02 人見知りについて
その後しばらくの間、島田紗那が芝生に訪れることはなかった。
先日『今まで通り自由にお使いください』と言ってやったのに何で来ないんだ、とまるで子供が駄々を捏ねるときみたいな思考をしている自分に気づいて耕司は自嘲した。
やはり遠慮でもしているのかな、と誰もいない庭先を覗き込む。
「叔母さんのときのようには行かないか……」
口をついて出た独り言がまるで下心でもありそうに響いた。我が口が言っておきながら幻滅する。
考えてみれば自分のほうが買い物に出たり検診に通ったりと昼時は外出がちだった。ひょっとするとその隙に来ていたかもしれないのだ。それに彼女は会社員なのだから、当然休日もある。曜日や時間の感覚が既になくなっている耕司にはそんなことすら気がつかなかった。
耕司にはまだ定期的な検診が必要だった。気ばかり焦って変わらず体調はすぐれないから仕事を探す気にもなれない。こんな生活からいつ抜け出せるのか。気分も塞ぎがちで、このままでは自分は社会の片隅で人知れず萎びて死んでしまうのではないだろうかと、不安はつのるばかりだった。
耕司がつぎに紗那の姿を見かけたのはそれから十日ほど後のことだった。嬉しさのあまりつい調子に乗って声を掛けてしまった。
「こんにちは。島田さん」
「こんにちは。お邪魔しています」
彼女は深々と頭を下げた。こんどこそ飛び上がらなかったが、態度はまだ堅い。歳の近い異性に対して身構える気持ちは耕司にもよくわかる。
紗那の来訪はむしろ邪魔でなく歓迎であることを伝えたかったが、思いとどまった。
そんなことをわざわざ言ってどうなるというのだ。
寛ぎの時間に所有者面をした耕司が声など掛けてきたら嫌に決まっている。かといってわざわざ家から出て来ておいてこのまま立ち去るのも変だった。仕方なく当たり障りのないことを言った。
「先日はありがとうございました。叔母も喜んでいると思います」
「いいえ、そんな」
「ここ何日かお姿を拝見しませんでしたね」
言ってから後悔した。まるで四六時中見張っていたようではないか。
「ちょっと仕事が忙しくて……デスクに貼りついていました。でもやっと一段落ついたので……お言葉に甘えて、またお邪魔してしまいました」
と、紗那は笑った。
そのぎこちない笑顔を見て耕司は腑に落ちる。
――ああ、そうか。
この人は自分と同じで作り笑顔があまり得意ではないのだ。
「そうでしたか。どうぞごゆっくり」
耕司は立ち去ろうとした。
「あの」
するとこんどは紗那の方から声をかけてきた。
「な、なんでしょうか?」
「光さんの……お墓というのは」
「叔母の墓……ですか?」
「はい。差し支えなければ。せめてお花でもと思いまして」
「ありがとうございます。だけど……」
耕司は躊躇した。紗那が不思議そうな顔をするので、説明した。
「叔母は塩田家の墓所に入ったんですよ。埼玉の山のほうにある広い霊園です。なんでも塩田の本家がそっちだそうで。叔母のつれあいだった雅太朗と同じ墓です。実は葬儀も塩田家が執り行いまして、僕はマイクロバスで皆と一緒に移動してただけだったので、実は行き方も、どこの区画だったかもよく覚えてなくて、ちょっと説明しにくいんです。もちろん塩田に場所を確かめることはできますが……行くとなれば一日がかりになってしまうだろうし、おそらくご案内が必要になるかと思います。ですから、お心だけでじゅうぶんです」
「そうですか……そういうことなら……そうですね。かえってごめんなさい」
「いいえ、お気持ちは本当にありがたいです。それと」
「はい」
「良かったらこれからも気がねなく使ってくださいね。では失礼します」
「あ、ありがとうございます」
家に戻ると耕司は中から紗那の姿を垣間見た。彼女は光とはさほど親しくもなかったと言っていた。たまに顔を合わせて挨拶する程度の人の墓参までふつうしたがるものだろうか。それともここの庭先を昼食の場として借りていた――そして今後も借りるだろう――ことへの何かのあらわれだろうか。
