表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

王国の地図にないカフェ ―疲れた人だけ辿り着ける、甘い休憩所―

作者: 星渡リン

 仕事の終わりが、分からなくなった。


 いつからだろう。

 書類の山を片づけても、次の山が机に生まれる。終わらせたつもりが、始まりの合図になっている。


 王都の記録局。

 私は今日も、紙の白さに目を刺されていた。


「ミレイ、これも頼む」


 上司の声は柔らかい。だから断れない。

 私は反射で返事をして、束を受け取った。


「はい」


 紙は軽い。

 そう思っていた。

 でも最近は、指が痛い。角が食い込む。痛みが遅れてくる。


 昼の鐘が鳴っても席を立たない。

 休憩を取る人が悪いわけじゃない。分かっている。

 なのに私は立てない。


 立った瞬間に、机の上の“未完”が崩れてくる気がする。

 崩れたら私のせいになる。

 そう考える癖が、いつの間にか抜けなくなっていた。


 気づけば窓の外が暗くなり、蝋燭が灯される。

 灯りが増えると紙の白さが強くなる。眩しい。

 眩しいと目が乾く。乾くと瞬きが増える。増えると手が止まる。


 私は瞬きを減らすように、無意識に目を見開いた。


「ミレイ。帰りなよ、もう」


 隣の机のリナが言った。

 彼女は私より少し年上で、疲れているはずなのに、ちゃんと人の顔をしている。


「まだ……もう少しだけ」


「その“もう少し”が、毎日だよ」


 リナは苦笑して、机の端を指で軽く叩く。


「眠れてる?」


「……眠れてるよ」


 嘘だった。

 寝床に入っても文字が頭の中を行進する。

 目を閉じても未記入欄が浮かぶ。埋めなきゃ、と胸が熱くなる。


 私は笑ってごまかした。


「慣れてるから」


 慣れている。

 便利な言葉だ。限界を薄めるための言葉だ。


 結局、記録局を出たのは夜の鐘が二回鳴ったあとだった。

 空は黒く、星が硬い。冬の星は、真面目に光る。


 門を出る。石畳を踏む。

 足の裏が痛い。

 でも、それもいつもの一部になっていた。


 私は居住区へ向かうつもりだった。


 ……つもりだったのに。


 気づけば、旧街道の方へ歩いていた。


 王都の外れにある、使われなくなった道。

 新しい街道が整備されてから、ほとんど誰も通らない。

 地図には線だけ残っていて、その先で途切れている。


「……なんで、こっちに」


 自分の足に問いかけても答えはない。

 ただ、静かな方へ向かっている。


 旧街道は王都の音が届かない。

 それが少し怖くて、同じくらい安心した。


 夜の空気は冷たい。

 なのに胸の中だけ熱い。焦りの熱だ。

 吐き出したくて深く息を吸った。


 そのとき。


 白い小鳥が、道の端に降りた。


 月の光を浴びて羽が淡く光る。

 小鳥は私を見た。目が合った気がした。


 そして、ぴ、と短く鳴いて歩き出した。


 飛ばない。歩く。

 石の上をちょこちょこ進む。


 私は足を止めた。

 小鳥は振り返る。もう一度、ぴ、と鳴く。


「……ついてこい、ってこと?」


 自分の声が、夜に溶けていく。

 小鳥は返事の代わりに先へ進んだ。


 私は迷った。

 迷って、でも歩いた。


 旧街道の先は霧の谷へ続く。

 昼間でも薄暗いと聞く。夜ならなおさらだ。

 危険だ、と頭は言う。


 でも身体が動く。

 止まる力が残っていないみたいに。


 谷に入ると、霧が足首に絡んだ。

 冷たくない。湿り気だけがまとわりつく。


 小鳥は迷わず進む。


 やがて道が途切れる場所に出た。

 本当に途切れていた。石畳が終わり、土の道になる。


 地図ではこの先は空白だ。

 王国の地図に描かれない余白。


 引き返すべきだった。

 でも霧の向こうに、淡い灯りが見えた。


 小さな灯り。

 家の窓から漏れるような灯り。


 近づくと、木の扉が現れた。

 その上に、手描きの看板が揺れている。


 Cafe。


 カフェ。

 王都で流行り始めた、甘い飲み物を出す店の呼び名。


「……こんなところに?」


 看板の文字は少し曲がっていて、だから温かい。

 王都の看板は整いすぎていて、息が詰まる。


 小鳥は扉の前で止まり、ぴ、と鳴いた。


 私はためらって、扉に手をかけた。

 押すと、驚くほど軽く開く。


 甘い香りがした。


 砂糖と焼いた生地と、ミルクの匂い。

 それだけで喉の奥がほどける。


 店内は小さかった。

 丸いテーブルが三つ。壁際に長椅子。暖炉の火。

 木の床は擦れていて、誰かの足音が積もっている。


 カウンターの向こうから、穏やかな声。


「いらっしゃい」


 店主らしい人が、湯気の立つポットを持って立っていた。

 黒いエプロン。少し長い髪。笑うと目が細くなる。


 年齢は分からない。

 若いようにも、ずっと前からここにいるようにも見える。


「……あの、ここ……」


 言葉が見つからない。

 迷った、と言えばいいのか。偶然来たと言えばいいのか。

 どれも嘘みたいだった。


 店主は、私の迷いを切らずに言った。


「疲れてますね。座ってください」


 質問じゃない。

 許可だった。


 私は椅子に腰を下ろした。

 座った瞬間、足の力が抜けた。


 自分がどれだけ緊張して歩いてきたのか、そこで初めて分かった。


 店主がカップを置く。

 淡い茶色。ミルクティーだ。


「甘いの、苦手ですか?」


「……嫌いじゃ、ないです」


 嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 でも“大人っぽくない”と思って王都では頼まなかった。


