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04 紗那とコロンビアコーヒー

 翌日の朝――というより、すでに正午を回っていた。耕司は布団の上にむっくりと上体を起こすと大きく息を吐き、首を左右に伸ばした。久しぶりに頭を使って仕事らしいことをしたせいで、体が渋かった。少し頭痛もする。いつもよりかなり遅く目覚めたことは自覚していたが、枕元の時計を見て驚いた。

 寝坊したのは、おそらくそのせいだけではない。

 夢の中で、紗那の悲しげな笑顔がずっと耕司を苛んでいた。

 耕司は立ち上がり、寝巻のままふらふらと台所に立った。久しぶりに熱いコーヒーが飲みたくなって、先日買い置きしてあったコーヒー豆を挽いて淹れた。

 ちょうどそこへ事務員服姿の紗那がやってくるのが見えた。いつもの場所で食事を終えてからここへ来たらしい。世間では前日遅くまで残業してもこうして普通に働いている人がいる。昼近くまで惰眠を貪っていて、自分は何と情けないのだろうと恥じ入るばかりだった。

 紗那は庭先から耕司の姿をみとめ、深くお辞儀した。

 耕司は慌てて掛けてあったカーディガンだけ羽織って出た。

 紗那は申し訳なさそうに、

「さきほど一度伺ったのですが、お姿が見えなかったので」

「ああ……」

 耕司は情けない呻き声をもらす。

「昨日は本当にありがとうございました。おかげさまで、サイトは無事稼働しています」

「どうかお気遣いなく。もうたくさんお礼は言っていただきましたから……」

 耕司は寝呆けた頭で、なんとかまともらしい返答を口にした。

「森がご都合の良い時に一度いらしてくださいと言っています。契約とかお支払いのこととか」

「そんな、とんでもない。お金をいただこうと思ってしたことじゃないので……」

「でも……わたしは言付かっただけなので。あと、能見さんのかわりに継続的に面倒をみていただけるか、そのあたりを確認したいって」

「それは、そうですね。そしたらあとで森さんにお電話してみます」

 紗那は耕司の格好を一瞥して、

「まだお休みだったんですか? もうお昼ですよ?」

 昨日のことなどおくびにも出さず、けろりとしている。

 紗那が見せたあの哀しげな笑顔は、耕司の気のせいだったのだろうか?

「面目ないです……」と耕司は頭を掻き掻き「ちょっと頑張るとこんなでして」と言い訳する。

「えっ、ご、ごめんなさい。もしかして、お身体の具合を悪くされましたか?」

「いえ、そこまででは……大丈夫です」

 紗那は途端に疑わし気な目つきになって、

「あまり大丈夫ではなさそうですけど……」

 と、目を細めた。

 一陣の風が吹いて来て、縁先に佇む紗那の髪を揺らし吹き抜けていった。

 紗那は首をすぼめて寒そうにしながら、

「もう少ししたら、お会いできなくなりますね」

「え、どうして?」

「寒くなりますから」

「そうか、外でご飯どころではないですよね」

 秋も深まり、日中の気温も既に寒さを感じるほどに冷え込んできている。

 一瞬、紗那がふたば企画を辞めようとしているのではないか、と心がざわついてしまった。

 よければこれからは暖かいウチの中でいかがですか――とはさすがに言えるはずもない。

 かわりに、ふと思いついた。

「少し待っていてください」

「何でしょうか?」

「コーヒーを飲みませんか。さっき淹れたばかりなんです」

「はい!」

 耕司はそそくさと奥へ引っ込んで、いちばん良いカップを選んでコーヒーを注ぐと、盆にのせていそいそと紗那のところへ持って行った。

 紗那は縁側に座っていた。

「わ、ありがとうございます」と、喜んだ。「とてもいい香り……」

「豆から挽いたんですよ」

 紗那は一口飲んで、「美味しい!」と笑顔をほころばせた。「今までに飲んだコーヒーの中で一番美味しいです」

 などと手放しで誉めちぎるので耕司も嬉しくなって、

「やっぱり豆はコロンビアに限ります」

 すると紗那が「うふふふ」と意味ありげに謎の笑みを浮かべた。

「なんですか?」

「内緒、です」


 ふたば企画のウェブサイト業務については結局、山岡の会社を紹介した。その場凌ぎというだけならば耕司にもどうにか対処できたが、ふたば企画では他にもいろいろなサイトを運用しており、複雑で専門的な知識を要するものも中にはあって、耕司一人の手には負えそうになかった。山岡にもつなぎをつけ、近日中に三者で打合せをしましょう、ということになった。そのさい『先日の返事』についても山岡から問いかけられたが、結局適当なことを言って返事を引き延ばしてしまった。