それからも紗那は昼食時にしばしばひとりでこの庭先を訪れた。耕司は自分の好意が相手に通じたようで嬉しかった。それからは顔が合えば会釈はするし、二言三言会話も交わすが、彼女の領域につとめて立ち入らぬよう相手が遠慮を抱かぬ程度に耕司は距離をとって接した。
あるとき診察から帰ってくると紗那が庭先にいたので、いつものように通りすがりに軽く声をかけた。
「こんにちは」
「あ、お邪魔しています」
「どうぞどうぞ。今日は少し暖かいですね」
「はい」
と答えて紗那は弁当箱からタコの形のウィンナーを箸でつまむとぱくりと口に放り込んだ。その仕草が何とも可愛らしくて耕司は思わず笑みを漏らした。
「何ですか?」
拗ねたような声だが心から怒ってはいないようすである。
「いえ、すみません。何かいいなと思って」
「どういう意味ですか」
とまた拗ねたような声で言う。
「お気に障ったのならすみません。何と言いますか……庭先に小鳥がやってきて餌をついばんでいる姿を見たような気分になってしまいまして。いや本当失礼なことを、ごめんなさい」
耕司はペコペコと頭を下げた。
「そこまで謝ってもらわなくても……」
と紗那は同じ調子で口を尖らせた。
互いにいくぶん打ち解けて、今日は少しだけ会話が弾みそうな予感がした。耕司は以前から気になっていたことを紗那に聞いてみた。
「いつもお一人なんですね。失礼、いえ、変な意味じゃなく、ああやっぱり失礼だったですよね。いや、会社の方たちといらしてもウチは全然構いませんということが言いたくてですね」
なんだかよくわからない問いかけになった。
「いえ、一緒に食事する人なんていないです」
紗那にしては大きな声で言い切ったので耕司が「はぁ」と微妙な返事をすると彼女は続けた。
「ウチの会社って、小さいし、人数も少なくて、わたしの他は男の人ばかりなんですよ。ほら、男の人ってあまり世間話とかしないじゃないですか。無口だし」
無口な男ばかりであるとも限らないが、そこは黙って頷いてから、
「まあ、そうかもですね。実は僕も人と話をするのはあまり得意ではありません」
紗那はしたりという顔をして、
「下手をすると一日に二言三言しか話さない日もあったりして。わたしも騒がしいのは嫌いなほうなんですけど……でもずっと一人で息が詰まるというか……わたしのほうが話しにくいから黙っているのに、いつしかわたしのほうが暗い無愛想な女だと思われてるみたいで」
と、紗那は拳でもう片方の手のひらをポンと叩いた。
なんだかわりと真剣に主張している……と耕司は少し可笑しかった。
「だからかな……光さんとお話しできるのがとても楽しみだったんです」
「なるほど」
最初はカタかった紗那だが、馴染めば話しやすい人かもしれないと思った。
光のほうはどうだったのだろう。
紗那と話すことで孤独が少しは紛れたのだろうか。
「まあそういう女だとみられるのはぜんぜんいいんですけど」
彼女の主張はまだ続いていたようだ。
「そのうち無愛想転じて面倒な女みたいに思われてるフシがあって」
「あははは」耕司は声に出して笑った。「他人なんて勝手なものです。島田さんとは少し違うかもしれませんが、僕もそういった他人からの評価に疲れてしまって……病気になって会社を辞めてここへ越してきたけど、それも半分は精神的なものが原因みたいです」
「そうなんですか?」
と彼女は同族相憐れむような顔をした。
耕司は苦笑して、
「昔から不器用なんですよ。人から叱責されたりとか中傷されたりとかすると、それを上手く受け止められなくて。それが積もってか、結局心と一緒に体を壊してしまいまして……まあもともと体は病弱だったんですが」
と耕司は頭を掻く。
「叱責とか中傷? そんなの誰だってヘコみますよ」
紗那は我が事のように反駁した。