 店主は小さく笑った。


「じゃあ、ちょうどいい」


 砂糖は最初から溶けているらしい。

 かき混ぜなくても甘さが香る。


 私はカップを両手で包んで口をつけた。


 あたたかい。

 甘い。

 喉の奥がほどけて、胸の固さが溶ける。


 ……泣きそうになった。


 泣くほどのことじゃない。

 ただのミルクティーだ。

 ただの甘さだ。


 でも泣きそうになった。


 店主は何も言わない。

 見ないふりでもなく、放っておくでもなく。

 ただ、そこにいる。


 暖炉の火がぱち、と鳴った。

 その音が、“ここにいていい”と言っている気がした。


「……ここ、地図にないですよね」


 私は不意に言った。

 口に出した瞬間、秘密を破ったみたいで少し怖くなる。


 店主は小皿に菓子を乗せながら静かに答えた。


「そうですね」


「どうして……?」


 小皿が私の前に置かれる。

 丸い砂糖菓子。外は白く、触るとほろほろ崩れそうだ。


「地図に載ると、休めなくなる人がいるから」


 私は眉をひそめた。


「休めなくなる?」


「“探して来る”人が増えると、休みたい人が休めなくなります」


 柔らかい言葉なのに、胸の奥に真っ直ぐ刺さる。


 砂糖菓子をひとつ口に入れた。

 ほろ、と崩れて、甘さだけが残る。

 しつこくない、優しい甘さ。


 私は小さく息を吐いた。


「……私、休むのが下手なんです」


 言った瞬間、恥ずかしくなった。

 でも、口から出た。出てしまった。


 店主は頷く。


「上手な人は少ないですよ」


「でも、みんな平気そうで……」


「平気そうに見えるだけです」


 店主は当たり前みたいに言う。


「平気そうにしているうちに、自分の疲れを見失う。そういう人が、ここに来ます」


 私はカップの縁を見つめた。

 自分の顔は見たくなかった。

 疲れていると認めたくなかった。


「……私、頑張らないといけなくて」


 口癖が出る。

 ちゃんとしなきゃ。頑張らなきゃ。


 店主は少しだけ首を傾げた。


「頑張らないと、どうなりますか」


 優しい質問だった。

 責めていない。

 でも逃げられない。


 私は答えに詰まった。


 仕事が遅れる。迷惑をかける。評価が下がる。

 それも本当。


 でもその先がある。

 頑張っていない私は、空っぽになる気がする。

 頑張っている自分だけが、自分の価値みたいで。


 私は唇を噛んだ。


「……私が、役に立たなくなる」


 声が小さい。

 でも本音だった。


 店主は「そうですか」と言って、少しだけ笑う。


「役に立つことは、立派です」


 私は頷きそうになった。

 肯定されたと思ってしまいそうだった。


 でも店主は続けた。


「でも、役に立つことだけが、あなたじゃない」


 その言葉が、暖炉の火みたいにじんと広がった。

 熱いのに痛くない。


 私は瞬きをして、慌ててカップに口をつけた。

 涙が落ちそうだったから。


 店主はカウンターの下から小さな瓶を出した。

 掌に収まる硝子瓶。中には白い砂糖。


「これを、持っていってください」


「……え?」


「ひとさじ。疲れたときに、飲み物に入れるといい」


 私は瓶を受け取った。

 硝子は冷たく、現実みたいに重い。


「でも、これ……」


「砂糖ですよ」


 店主はさらっと言う。

 それだけで妙に安心する。


「砂糖は、甘いです」


 当たり前のことを言われて、私は笑ってしまった。

 笑うと、喉の奥の固まりがほどける。


「甘いと、思い出すんです」


「何を?」


 店主は暖炉を見た。


「帰る場所の匂いとか。誰かの声とか。自分が“まだ大丈夫だった頃”のこと」


 私は瓶を握りしめた。

 “まだ大丈夫だった頃”。

 その言葉が妙に切ない。


 記録局の先輩の顔が浮かぶ。

 厳しいのに、机に飴を置いていく人。

 「甘いのは頭に効く」と言って。


 あれは、優しさだった。

 私は今になって、それを思い出す。


 休むことは、甘えることじゃない。