 数日後の土曜日のことだった。

 耕司は延ばし延ばしにしていた押し入れの片付けにやっと着手した。そこには耕司が引っ越しのときに持ち込んだものや、光が生前に使っていたものなどが未整理のまま押し込められていた。

 決心をして整理をしはじめると、奥の方から一台の赤いノートPCが出て来た。比較的新しい機種で、光が普段から使用していたものと思われる。

「どうしてこんなところに……」

 それはまるで意図的に隠されたかのように、ひっそりと目につかぬ場所にしまわれていた。そのことがどうも気になった。常用していたものならばデスクの周辺に置かれているのが自然だろう。だが書斎はそういう状態ではなかった。いま思うと何かが物足りない感じがしたのは書斎に電子機器類がひとつも無かったからだ。

 バッテリーはとうに切れていて、起動スイッチを押しただけでは動作しなかった。押し入れの奥に一緒に押し込められていた電源アダプターを引っ張り出して、挿した。しばらく充電して電源の投入が可能になり、起動させることができた。

 画面に光が浮かび上がり、メーカーのロゴマークが表示される。

 OSのデスクトップ画面が立ち上がって、耕司は息をのんだ。

 そこにあったのは〈耕司〉という名前がつけられたフォルダだった。

 それだけではない。

 その隣には〈紗那さん〉というフォルダが並べて置いてある。

「これは……?」


 光の遺書は法的にもきちんとしたものが存在していた。だからおそらく、そのたぐいのものではない。仮に遺言めいた内容であったとしても、法的効力は発しないだろう。或いは書き置きのようなものかもしれない。だとしたら、耕司がそれを開いて読むのはその遺志に適うことのように思う。

 それにしても気になるのはもう一つのフォルダ〈紗那さん〉だった。

 こちらは耕司が勝手に開くのはいけないと思いとどまった。

 そして耕司は徐ろに自分宛のフォルダを開いた。中身はワードプロセッサのファイルが一つ。意を決して開くと、「耕司にすること」として財産分与のことなどが書いてあった。

  耕司にはこの家の権利と財産の一部を遺す。

  葬儀費用や財産管理等があるだろうから、株式等は塩田家の雅尚さんに。

  不動産屋に管理を頼んでもらう。

  弁護士に相談する。

  書類を作る。

 箇条書きのような、メモのような内容。いずれも正式な遺言書に添った内容で、とりたてて気になる文書ではない。遺言書の下書きメモだったのかもしれない。几帳面な光らしく、そのほか事細かにしたためられている。

 そうなると、気になるのは別のフォルダ〈紗那さん〉の内容だ。

「彼女とは親しい間柄ではなかったのでは……?」

 思わず呟きが漏れる。

 たまに顔を合わせて挨拶するだけの――。

 そんな関係の人に、あの叔母が、こんな文書を遺すだろうか?


