありません。長い夢から覚めたら現実か夢かの区別などつかぬ物です。記憶を失っているなら尚更でしょう。これが現実かどうか、次期にわかります。」
フィリウスソリスは空を見あげた。
日は傾き、橙色に世界を染めあげている。夜行性の虫が活動を始めたのだろうか、虫の囀りがところどころでこだました。
彼女が意図せんことを優は読み取る。確かにこの世界で眠り、後日になっても自らの部屋で目覚めなければ否応無くこれが現実だと認めなければならなくなる。彼はフィリウスソリスの言葉の節々に疑問を覚えていたが、それを尋ねるのは明日になってからでも問題ないと判断するとその場に腰を下ろした。腰をかけるのに手ごろな瓦礫は幸い、そこら中に散らばっている。
「そうだな、一晩寝れば理解することだ。」
「覚悟をしてください」フィリウスソリスは草原に歩み去っていく「ここは夢のような幸せはありませんから。」
暖を取るための物を集めてきます、と告げた後彼女は草むら遠くへと消えていった。
優は頭を整理する。不幸にも優は頭が良いと賞賛される類の人間だ。頭は自然と回り、意図せずとも彼女の言葉の節々から合点のいく説明を生み出していく。それを考え出すのは困難ではなかった。しかし、理解するという行為はそれに含まれず困難きわまりない。
思考が生み出した結論は『此処が現実であり、地球という存在、そして今まで見ていた全てが夢である』という物だ。地球は長い夢が生み出した創造の産物でしかなかったのか、そう考えると優は自らの正気が磨り減っていく感覚を覚える。
なるほど、これは明日目覚めぬ時の覚悟は確かに必要だ、と一人呟き苦笑を漏らす。
途方に暮れる優を目の端に風達は草木と戯れる。
一陣の風が運んできた臭いは確かに、どこまでも地球のものと酷似していた。
日が暮れてようやくフィリウスソリスは戻ってくる。両手には枯れ枝が大量に抱えられていた。彼女は廃墟の真ん中にそれらを置き、数本を手に取り優の目の前に並べ始める。先端が中央に向くように縁形でならべられ、円の中央は瓦礫を上手に使い高低差を高く配置している。彼女は鎧の下から瓶を取り出すとそれを枯れ枝にかける。
優はその瓶から嗅ぎなれた臭いを感じる。度数の高いアルコールだ。
フィリウスソリスは瓶の蓋を閉め、再び鎧の中へとしまった。鎧の中に荷物の袋をいれているのだろうか。彼女は次に平坦な鉄と角張る石を取り出す。その二つを打ち付けると、石から火種が落ち、火種は枝のアルコールに反応すると満遍なくアルコールのついた枝に燃え広がる。
趣味でサバイバル技能を学んでいた優はそれらに見覚えがあった。フリント(発火石)と鋼だ。一般的に火打石といわれているものだった。今行った一連の動作はライターの原理とほぼおなじだ。
「扱いなれてるな。」
「これくらい当たり前です。」
火を熾す文化がこれしかないのなら確かに当たり前なのだろう、と優は考え直す。ふと、空を見あげた。空には碇星(カシオペア座)がある。今は秋なのだろうか。
「秋か。」
「わかるのですか、先程木々が紅く染まっているのを見ました。秋で間違いないでしょう。」
紅葉か、と心の中で呟き、優は微笑みを漏らす。この世界が本物であるなら地球と酷似していると思ったためだった。
炎の暖かさが優を包み込み、夜風から身を守る。
暖かさに身を任せ、優は目蓋を閉じた。自身は何もしていないはずだが疲れが体中を包み込む。出来れば目覚めた先が見慣れた天井であることを信じて、そしてそうでないのなら――そこで優の意識は底に落ちていった。