「まあそうでしょうね。でも相手の言うこともたまに解る気がするんです。今思えば自分のせいというのも多分にあったかなあと。ホントに、今思えばですけどね」
ほんの世間話のつもりがいつしか心情の吐露になりかけていた。そのことに耕司は気づいて適当に切り上げるべきころあいだと感じていたが、紗那は話を切り上げるどころかその話題にぐいぐいと踏み込んでくる。
「すごくよく解ります! でもそういう時って自分が当事者で、何も見えてないんですよね……」
それだと耕司に非があるのを肯定することになってしまうが。
「おっしゃるとおりです」と苦笑しながら耕司は続けた。「僕って、あらゆることが苦手で、他人が普通にできることも自分にはできないことが多いんです。もともと何事にも関心が持てないというか、そんなふうに生まれついてしまって。だから何をやってもうまくいかず、人からウザがられるっていうんですかね。ああ、ごめんなさい。別にこんな重苦しい話をするつもりはなくてですね……なんというかその……あれ?」
なぜだか視界が歪んで見えると思ったら、何かが耕司の頬を伝い、乾いた地面にぽとりと落ちた。
「いやいやこれはその、違います、というか、失礼しました!」
耕司はその場から慌てて立ち去ろうとした。
それを紗那が止めた。
「聞きますよ、わたし」
「?」
耕司は振り返った。
「そういうの、心にしまっておくのは良くないです。わたしでよければ、いくらでも」
その晩。耕司は自己嫌悪に陥り消沈した。心の隙に何かが入り込んで悪さをしたとしか思えなかった。いわゆる魔が差した、というやつに違いない。
耕司がどう思っていようが島田紗那は単なる『ご近所さん』みたいなものだ。いわば赤の他人。三十にもなって、人前で、まるで世間擦れしていない青臭い子供のように感情を露わにしてどうするのだ。彼女だって困惑していただろう。次に会ったときにいったいどう接したらよいのか。
一人になって逆に人に対する甘えが出てしまったようだ、と自らを強く叱責した。紗那は優しすぎた。今まで自分を中傷してきた他人とは違う。耕司の失態を正面から受け止め真剣に声を掛けてくれた。だから甘える気持ちが一気に雪崩うってしまったのだ。
耕司はヤケ酒ならぬヤケ麦茶をぐいと一気に呷った。
月が煌々として耕司の失態を高みから嘲笑しているようだった。
耕司は立ち上がろうとして、ふと見れば視線の先に人影がある。
「こ、こんばんは……夜遅くにすみません」
「は……島田さん? どうして?」
「仕事が終わったんです。なんだか磯谷さんのご様子が心配になってしまって。あっちからお姿が見えたので。こんな時間に失礼かとは思いましたが」と、紗那は頭を下げた。「それにあんなことを言った手前……」
「あんなこと?」
「わたしでよければいくらでも聞くって」
いい加減律儀な性格だ。光の墓に花を手向けたいというのも彼女のそんな堅い性格が出たゆえかもしれない。しかしそのお節介が今の耕司にはありがたかった。紗那からこうして突然訪問されおかげで気まずさが何処かへ吹き飛んでしまった。
「もう大丈夫です。昼間はお見苦しいところをお見せしてしまって……」
「いいえ。わたしのほうこそ、とんでもない不躾なことを言ってしまった気がしてずっと気になっていたんです。本当にごめんなさい。そのお詫びもしたくて、勇気を出して来ました」
「お詫びだなんてとんでもない。僕も久しぶりに人と話しをして安心したんです。それでどこかが緩んでしまったみたいです。本当にお恥ずかしい」
「いえ大丈夫です!」
何が大丈夫なのか疑問だったが、耕司はへらへらと愛想笑いを返した。
「いつもこんな遅くまでお仕事ですか」
すでに二十二時近いはずだ。帰りがけとはいえ男一人の住まいに立ち寄ってよい時刻ではあるまい。
「いつもじゃありません。今日はたまたま、です」
「そ、そうですか」