 耕司はふたば企画の社休日である土日が過ぎるのを待ち遠しく過ごし、週明けの月曜日、島田紗那が昼食に訪れるのを待ち構えて声を掛けた。

 耕司は紗那を室内に招き入れ、PCのデスクトップを起動して示した。

「コレを……」

「もしかして、光さんの……わたし宛……ですか?」

 耕司は頷き、

「僕もまだ読んでいないんです。これはまず島田さんに見せるべきだと思って」

 紗那はゆっくり頷くと細い指先で恐る恐るマウスを握った。

 ファイルアイコンに重ねて二回クリックする。

 フォルダの中には、耕司の場合と同じように、ワードプロセッサ形式であることを示すひとつのファイルアイコンが存在した。

 紗那がそのファイルを開く直前に、耕司は気を使って、席を外した。

 しばらく経って耕司が戻ると、文書を読み終えた紗那が画面を見据えたまま肩を震わせていた。

「ど、どうかしましたか!?」

「耕司さん!」

「は、はい」

 耕司がどうしてよいのかわからずにいると、紗那はPCを示して、

「読んでください」

 と言った。

 画面に表示されていたのは、紗那に宛てた短い文章だった。


   紗那さん。


   いつかこの家に耕司が住むことになるかもしれません。

   そうしたら、どうか、よろしくお願いしますね。


   あの子は難しいところがあります。

   もしかしたら紗那さんにとても無礼なことを言うかもしれません。

   でもそれが悪意であることはけっしてありませんから、どうか驚かないで。

   彼の場合、ほとんどは言い間違いというだけなのです。


   あの子はどうもものごとに拘泥しすぎるところがあっていけません。

   こうと思い込んだら頑として主張を曲げないのです。

   そういうところが、彼が言葉を間違えて使ってしまう原因です。

   もう少し柔軟になってもいいのに。

   あれではすぐに人から気に入られなくなって、いずれ捨てられてしまうでしょう。


 紗那さんに、と書いておきながら、耕司の悪口ばかり書き連ねている。


「心外な……」

「うふふ」と紗那は目元を拭いつつ、「それほどあなたのことを考えていたのだと思いますよ」

 耕司は先を読み進めた。


   しかしあの子はとても人がいい。

   気が弱いから、強い立場の者に唯々諾々と従ってしまうところがある。

   あの子の中の矛盾がすぐに軋轢をうむことでしょう。


 耕司にすれば身につまされることではあったが、これをあえて紗那に晒す意味がまったく解らない。耕司は文字を辿りながら紗那に申し訳のように告げた。

「叔母は頭のはたらきも少し弱っていたようです。こうして言うことを思いつくたび、書き連ねていたのでしょうね」

 紗那は耕司の言葉には答えず目で先を促した。


   コーヒーのこと。

   これはいつか話したかしら?

   コロンビアのコーヒーが出てきたら美味しいって褒めてやってください。


「は?」

 何を唐突に……と紗那の顔を見れば、紗那はやはり、穏やかな微笑みを返すのみだった。


   わたしはずっと、あなたに内緒でささやかな夢を描いていました。

   できればあなたたちを引き合わせてあげたい。

   きっとふたりは、お似合いでしょうから。

  

   あなたの心底にある岩のような優しさが、耕司の礎となればいいのに。

   耕司の真っ直ぐな真摯さが、あなたが辿るべき道の標となればいいのに。

   そうして三人で、ずっと暮らせたらいいのに。


   あなたと知り合ってからの六年間、わたしはそんな考えに囚われていたのです。

   でもそれはもう、叶わないことのように思われます。


   どうかお健やかに。

   ありがとう。


 私の娘へ――と最後に綴られている。


「こ……これはいったい、どういうことでしょう?」

 耕司の戸惑いを受けて紗那はついに告白した。

「ごめんなさい。光さんとあまり親しくなかったというのは、嘘なんです」

「ええと、どういう……」

「光さんと知り合ったのは、光さんがここへ来てすぐのことでした。お庭でお弁当を食べてもいいよって言ってくださったのは本当です。それがきっかけで、すぐ親しくなって、六年間、光さんには、本当に優しくしていただいたんです。お休みの日にこのお家に上がり込んで、一緒にお料理を作ったり……」

「お……どろきました」

 紗那ははにかみながら続けた。

「わたしには母がいないので、勝手に光さんを母のように思っていました」

「そこまで……」

「はい」と紗那は小さく頷いた。「光さんはお子さんがいないと言ってましたが、わたしみたいな娘が欲しかった、って。それと、たった一人だけ身内と呼べる甥がいるといって、いつもわたしにその人のことを話してくれました。だから耕司さんのことは以前からよく知っていたんです」

