第5話 黒き獣と桜色の肉、そして新たな同居人
ドワーフたちによって増築されたアリーシャの新しい部屋は、木の香りがまだ新しい。
窓辺に肘をつき、アリーシャは夜空に浮かぶ月を眺めていた。温泉で魔力回路は安定したものの、ふとした瞬間に故郷・魔法国シャンドリラの景色が脳裏をよぎる。
「月は、どの世界で見ても変わらぬな……。皆、無事であろうか」
感傷に浸るアリーシャの耳に、窓の外から切ない鳴き声が届いた。
「にゃぁ……にゃぁ……」
見下ろすと、闇に溶け込むような一匹の黒猫が、必死に窓を見上げている。
アリーシャが窓を開けると、黒猫は流れるような動作で部屋に入り込み、アリーシャの足元ですり寄るように倒れ込んだ。ひどく衰弱しているようだ。
「なんと、腹を空かせているのか? 不憫な……」
アリーシャの手元には、夜食としてケンジからくすねてきた『餅』の残りが一つあった。
「食え。これはケンジが『白いダイヤ』と呼ぶ、高純度炭水化物の塊だ。我ら魔導士には過ぎたるエネルギーだが、貴様には命の糧となろう」
アリーシャは躊躇なく、猫に餅を与えた。
通常なら窒息案件だが、黒猫はそれをものすごい勢いで咀嚼し、飲み込んだ。餅に含まれる『アミロペクチン』の粘り気と糖質が、即座にエネルギーへと変換される。
カッ!
黒猫の身体が青白く発光し始めた。
「にゃ、にゃぁ……! アリーシャ様! ご無事で何よりです!」
猫が喋った。アリーシャは目を見開く。
「猫が人語を!? まさか……その声は!」
「はい、王国近衛隊長シャノンでございます! アリーシャ様の館がバルバロの軍勢に包囲された際、私は最前線で戦いましたが、敵の呪術師によってこの姿に変えられてしまいました……」
黒猫――シャノンは涙ぐみながら(猫の顔で)語り続けた。
「あの日、アリーシャ様が起動された空間転移魔法陣の余波に巻き込まれ、私もこの『イハトブ』へと飛ばされてきたのです。今までずっと、アリーシャ様の魔力の残滓を探しておりました」
「シャノンよ! よくぞ生きていた! しかし、餅一個では呪いを解くにはエネルギーが足りぬようだな」
黒猫の姿のまま、シャノンはガクリと膝(前足)をついた。
「申し訳ありません……。この姿を維持するだけでも精一杯で……。この国の、もっと野性味溢れる、根源的なパワーが必要なのです」
アリーシャはドタドタと階段を駆け下り、リビングでくつろいでいたケンジの元へ走った。
「ケンジ! 緊急事態だ! 我が近衛隊長が猫になって戻ってきた! 奴を元に戻すための、岩手の最強の食材を用意してくれ!」
ケンジはテレビのリモコンを握ったまま目を白黒させた。
「猫になった隊長? そりゃまた急展開だべな。……んで、またまた、無理難題だなやあー。元に戻すための食材だ?」
ケンジは少し考え込み、ポンと手を打った。
「餅でもダメで、野性味が必要となれば……あれしかねぇ。ちょうど親戚から、遠野の極上品が届いたところだ」
数分後。
アリーシャの部屋のテーブルに置かれたのは、鮮やかな赤色、まるで桜の花びのような刺身だった。
「これは……魚ではないな? なんとも美しい紅色だ」
「これは**『馬刺し』**だ」
ケンジは真剣な表情で解説を始めた。
「岩手の遠野地方はな、昔から馬と人が家族のように暮らしてきた『馬の里』だ。この肉は、別名『桜肉』とも呼ばれる」
「桜肉……なんと雅な」
「だが中身はガチのパワーフードだべ。馬肉にはな、『グリコーゲン』がつまってんだ。これは即効性のエネルギー源だ。さらに鉄分は豚肉の約4倍、牛肉の約3倍! そして何より『ペプチド』が豊富に含まれていて、これが疲労回復と新陳代謝を爆発的に促進する!」
ケンジは黒猫を指差した。
「呪いでねじ曲げられたDNAを、本来の姿に再構築するには、この高タンパク・低カロリー、かつグリコーゲンたっぷりの馬刺しが、細胞レベルでエンジンをかけるんだべ!」
シャノンは皿に盛られた馬刺しを見て、ゴクリと喉を鳴らした。
「いただきます……!」
シャノンが馬刺しを口にした瞬間、その野性的な旨味が体内を駆け巡った。
「おおお……! 身体の奥底から、力が湧いてくる! これがイハトブの獣の力か!」
すかさずアリーシャが手をかざした。
「今だ! ケンジの馬刺しで活性化した細胞に、我が魔力を注入する! 『変身解除』!!」
温泉で安定化されたアリーシャの魔力が、青い光となってシャノンを包み込む。馬刺しのグリコーゲンが触媒となり、魔力反応が加速する。
ボンッ!!
部屋中に桜色の煙が充満した。
煙が晴れると、そこには一人の凛々しい女性が立っていた。
水色のショートカットに、鋭い眼光。しかし、その頭にはまだ黒猫の耳が残り、青い近衛隊の隊長服を着て、お尻からはしなやかな尻尾が生えている。さらに、その手足の筋肉は、以前よりも遥かにしなやかで強靭に見えた。
「も、戻った……のか?」ケンジが恐る恐る尋ねる。
シャノンは自分の手を見つめ、ニヤリと笑った。
「いえ、ただ戻っただけではありません。アリーシャ様の魔力と、この『馬刺し』の野性的なエネルギーが融合し……新たな力を得たようです」
シュッ!
シャノンが一瞬で姿を消したかと思うと、次の瞬間には部屋の隅で、巨大な『黒豹』の姿になっていた。そしてまた一瞬で、人間の姿(猫耳付き)に戻る。
「猫科の猛獣、たとえば黒豹など自在に変身できる能力……言わば『獣人化能力』を身につけました!」
「素晴らしいぞシャノン! 災い転じて福となすとはこのことだ!」
アリーシャは手を叩いて喜んだが、ケンジは頭を抱えた。
「おいおい、黒豹に変身できる人間が同居人に増えるのか? 食費どうすんだべ……」
「ケンジ殿! 馬刺し、おかわりを所望する! この身体、燃費が悪いようだ!」
シャノンは目を輝かせて空の皿を差し出した。
「おい、おい、王女様、宝石を売った残りの金は、東北労働金庫に、積立NISA投資してるから、もう現金が少なくなって来てんだべ。冬は、米や野菜売れねーから、
節約して貰わねーとなあ。やれやれだべっ
やっぱりか! 俺のエンゲル係数がマッハで上昇中だべ……!」
「ケンジよ、金が無くなったら、また宝石を召喚すれば良いではないか」
「このバカたれガァ。また、魔力が増大したら、家がぶっ壊れるわあ。いいよなあ。お姫様は、のんきで、とほほ」
「ケンジ殿、馬刺し、おっかわり、おっかわり」
「シャノン隊長、アタシも馬刺し、食べたいぴょん」
こうして、異世界最強の王女と、お人好しのおっさんの、うさぎ耳雪女の奇妙な生活に、黒豹に変身できる大食らいの近衛隊長が加わった。
岩手の夜は、ますます騒がしく更けていく。