 ちゃんと生きるための、手当だ。


 店主は私のカップに少しだけお湯を足した。


「もう少し飲んでから、帰りましょう」


「……帰れるんですか」


 情けない質問だった。

 でも口から出た。


 店主は優しく笑う。


「帰れます。ちゃんと、朝になります」


 その言葉で、肩の力が抜けた。

 朝になる。

 それだけで救われることがある。


 小鳥はいつの間にか椅子の背に乗り、目を閉じていた。

 私も少しだけ目を閉じた。


 静かだった。

 ここでは、時間が急がない。


「……名前、聞いてもいいですか」


 私が言うと、店主は少しだけ間を置いた。


「ルカ」


 それだけ。苗字も肩書きもない。


「私はミレイです」


「ミレイ」


 ルカは私の名前を一度だけ口にして、頷いた。

 その頷きが、名札をつけてもらえたみたいで嬉しかった。


 しばらくして、私は席を立つ。

 もっとここにいたい。

 でも、ずっといるとここが“当たり前”になってしまいそうで怖い。


 当たり前になったら、きっと見失う。

 だから、今のうちに出る。


「ありがとうございました」


 私は頭を下げた。


 ルカはいつもの顔で言う。


「いってらっしゃい」


 さようならじゃない。

 いってらっしゃい。


 扉を開けると、霧が薄くなっていた。

 谷の外の空気が冷たくて、目が覚める。


 私は振り返った。

 看板はまだ揺れている。Cafe、と手描きで書かれた木の板。


 小鳥が、ぴ、と鳴いた。

 そして霧の中へ飛んだ。


 私は歩き出す。

 旧街道はもう怖くなかった。

 王都の音が遠くに戻っていくのが分かる。


 気づけば谷を抜け、石畳に戻っていた。

 霧は背後で薄く溶けていく。


 振り返ると、もう扉は見えない。

 道も看板も、最初からなかったみたいに消えていた。


 でも掌の中には硝子瓶がある。

 小さな砂糖の瓶。冷たくて、確かな重さ。


 夢じゃなかった。



 翌朝。


 記録局の机に座ると、紙の白さが昨日ほど眩しくない。

 眩しくないわけじゃない。

 でも、目を逸らしたくなるほどじゃない。


 リナが来て、私の机に小さな包みを置いた。


「これ、昨日の残り。食べる?」


 小さな焼き菓子だった。

 王都の普通の味のはずなのに、今日は甘さがよく分かる。


「……ありがとう」


 私は包みを受け取り、机の端に置いた。


 そして、初めて自分から言った。


「リナ。少しだけ休憩、取っていい?」


 リナは目を丸くして、それから笑った。


「当たり前でしょ。今まで取らなさすぎ」


 私は笑った。

 恥ずかしいのに、笑えた。


 休憩室でお湯を沸かし、薄い茶を淹れる。

 そこに硝子瓶の砂糖をひとさじ入れた。


 甘い匂いが立つ。

 それだけで胸がほどける。


 私はカップを両手で包み、窓の外を見る。


 王都は忙しい。

 でもその忙しさの中にも、小さな甘さは作れる。


 きっとまた疲れる。

 きっとまた迷う。


 でもそのときは、砂糖の甘さで思い出せる。

 “帰る場所の匂い”を。


 窓辺に、白い小鳥が止まった気がした。

 気がしただけかもしれない。


 でも私は、ぴ、と聞こえた気がして、少しだけ笑った。


 甘い休憩は、世界を変えるほど大きくない。

 それでも今日を歩く足を、少しだけ軽くする。


 それで十分だと思えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


頑張り続けていると、休むことが怖くなる時があります。

止まったら追いつけなくなる気がして、休んだら自分の価値まで減ってしまう気がして。


でも本当は、休憩は甘えではなく、ちゃんと歩くための手当なんだと思います。


地図にないカフェは、誰かに見つけてほしい場所ではなく、「今の自分には必要だ」と気づいた人にだけ、そっと灯る場所。

そんなイメージで描きました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