「ここで何をしてらしたんですか?」
「よくやるんです。星を見ながら一杯」
とコップを持った手で空を指した。
「麦茶で、ですか」
呆れ調子で彼女は水滴のついたボトルを眺めた。
「下戸なので」
クスリと紗那は小さく笑った。
いい加減遅い時刻なので早く自宅に帰した方が良いだろう。もし自分が送るなんて言ったら、却って訝しく思われてしまうだろうかと耕司は逡巡した挙句、
「あの……もしよければ……」
もごもごと口にした。
「いただけるんですか?」
「は?」
「めちゃくちゃ喉が渇いていたんです。ありがとうございます!」
耕司の一言はとんでもない勘違いをされてしまった。
仕方がないので、
「す……少し待ってください」
間抜けな返事をしておいて耕司は奥からもう一つコップを持ってくると、彼女に手渡してから麦茶を注いだ。
「どうも……」
紗那は素直に受け取って縁側に腰を下ろした。
彼女はそれをごくごくと一気に飲み干した。
「美味しい……」
変哲のないコップを矯めつ眇めつ、彼女は本心からそう言っているようだった。
「お口に合ってよかったです。六条大麦というのを煮出してみたんですが」
もう一杯注いでやると、それもぐいと一気に飲んで紗那はふうと息をついた。
「それは……凝っていますね。わたしなんかいつもパックの水出しです。やっぱり全然違うんですね。深みとか味わいとか。とてもいい香りです」
「はは……昼間お話ししたように、今までは何事にも興味を持ってこなかったので、せめて今からでもと暇に飽かせていろいろやってみているんです」
「へぇ……」
「こもれ叔母の影響なのかも」
「光さんの……ですか?」
「ええ。彼女好奇心がとても旺盛な人だったんです。常に新しい何かを求めていないと気が済まないというか、落ち着かないというか、とにかく常に動き回っていて、そういう環境にいないと死んでしまいそうな人でした。僕はそんな叔母を見てなんだか楽しそうだなあといつも羨ましく思っていたんです。ここへ来てからは一人静かに落ち着いて暮らしているようでしたが……」
「それ、なんとなく思い当たることがあります」
「そう、ですか?」
耕司が意外そうに返すと紗那は口を真一文字に結んで、笑顔とも問い返しとも取れるような曖昧な表情で少しだけ首を傾げた。
それは何の表情だろう。あの叔母が、この人にあのとっちらかった態度を見せたのだろうか。耕司に対してはいつもそんな調子の光だったが、彼女は同時に極度の人見知りで、他人と身内はきちんと分ける人でもあった。というより心を許さぬ他人の前ではそういう態度を一切見せることができない人でもあった。一見矛盾しているようだが、彼女のそういうところは一貫していた。実の姉妹である耕司の母親も光と似ているところがあった。たぶん血筋なのだ。その人見知りの部分をとくに色濃く受け継いだのが耕司であった。
耕司の中でいろいろ逡巡する思いもあったが、もう時刻も遅い。
「なんだかご心配をおかけしてしまったようで……おかげさまで少し腑に落ちたみたいです」
実のところ腑に落ちてもいなかったし、多少の無理もしていたが、これ以上紗那に変な気を使わせるわけにもいかなかった。この手の話しに入り込んでしまうと時間は瞬く間に経ってしまうし、彼女も帰るきっかけをなくしてしまうだろう。紗那はすっかり安心しきって縁先に腰を落ち着けてしまったようだが、今は一刻も早く彼女を自宅に帰さねば、と焦って耕司は切り出した。
「それで、あの……もう遅いので……早くご自宅に戻られた方が……」
「あ……そうですね。ごめんなさい」
「もしよければ」と耕司は先ほどの続きを思い切って言った。「そこまでお送りしますが」
「だ、大丈夫です! いつも通いなれている道なので」
紗那が強くそう返すので、耕司も強いることはしなかった。
「そうですか。じゃあ、お気をつけて」
「お休みなさい」
そうして紗那は足早に立ち去っていった。