「そ……うだったんですか」

「耕司さんのコロンビアのコーヒーの話も、直接光さんから聞いていたんですよ」

 と紗那は悪戯っぽく笑った。


 あれは光が結婚して間もなく、耕司が一人で夫妻のマンションに遊びに行ったときのことだった。コーヒーを淹れてあげる、とキッチンに立った光が、キャニスターからコーヒー豆を取り出して、ミルで挽きはじめた。

 耕司はその手元を不思議な気持ちで眺めた。コーヒーの豆というものを見るのも初めて、ましてや豆を挽くという過程も初めて知った。父が愛飲していたコーヒーと言えばいつも粉をお湯に溶かすだけの、いわゆるインスタントコーヒーだったので、耕司はコーヒーとはそういうものだと信じ込んでいた。

「豆の種類にもいろいろあってね」

「これは?」

「これはコロンビアっていう豆の種類よ」

「コロンビアって国の名前だよね」

「そう。南米の。コーヒー豆って穫れる国の名前がつくことが多いのよ」

「知ってるよそれくらい」

「そうか。耕ちゃんは物知りだね」

 と言われては、初めてコーヒー豆を見たとは言えなかった。

 その琥珀色の液体に少し砂糖とミルクを入れ「どうぞ」と耕司にすすめた。初めて味わう本格的なコーヒーは苦かったが、大人の世界に一歩足を踏み入れたような気がして、それ以来、耕司は豆から挽くコーヒーに嵌まってしまったのだった。


「光さん、言ってましたよ。『あれ以来耕司は、コーヒーはコロンビア産に限ると刷り込まれたみたいなのよ』って、それはもう楽しそうに話してくださって」

「でも……どうして今まで黙っていたんです。言ってくれたらよかったのに」

「だって……」と紗那は俯いて、「光さんの話す耕司さんと実際の耕司さんが異なっていたら困るじゃないですか」

「困る……それでずっと黙っていたんですか?」

「ごめんなさい」

「いや……なるほど……」

 頷けない話ではない。耕司だって同じだ。信頼している者の話とはいえそれだけで人を判断するのは賢くない。

「ただ、光さんが亡くなる直前のことだけはよくわからなくて……」

 と紗那は表情を変え、絞り出すように言う。

 耕司が不思議そうな顔をすると、

「あれほど親しくしていただいていても、光さん、そういうところはしっかり線を引いていたというか……ご入院されたのも全然知らなくて」

 と紗那は顔を伏せた。

「わたしには『しばらく実家に帰るから心配しないで』って。でもいつ戻っていらっしゃるのかわからないし、何もいってくれなくて。結局わたしも他人だと思われていたのではと思ってしまって……」

「いや、それは違うと思います」

 と、耕司は断言した。

「そう……でしょうか」

「こんなものを書き残していたのが何よりの証拠じゃないですか。自分の最期があなたの心の負担になってはいけないと思ったのに違いありません。たぶん叔母はあなたにどんな悲しみも残したくなかった……それだけです。僕には叔母の考えがよくわかります。たった一人の身内ですから」

 紗那の瞳から涙が溢れた。

 ひとしきり泣いて落ち着くと紗那は、

「そういえば、思い出しました。以前に光さんがわたしに言ったことがあります。やはり耕司さんのことで」

「僕の?」

「あの子は生きるのが下手くそだから、もし私がいなくなったらできる限り負担のかからないようにしてあげたい。そこそこお金もあるけど、そんなものじゃない何かもっと大事なものを遺してあげたいと思ってるのよ、って」

「叔母がそんなことを……」

「その時は単なる一般論としか思いませんでしたけど。思えばその頃からご自分の体調の変化に薄々気づいていたのかもしれません」

「そう……でしたか……」

「だからわたしが」

「なんです?」

「勇気を振り絞って言います」

「はい」

「わたしがその、光さんの思いを……継いではだめでしょうか!?」

「ど、どういう意味ですか……」

「わたしが光さんの望みをかなえてさしあげたいんです」

 紗那の言葉の意味が判らず耕司がキョトンとしていると、

「とりあえず」

 紗那はそこで言葉を区切って、

「また美味しいコーヒーをご馳走してくださいますか?」

「も、もちろんです! お墓参りにも行きましょう……い」

「い?」

「一緒に!」


(完)

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